53 / 53
五十二話 ニートと犬と荒くれ剣士
しおりを挟む
目の前が真っ赤に染まっている。眼球を目まぐるしく動かしても、赤以外の色を見つけることが出来なかった。
その赤は血のような深紅でもあったし、夕焼けのような茜色でもあった。一瞬一瞬で、赤でもあれば朱でもあり、複雑に移り行くその様を、九十九には形容することが出来ない。その視覚から得る情報は、これまで蓄積してきた記憶の中にはなく、全くの未知であった。
九十九は、そんな果ての見えない異様な空間に漂っていた。
漂う、と言うよりも浮かんでいると言った方が正しいかもしれない。身体全体が包まれているような感覚がある。――水中……いや、水よりも重く、纏わりつく泥の方が近いか――このように、九十九は自分がいる空間や置かれている状況を手繰り寄せるように探るも、視覚、触覚共に曖昧で不確かなものでしかなかった。只々、不明瞭な情報が九十九の脳を埋め尽くしていく。
綿毛のように中空を浮かぶような感覚の中で、どうにか身体を起こせないかと藻掻くが、身体を起こすどころか四肢を動かすことさえ出来なかった。そもそも、どちらが上でどちらが下か、それがまず解らない。平衡感覚が完全に狂ってしまっているかのようだ。
やがて、九十九は身体を動かすことを諦め、視界に広がる焼けるような光景を虚ろな目で眺めた。赤い空に視線を注ぐ瞳は生気を失っている。顔の筋肉が麻痺したように表情を作る事が出来ず、顎が外れたように口がぽかんと開いている。その様は、まるで俎上の魚と言えた。
前後左右すら解らない一面赤一色の世界。
すぐそこに壁があるのかもしれないし、果てなどないのかもしれない。距離感覚は完全に狂い、別世界に連れてこられたような心境で、自然と畏怖の念が湧き上がる。聴覚が死んだかと思わせるほど一切の音が無く、九十九は叫びだそうと意識するも腹に力が入らず、声帯が震えてくれることは無かった。
赤い宇宙かのような空間で、ただ一人、スペースデブリのように空間を揺蕩う九十九に、出来ることは何も無かった。
しかし、九十九が絶望することは無かった。先ほどからずっと、胸中に不思議な感情が去来しているのだ。恐れや焦燥といった九十九自身の感情の片隅で、どこか安寧とした感情が顔を覗かせている。
九十九は困惑していた。まるで、別の意識が九十九の中に居座っているような気がして不気味でならない。だが、どうすることもできない。
次第にその感情は、元々あった負の感情を押しやり、九十九の胸中を埋め尽くした。身体中に染み渡る安らぎの感情は、九十九の思考を麻痺させ、停止させた。
そして九十九は、恍惚とした表情でゆっくりと瞼を閉じた。
◇
貴様ッ……何者なのだッ――。
声が聞こえる。その声は耳が良く覚えているようで、すっと馴染むように頭の中で響く。
いいから……私の刀はッ……――。
叫ぶようなその声には、怒りと警戒の色が滲んでいた。良く聞き取れないが、声の主を宥めるような声も聞こえる。一体何が起きているのか。
ええい!黙れッ、痴れ者共!此奴に手は出させんぞ……斯くなる上は――。
その時だった。
突如身体に衝撃が走ったかと思うと、物凄い力で上体を持ち上げられ、頭が後方に力なく垂れた。浅い眠りの中で夢現だった九十九の意識は、無理矢理現実へと引き戻された。
「る……累」
反射的に目を開き、呆けた顔で呟いた。長い時間その顔を見ていなかった気がしたが、実際には数時間ぶりといった所だろう。しかし、九十九の胸には、追慕にも似た強烈なまでの懐かしさがこみあげていた。
累の顔を見た瞬間、九十九は息を飲んだ。額に巻かれた包帯に片目を覆うガーゼ。露出している部分も痛々しく赤みを帯び、全体が腫れあがっているようだ。
