陰陽剣劇譚―カミナリ―

黄坂文人

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四十八話 煌めく玉響

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 まるで吹き荒ぶ暴風のように左右から高速で流れていくかいの大群。それが巻き上げた猛烈な風が顔を打つ。傀の流れと共に聞こえる風切り音の中に、呻き声のような雑音が混ざっている。一人ではなく複数の人間の声。男性の絶望に満ちた嘆きの声や、女性の恐怖に染まった金切り声。一体どれほどの人間の声だか解らない。大人なのか、老人なのか、子供なのか。数多の人間、いや死人がそこにはいた。無数の負の情念が、空間に渦巻いている。
「うん。怪我は無さそうだ。精神的なダメージの方が多少あるかな」
 紫乃の師である陰陽師、勘解由小路矩明かでのこうじかねあきはその只中、廊下のちょうど中心に立っていた。緩くクセのあるボサボサの黒髪が、強風によって顔の前で激しく揺れている。しかし、灰みのある瞳は薄暗闇の空間でぼんやりと光を放つように目立ち、水銀のように輝いて見えた。
「結界は、結界は破れたんですか?」
「いや、隙間を開けた。今消し去ってしまったら人の目に触れるし、破ろうにも時間がかかり過ぎるからね」
「隙間を開けた……」
 さらりと言った師の言葉に驚きを隠せなかった。結界とは檻のような格子状のものではない。例えるなら空間に目に見えない膜を張っているようなものだ。守護神の加護によって強固に組み上げられた結界は、物理的要因では破ることは出来ず、呪術者であっても強大な法力を持ち合わせていなければ結界を読み解くことは難しい。そして、結界は強固であるが非常に繊細で、少しでも綻びが生じれば、たちまち結界は自壊する。
 緻密な結界が崩壊しないように隙間を開けるなんて芸当が出来るのは、現代には勘解由小路矩明という陰陽師ぐらいではないだろうか。尤も、紫乃は陰陽師と名乗る者を矩明以外に見たことがない。しかし、そう何人も矩明のような術者がいるとも思えなかった。比較対象を知らなくとも、彼に天賦の才が備わっていることは、常々肌で感じていた。
  
