以水救水ヒロイズム

まめ

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 川瀬は気絶している葉月を横たえる。ショックだったのだろう。当然だ。葉月は東雲に協力してもらっていたようだから、その彼が水城に心臓を刺されることも、彼が鵜山を傷つけたこともショックでしかないだろう。

 協力してもらっていたというよりは、彼女は利用されていたのかもしない。あの東雲という男は人間などどうでも良くて、人外を殺すことで頭がいっぱいな様だったから。

「大丈夫か、綴のお嬢ちゃん」
『……平気』

 ぼんやりとしている。無理もない。彼女は鞘に入った日本刀が全てを守ってくれるとでもいわんばかりに、縋るように抱いている。
後は使用人の春日野に任せることにする。慰めるなど川瀬には専門外も良いところだ。



 外に出れば、生温い風が吹く。もう暮れようとしている陽の残光が、僅かに空に線を引いている。神社の前に、二人の影が長く鳥居にまで伸びていた。川瀬はそっとその様子を眺めた。

 鵜山が、水城が、どうするつもりなのか気になったのだ。
 結局のところ、川瀬の目的は己の欲望のままに知る事である。葉月や綴を助けたい鵜山に反対はしないし、葉月ははじめに自分たちを救ってくれた、警告してくれたのだ。どちらかと言えば、賛成である。

 だが、知りたいという欲を切り離すならば、川瀬は鵜山が危険に突っ込んでいくことを是とはしない。性質はあまり似ていないが悪くない友人なのだ。……とは言っても、知りたいという気持ちには勝てないから、止めるのでなく、同行を選んでいることになるが。

 鵜山が人を食べた教え子でさえ、救おうとするとは、そこまで狂った思考回路を持っていたとは、知らなかった。知らなかったが、驚きはない。ああ、そこまでいかれていたかと納得できる程度である。もとから自分の身を顧みずに、子供を救うことに対する執着は、異常だと思っていた。
 理知的な振る舞いをしているように見えて、穏やかに微笑みながら、ねじが飛んでいる。

 鵜山が水城を連れていくつもりならば、川瀬はそれに従うつもりだ。本来、拒絶するべきところなのかもしれないが、そこまでして救うのならば結末を見ないなんて損ではないか。

 下世話な興味だろう。野次馬根性、といわれても文句は言えない。

「京介、あの時、避けないつもりだっただろう」

 鵜山の声が聞こえて、川瀬はそっと息を殺した。建物の陰から二人を窺う。

「どうして庇ったんです。不必要だ。僕の身体は貴方に盾になってもらう必要があるほど弱くはない」
「痛いものは痛いだろう?生きたいと思えないのか」
「……生きたいなんて、思えるはずがない。ねえ、先生。僕は感謝しています。もう、十分だ。十分、報われた」
「何が十分なんだ。俺はお前を見捨てない。お前が自分を見捨てても」

 力強い声と瞳に、水城は黙り込んだ。視線から逃れるように俯いた彼の瞳は、それでも凍えたままなのだろうか。鵜山が手を伸ば
そうとすることを封じ込めるように、水城は口を開く。

「人の脊髄を折ることに慣れた人間を、人間と呼びますか。

声を出せなくなった少女を杭に突き立てる人間を、人間と呼びますか。

幾度も幾度も人の悲鳴を聞いて、心に響かなくなった人間を人間と呼びますか。


貴方を今この瞬間でさえ殺すことのできる僕を、人間であると言えますか」

 鵜山はまるで自分の身を斬られたかのように顔を顰めた。夕陽が濃くした陰影が、その表情を押し隠す。


「僕は貴方に救ってもらえるような人間じゃない。汚らわしい家畜で、……化け物なんだ」


 抑揚のない、どこまでも他人事のような囁き。絶望も、悲哀も、痛みも、そこにはなかった。空っぽで寒々しい響きが、脳を揺らす。自分を家畜だと言い続ける水城は、化け物という言葉にさえ感情を乗せることが出来ないのか。失くしてしまったように。

 川瀬は忘れかけていた呼吸を取り戻して、ただ空を見た。自分が鵜山の位置にいて、目の前で、彼になんと声をかけるだろうかと想像した。言葉にならない。きっと、多くの人間には背負えない。川瀬にも、同じ事だった。

 諦めざるをえないような息苦しさを、しかし、それでも鵜山はものともしなかった。

「俺は、そんなに良い人間じゃない」

 彼は低い声で、一音ごとに確かめているようにゆっくりと言葉にする。

「優しい大人でありたいだけで。俺は救われて欲しいんだ。ただ、お前が救われて欲しい。お前がそれで救えるかはわからない、それでも、救われないなんて、俺が許せないから……我儘なんだよ」
「……先生は、優しい、ですよ」
「そう、か。それなら、良いんだ」

 ふわりと微笑んだ。夕陽に溶け込む影に、川瀬は踵を返そうとして、足を止めた。
 声が聞こえる。ここでないと生きていけない、間違っている、もう遅い、希望を持つほど自分は人間らしくはない。淡々とした温度のない心の内の呪詛のような声を封じ込めるように、水城は前を見据えた。

「ありがとう、ございます、先生」

 どこか痛々しい響きだった。




「私、あいつは嫌い。綴を傷つけたから。だから、先生が助けようとするのは本当は嫌。信用も出来ないもの」
「だが、俺は」と口にする鵜山を遮るように葉月は言う。
「先生は優しいから助けたいんでしょう?私には綴がいて、綴には私がいるけど、あいつには誰もいない。だから助けたくなっちゃうんでしょ?」

 目覚めたばかりの彼女の顔色はあまりよくない。しかし、真っ青になって気絶していたことを思えば、随分もとに戻ったともいえる。

 鵜山は気遣わしげに葉月を見ている。忙しい先生だ。彼にとってみれば葉月も水城も守る対象なのだから仕方がないのかもしれないが、板挟みになるということすら自分の責務としているようではないか。

「せんせは贔屓の塊だからな。だってそうだろ?肩入れしすぎなんだから」

 横から口を挟む。贔屓。それが的確な言葉であるとは思わないが、間違いでもない。
 彼は孤独な生徒がいれば手を差し伸べてしまうのだろう。命すらかけて寄り添う事を選んだ。それは、孤独ではない……恵まれた何の問題もない生徒からすれば贔屓に他ならない。

 比べて、選んでいる、ともいえる。

 他の生徒たちより葉月や水城を心配したからこそ、この村に来た。そして、葉月よりもとりわけ水城に働きかけているように見えるのは、彼が救われようとしないからではないか。

 不幸を、抱えている問題を比較するなど、と言ってしまえばそれまでだが、鵜山は肩入れせずにはいられない。その理由までは川瀬は知らないが、あの時も、そして今も、彼は肩入れし続けている。

「そうだな、俺はきっと本当は教師には向かない。肩入れしないことができないから。重ねてしまう。すまない、俺は例えお前が嫌だとしても引けない」
「先生が肩入れしてくれたから、助けに来てくれたから。私、嬉しかったの。わかってるから、わかってるから、いいの」

 彼女はふっと晴れやかに笑った。皆で、ここから出るの、と。
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