陰陽剣劇譚―カミナリ―

黄坂文人

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二十九話 幻界

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「幻界……」
 九十九は、紫乃の言葉の記憶を脳に促すように呟いた。
 校舎内は相変わらず暗く、唯一の光源である紫乃のスマートフォンのライトが、二人の足元を照らしている。
「……現世と幽世の境目にある、曖昧でぼやけた不鮮明な領域。幻界は常識が通用しない何でもありのまやかしの世界なんです……解りにくいですよね。すいません」
 紫乃の声は、次第に消え入りそうなほど小さくなっていった。
「いやっ……まぁ、理解できたかは自信ないけど。ありがとう。何となく把握したよ」
 余りに常識から外れていて、全てを理解し飲み込むのは難しい。解ったのは、何者かが校舎に掛けた幻術の中にいるということ、その幻術の中は現実の世界とは違う出鱈目な世界であるということだった。今までここで起きたことを考えると、無理矢理にでもそう考えて納得するしかないように思えた。
「でも、校舎の中にいるのは俺達だけじゃない。生徒全員幻術に掛かっちまったのか?」
 現在の時刻は十三時四十六分。平日の昼下がり、午後の授業の真っ最中である。当然、他の生徒達は教室で授業を受けていたはずだ。避難する時間など無かったし、避難していたとすれば九十九や累が気付かない筈が無かった。
「……それは、流石に無いかと。術の対象は絞られている筈です。この学校には、生徒と先生の他に関係者合わせて八〇〇人近くいますよね?その全ての人間に幻界を魅せるとは考えにくいです。対象者が増えれば増えるほど、術の失敗率が上がりますから」
「じゃあ他のやつらは……」
「……多分、現世――現実を見ています。現実を魅せる簡易な幻術を別に掛けている、とかだと思います」
「へー、面倒なことしやがる」
 九十九達に掛けている幻術と、この学校にいる他の人間に別の幻術を掛ける。同時に二つの術を行使しているというわけだ。
「……ふふっ、面倒……確かにそうですけど、ターゲットは九十九先輩でしょうから」
「そりゃ、ありがてぇ」
 九十九は皮肉っぽく言うと、廊下の窓に目を遣った。
「それにしても……学校自体を術に掛けちまうなんてこと出来るもんなんだな」
「……普通はしないですね。術者の負担が大きくなるだけですし。対象の周囲の空間を幻術に掛ければ事足りる筈です。しかも昼間の、こんな人が多い場所でっていうのは疑問ですけど」
 でも、と紫乃は声を落として続けた。
「相当な使い手であることは間違いなさそうです」
「……」
 九十九は、生唾を飲み込んだ。自分達に迫っている脅威の大きさに内心たじろいでしまう。
「そりゃ……やべぇな。で、どうすりゃいい?ここから出る方法はないのか?」
「……すみません。私は幻術の返し方を知りません。ましてやここまで強力なものとなると……」
 紫乃は、弱弱しい声で言うと俯いてしまった。
「……先生がいてくれたら」
 紫乃の囁くような呟きが聞こえた。足元を照らすライトの光が僅かに揺れている。紫乃の手が小さく震えていた。