累は、九十九の胸倉を掴んだ状態で、ぽかんと口を開けて無事な方の目を見開いている。出会ってからこんな表情の累を見るのは初めてだった。
「お前……その顔」
「つ、九十九……お前……無事で――」
「あッ、せ、先輩!」
「ぐおっふぅッ!」
黒い物体が真横から飛来し、累の脇腹を直撃した。累は可笑しな声を上げながら崩れ落ち、悶絶に身体を震わせている。
支えが無くなり布団に倒れ込んだ九十九は、肘を立てて上体を起こした。
下半身に重さを感じ目を向けると、識神である黒猫のマロンがちょこんと座り、焦げ茶色の瞳を此方に向け、ニャオンと鳴いた。
その横、布団のすぐ傍には、駆け寄った紫乃が心配そうな顔で窺うように九十九の顔を覗き込んでいる。
一瞬、違和感を感じて、すぐにその正体に思い当たる。紫乃がサングラスを掛けていない。今まで感じた印象よりも、紫乃の素顔はずっと幼く、初めて見る紫乃の瞳は、少し潤んでいた。
「マロン……紫乃も、無事だったか」
「先輩。具合はどうですか?どこか痛みとか、違和感があったりとか……」
「いや大丈夫。何ともない」
「……そうですか。良かった。でもまだ横になっていなきゃ駄目ですよ」
そう言って紫乃は、九十九の肩に手を置いて寝かせ、掛け布団をそっと掛けた。
「あ、あぁ。てか、紫乃。累が興奮しちまってるんだが。それにここは……」
「累さんもちょっと前に目を覚ましたんです。落ち着かせようと思ったんですけど、話を聞いてもらえなくて……で、ここはですね――」
「ぐッ、ぐぅ……貴様ッ……妖を差し向けるとは卑劣な……!」
紫乃の言葉は遮られた。
脇腹を押さえながら起き上がった累は、鋭い目付きで紫乃を睨んだ。
「えッ?いや、違うんですよ。累さん。その子が勝手に……」
「何が違うと言うのだ。今、突然現れたではないか。妖には違いなかろう!ちぃ、彼奴の仲間だな……迂闊ッ」
今にも襲い掛からんばかりの累の剣幕に圧され、紫乃は胸に手を置き、目を伏せてオロオロと萎縮してしまっている。
この状況は一体……――覚醒したばかりの九十九も、唖然とするしかなかった。
「マ、マロンはいい子ですッ。人を襲ったりなんてしませんから――」
「そうだ、累。紫乃とマロンは敵じゃない」
「九十九!?お前なぁ……良い、お前は黙っていろ。すぐにここを出るぞ――さぁ、私の刀を返せ。今すぐにッ」
そう声を張り上げる累は、かなりの興奮状態にあって耳を貸しそうにない。心なしか、累の周囲には黒いオーラが漂っているような気さえする。
「いや、ちょっと待ってくれ、累。少し落ち着けよ」
「そうよ、剣士さん。彼の言う通り落ち着いて。興奮しない方がいいわよ。あなたも怪我してるんだから」
紫乃の背後から、九十九の声に続いて女性の声が聞こえた。
九十九は、少し頭を傾げるようにして声の主に目を向けた。
そこにいたのは栗色のロングヘアの女性だった。此方に背を向けて肘をつき、手で頭を支えて横にだらしなく寝ころんでいる。
「黙れッ。貴様は何者だ!――いや……まず此方に顔を向けんかッ」
振り返りもしない女性の態度に腹が立ったのか、累は荒い声を飛ばした。
怒りを剥き出しに騒ぐ累をよそに、九十九は紫乃に顔を近付け、耳打つように聞いた。
「なぁ、紫乃。後ろの人は……?」
「うぅ……ニ、ニート先輩です」
「は?」
「ちょっと聞こえてるわよ、紫乃!その紹介は何なの?あり得ないんだけどッ」
紫乃を非難するように声を張り上げながら、『ニート先輩』と呼ばれた女性は上体を捻り此方に顔を向けた。
とても肌の白い女性だった。雪のように透き通る白い肌――というわけでは無く、単純に顔色が悪い。しばらく陽の光を浴びていないだろうことが、何となくだが分かる。化粧っ気のないジャージ姿だが顔立ちは整っており、それなりの恰好をすれば美人と言えるだろう。しかし、その佇まいはだらんと弛緩し、普段あまり動かさない為か、表情の変化が乏しく覇気が無い。紫乃の言う『ニート先輩』とは、言い得て妙だと九十九は思った。