「さて……紫乃。これはどういう状況なんだい?彼はどこに――」
「いや、先生……先に周りをどうにかした方がいいかと……」
 紫乃は、おずおずと矩明の言葉を遮って進言した。身体を掠めるかと思うほど近くで傀の濁流が流れているのだ。何事もないといった様子で話を進めてもらっては困る。そもそも雑音が酷くて、このままでは会話もままならない。
「……それもそうだね。確かに随分と騒がしい。少し静かにしてもらおうか」
「――散」
 矩明が一言呟く。その声は、それまで聞こえた矩明のものとはまるで違っていて別人のようだった。有無を言わせず従わせるような冷徹さが、その声には含まれている。さらに、機械的に加工したかのように様々な音が何層にも重なっているように聞こえた。矩明の口から発せられた一言は、人の声帯から出すには余りにも複雑な音だった。
 そして、その一言を口にした瞬間、矩明を取り巻くように白い輪のような煙が浮かび上がった。その煙は、一瞬にして放射状に空間を駆け抜けた。衝撃波かと思うほどの突風に身体が吹き飛ばされそうになる。しかし、その突風はすぐに止み、辺りは静けさに包まれた。
 紫乃は恐る恐る周囲を見渡した。先ほどまで荒波のように押し寄せていた傀の姿は、跡形もなく消え去っていた。代わりに空間には火花の塵のような光が、玉響たまゆらのように無数に揺らいでいる。黄金色の光が漂って音の無くなった廊下は、場違いなほど幻想的で紫乃は思わず息を飲む。降り注ぐ玉響を浴びながら、紫乃は矩明の背に問いかけた。
「言霊……ですか?」
「そんな大層なものじゃないよ。帰ってくれとお願いしただけさ」
 矩明は振り返り、普段通りの優し気な声で応えた。
「その割には凄まじい威力だった気が……」
「数が数だからね。それなりの法力で臨まないと聞いてもらえない。何より、僕は出力のコントロールがどうも苦手なんだ」
 自嘲するように笑う矩明に、緊張が解きほぐされていくのが分かった。廊下を満たす殺伐とした雰囲気が、段々と彼が放つ独特の空気に染まっていく。
 勘解由小路矩明は否定したが、先ほど彼の口から発されたのは言霊で間違いないだろう。しかし、無数の傀の大群を一瞬で消し去ったその威力は尋常のものではない。莫大な法力をその身に宿す勘解由小路矩明だから成せる技だ。
 そんな力を有していながら、当の本人にはてらいがない。飾らない、と言えば聞こえはいいが、普段の矩明の様子を知っている紫乃から言わせれば、無気力の一言で片が付く。これで威厳が備わっていれば完璧なのに――紫乃は声に出さず、胸の裡で呟いた。
「このきらきら光っているものは……」
「傀や妖といった霊体の類が残す残滓さ。一般にオーブと呼ばれるものでね。彼らが現世と幽世を行き来する際に良く見られる現象だよ」
「心霊写真なんかに映り込むやつですか?」
「そうそう。昔はテレビでも心霊特集なんて番組良くやってたなぁ。今じゃあフェイク画像とかが簡単に作れてしまうから、あまり騒がれないけどね」
 矩明は、中空に浮かび上がる玉響を、どこか懐かしむように灰色の瞳で見つめている。紫乃も呆気にとられたように、煌めく光の粒が浮かぶ空間を見渡していた。
「こんな……肉眼で見えるなんて。その、何ていうか……綺麗ですね」
「あれだけの怨嗟の集合体の痕跡がこれとは、皮肉なことだね。紫乃。オーブが見えているということは、呪に近しい人間ということだ。それ・・のおかげもあるだろうが、素質を持った者でないと見れない」
「……」
 矩明は、それ・・と言ったサングラスの奥の紫乃の眼を見据えて言った。声色は変わらず穏やかだが、注ぐ視線は紫乃を諭すような色を含んでいて、紫乃は心の裡を見透かされているような気がしていた。
「さぁ、話はここまでにしようか。そろそろ彼……九十九君を追わないとね」
「は、はいッ。先輩は傀に飲み込まれてしまって……」
 ずれたサングラスを直しながら、紫乃は慌ただしく立ち上がり矩明を見上げた。
「ん……無事のようだが……また随分と可笑しな色だ」
「どこにいるんですかッ」
 並外れた法力を持つ者は、副次的に様々な能力を発現する。真言密教の開祖である空海や、稀代の陰陽師安倍晴明がそうであったように。そして、現代の陰陽師である勘解由小路矩明も例外ではなく、彼の眼は魂そのものを見ることが出来た。
「真上だ」
 矩明は、天井を見上げた。眼の灰みが増し、その視線は鋭い。
「真上?三階ですか?どうして……」
「いや。もっと上、屋上だな。校舎の外に出ているようだ。それと……近くに何かがいる」
「何か……?もしかして、この空間を創り出した術者が――ぅきゃあッ!」
 突如、矩明が紫乃の腰に手を回し、抱え上げてしまった。素っ頓狂な声を出して泡を食う紫乃を見て矩明は可笑しそうに笑った。
「ハハハッ、なんて声出すんだい」
「いきなりはびっくりします!」
 抗議の声を上げるも、矩明は涼しい顔で穏やかな笑みを湛えている。もうッ、と紫乃は不満の溜息を漏らすしかなかった。
「すまない。気を付けるよ――でも急いだ方が良い。これから地脈に入る」
 言いながら矩明は、右足で何かを描くようにステップを踏み出した。爪先で横線を三本。それを真上から断つように一本線を引き、最後に床を爪先で叩いた。
「地脈って……反閇へんばいッ!?」
 そう言った直後、矩明の足先がスッと大気に溶け込むように薄くなった。それは徐々に上へと広がっていき、紫乃の身体までも薄くなり背景が透けて見えている。見えない力に引き込まれるように身体が消えていく。
「あッ、あの!これ大丈夫なんですか?先生?先生ッ!」
 やがて二人の姿は完全に消えて無くなり、遂には微かに漂っていたオーブすらも消えて、再び廊下には静寂が訪れた。
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