陰陽剣劇譚―カミナリ―

黄坂文人

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四十九話 殻中の怪

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 反閇へんばい禹歩うほ――陰陽道における特殊な歩行呪術である。この歩行呪術は、古代中国夏王朝の初代帝、禹王うおうが起源とされることから禹歩とも呼ばれ、それが日本に伝来し反閇と呼ばれるようになった。神事の際に行われるこの歩行法は、魔除けや邪気払いといった祈願祈祷に類するものだが、その本質は地脈に通ずることである。陰陽五行の理に基づき、相生と相剋の循環によって悪鬼浄化を為し、更には地脈を辿ることで縮地法のように瞬間的に空間を移動することも可能だという。

 ステップを踏み終えた直後から消えていく矩明かねあきの身体。矩明の脇に抱えられている紫乃も同様に、足先から消失が始まった。その消失は段々と範囲を広げていく。足先、腰、胴、首……。
「あ、わわッ!あぁッ――」
 自分の身体が消えていくという視覚的な恐怖に慌てふためき、言葉にならない声をただ発していたが、とうとう口すらも消えて、声を出すことは出来なくなった。大きく見開いた目も消えたのか、一瞬にして暗幕が下りたように視界が闇に包まれた。
「うぅッ」
 しかし、闇は瞬時にして晴れ、視界に光が広がっていく。余りの眩しさに眉根を寄せ、瞼を閉じ引き結んだ。目を瞑っていても分かるほどの光の強さ。この空間が地脈なのだろうか。
 紫乃は恐る恐る目を開いた。そこに広がっていた光景に唖然とし、開いた目が更に大きく剥かれていく。
 瞳に飛び込んできたのは、無数の光の粒。それが豪雨のように降り注いでいる。サングラスの遮光など意味を為さぬほどの光量。光速で流れているのか、こちらが超速度で移動しているのか、それは判然とせず解らない。
「……」
 言葉を忘れ、息を吞みながら周囲を見遣った。
 見渡す限り散りばめられた星々の如く光点が、どこまでも広がっている。そして、数え切れないほどの光の帯。四方八方に枝のように伸び、どこに繋がっているのか分からない。その帯の上を紫乃と矩明は流れていた。上下左右、どこを見ても光点と光の帯しかない。人工物など存在しない、渺渺びょうびょうたる光の世界が広がっていた。
 紫乃は、矩明を見た。その横顔に表情はないが、どこか厳粛な面持ちだった。紫乃を抱えながら言葉なく、ただ帯が伸びる先を見据えている。紫乃は、矩明を一瞥して視線から外し、再び煌々とした世界に魅入った。
 その時、不意に視界が揺らいだ。酩酊にも似た不快感に襲われる。視界を駆け巡る光の粒。天地が分からぬ世界。脳を掻き回されているような未知の感覚に朦朧とし、意識はブラックアウトしたかのように途切れた。