振り返ったニート先輩の左手にはスマートフォンが握られていた。ディスプレイの中では、派手なエフェクトを背景に、現実離れした衣装のキャラクターが勇ましいポーズを決め微笑んでいる。どうやら此方に背を向けてソーシャルゲームをプレイしていたらしい。
そして、肘を立てて振り返ったニート先輩の肩辺りから、ひょこっと顔を出した小さな犬。柴犬だろうその犬は、伏せをしたような状態で、不思議なものでも見るように此方の様子を窺っていた。
「ニートなんて人聞きの悪い!ちゃんと仕事してるじゃないッ」
「……店番してるの見たことないんですけど。一日ジャージ姿でゴロゴロしてるのは仕事じゃありません。仕事してるのは新見さんです」
「やめて!あー、あー、聞きたくない!あっ、紫乃は学校に行ってるから私が働いてる所を見てないの。そうよ、それだけなのッ。ニートって呼ばないで!」
「……新見さんが先生に言ってましたよ。一人じゃ回らないから人雇ってくれって。それに何だかやつれてますよね、新見さん。可哀そうだなぁ」
「いやあぁぁー!何でそんなこと言うのよおぉッ」
両手で耳を塞ぎながら、ニート先輩は畳に勢い良く顔を突っ伏してしまった。
「紫乃……もういい。やめてやってくれ……」
自然と言葉が漏れた。
うつ伏せで顔を隠し耳を塞ぎながら現実から目を背ける様は、惨めで居た堪れなく、次第に何とも言えない感情が湧き上がり、最終的には見ていられなくなって九十九は目を逸らした。
「……はぁ。この人は仁科夕虎さん。居候です。私より長くいますから……一応、先輩です」
紫乃は、ため息を吐きながら渋々といった様子で紹介した。
すると、紹介された仁科夕虎は一転して勢い良く立ち上がり、得意気な顔で紫乃に向かって人差し指を差した。
「それよッ」
「人に指を差さないで下さい」
紫乃は半眼でぞんざいに言い放つ。
しかし、夕虎には紫乃の表情が目に入っていないらしく、構わず話し続ける。
「そう、居候!私は一時的にここにいるだけなのよ」
「別にニートも居候も変わりないじゃないですか」
「全然、違うわ。言葉の感じがね!ニートよりはマシ!」
腕を組み堂々と言い切った夕虎の顔は、先ほどとは打って変わって清々しいまでの笑顔に変わっている。その感情の起伏の激しさに、九十九の顔に困惑の色がありありと浮かぶ。
「そういうことで――阿原九十九君。居候の仁科夕虎よ。よろしくね!」
九十九の顔を見て、『居候』を強調しながら夕虎は改めて名乗った。
「は、はぁ……よろしくお願いします」
その顔色や受ける印象と反して、異常に高いテンションに若干気圧されながら、九十九は控え目に頭を下げた。
「それと……少しは落ち着いた?剣士さん――ってあれ?」
夕虎の口から剣士さん、という言葉を聞いた九十九はそう言えば、と思いながら後ろにいるはずの累の方へ振り返った。
先ほどまで大騒ぎしていた累はというと、何故か壁に身体をびったりとくっ付けて、まるで磔のような状態で固まっていた。戦慄するように顔を歪ませて、顔色は蒼白。さらに、少なくない冷や汗まで垂らしている。
「お、おい。どうしたんだよ。累」
累のただならぬ様子に一瞬、場が静まり返ったが、九十九は何とか言葉を捻りだして累に声を掛けた。
しかし、累は首を左右に振るばかりで口を開こうとしない。すると、背後から不気味な含み笑いが聞こえてきた。
「フッフッフッフッフッ……あぁ、剣士さんは――そうなのね」
そう言ったのは夕虎だった。どうやら、累の行動の謎が解けたらしい。
夕虎は、邪悪な笑みを浮かべながらおもむろにしゃがみ込むと、足元にいた柴犬を抱え上げた。
