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一章 誰かを救うために世界を変えたとして

私の命には無限に残機があるので

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助けに来たはずのその大男は、次の瞬間、。火が燃え移ったわけではない。それは不幸な事故ではなかった。

、ツムグの目の前にいる大男は燃えたのだ。彼の目の前にいる血を吐いて荒い息をするアッシュグレイの髪の色男に、つまりは瀕死のツムグに欠けらも目もくれず。

ーー意味がわからなかった。道理がそこにはなかった。

確かに火種はあった。ために、天井に落ちて壊れた電子機器がショートして火がついたのだ。この場所に炎があった理由は判然としている。

ーーしかし、だからといって何故、大男は火に飛び込んだのか。

現状、逆さまになった天井に落ちた倒壊した瓦礫に押し潰され、半身を完全に埋められた重症者となっているツムグに救助が必要なのは明白だ。

ツムグと同じ組織の構成員を意味する、身体に張り付くような素材の機動性の高い制服を、目の前の大男は着ていた。黒だけで纏められた、その肌の露出のない服装からして、ツムグの仲間だった。仲間ーーツムグ個人としては雑魚と一緒にされるその呼び名は業腹だが、客観的に見れば完全に味方であり同僚だ。

救助が必要な人間がいて、救助ができる人間がいて、かつ、そいつが仲間を救うのが仕事だとしてーーさあ、どうしてほっぽり出して焼死を選ぶ選択肢が生まれる?あまりに突飛すぎて巫山戯たバグみたいな挙動だった。

ツムグには理解不能だった。助けてくれと思ったわけでは断じてなくとも、頭が痛くなる理不尽さだった。頗る健康なら、現状へしゃげて落ちかかっている眼鏡を外して、眉間を揉んだかもしれない。

世間一般で長身と言われるツムグさえ楽に過ごせるこの建物の天井に、頭を擦るようなーー天地が文字通りひっくり返ったので床に頭を擦るが厳密だったがーー大男が、仮にだ。

仮に自殺志願者だったとして、あまりに選んだタイミングが意味不明だったし、それにしては火に飛び込む様が異様だった。

覚悟を決めた顔でもなく、悲痛な痛々しい顔でもなく、平然とした顔。黒髪のがたいの良い大男は、唇を引き結んだ無表情。黒々とした瞳は澱んで何の感情も乗せていなかった。そのまま、立ち止まることなく、眉を動かすこともなく、呼吸は安定し、心拍は正常で、足音のリズムは乱すこともなく軽やかに。

まるで燃え盛る炎の壁が見えていないかのように、前進しろとだけ稚拙なプログラムを組み込まれ壁にぶつかるロボットのように、男は真っ直ぐに橙の死の絨毯へ歩いたのだ。

ツムグが思わず「ーーは」と、理解不能を息として吐いたのは仕方がない話だった。

大男は派手に燃えた。ツムグが名前も知らない彼は、出会って数秒で火にくべられた薪になったのだ。男は盲目で炎が見えなかったのかーーならば何故危険な戦地にいるのか、筋が通らない。敵の"現実改変能力者"に操られたかーー"現実改変"を検知していないのだから、どう考えようとただただ大男がである。

炎の中の男のシルエットがだんだんと崩れていき、肉が焼け焦げた匂いが部屋を満たす。ツムグの視界が熱で揺らめく。酸素を奪われ、身体は岩のように重く、肺に重石があるように息ができなくなる。

意識が薄れゆく中、ツムグは思った。

ーー嗚呼、何も知らない赤の他人に僅かにでも貴重な思考を割いただけでこの上ない屈辱。その上、最期になりかねない今、優秀な俺に無価値な思考を割かせたあの大男は何も知らないし知りたくもないがーー

整った理知的な美しい顔立ちにあまりに不釣り合いな幼稚な思考。大真面目に、弁護も不要な純粋な悪意で、心底素直にそう思って、彼は意識を失う。

⭐︎


結論から言って、ツムグは死ななかった。彼が目を覚まして見たのは見慣れた何の面白みもないカプセル越しの真っ白な天井だった。

カプセルは楕円形の人間がすっぽり入るもので、ツムグはそれに仕舞われている。素材は硝子ではないが、外がはっきり見えた。棺のようにツムグは横たえられている。

実態はベッドというにはあまりに凶悪な意味を持つ機械だったが、なんにせよ、その中で目覚めたことはツムグにとって普通だった。日常だったーーこの組織の地下施設に来てからは。

