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⑥
しおりを挟む日が昇り始めてすぐにふたりは出発した。
時間制限のある旅では無いが未知の大陸にダラダラと長居していては肉体的にも精神的にもキツいだろうとフジに無理をさせない程度の配分で道を進めて行く。それでも事前に体力トレーニングをしただけの一般人にはどうしたって日々の疲労が蓄積し昼前にフジは限界に達してしまった。
下半身が岩のように硬く動かない。足の裏も水場でふやけて皮が剥がれ踏み込むだけで激痛が走る。どこかで休憩しようとエルは思案しながら地図を眺め、ふと思い出したようにフジを見た。
「もう少し行けば湖があるんだがそこに生える植物が傷を癒す効果がある。以前怪我をした時は半日で傷が塞がったのでその程度の傷なら数分で治るだろう。危険地帯では無いのでそこで休憩も兼ねて治療しよう」
口早にそう言うや否やエルは自分とフジの荷物を背負う。二人分の荷を背負ってもぐらつくことなく凛と立つ軍人にフジは感嘆の息を吐くばかりだった。
(本当に凄いなこの人は…)
差し伸べられた手を有り難く取り痛みに耐えながらなんとか立ち上がる。一歩踏み出しただけでも骨で直接歩いたような痛みが走った。皮膚が薄くなっているのだ。踏み出したまま歩き出さないフジを見てエルは両腕を膝の裏と背中に回し抱き上げた。
「エ、エル…」
「どうした」
「いえ、あの…いや!なんでもありません!ありがとうございます」
所謂お姫様抱っこに意を唱えようとしてぐっと耐えた。二人分の荷を背負い尚且つ自分を運んでくれている恩人になんてことを言おうとしているんだ。きっと彼に他意はない。現状を鑑みてもこの体制が最適解なのだろう。…多分。
思い出すのは昨日の告白だった。あれ以降深掘りするのも躊躇われ無言の食事が続いたが寝て起きればいつも通りの彼の態度に昨夜のアレは夢だったのではないかとすら思う。
どこか機嫌の良さそうなフルフェイスは成人男性ひとりの重さをモノともせず足場の悪い水辺を進んで行く。滑って川に落ちないか心配で身動きひとつ取るのも恐ろしいフジをよそに軽快な足取りで中流付近まで進むとそこから森林の中へ入り、数時間ほど歩いた所で開けた場所に着いた。
一面エメラルドグリーンの湖は非現実的な光景でフジは目を見開き少し興奮した様子だった。
湖の広さはそこまで大きくはなく、深さもない。中央に島のように岩が鎮座し、水面にはところどころ浮葉植物が漂っていた。アレが傷を癒す植物だろうか?それならば湖に入らなくてはならない。
「あの葉がその植物ですか?」
「そうだ」
「なら私が取ってきます!水中なら足の痛みもそこまで酷くなさそうですし」
「…貴方が?」
「ええ…難しいでしょうか?」
「いや…ただの湖だ。危険な生き物もいないが…」
「エル?」
「…いや、問題ない」
「わかりました。じゃあ行ってきます」
妙な間が気になったが汚名返上とばかりにフジはアンダーウェアとボクサーパンツ以外の服を脱ぎ捨て靴のまま湖に体を沈める。ヒヤリと冷たいがゆっくり入っていけば徐々に慣れていった。底に足を付けても水面は胸元あたりまでだったのでトンと地面を蹴り浮きながら歩いて進めば数歩で植物まで手が届いた。
受け皿のように大きく葉を広げ水底に根を張ったそれはフジの住む大陸でも昔生えていた植物となんら変わりは無かった。これが本当に怪我を治してくれるのだろうか?