「ひっ……」
「え?」
小さな悲鳴が聞こえて振り向くと、硬直している累の顔が引き攣っている。小刻みに震えているのか、微かに歯が鳴る音が聞こえた。まさか……。
「ま、まさか累さん……もしかして……」
「この子も紹介しておかなくちゃ。この子はパトロ。大人しくて賢い子でね。ここで唯一、私に寄り添ってくれる可愛い味方なの。さぁ、パトロ。お姉ちゃんに挨拶しようね……」
悪魔のような微笑を浮かべながら、夕虎はじりじりと累ににじり寄っていく。
「まっ、待て……来るな……」
足をバタバタと動かし、累は更に退こうと壁に身体を密着させる。最早、壁にめり込もうかという勢いだ。
「どうしたの、剣士さん?ほらっ、このつぶらな瞳を見て!可愛いわよぉ……」
「や、やめてくれ……私は、駄目なんだ……」
「大丈夫、大丈夫!この子は人見知りしないの。だからねッ?さぁ、勇気を出してッ。ほら……ほらぁ!」
「それだけは……犬だけは……ほ、本当に……いや……う、うわああぁぁぁ!」
九十九と紫乃。両者呆然として成り行きを見守る中、累の叫び声が部屋中に反響したその時だった。
突然、勢い良く襖が開いて、夕虎の動きが止まった。そして、累以外の三人が一斉に開いた襖の方へ顔を向けた。
「一体、何をしているのかな?君達は」
そこには、困惑の表情で立ち尽くす勘解由小路矩明の姿があった。
その赤は血のような深紅でもあったし、夕焼けのような茜色でもあった。一瞬一瞬で、赤でもあれば朱でもあり、複雑に移り行くその様を、九十九には形容することが出来ない。その視覚から得る情報は、これまで蓄積してきた記憶の中にはなく、全くの未知であった。
九十九は、そんな果ての見えない異様な空間に漂っていた。
漂う、と言うよりも浮かんでいると言った方が正しいかもしれない。身体全体が包まれているような感覚がある。――水中……いや、水よりも重く、纏わりつく泥の方が近いか――このように、九十九は自分がいる空間や置かれている状況を手繰り寄せるように探るも、視覚、触覚共に曖昧で不確かなものでしかなかった。只々、不明瞭な情報が九十九の脳を埋め尽くしていく。
綿毛のように中空を浮かぶような感覚の中で、どうにか身体を起こせないかと藻掻くが、身体を起こすどころか四肢を動かすことさえ出来なかった。そもそも、どちらが上でどちらが下か、それがまず解らない。平衡感覚が完全に狂ってしまっているかのようだ。
やがて、九十九は身体を動かすことを諦め、視界に広がる焼けるような光景を虚ろな目で眺めた。赤い空に視線を注ぐ瞳は生気を失っている。顔の筋肉が麻痺したように表情を作る事が出来ず、顎が外れたように口がぽかんと開いている。その様は、まるで俎上の魚と言えた。
前後左右すら解らない一面赤一色の世界。
すぐそこに壁があるのかもしれないし、果てなどないのかもしれない。距離感覚は完全に狂い、別世界に連れてこられたような心境で、自然と畏怖の念が湧き上がる。聴覚が死んだかと思わせるほど一切の音が無く、九十九は叫びだそうと意識するも腹に力が入らず、声帯が震えてくれることは無かった。
赤い宇宙かのような空間で、ただ一人、スペースデブリのように空間を揺蕩う九十九に、出来ることは何も無かった。
しかし、九十九が絶望することは無かった。先ほどからずっと、胸中に不思議な感情が去来しているのだ。恐れや焦燥といった九十九自身の感情の片隅で、どこか安寧とした感情が顔を覗かせている。
九十九は困惑していた。まるで、別の意識が九十九の中に居座っているような気がして不気味でならない。だが、どうすることもできない。
次第にその感情は、元々あった負の感情を押しやり、九十九の胸中を埋め尽くした。身体中に染み渡る安らぎの感情は、九十九の思考を麻痺させ、停止させた。