彼は狭いカプセルで億劫に身を捩って、瞼を閉じる。指先で触れた先に眼鏡はない。どうりで視界がぼやけている。

気絶してから8時間24分18秒経過していて、酸欠による意識の混濁は回復、損傷は右腕に火傷による重度のケロイド。右手は2週間使用しないことを推奨。2箇所の骨折はカルシウム接合剤により修復済。

ーー脳に埋め込まれたチップが寄越した情報だった。脳に伝達する情報量を削減するために目を閉じるなどの動作はいるが、脳に流せる情報量の範囲内ならば即座にデータベースにアクセスして取得できる。

人間の脳味噌を意図的に弄るのはかつてのロボトミー手術に代表されるように、今では非道徳で、当然ながら非合法だった。ツムグに、というより組織の人間に施されているのは、使用法を少し間違えるだけで脳が情報でパンクして破壊される、倫理を無視した人体改造。

"現実改変能力者"と戦うにあたって人体を持つことは必須であるから、完全機械化とはいかない。残念ながら、現状、人体にあまりに無理がある機械を組み込む手術がこの組織ーーデッドラインの新入り歓迎としてまかり通っている。

ツムグはそれに人権侵害の悪だと憤るまともな道徳感は持ち合わせていないまでも、自分の脳味噌が一部自分以外の所有となっているような現状は不快に思っていた。不快だからといって便利な道具を使わないほど非効率を愛さないので、こうして使ってはいる。

ーー埋め込まれたチップによって自分の脳味噌が働いているので独力だ。ツムグは使用する。

さて、ツムグは火傷した右手は使わずに、左手をゆっくりと上に伸ばした。つまりはカプセルの外殻を押す。僅かな動作に反応して、半透明の楕円の棺が自動で開いた。

裸足が床に降りる。足先から金属の感触。ただただ白いだけの閉じ込められていれば気が狂うような部屋。

8時間経った程度で倒壊した瓦礫に埋まりかけた満身創痍から完全復活するほど、ツムグの回復力は化け物じみていない。デッドラインの組織の戦闘員である以上、一般とはかけ離れて頑強ではあるが、頗る健康で若い一般人より怪我の治りが数日早い程度なので。

デッドラインの技術力によって、ツムグは立ち上がれている。その技術の詳細までツムグは知っていたが、その倫理観を度外視した技術について思いを馳せるつもりはなかった。ーー

カプセルの縁に吐き出された眼鏡をかけて立ち上がり、自分が寝ていたカプセルを見下ろした。開いた蓋の丸い表面にツムグが映る。

アッシュグレイの髪、金の瞳を眼鏡で遠くした近寄りがたい雰囲気の美しい青年は、楕円の表面で歪んでいる。自然ではあり得ない非現実的な色彩は、彼が現実改変の力を持つことを一目で知らしめる。そして、一糸纏わぬ裸体なのはーーカプセルに入ると肉体が薬品に漬け込まれるので、いつものことだった。

ツムグは無言で制服を身に纏う。眼鏡で整った顔立ちのインテリの印象を強くしているとはいえ、彼の身体は戦うためのそれだった。制服を纏えば、警察だとか軍のキャリアの印象になる。彼のやるべきことは決まっていた。

「ーー無意味に燃えて俺の思考を煩わせた男が生きているなら、それはぶっ殺すに決まっている」

激怒というほど声に熱はなく、ただ鼻で笑って嘲るような調子だった。大男が何者でどうしてあの意味不明をなしたのかなど、もはや興味がない。

己がわざわざ思考してやったのが腹立たしい。よし、死ねーー傍若無人にほどがあるーーツムグは根に持つ男だった。彼の辞書に譲歩、慮る、大人げという類の、協調性と良識のある言葉はない。彼はカプセル内に僅かな機械音とともに迫り上がった銃を背負った。EXT-Rーー鋭いという印象を抱くシルエットのデッドライン配給の長銃である。

炎に包まれたあの無表情の大男が五体満足の健康体で生きている理由など、"現実改変能力"以外にないだろう。あんなに派手に燃え朽ちていて、たまたま生き残りましたなんて奇跡はデッドラインの技術をもってしてもない。高度な科学によっても当然ながら、人はいずれ死ぬを覆せない。しかし、

ーー現実改変。洗脳するのではなく、記録を改竄するのではなく、過去起こった事実、今そこにある事実、世界の理そのものを捻じ曲げるーーご都合主義の奇跡を起こす。

そんな馬鹿げた能力を持つ人間がいる。もっともそれをもはや人間と呼んでよいのかすらわからない。この世界に神がいたとして、現実改変なんてものは神の所業と同義である。

現実改変能力者ーー人間を、生き物を、世界を好きに創り、好きに弄り、好きに生かし、好きに殺せるような、あまりに強大すぎる異常な力を持つ人間。この世に神がいるかいないかは宗教的な信条による問題だと思うが、世界や運命を自在に創ることができるものを神と呼ぶなら、狭義で神は確かな現実として存在していることになる。