不思議に思いそっと葉に触れてみると表面から白い泡溢れぷくーっとシャボン玉のように膨れ上がりパチンと目の前で弾けた。キラキラと輝きながら水滴が飛び、驚いて目をパチクリさせていると両手の細かな傷がシュワシュワと音を立て癒えていく。
「エル!」
振り向き陸地でこちらを見守るエルに声掛けると彼は頷いた。
「凄い…」
ここまで急速に傷を治す医療技術は現代には存在しない。この植物を持ち帰れただけでも世紀の大発見だ。他にもこんな有益な資源がこの地にはあるのだろうか?エスポワ大陸が人類の希望と呼ばれる所以の片鱗を感じフジは恐ろしくなった。
いま世界は人類滅亡寸前という絶体絶命の状況下の元で上辺だけでも平和が成り立っている。そこにこんな奇跡的な植物があると発表されたら?これと同価値の資源がまだ存在するとすれば?この大陸は広大だ。それを各国が分割しているだけで第五区画にだけこのような植物が生育しているとは考え難い。いや、むしろ、他にも存在すると考える方が自然だろう。
----…激しい争いが起きる。
ゾクリと背筋が震えた。
水底に根付く浮葉植物を何本か抜く。葉には触れないよう茎を持ちながら泳いで戻るとエルが植物を受け取ってくれた。
「ありがとうございます」
「いや………」
「…エル?」
先程からエルの様子が変だ。フジは首を傾げながらも両手を地面に付き陸地に上がろうとして、体が動かなくなった。腰から下になにかが巻き付いている。
「…は?え、わ、エル…ッ!」
ばしゃーん!と水音と飛沫が上がる。
勢いよく引き摺り込まれ水底に沈んだフジは一瞬状況を理解出来なかった。ぶくぶくと水中に舞い上がる細かな気泡の向こう水面に揺れる男に助けを求めるように手を差し伸ばし、目の前が突然激しく泡立った。
エルが陸地から飛び込んだのだ。
手を取られ水中に浮かび上がる。ゲホッゴホッと咽せていると心配そうに声をかけられた。
「大丈夫か」
「ゴホッ…はぁ…あ、ありがとうございます…」
しかし何に引き摺り込まれたのだろうか…辺りを見渡してみても生き物らしきものは見当たらない。エメラルドグリーンの水面に浮かぶ緑の葉と水中をゆらゆら揺れる茎、湖の中央には小島のような大きな岩、それだけだった。
エルに尋ねてみても分からないようで首を横に振られてしまった。試しにフジはもう一度陸地に上がろうとしてやはり勢い良く水中に引き戻されてしまう。鼻に水が入りツンと奥が痛い。ズビズビと涙と鼻水を流しエルの元へと戻る。
「エルなにか見えましたか?」
「水が生き物のように動き貴方に纏わり付いていたのが見えた」
「水?この水がですか?」
両手で水を掬い上げてみたがただの水としか思えない。匂いはない、味もない。
ジロジロと観察していると突然手の中の水がひとりでに跳ねフジの涙と鼻水をスポイトで吸い取るようにちゅっと奪っていった。水量を僅かに増やした『ソレ』は、ぽちゃん!と手の中へ落ちただの水へと戻る。
「な、なな…!?」
「なるほど」
「な、なんですかこれは…」
動く水など見たこともない。
動揺するフジに対してエルは冷静だった。
「私は水ヒルと勝手に呼んでいたが母体はこの湖だったのか」
「水ヒル?」
「森の中に現れる芋虫ほどの大きさの水の塊で人間の傷口に吸い付き血を飲む」
「血…」
ゾッとした。このまま血を吸い取られ殺されるのではないだろうかと。しかしそれにしてはエルは冷静だ。なにか解決方法があるのだろうか?と覗き見る。
「血を好む割に攻撃性はないので危険な生き物ではないのだろうと思っていたが…なるほど血でなくても良いのか」
「つまり…?」
「私たちの体液でこの湖の腹を満たさせれば恐らく解放される」
理解出来そうでイマイチ理解出来ない言葉にフジは唸ることしかできなかった。