「いよっしゃあっ!」

「!?」
「ひにゃっ!?」
 大きな叫び声だった。その声の主は九十九だ。身体を反らせ、顔を真上に上げながら叫んだ。今起きている全ての怪異を振り払わんばかりに、叫び声は廊下に反響した。
 突然の九十九の喚き声に、紫乃は肩を震わせて驚いた。九十九の腕の中の黒猫も思わず声を上げた。
「……ど、どうしたんですか?」
「紫乃!ここらで話は切り上げだ。どんだけ凄い幻術か知らねぇけど、俺は狂っちゃいないぜ。紫乃も何ともないだろ?対したことねぇな!」
「……九十九先輩」
「くっそ。趣味悪いもん見せやがって、どこのどいつだっての!見つけ出してぶん殴ってやる」
「……はい。そうです。そうですよね……!すみません、私……」
「おいおい、すみませんは無しにしようぜ。紫乃がいてくれて心強いし、感謝してるんだからさ。実際、助けて貰ったしな」
 九十九は、歯を見せて笑った。この薄暗さでは、紫乃にはその表情を窺い知ることは出来ないだろうが、それでも笑った。
 先の叫びにしても紫乃に掛けた言葉にしても、それは自分への鼓舞でもあった。こんな状況だろうと大丈夫だ、何とも無い、と自分に言い聞かせ心を奮い立たせる為に。
「……はい。気を付けます。九十九先輩……ありがとうございます」
 紫乃の声に、ひ弱さは感じられなかった。喉では無く腹から発せられた声は、一本芯が通ったように九十九の耳に届く。確実に、紫乃は九十九の激を受け取っていた。
 二人はお互いに顔を見た。手元に光源はあるものの、この暗さで相貌は朧気だ。ましてや、紫乃はサングラスを掛けている。しかし、九十九はサングラスの奥の瞳をしっかりと捉えたような気がしたし、それは紫乃も同様だった。
「うっし。とりあえず、行けるとこ行ってみようぜ。分かんねぇけど、何かあるかもしれない」
「……ふふっ」
 分かんないけど何かあるかも、余りに漠然とした九十九の言葉に、紫乃は思わず吹き出した。同時に今日は良く笑ってるな、と内心呟いた。
「な、何だよ」
「……いえ、何でもないです。そうですね。では……」
 そう言って、紫乃は階段の方へスマートフォンのライトを向けた。
「二階、行ってみるか」
「……はい。三階は、恐らく何も無いと思います。九十九先輩と会う前に、道すがらの教室は確認しましたから」
「そっか。紫乃は……一年だったよな?ってことは元々一階にいたのか」
「はい。授業中でした。気付いたら三階にいましたけど」
「他のやつらみたいに、現実の幻術には掛からなかったんだな……くそ、何かややこしい」
「……ふふっ。多分、その子のお陰です」
 紫乃は、ライトで九十九の腕の中で大人しくしている黒猫を照らした。
「こいつが?」
 九十九は黒猫を見た。腕の中で黒い玉のように身体を丸めて寝ている。
「……その子――マロンは、私にとって幸運の猫ちゃんなんですよ」
 紫乃は黒猫に手を伸ばし、頭を撫でた。そっと手を置き、滑らせる。優しい手つきだった。
「……さぁ、行きましょうか。二階の調査です」

 二人は二階へと階段を降りて行った。
 放送室。紫乃がライトで教室札を照らした。九十九は廊下の先に目を遣るが、見渡す限り闇に包まれている。
 紫乃は、足元を照らしながらゆっくりと歩き出した。
「……紫乃はホラー得意か?」
 先を歩く紫乃の背中に九十九は問いかけた。
「……ホラー映画は好きですよ。外国のより日本の……ゾクゾクするようなホラーは、つい見ちゃいます」
「何だと……元々、耐性持ちかよ」
「……九十九先輩は苦手ですか?」
「好き好んで怖いもんは見ないぞ……実は今も吐きそうだ」
「……ふふっ、おすすめの映画。今度お貸しします」
「勘弁してくれ……」
 二人は、この闇に飲まれないように他愛もない話をしながら進んでいく。
「紫乃……聞いていいか?」
「……何ですか?」
「そのサングラス……」
「……気になりますか?」
「そりゃあ、まぁな」
 出会った時からの疑問をぶつけてみた。気にはなっていたが、聞くタイミングを逸していた。この暗闇でも外そうとしないサングラス。そもそも、学校でサングラスを掛けているというのは、よっぽどの理由があるのだろうか。九十九は聞いてから少し後悔していた。
「……聞かれなかったので気にしていないのかと」
「いや、ごめん。話したくなかったらいいんだ」
「……いえ、これは――」

 紫乃の言葉が途切れた。九十九も異変に気付いて足を止める。二人は、辺りを窺うように頭を振った。
「……」
「何だっ、明かりが……」
 突如、廊下が明るくなっていた。しかし、幻術が解けた、という訳ではなさそうだ。光源が分からない。蛍光灯が灯っている様子は無かった。そもそも、光の種類が違う。白色の光では無く、例えるならオレンジ色の電球色をさらに濃くしたような光。赤橙色の光が廊下を照らしていた。
「紫乃っ。これは……分かるか?」
「……分かりません。一体何が……!?」
 紫乃が、何かに気付いて廊下の奥を見据えていた。九十九もそれに気付く。
「……足音?」
「……誰か来ます」
 耳を澄ます必要もなくコツ、コツ、と何者かが廊下を歩いてこちらへやって来る。その者は足を忍ばせる様子も無く近づいていた。
「……」
「……」
 二人は身構え、九十九は生唾を飲み込んだ。そして、二人の前でその足音は止まった。
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