ツムグもまさにその神もどきの人間ーー現実改変能力者だった。残念ながら、凶悪な現実改変能力を念入りに封じられている身なので、今おいそれと使えないが。

ただの真白の壁が左右に割れて自動でドアが開く。そのまま彼は部屋から歩み去ろうとしーー

すんでのところで目の前に聳えた黒い壁に激突しそうになったのを、ツムグは踏みとどまった。

「やあ、こんにちは、新しい希望の朝ですね」

頭上から抑揚のない冷めた低い声が降ってくる。ツムグは見上げた。はるか頭上で例の大男が死んだ目の仏頂面を向けていた。

本来ならばラストとなるはずの最悪のファーストインプレッションをツムグに与えた男だ。

身長180cmはあるツムグがこうも見上げねば顔に辿り着かない人間に、彼は生まれて以来会ったことがなかった。厚い胸板の馬鹿でかい大男がドアの向こうに立っていては、壁と錯覚したのは当然ともいえる。ツムグの眉間に皺が寄った。

「会いに行く煩わしい手間が減って何よりだが……お前、ここで何してる。俺に用か」
「いいえ、別に用はありませんが」

銀の髪に目鼻立ちのはっきりした顔に眼鏡とくると、刺々しく言葉を放てばより冷たく見えるものだ。ツムグを気にした風もない大男は見かけを裏切らない淡々とした声音だった。ツムグは眼鏡の奥で目を瞬いて、唇を歪める。

「わざわざ俺の部屋のドアの真ん前に立っておいて、用がないとは随分お粗末な誤魔化しもあったもんだな。ドアにキスして回る趣味でもあったか?」
「ないですよ。まあ、それも面白そうですね、今度やってみますよ」

飄々とした顔。ツムグの言葉の棘に自覚がない鈍感というほど、可愛げのあるように見えない。腹立たしい真顔に毒突きたくなるのを、ツムグは強い意志で飲み込んだ。大男は目を瞬く。瞬きすることだけが生気のようだった。

「ああ、そういえば節はどうも、お兄さん。私はシナズと言います。名前の通り、死にません。そういう現実改変能力です。イカすでしょう?」

気安い言葉と、感情が欠片も乗らない棒読みと、ぴくりとも動かない表情筋と、共感しがたい言い回し。全部がただ常識と噛み合わない痛烈な違和感を発して、ただ聞いただけで疲れた。ーーそう、何から変だと指摘すれば良いのかわからない、といった。

「で、貴方のお名前は?」
「書いてあるだろ、そこに」

ツムグは大男の巨体でドアの向こうがみえないため、仕方なくシナズを指差して言う。シナズ側のドアの周囲に名前が表示されているはずだ。ぬっと無表情の顔が迫るーーシナズが身体を折り曲げるように屈んだだけである。至近距離の無表情。黒い瞳にツムグが映っている。人間の動作というよりロボットがアームを動かしたような動きに背筋が寒くなった。彼は真顔で淡々と繰り返す。

「ーーお名前は」

ツムグは顔を引き攣らせた。シナズの腕を見ていると明らかに素手が武器になるそれだったが、そういう類の迫力ではなかった。人は真に理解できないものに出会うと恐怖を感じるーーそういう意味でシナズには底知れぬ気味の悪さがあった。会話はできるが、できるだけに、余計に考えていることがーーいや、考えているのかどうかすらわからない。

「……ツムグだ。お前と同じ、現実改変能力者だ」

このわけのわからない大男に僅かでも興味を持ってやるのも癪で、ツムグの苛立ちは増すばかりだ。苦々しい顔で彼はシナズに問う。尋ねて理解不能で疲れるか、尋ねずに不毛な無駄話に疲れるかで、前者を苦渋の決断で選んだだけだ。

「ーーお前は何故焼死した?現実改変で死をなかったことにできるとして、何故。俺への嫌がらせなら大成功だな、あれほど理不尽に腹が立つことはなかなかないぜ」

うーんと、わざとらしいこと極まりなく唸って無意味に時間を浪費させた上で、シナズは真顔で言う。

「さして理由はないですが、強いて言えばーーやりました」

は、と息を吐いたツムグを置き去りにして、シナズはぐんぐん話を進める。

「何だかシリアスな状況だったので、つい意表を突きたくなったんですよね。愉快そうだなと思うと、ついつい我慢できなくなってやってしまう性分でして。ここに立っていたのも、同じで面白そうだったからです。実際面白かったですしね」