(つまり、なんだ…体液と言えば)
「涙、とかですか?」
「100日ほど泣き続ければ満たされるかもしれないな」
「ひゃ…それは…難しいですね…」
簡単そうな気もしたが同時に途方も無い気もしてきた。そもそも湖の腹を満たすとはなんだろうか。
「水ヒルで実験を行った際に1センチ四方ほどの個体であれば血液はおよそ2~3mlで満足していた。この湖の体積ならば600ml前後だろう」
淡々と応えるエルが腰元の短剣に手を伸ばすのを見てフジは慌ててその手を止めた。
「まさか自分を切るつもりですか!」
「ああ」
「駄目ですよ!」
「あの植物があれば傷は治癒可能だ。そこまで出来る気力は無いかもしれないので後は貴方に任せるしかないが…ああ失血多量で失神した際は体を水に浮かべ陸地まで運んでくれ」
「ちょっと待って下さい!危険過ぎます!600mlも血を流すなんて…それにもし貴方の仮定が間違いでそれ以上に血が必要だとすれば死んでしまいます!」
「…しかし他に手があるの?」
手を止め尋ねてくるエルにウッと押し黙る。
「…無さそうだな。重荷かも知れないが私が倒れた後は、」
「あります!」
「なに?」
「体液ならいいんですよね…それなら、その…あの、尿はどうでしょうか…」
「…なるほど」
男二人分の尿ならそこそこの量になるだろう。足りないならば時間を待って再度尿意を待つか、それこそ涙が鼻水か、唾液でもいい。それでもまだと言うなら最終手段として血を流すか。どちらにせよ真っ先に自傷行為をする必要は無いだろう。フジの提案にエルは「しかし」と困ったように話し出す。
「私は…その…特に催していないのだが」
「時間が経てばそのうち尿意が来るのでは…?私はどうにか出せそうです!あの……なので後ろを向いて貰ってもいいですか?」
「何故だ」
「見られたくないからです!」
「そうか…そうだったな、失礼した」
バシャバシャとフジから離れ後ろを向くエルを確認し、フジは息を吐き切ると尿道に集中した。小休憩の際にたくさん水分を摂っていたので尿は溜まっている。出そうと思えば出せるほどの尿意だ。
「ん…」
しかし人間こういった状況になれば何故か出ない。尿意が遠のき出る気配が全くなくなってしまった己にフジはカクリと首を折る。
「すみません…なんか変に意識しちゃって出ませんでした…」
「そうか」
自分から言い出しておいて実行も出来ず落ち込む様子のフジを見て何か手伝えることはないかとエルは考える。
ふと昔、学習過程で見たDVDを思い出す。確かあの時は母親が子どもの性器を擦り上げ放尿を促していた気がする。母親と言うには若すぎる女と子供と言うには老けた男の妙に距離が近く纏わりつくような絡み合いは研究者の男に慌ててプレイヤーを止められたせいで最後まで見られなかったがアレは排尿補助のDVDだったのだろう。
研究所で育ち外の世界を知らないエルはあらゆる書物や動画を見て人間世界の知識を取り込んでいる。全てを吸収し記憶する優秀な脳みそと人ならざる強靭な身体は未知の大陸を探索するのに適しており政府からの要請で軍に身を置き大陸渡航者の護衛兼大陸の探索及び生態調査を担っていた。大陸調査と報告の日々、接点など短い付き合いになる渡航者か政府大陸調査室の男のみ。たまに研究者から長文の手紙が届いたが。
そんな折に彗星の如く現れた自分をバケモノと罵ることも、階級の低い政府のイヌだと嘲笑することも、都合良く利用してやろうと薄汚い心で接してくることもない人間。
フジは他より鈍く、他より優しく、エルには十分過ぎるほど魅力的だった。
そんな彼がいま目の前で悩んでいる。
助けてやりたいと思うのは当然だった。
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