「紫乃」
「――はッ」
 掛けられた声に意識を取り戻し、目を見開いた。
 陽の暖かさは感じるものの、暗いフィルターを掛けたかのような色褪せた空が頭上に広がっている。下を見ると無数のかいに覆われた校舎がそこにはあった。
「えぇッ!」
 真上から俯瞰した光景に驚きの声を上げた。光が支配する世界を抜けた紫乃と矩明は、学校の上空に投げ出されていた。屋上には、赤黒い傀の大群が絨毯じゅうたんのようにひしめき合い、出入口付近には球体のように盛り上がった傀の塊が鎮座している。髪を吹き上げる風と背筋を撫でるような浮遊感。抗えない重力。二人は真下に落下していた。
「せせせ、先生ッ!落ちてます!落ちいぃ!」
「フフッ、ハハハッ。面白いね、紫乃は」
「笑ってないで……た、た、助けてぇッー!」
 柄にもなく声を張り上げて騒ぐ紫乃をよそに、涼しげな顔でにこやかに微笑んでいる矩明。紫乃は、そんな矩明を恨めしく思いながら、屋上を所狭しと埋める傀を、目に涙を浮かべて見つめていた。その下にはコンクリートの屋上スラブがある。見てはいけないと分かっていても目を反らすことが出来ない。傀という呪の大群に飲み込まれるよりも、現実味のある激突死の方が何倍も恐怖を感じていた。恐らく、地面までの距離は一〇メートル程度だろうか。即死出来ればいいが、良くても重傷は免れない。落下速度の衝撃、全身打撲、骨折……想像もつかないほど、それはかなり、痛い。
「い、いひいぃぃッ!――えっ?」
 一瞬、紫乃の思考が止まった。突然、腰にあった矩明の腕の感触が無くなったのだ。そして、少し進路を変えて斜め下に落下している。
 そんな、まさか……。紫乃は、尋常ではないスピードで上空を振り返った。そこには、先ほどと同じように微笑む手ぶらの矩明の姿。大きく目を見開く紫乃。矩明は紫乃を放り投げていた。
「う、嘘でしょぉーッ!――この、バカァアーッ!」
 遠ざかる師に力の限り叫びながら、紫乃は落ちていく。
「ビョウ――ミカン、主人を受け止めてくれ」
 矩明の言葉に呼応して、紫乃の背後の空間がノイズが走ったように歪んだ。次の瞬間には、丸々と大きく肥えた猫が出現した。橙縞模様の毛並み。きりっとした目つき。識神しきじんミカンは足を畳み、地面に伏せて落ちてくる主人を待ち構えていた。
「ぁあああーッ……ぶふぅッ」
 ミカンの柔らかな毛に紫乃の身体は包まれ、落下の衝撃は背にも付いた分厚い脂肪が吸収した。長い毛をかき分けて紫乃が顔を上げると、鋭い表情のミカンと目が合った。ミカンは「にゃあう」と太く鳴くと、首を伸ばして顔を擦り付けてくる。
「あ、あぁ……ミカン~ッ」
 紫乃は、ミカンの額に顔を埋めて柔らかな毛を優しく撫で付けた。