笑みの一つもない平坦な声で面白いと言われても、白々しいだけだった。

「だからわざわざ焼け死んだって?」
「私の命には無限に残機があるのでーーツムグはゲームをやる人ですか?もしそうなら多少はわかるかと。いくらでもやり直しがきくなら、ちょっとシュールなゲームオーバー、ついやってみたくなるでしょう?」
「やり直しがきくことと、すすんで死ぬことは別だろうーー悪趣味だな」

シナズが言っているのはつまるところ、奇行で人をギョッとさせるのが趣味だとーー自分がわざわざ無意味に死んでまで。奇行にそもそも意味が存在していないのなら、意味がわからないのも道理である。理解はしたくもないがーーなるほど、頭のイかれた狂人であることをツムグは理解した。

さっきから再三思っていたことを漸くツムグは口に出した。

「お前、実はサイコな博士に作られた思考回路がいかれたサイボーグだろう」
「残念ながら純然たる人間ですね。生まれた瞬間から純度100%の一般的なヒト科ヒト属のヒトです」
「それで?」
「勿論、これで」

ツムグはただ引いたーー自分の性根の悪さは棚に上げて、ドン引きした。あまりに異様なので、人間であるという冗談みたいな話が余計に不安になる有様だった。

ふとツムグは銀の髪をぐしゃりと乱して、にやりと笑う。冷たい氷像じみた造形を遺憾無く発揮して、魅惑的に、笑ってーー

「ーー嗚呼、忘れるところだった」

ツムグは流れるように背負っていたEXT-Rを手に持ち、構え、撃った。一分の躊躇いもなかった。会話の流れを切り裂く唐突な銃声。

EXT-Rは普通の銃ではなく、何らの殺傷能力はないーー常人には。しかし、現実改変能力者に撃つとーー当然ながら対現実改変能力者の銃は威力を発揮する。

使い慣れたツムグが知らないわけはない。全てわかっていて、殺意と悪意あって撃っている。

ツムグの撃った弾丸は、いっそ拍子抜けするほどあっさりシナズに命中した。大柄で筋肉質な身体が傾ぎ、後ろに大きな音を立てて倒れる。

シナズはあっさり撃たれたーー撃たれたが、彼は肉体の損傷をなかったことにできる、現実改変能力者である。撃たれたことによる傷は、肉体に傷をつけた側からその事実が消滅していく。回復ではなく、傷つけた事実がなかったことになっていき、ただ残ったのは何の傷もつけられなかった弾丸のみ。

そして、ゾンビが起き上がるような、関節の動きがない不気味な巻き戻しでぬらりと起き上がる。その胸の傷も出血も、はじめから撃たれてなどいないように、跡形もなく消えていた。

「理知的に見えて、激しく直情型で驚きましたよ。まさか突然撃たれるとはびっくりしました」

驚きとは無縁の平淡さで言って、シナズは肩を竦める。

「……今、撃たれる流れでした?」
「もともと撃ってやろうとしていたのを思い出した。それにお前、わざと撃たれたな。気付いた癖に」
「まあ、撃たれておくのもーー」
「ーー面白いと思って?被虐趣味か?」

シナズは無表情のまま黙って、咳き込むように手を口元にやりーー赤い舌を出して、口から銃弾を吐き出した。

「銃弾を食べる趣味はありませんね。美味しくないので」

ーーどういう理屈で撃たれた弾丸が口から出るんだ、と。思いはしたが、ツムグは黙った。わざわざ思い通りに会話を繋いで相手にしてやるようで、プライドが許さなかったのである。

「さした因縁もないのに撃ってやろうなんて、随分過激ですね。敵しかつくりませんよ」
「作ってるんじゃねえよ、最初から他人なんぞみんな敵だ」

冷やかす口笛の音。

「孤高ですか格好良いですね憧れちゃいますスゴイナア」

とんでもない棒読みと早口で言い切って、シナズは、やる気なく拍手を送ってみせた。真顔が、抑揚のない声が、拍手が、どれだけ相手の神経に障るのかよくわかっているーーわかっていてわざとやっていると、無表情であれどはっきりしていた。

「よくわかりましたーーツムグ、貴方はシンプルに性格が悪いようで。どう生育したらそんなにひん曲がれるのか、大変興味がありますよ」
「初対面で無意味に焼け死ぬお騒がせ野郎とさして変わらんだろうよ、ひん曲がり具合は。死なないとわかってから撃つことになっただけ、俺の方が可愛いもんだぜ」

ツムグは口元を歪めて笑う。シナズはニコリともしない。

これが、ツムグとシナズの初めて会った日の出来事である。
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