そして九十九は、恍惚とした表情でゆっくりと瞼を閉じた。
◇
貴様ッ……何者なのだッ――。
声が聞こえる。その声は耳が良く覚えているようで、すっと馴染むように頭の中で響く。
いいから……私の刀はッ……――。
叫ぶようなその声には、怒りと警戒の色が滲んでいた。良く聞き取れないが、声の主を宥めるような声も聞こえる。一体何が起きているのか。
ええい!黙れッ、痴れ者共!此奴に手は出させんぞ……斯くなる上は――。
その時だった。
突如身体に衝撃が走ったかと思うと、物凄い力で上体を持ち上げられ、頭が後方に力なく垂れた。浅い眠りの中で夢現だった九十九の意識は、無理矢理現実へと引き戻された。
「る……累」
反射的に目を開き、呆けた顔で呟いた。長い時間その顔を見ていなかった気がしたが、実際には数時間ぶりといった所だろう。しかし、九十九の胸には、追慕にも似た強烈なまでの懐かしさがこみあげていた。
累の顔を見た瞬間、九十九は息を飲んだ。額に巻かれた包帯に片目を覆うガーゼ。露出している部分も痛々しく赤みを帯び、全体が腫れあがっているようだ。
累は、九十九の胸倉を掴んだ状態で、ぽかんと口を開けて無事な方の目を見開いている。出会ってからこんな表情の累を見るのは初めてだった。
「お前……その顔」
「つ、九十九……お前……無事で――」
「あッ、せ、先輩!」
「ぐおっふぅッ!」
黒い物体が真横から飛来し、累の脇腹を直撃した。累は可笑しな声を上げながら崩れ落ち、悶絶に身体を震わせている。
支えが無くなり布団に倒れ込んだ九十九は、肘を立てて上体を起こした。
下半身に重さを感じ目を向けると、識神である黒猫のマロンがちょこんと座り、焦げ茶色の瞳を此方に向け、ニャオンと鳴いた。
その横、布団のすぐ傍には、駆け寄った紫乃が心配そうな顔で窺うように九十九の顔を覗き込んでいる。
一瞬、違和感を感じて、すぐにその正体に思い当たる。紫乃がサングラスを掛けていない。今まで感じた印象よりも、紫乃の素顔はずっと幼く、初めて見る紫乃の瞳は、少し潤んでいた。
「マロン……紫乃も、無事だったか」
「先輩。具合はどうですか?どこか痛みとか、違和感があったりとか……」
「いや大丈夫。何ともない」
「……そうですか。良かった。でもまだ横になっていなきゃ駄目ですよ」
そう言って紫乃は、九十九の肩に手を置いて寝かせ、掛け布団をそっと掛けた。
「あ、あぁ。てか、紫乃。累が興奮しちまってるんだが。それにここは……」
「累さんもちょっと前に目を覚ましたんです。落ち着かせようと思ったんですけど、話を聞いてもらえなくて……で、ここはですね――」
「ぐッ、ぐぅ……貴様ッ……妖を差し向けるとは卑劣な……!」
紫乃の言葉は遮られた。
脇腹を押さえながら起き上がった累は、鋭い目付きで紫乃を睨んだ。
「えッ?いや、違うんですよ。累さん。その子が勝手に……」
「何が違うと言うのだ。今、突然現れたではないか。妖には違いなかろう!ちぃ、彼奴の仲間だな……迂闊ッ」
今にも襲い掛からんばかりの累の剣幕に圧され、紫乃は胸に手を置き、目を伏せてオロオロと萎縮してしまっている。
この状況は一体……――覚醒したばかりの九十九も、唖然とするしかなかった。
「マ、マロンはいい子ですッ。人を襲ったりなんてしませんから――」
「そうだ、累。紫乃とマロンは敵じゃない」
「九十九!?お前なぁ……良い、お前は黙っていろ。すぐにここを出るぞ――さぁ、私の刀を返せ。今すぐにッ」
そう声を張り上げる累は、かなりの興奮状態にあって耳を貸しそうにない。心なしか、累の周囲には黒いオーラが漂っているような気さえする。
「いや、ちょっと待ってくれ、累。少し落ち着けよ」