 ミカンの上で泣きじゃくる紫乃を一瞥して、空中の矩明は真下にひしめく傀に視線を向けた。
 眼下の光景を目の当たりにしても、矩明の表情は崩れない。しかし、さながら蜜に群がる蟲を想起させる傀の群れは、本能的な嫌悪感を呼び起こす。
 矩明は、素早く印を結び真言を詠唱した。印形は五大明王の一尊、悪霊怨敵浄化の金剛夜叉明王印。
「阿、祝、巨、禺――四海の大神、百鬼凶災を祓え」
 詠唱の直後、一拍の間を置いて柔らかな風が矩明の下から吹いたかと思うと、その風に当てられた傀が膨張しパン、と音を立てて破裂した。手前から奥へと風は吹き、その風に触れた傀は、同じように弾け消滅していく。そうして、粗方屋上の傀が消滅すると、静かに風も消えた。傀が消えた後には、ムラのある灰色のコンクリートが露出していた。
 矩明は、軽やかに着地し、ツンとした表情のミカンの背にちょこんと乗る紫乃に向き直った。
「いつ見てもミカンは柔らかそうだなぁ。僕もその背中で寝てみたいもんだよ」
「もおおぉッ!先生、何なんですか!いきなり投げるなんてあり得ないですッ!本当に死ぬかと思いましたよッ!」
 ミカンの背から飛び降りて、紫乃は矩明に駆け寄った。
「いや、手が使えないと思って……」
「ひ・と・こ・え!掛けてくれたらいいじゃないですか!いつも急なんです、先生はッ」
「ご、ごめん……気を付けるよ」
 詰め寄る紫乃の形相に若干引きながら、矩明は語気弱く謝罪した。
「まあ、一先ず落ち着いて。先に九十九君だ」
「先生。まだあそこに傀が……何ですかね、あれは。寄り集まって……殻みたいに」
 二人が視線を向ける先、屋上出入口の扉の前に傀が集まり、球状を形作っていた。矩明の術を耐え凌いだ僅かな傀の群れは微動だにせず、まるでさなぎのように静止している。
「紫乃、良く見てごらん」
「え?……ッ!中に……人が」
 目を凝らして見てみると、赤黒い球体の表面に僅かに亀裂が走っていた。その亀裂がボロボロと剥がれ、広がっていく。開いた亀裂の奥、球体の中に何者かがいる。
「お、おじいさん……?」
 そこにいたのは、高齢の老人だった。しかし、ただの老人とは思えない。余りにも歳を取り過ぎているように見えた。
 着ている袈裟は、所々破れ酷く傷み、遠目から見ても汚れが目立つ。大きくはだけた胸元から覗く上半身は痩せ細り、肋骨が浮き出ている。まるで、ただ皮を被っているだけといった状態だ。皮膚は一切の水分を失って象皮のように乾き、ひび割れている。乾燥した砂漠のような罅割れは、禿頭の先から見える範囲に広がって、およそ生きているとは思えない姿だった。ただ、その眼は般若のように厳めしく、強烈な生気を放ち、こちらを睨みつけていた。
「纏めて修祓してしまおうと思ったんだが……うん。中々の邪気だ」
「人……ではないですよね?」
「あぁ。妖怪だよ。聞いたことあると思う――ぬらりひょん」
「ぬらりひょん!?大勢の妖怪を引き連れてって言う……あの?」
 身体を強張らせる紫乃に、矩明は薄く笑って応えた。
「妖怪の総大将とかってね。実際は違う。ただ民家に上がり込んで、その家族の一員かのように振舞って、時々小さな悪戯をする――物をどこかに隠したりとかね。そこら中に良くいる、本来はありふれた存在なんだ」
「……でも、とてもそんな風には……和魂にぎたまには見えません」
 傀の殻の内側からこちらを覗き見る妖怪は、矩明の言う『ぬらりひょん』からかけ離れているように見える。漂わせている空気、屍人のような姿、怒気と殺意の滲む面差し――人にとって無害な、和魂とは程遠い存在であると思う他なかった。
「和魂と荒魂あらたまは表裏一体だよ。元からそうであった訳じゃない。何らかの要因でどちらにも転ぶ可能性はある。人間と同じさ」
 紫乃に話しながら、矩明は閉じ籠るぬらりひょんから視線を外さず、じっと見据えている。その眼から表情を窺うことは出来ない。ただ、灰色の眼が先ほどより強く、妖しい光を放っていた。
「ただ……その要因が問題でね。些か、怨念が強すぎるな。一体、何を抱え込んでいるのか――ミカンッ」
 突然、矩明が識神の名を叫んだ。彼には珍しく、その声には多少の緊張の色が含まれていた。
「えッ――ひゃあ!」
 矩明の声に戸惑っていると、後方に強く引っ張られ、紫乃は短く叫ぶ。咄嗟に振り返ると、視界に飛び込んできたのは縦長の大きな瞳孔。ミカンが紫乃の襟首を咥え込んでいた。ミカンは、そのまま紫乃を持ち上げると、首を真上に勢い良く振り上げた。
「うひいぃぃーッ……」
 真上に投げ出された紫乃は、空中で一回転してミカンの背中に座り込むように着地した。着地したと同時にミカンは跳躍、紫乃は振り落とされまいと必死に毛を掴む。最早、半泣きになりながらその揺れに耐えていた。

「ミカン!もっと優しく!私、人形じゃないの!分かるッ!?」
 動きを止めたのを確認して、背をよじ登りミカンの狭い額をピシピシとはたく。ミカンはただ、不満そうに唸るだけだった。
「もう……あっ、先生ッ」
 紫乃は、はっとしてミカンから視線を外し、矩明を探した。
 位置を確認すると、紫乃とミカンは先ほどの位置よりもかなり後方にいた。ぬらりひょんが籠る傀の殻の対角、端のフェンスまで後退している。矩明は、紫乃を遠ざけるようにミカンに命令したのだろう。その矩明は、先ほどと同じ位置で紫乃に背を向けて立っている。しかし、その背を見た瞬間に顔が青ざめていく。
「先生ッ!」
 矩明の姿に、紫乃は反射的に叫んでいた。
 矩明の身体を縛るように、複数の手が絡みついている。余程強く縛られているのか、腕がひしゃげるように折れ曲がっていた。足は浮き、身体が僅かに宙に持ち上げられている。そして、矩明の背中から掌が生えている。紫乃の目にそう映った掌は、矩明の胸を貫き、貫通していた。
 その光景に瞳が揺らぎ、視界が揺れた。紫乃は、全身の血液が急激に冷めていく感覚を覚えていた。
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