「そうよ、剣士さん。彼の言う通り落ち着いて。興奮しない方がいいわよ。あなたも怪我してるんだから」
紫乃の背後から、九十九の声に続いて女性の声が聞こえた。
九十九は、少し頭を傾げるようにして声の主に目を向けた。
そこにいたのは栗色のロングヘアの女性だった。此方に背を向けて肘をつき、手で頭を支えて横にだらしなく寝ころんでいる。
「黙れッ。貴様は何者だ!――いや……まず此方に顔を向けんかッ」
振り返りもしない女性の態度に腹が立ったのか、累は荒い声を飛ばした。
怒りを剥き出しに騒ぐ累をよそに、九十九は紫乃に顔を近付け、耳打つように聞いた。
「なぁ、紫乃。後ろの人は……?」
「うぅ……ニ、ニート先輩です」
「は?」
「ちょっと聞こえてるわよ、紫乃!その紹介は何なの?あり得ないんだけどッ」
紫乃を非難するように声を張り上げながら、『ニート先輩』と呼ばれた女性は上体を捻り此方に顔を向けた。
とても肌の白い女性だった。雪のように透き通る白い肌――というわけでは無く、単純に顔色が悪い。しばらく陽の光を浴びていないだろうことが、何となくだが分かる。化粧っ気のないジャージ姿だが顔立ちは整っており、それなりの恰好をすれば美人と言えるだろう。しかし、その佇まいはだらんと弛緩し、普段あまり動かさない為か、表情の変化が乏しく覇気が無い。紫乃の言う『ニート先輩』とは、言い得て妙だと九十九は思った。
振り返ったニート先輩の左手にはスマートフォンが握られていた。ディスプレイの中では、派手なエフェクトを背景に、現実離れした衣装のキャラクターが勇ましいポーズを決め微笑んでいる。どうやら此方に背を向けてソーシャルゲームをプレイしていたらしい。
そして、肘を立てて振り返ったニート先輩の肩辺りから、ひょこっと顔を出した小さな犬。柴犬だろうその犬は、伏せをしたような状態で、不思議なものでも見るように此方の様子を窺っていた。
「ニートなんて人聞きの悪い!ちゃんと仕事してるじゃないッ」
「……店番してるの見たことないんですけど。一日ジャージ姿でゴロゴロしてるのは仕事じゃありません。仕事してるのは新見さんです」
「やめて!あー、あー、聞きたくない!あっ、紫乃は学校に行ってるから私が働いてる所を見てないの。そうよ、それだけなのッ。ニートって呼ばないで!」
「……新見さんが先生に言ってましたよ。一人じゃ回らないから人雇ってくれって。それに何だかやつれてますよね、新見さん。可哀そうだなぁ」
「いやあぁぁー!何でそんなこと言うのよおぉッ」
両手で耳を塞ぎながら、ニート先輩は畳に勢い良く顔を突っ伏してしまった。
「紫乃……もういい。やめてやってくれ……」
自然と言葉が漏れた。
うつ伏せで顔を隠し耳を塞ぎながら現実から目を背ける様は、惨めで居た堪れなく、次第に何とも言えない感情が湧き上がり、最終的には見ていられなくなって九十九は目を逸らした。
「……はぁ。この人は仁科夕虎さん。居候です。私より長くいますから……一応、先輩です」
紫乃は、ため息を吐きながら渋々といった様子で紹介した。
すると、紹介された仁科夕虎は一転して勢い良く立ち上がり、得意気な顔で紫乃に向かって人差し指を差した。
「それよッ」
「人に指を差さないで下さい」
紫乃は半眼でぞんざいに言い放つ。
しかし、夕虎には紫乃の表情が目に入っていないらしく、構わず話し続ける。
「そう、居候!私は一時的にここにいるだけなのよ」
「別にニートも居候も変わりないじゃないですか」
「全然、違うわ。言葉の感じがね!ニートよりはマシ!」
腕を組み堂々と言い切った夕虎の顔は、先ほどとは打って変わって清々しいまでの笑顔に変わっている。その感情の起伏の激しさに、九十九の顔に困惑の色がありありと浮かぶ。
「そういうことで――阿原九十九君。居候の仁科夕虎よ。よろしくね!」
九十九の顔を見て、『居候』を強調しながら夕虎は改めて名乗った。
「は、はぁ……よろしくお願いします」
その顔色や受ける印象と反して、異常に高いテンションに若干気圧されながら、九十九は控え目に頭を下げた。
「それと……少しは落ち着いた?剣士さん――ってあれ?」
夕虎の口から剣士さん、という言葉を聞いた九十九はそう言えば、と思いながら後ろにいるはずの累の方へ振り返った。
先ほどまで大騒ぎしていた累はというと、何故か壁に身体をびったりとくっ付けて、まるで磔のような状態で固まっていた。戦慄するように顔を歪ませて、顔色は蒼白。さらに、少なくない冷や汗まで垂らしている。
「お、おい。どうしたんだよ。累」
累のただならぬ様子に一瞬、場が静まり返ったが、九十九は何とか言葉を捻りだして累に声を掛けた。
しかし、累は首を左右に振るばかりで口を開こうとしない。すると、背後から不気味な含み笑いが聞こえてきた。
「フッフッフッフッフッ……あぁ、剣士さんは――そうなのね」
そう言ったのは夕虎だった。どうやら、累の行動の謎が解けたらしい。
夕虎は、邪悪な笑みを浮かべながらおもむろにしゃがみ込むと、足元にいた柴犬を抱え上げた。
「ひっ……」
「え?」
小さな悲鳴が聞こえて振り向くと、硬直している累の顔が引き攣っている。小刻みに震えているのか、微かに歯が鳴る音が聞こえた。まさか……。
「ま、まさか累さん……もしかして……」
「この子も紹介しておかなくちゃ。この子はパトロ。大人しくて賢い子でね。ここで唯一、私に寄り添ってくれる可愛い味方なの。さぁ、パトロ。お姉ちゃんに挨拶しようね……」
悪魔のような微笑を浮かべながら、夕虎はじりじりと累ににじり寄っていく。
「まっ、待て……来るな……」
足をバタバタと動かし、累は更に退こうと壁に身体を密着させる。最早、壁にめり込もうかという勢いだ。
「どうしたの、剣士さん?ほらっ、このつぶらな瞳を見て!可愛いわよぉ……」
「や、やめてくれ……私は、駄目なんだ……」
「大丈夫、大丈夫!この子は人見知りしないの。だからねッ?さぁ、勇気を出してッ。ほら……ほらぁ!」
「それだけは……犬だけは……ほ、本当に……いや……う、うわああぁぁぁ!」
九十九と紫乃。両者呆然として成り行きを見守る中、累の叫び声が部屋中に反響したその時だった。
突然、勢い良く襖が開いて、夕虎の動きが止まった。そして、累以外の三人が一斉に開いた襖の方へ顔を向けた。
「一体、何をしているのかな?君達は」
そこには、困惑の表情で立ち尽くす勘解由小路矩明の姿があった。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説


蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。

もう死んでしまった私へ
ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。
幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか?
今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!!
ゆるゆる設定です。
婚約破棄からの断罪カウンター
F.conoe
ファンタジー
冤罪押しつけられたから、それなら、と実現してあげた悪役令嬢。
理論ではなく力押しのカウンター攻撃
効果は抜群か…?
(すでに違う婚約破棄ものも投稿していますが、はじめてなんとか書き上げた婚約破棄ものです)
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる