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一話 遭遇
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温かい。まるで母親に抱かれているような。全てのしがらみから解き放たれたように錯覚する。しかし一点に留まっている訳ではなさそうだ。その心地よさから瞼を開ける気力すらない。それでも好奇心からなんとか瞼を薄く開き、外界を覗き見る。やはり移動している。流されていると言った方が正しいか。大河に身体を預け何処に行くとも知れず、凄まじい勢いに為す術もない。もしくは雲。空を飛んでいるのか?当然だが雲に触れた事などない。しかしあの雲に包まれれば、いま感じている感覚と同じ静穏を得られる事は間違いないだろう。
そして、その空に見えるのは星ではなく人の姿。夥しい数の人間だ。見慣れない服を着ている。誰なのだろうと思ったが、その流れの速さから確認するのは困難と諦めた。もしかしたら走馬灯……とも考えたが、どの人にも見覚えはなくすぐにその考えはばっさりと切り捨てた。
何故だろう。確信めいたものを感じる。私は死なない。
◇
東京浅草。雷門。そのシンボルである赤い大きな提灯の前に阿原九十九は立っていた。夏も一段落ついたかに思われた九月中旬。しかしその気温は衰える様子もなく、ねっとりと重苦しい空気が身体を包む。
「はぁ……くっ、はぁ……」
乱れる息を整えながら汗を拭う。雷門を背にして、交差点を訝し気に眺めていた。九十九は途轍もない違和感を感じてこの場所に来た。寝静まった午前一時過ぎ。確かに人通りもまばらになるだろう。それでも車の交通まで止まる事があるだろうか。ここへ来てもう十分ほど経つが車一台通る気配がない。ここへ来るまでもそうだ。一人としてすれ違う者はいなかった。なによりその静寂が不気味だった。静かすぎて耳鳴りが聞こえる程だ。
「……どうなってんだ、これ」
九十九は深く溜息をついた。思わずその場に座り込む。ここまで来た事を後悔しながら夜空を見上げた。空をこんなにまじまじと観察したのはいつぶりだろう。振りまいた砂のように散らばる無数の星々と、当たり前のように鎮座する月の光。その完璧なコントラストに見入ってしまう。
「すっげぇな……」
しかし些か綺麗過ぎる気がした。昨今の東京でこんなにも爛爛な夜空は珍しいんじゃないだろうか。街灯の灯りにも勝る光だ。月に触れる事が出来るかもしれないと錯覚するほど近くに感じた。
その時、見ていた月に黒点が出現した。それはすぐさま落下し、目の前の交差点から高い音が聞こえた。地面と接触したようだ。アスファルトとの接触音から恐らく金属だろうか。九十九は落下物のある交差点上を見上げる。落ち方から真上から落下したようだが、その真上には遮る物は何もなく虚空が広がっている。落ちた物に視線を戻す。九十九は何故か薄ら寒さを感じていた。その癖身体からは汗が吹き出し頬を伝った。身体はこの場を離れろと信号を出しているようだが動かない。視線を外す事が出来ず、何故かその落ちてきた物に惹かれていた。自然と息が乱れる。気付くと一歩一歩それに近づいていく。相変わらず車が通る気配はない。交差点の中央まできて、それをそっと手に取った。
「はぁ、はぁ……うおっ!」
持ち上げた瞬間、あまりに想像していた物と感触が乖離し過ぎていて、思わず手から離してしまった。落下物は地面と接触しまた高音が響いた。九十九は混乱していた。そのいかにも加工されたかのような形状、周囲の光を反射する光沢。金属としか思えないが、それを手にした時脈打ったのだ。しかも黄金色に輝いていた光沢は濃い深紅に色を変えた。この異質な物体に薄気味悪さを覚えながらも再び手を伸ばしていた。今度は落とさぬよう強く握った。
落下物を観察する。最初手にした時と同じように脈打っていた。ドクン、ドクンと正に鼓動である。それは細長い長方形で本のようだった。装丁となる厚めの金属に薄い金属の板が挟まれる形だ。その表紙には二本の線が捻じれて絡まりあう、例えればDNAを表す二重螺旋構造のような模様が張り巡らされており、底知れぬ不気味さを感じる。
「んだよこれ、気持ち悪ィ。ん?……か、かい……だめだ、読めねぇ」
二重螺旋で張り巡らされた表紙のその中央に『開闢』の文字が記されている。裏表紙には二重螺旋以外は何も記されておらず、中をパラパラと捲ってみるも空白だった。表紙を指で弾いてみると正しく金属の硬度であり爪先が痛む。しかしゆっくりと握ると指が沈んだ。軟化しているのだ。
この一概に金属とは言えない不思議な物体。そもそもこれは一体何に使うものなのか。恐らくこの作りから何かを書き込むものの様だが、それ以外の事は全く見当がつかなかった。
「さて、どうすっかな」
九十九は頭をぼりぼりと掻きこの物体の扱いについて考える。常識的に考えればこんな意味不明なものはすぐに捨ててしまうのが当然だろうが、何故かその場に捨て置くのは躊躇われた。いつの間にかもうこれは自分の所有物であるという意識が生じていた。本人は自覚していないが、手放す選択肢はもう彼の頭にはなかった。しかしこれの使い道など思いつかない。
(とりあえず持って帰るか)
ここでずっと考えていても仕方ない。それに明日も学校がある。スマートフォンを取り出し、時刻を確認するとあと数分で午前二時になる。遅刻常習者である高校二年生の問題児にとっていくら遅かろうがさして問題ではないが、出席だけはしておかなければまた生活指導の教師による熱烈な説教が待っている。出来れば遅刻もしたくないのだが、やむを得ない理由があるのだ。これに関しては担任教師の白い目だけで勘弁してもらおう。
そうしてとりあえずの方針が固まり、交差点から歩道側へ振り返った。すると突如として叫声が耳を劈いた。突然の男のものと思われる声に驚いていると……。
「ふんがっ」
「ごっふっ」
すぐ目の前で間抜けな声が二つ。叫声の主は二人組のようで、身体を地面に打ち付け苦悶の呻きを漏らした。
「い、いってぇ!くっそがぁ、どうなっとんじゃ……おい、起きろや、忠吉」
一人が起き上がると横たわるもう一人の横っ腹を足で突いた。
「うぅ、いたたぁ……い、生きとるんか儂ら」
「なんとかのぅ。しかしえらい目におうたわ。あいつらただじゃ済まさんぞ」
「いやそれよりここはどこじゃ。んー……おっ、雷門じゃな、これ」
「おおっ、風神雷神もおるのぉ。しかし周り見てみぃ。全然ちゃうぞ。それになんじゃあ、この馬鹿でかい提灯」
「そうやな。とりあえず頭探さにゃ。どっかおるじゃろ」
(……は?なんだよ、おい)
九十九は目の前の男達のやり取りを呆然と眺めていた。状況が飲み込めていなかった。叫び声が聞こえた時、咄嗟に声音の方へ振り向いたが上空から突然現れた様に見えた。人間が空から降ってきた。手に握られている謎の物体と同じように。それだけじゃない。二人のその風貌が異常だった。
「ちょっ……ちょんまげ?」
二人組の頭は中央部分を丸く剃り後頭部に髷を結う、言わば月代という名の髪型。一人は金、もう一方は銀の色鮮やかな着物。よく見ると派手な柄が施されている。帯には瓢箪を二、三個ぶら下げている。その恰好は、良く時代劇等で見るような一般的な侍とは隔絶していた。一瞬コスプレで桂でも被っているのかとも思ったが、コスプレイヤーが空から降ってくる意味が分からない。何より安易に一笑に付す事が出来ない理由があった。一際目を引く左手側の帯に差された二本の刀である。本差と脇差からなる大小が周囲を威圧し、それを中心として死の匂いが放たれているように感じる。彼我の間を隔てる見えない壁が確実に存在しているようだ。
九十九は男達から目が離せなかった。男達というよりは腰に差された刀か。勿論、模造刀だとは思うが、男達の佇まいがその断定を否定していた。
「おい」
二人組の金色の方が此方に向き声を掛けてきた。刀に集中していただけに一瞬身体が震えた。ザッザッと地面を擦るようにして向かってくる。良く見れば草履を履いている。
「おう、小僧。てめえここで何してやがる」
「はっは、なんじゃその恰好っ!おい、弥七。こいつ、儂らより傾いとるぞ」
九十九を見ながら笑い声を上げて銀色の方も近づいてきた。金色の侍、弥七の方はクスリとも笑わず睨み付けてくる。見るからに剣呑な顔つき。鼻が大きく上を向いており猪を連想させる。銀色の侍、忠吉は物珍しそうに九十九の全身をねめるように見ている。細長い顔から突き出した前歯に釣り上がった目。こちらは狐を思わせる顔立ち。二人とも九十九より小さく、そこまで筋肉がある様には見えない中肉中背。しかし雰囲気がまるで違っていた。そこら辺の不良を前にするのとはわけが違う。形容し難いが、恐らくこれが殺気だろうか。
「聞きたいのはこっちだ。あんたらこそなにもんだよ……どこから来たんだ?」
九十九は率直な疑問を投げかけた。こいつらは普通じゃない。なにか決定的なズレを感じる。
「てめえ、聞いとるのはこっちじゃ」
「まぁ待てや、弥七。周りみろ。何故か分からんがここにゃあこいつしかいねぇんじゃ。話しようじゃねぇか」
凄む弥七を制して忠吉が割って入ってきた。忠吉はにやけ面を崩さずに続ける。弥七とは違って忠吉は少しは話が出来そうだ。
「何処って言われてものぉ……ここじゃ」
「は?ここって……さっきあんたら上から落ちてきたよな?」
「おお、そうじゃ。確かに雷門、いや少しちゃうな。観音堂におった」
「観音堂?本堂か。もう閉められてるだろ。それにあんた達みたいなの摘まみだされると思うんだが」
帯刀した丁髷がうろついてたら怪しいなんてもんじゃない。相変わらず一瞬たりとも視線を外さない弥七を警戒しながら忠吉の返答を待つ。
「んなわけあるかい。何がおかしいっちゅうんじゃ。おめえの方がよっぽどおかしな恰好しとるわ。町民でもそんなんおらんぞ、このうつけが」
「町民って……俺は区民だが……なあ、今何年だ?」
「あぁ?慶安四年じゃろうが」
「わ、分かんねぇよ」
「阿呆じゃ」
忠吉がどっと笑いだす。本当に頭の打ち所が悪かったのかもしれない。しかし弥七の方は何も疑問に思っていない様子でずっと睨み付けている。
「あんたの言っている事が本当なら……ここは相当未来だと思うぞ」
「未来?なんじゃそりゃ」
「あーっと、かなり時間が経ってるってことだ」
「やはりうつけじゃ。信じられるかいや」
まともに相手する気はないようだ。こちらも過去から来ただなんて信じてはいないが、弥七の殺気に動けずにいる。額からの汗が止まらない。仕方なく妄想にもう少し付き合う事にする。誰が権力者かでもう少し絞れないか。
「じゃ、じゃあ……えー、幕府は誰が?」
「誰?はっはぁ!徳川に決まっておろう。少し前に家光がくたばって、家綱が将軍よ」
辛うじで九十九の知っている範囲の歴史だった。それ以前となるとさっぱりだったが。
(初代が家康で二代目が秀忠……三代目が家光だったよな。関ヶ原が千六百年だから……)
「じゃあやっぱり未来だ。四百年ぐらい先だよ、ここは」
「はぁー、あほらし。何を言っとるんか、もうええわ」
忠吉は会話に飽きたようで、呆れ顔で肩を竦めた。丁度良い。早くこの場を離れたかった。これ以上は付き合いきれない。
「そ、そうか。じゃ、俺はそろそろ……」
「なぁ。その手に持っとるんは……なんじゃ」
忠吉の先ほどまでのにやけ顔は鳴りを潜め、九十九の右手に刺さるような視線を向けていた。一瞬心臓を掴まれた感覚が襲った。額だけでなく全身から発汗し服が纏わりつく。右手を隠すようにさり気無く身体を捻る。
「な、なんだよ。これを知ってるのか?」
「弥七。お前も見たよなぁ」
忠吉は九十九の問いに答えずに隣の弥七に顔を向けた。
「おう。儂は最初から気づいとったぞ」
弥七が一歩、にじり寄る。
「てめえはせっかちでいかん。ここが何なのか分からにゃ動けんやろ……まぁ聞くだけ無駄じゃったがなぁ。おい小僧。その持っとるもん渡せや」
忠吉が右手を突き出す。逃げるべきか。いやこんな訳の分からない物、渡してしまってもかまわないだろう。下手に逃げて追いまわされるのも厄介だ。渡せ。頭ではそれを差し出すように信号を発しているものの、身体は言う事を聞かなかった。この感覚はなんだ。
暫しの沈黙。すると痺れを切らした弥七が、左の腰に差している物に右手を伸ばした。そしてゆっくりと引き抜く。鋭い刀の切先を九十九の眼前に突き付けた。
「聞こえんかったか。あぁ?さっさと渡せ。斬るぞ」
一気に心拍数が跳ね上がった。まるで爆発しているのかと思うほど鼓動が大きくそして近くに聞こえる。躊躇っている場合じゃない。この男は間違いなく人を殺す。刀を抜いた瞬間に分かった。この男、弥七にとって命はそれほど重いものではないのだと。
「わ、分かったっ、渡すよほら……ってうおあぁ!?」
差し出した右手の異常な状態に思わず叫び声を上げた。赤黒い何かが右手をびっしりと覆っていた。手だけではなく肘辺りまでそれは広がっている。良く見ると二本の線が絡まりあっているような模様。手に握られている物にもあった二重螺旋が、九十九の腕を浸食していた。まるで血のような、それでいて奇怪な光を発している。
異様な右手。震えを止める様に左手で右手首を抑える。その視界の端で一筋の線が近づいているのを捉えた。九十九は反射的にその線から逃れるように転がった。
「おおうっ、なに避けてやがる小僧ォ!」
「はっは、間抜けめ」
「はぁ……はぁっ」
(危ねぇっ!)
死ぬところだった。心臓は早鐘を打ち、声は震えている。九十九が右手の異常に動揺している隙に弥七が斬りかかってきていた。一瞬でも反応が遅れていたら首と胴は間違いなく切り離されていただろう。そして確信した。あの刀は本物。人が斬れる。
「てめえ……次は避けらんねえぞ」
月明りに照らされて弥七が持つ刀がてらてらと怪しく光る。
「さっさとやろや、弥七」
にじり寄る二人。この場合とる選択肢は決まっている。次の手を待ってやる義理もない。九十九は弾かれるように二人を背にして走り出した。逃げろ。一目散に速く。
そして、その空に見えるのは星ではなく人の姿。夥しい数の人間だ。見慣れない服を着ている。誰なのだろうと思ったが、その流れの速さから確認するのは困難と諦めた。もしかしたら走馬灯……とも考えたが、どの人にも見覚えはなくすぐにその考えはばっさりと切り捨てた。
何故だろう。確信めいたものを感じる。私は死なない。
◇
東京浅草。雷門。そのシンボルである赤い大きな提灯の前に阿原九十九は立っていた。夏も一段落ついたかに思われた九月中旬。しかしその気温は衰える様子もなく、ねっとりと重苦しい空気が身体を包む。
「はぁ……くっ、はぁ……」
乱れる息を整えながら汗を拭う。雷門を背にして、交差点を訝し気に眺めていた。九十九は途轍もない違和感を感じてこの場所に来た。寝静まった午前一時過ぎ。確かに人通りもまばらになるだろう。それでも車の交通まで止まる事があるだろうか。ここへ来てもう十分ほど経つが車一台通る気配がない。ここへ来るまでもそうだ。一人としてすれ違う者はいなかった。なによりその静寂が不気味だった。静かすぎて耳鳴りが聞こえる程だ。
「……どうなってんだ、これ」
九十九は深く溜息をついた。思わずその場に座り込む。ここまで来た事を後悔しながら夜空を見上げた。空をこんなにまじまじと観察したのはいつぶりだろう。振りまいた砂のように散らばる無数の星々と、当たり前のように鎮座する月の光。その完璧なコントラストに見入ってしまう。
「すっげぇな……」
しかし些か綺麗過ぎる気がした。昨今の東京でこんなにも爛爛な夜空は珍しいんじゃないだろうか。街灯の灯りにも勝る光だ。月に触れる事が出来るかもしれないと錯覚するほど近くに感じた。
その時、見ていた月に黒点が出現した。それはすぐさま落下し、目の前の交差点から高い音が聞こえた。地面と接触したようだ。アスファルトとの接触音から恐らく金属だろうか。九十九は落下物のある交差点上を見上げる。落ち方から真上から落下したようだが、その真上には遮る物は何もなく虚空が広がっている。落ちた物に視線を戻す。九十九は何故か薄ら寒さを感じていた。その癖身体からは汗が吹き出し頬を伝った。身体はこの場を離れろと信号を出しているようだが動かない。視線を外す事が出来ず、何故かその落ちてきた物に惹かれていた。自然と息が乱れる。気付くと一歩一歩それに近づいていく。相変わらず車が通る気配はない。交差点の中央まできて、それをそっと手に取った。
「はぁ、はぁ……うおっ!」
持ち上げた瞬間、あまりに想像していた物と感触が乖離し過ぎていて、思わず手から離してしまった。落下物は地面と接触しまた高音が響いた。九十九は混乱していた。そのいかにも加工されたかのような形状、周囲の光を反射する光沢。金属としか思えないが、それを手にした時脈打ったのだ。しかも黄金色に輝いていた光沢は濃い深紅に色を変えた。この異質な物体に薄気味悪さを覚えながらも再び手を伸ばしていた。今度は落とさぬよう強く握った。
落下物を観察する。最初手にした時と同じように脈打っていた。ドクン、ドクンと正に鼓動である。それは細長い長方形で本のようだった。装丁となる厚めの金属に薄い金属の板が挟まれる形だ。その表紙には二本の線が捻じれて絡まりあう、例えればDNAを表す二重螺旋構造のような模様が張り巡らされており、底知れぬ不気味さを感じる。
「んだよこれ、気持ち悪ィ。ん?……か、かい……だめだ、読めねぇ」
二重螺旋で張り巡らされた表紙のその中央に『開闢』の文字が記されている。裏表紙には二重螺旋以外は何も記されておらず、中をパラパラと捲ってみるも空白だった。表紙を指で弾いてみると正しく金属の硬度であり爪先が痛む。しかしゆっくりと握ると指が沈んだ。軟化しているのだ。
この一概に金属とは言えない不思議な物体。そもそもこれは一体何に使うものなのか。恐らくこの作りから何かを書き込むものの様だが、それ以外の事は全く見当がつかなかった。
「さて、どうすっかな」
九十九は頭をぼりぼりと掻きこの物体の扱いについて考える。常識的に考えればこんな意味不明なものはすぐに捨ててしまうのが当然だろうが、何故かその場に捨て置くのは躊躇われた。いつの間にかもうこれは自分の所有物であるという意識が生じていた。本人は自覚していないが、手放す選択肢はもう彼の頭にはなかった。しかしこれの使い道など思いつかない。
(とりあえず持って帰るか)
ここでずっと考えていても仕方ない。それに明日も学校がある。スマートフォンを取り出し、時刻を確認するとあと数分で午前二時になる。遅刻常習者である高校二年生の問題児にとっていくら遅かろうがさして問題ではないが、出席だけはしておかなければまた生活指導の教師による熱烈な説教が待っている。出来れば遅刻もしたくないのだが、やむを得ない理由があるのだ。これに関しては担任教師の白い目だけで勘弁してもらおう。
そうしてとりあえずの方針が固まり、交差点から歩道側へ振り返った。すると突如として叫声が耳を劈いた。突然の男のものと思われる声に驚いていると……。
「ふんがっ」
「ごっふっ」
すぐ目の前で間抜けな声が二つ。叫声の主は二人組のようで、身体を地面に打ち付け苦悶の呻きを漏らした。
「い、いってぇ!くっそがぁ、どうなっとんじゃ……おい、起きろや、忠吉」
一人が起き上がると横たわるもう一人の横っ腹を足で突いた。
「うぅ、いたたぁ……い、生きとるんか儂ら」
「なんとかのぅ。しかしえらい目におうたわ。あいつらただじゃ済まさんぞ」
「いやそれよりここはどこじゃ。んー……おっ、雷門じゃな、これ」
「おおっ、風神雷神もおるのぉ。しかし周り見てみぃ。全然ちゃうぞ。それになんじゃあ、この馬鹿でかい提灯」
「そうやな。とりあえず頭探さにゃ。どっかおるじゃろ」
(……は?なんだよ、おい)
九十九は目の前の男達のやり取りを呆然と眺めていた。状況が飲み込めていなかった。叫び声が聞こえた時、咄嗟に声音の方へ振り向いたが上空から突然現れた様に見えた。人間が空から降ってきた。手に握られている謎の物体と同じように。それだけじゃない。二人のその風貌が異常だった。
「ちょっ……ちょんまげ?」
二人組の頭は中央部分を丸く剃り後頭部に髷を結う、言わば月代という名の髪型。一人は金、もう一方は銀の色鮮やかな着物。よく見ると派手な柄が施されている。帯には瓢箪を二、三個ぶら下げている。その恰好は、良く時代劇等で見るような一般的な侍とは隔絶していた。一瞬コスプレで桂でも被っているのかとも思ったが、コスプレイヤーが空から降ってくる意味が分からない。何より安易に一笑に付す事が出来ない理由があった。一際目を引く左手側の帯に差された二本の刀である。本差と脇差からなる大小が周囲を威圧し、それを中心として死の匂いが放たれているように感じる。彼我の間を隔てる見えない壁が確実に存在しているようだ。
九十九は男達から目が離せなかった。男達というよりは腰に差された刀か。勿論、模造刀だとは思うが、男達の佇まいがその断定を否定していた。
「おい」
二人組の金色の方が此方に向き声を掛けてきた。刀に集中していただけに一瞬身体が震えた。ザッザッと地面を擦るようにして向かってくる。良く見れば草履を履いている。
「おう、小僧。てめえここで何してやがる」
「はっは、なんじゃその恰好っ!おい、弥七。こいつ、儂らより傾いとるぞ」
九十九を見ながら笑い声を上げて銀色の方も近づいてきた。金色の侍、弥七の方はクスリとも笑わず睨み付けてくる。見るからに剣呑な顔つき。鼻が大きく上を向いており猪を連想させる。銀色の侍、忠吉は物珍しそうに九十九の全身をねめるように見ている。細長い顔から突き出した前歯に釣り上がった目。こちらは狐を思わせる顔立ち。二人とも九十九より小さく、そこまで筋肉がある様には見えない中肉中背。しかし雰囲気がまるで違っていた。そこら辺の不良を前にするのとはわけが違う。形容し難いが、恐らくこれが殺気だろうか。
「聞きたいのはこっちだ。あんたらこそなにもんだよ……どこから来たんだ?」
九十九は率直な疑問を投げかけた。こいつらは普通じゃない。なにか決定的なズレを感じる。
「てめえ、聞いとるのはこっちじゃ」
「まぁ待てや、弥七。周りみろ。何故か分からんがここにゃあこいつしかいねぇんじゃ。話しようじゃねぇか」
凄む弥七を制して忠吉が割って入ってきた。忠吉はにやけ面を崩さずに続ける。弥七とは違って忠吉は少しは話が出来そうだ。
「何処って言われてものぉ……ここじゃ」
「は?ここって……さっきあんたら上から落ちてきたよな?」
「おお、そうじゃ。確かに雷門、いや少しちゃうな。観音堂におった」
「観音堂?本堂か。もう閉められてるだろ。それにあんた達みたいなの摘まみだされると思うんだが」
帯刀した丁髷がうろついてたら怪しいなんてもんじゃない。相変わらず一瞬たりとも視線を外さない弥七を警戒しながら忠吉の返答を待つ。
「んなわけあるかい。何がおかしいっちゅうんじゃ。おめえの方がよっぽどおかしな恰好しとるわ。町民でもそんなんおらんぞ、このうつけが」
「町民って……俺は区民だが……なあ、今何年だ?」
「あぁ?慶安四年じゃろうが」
「わ、分かんねぇよ」
「阿呆じゃ」
忠吉がどっと笑いだす。本当に頭の打ち所が悪かったのかもしれない。しかし弥七の方は何も疑問に思っていない様子でずっと睨み付けている。
「あんたの言っている事が本当なら……ここは相当未来だと思うぞ」
「未来?なんじゃそりゃ」
「あーっと、かなり時間が経ってるってことだ」
「やはりうつけじゃ。信じられるかいや」
まともに相手する気はないようだ。こちらも過去から来ただなんて信じてはいないが、弥七の殺気に動けずにいる。額からの汗が止まらない。仕方なく妄想にもう少し付き合う事にする。誰が権力者かでもう少し絞れないか。
「じゃ、じゃあ……えー、幕府は誰が?」
「誰?はっはぁ!徳川に決まっておろう。少し前に家光がくたばって、家綱が将軍よ」
辛うじで九十九の知っている範囲の歴史だった。それ以前となるとさっぱりだったが。
(初代が家康で二代目が秀忠……三代目が家光だったよな。関ヶ原が千六百年だから……)
「じゃあやっぱり未来だ。四百年ぐらい先だよ、ここは」
「はぁー、あほらし。何を言っとるんか、もうええわ」
忠吉は会話に飽きたようで、呆れ顔で肩を竦めた。丁度良い。早くこの場を離れたかった。これ以上は付き合いきれない。
「そ、そうか。じゃ、俺はそろそろ……」
「なぁ。その手に持っとるんは……なんじゃ」
忠吉の先ほどまでのにやけ顔は鳴りを潜め、九十九の右手に刺さるような視線を向けていた。一瞬心臓を掴まれた感覚が襲った。額だけでなく全身から発汗し服が纏わりつく。右手を隠すようにさり気無く身体を捻る。
「な、なんだよ。これを知ってるのか?」
「弥七。お前も見たよなぁ」
忠吉は九十九の問いに答えずに隣の弥七に顔を向けた。
「おう。儂は最初から気づいとったぞ」
弥七が一歩、にじり寄る。
「てめえはせっかちでいかん。ここが何なのか分からにゃ動けんやろ……まぁ聞くだけ無駄じゃったがなぁ。おい小僧。その持っとるもん渡せや」
忠吉が右手を突き出す。逃げるべきか。いやこんな訳の分からない物、渡してしまってもかまわないだろう。下手に逃げて追いまわされるのも厄介だ。渡せ。頭ではそれを差し出すように信号を発しているものの、身体は言う事を聞かなかった。この感覚はなんだ。
暫しの沈黙。すると痺れを切らした弥七が、左の腰に差している物に右手を伸ばした。そしてゆっくりと引き抜く。鋭い刀の切先を九十九の眼前に突き付けた。
「聞こえんかったか。あぁ?さっさと渡せ。斬るぞ」
一気に心拍数が跳ね上がった。まるで爆発しているのかと思うほど鼓動が大きくそして近くに聞こえる。躊躇っている場合じゃない。この男は間違いなく人を殺す。刀を抜いた瞬間に分かった。この男、弥七にとって命はそれほど重いものではないのだと。
「わ、分かったっ、渡すよほら……ってうおあぁ!?」
差し出した右手の異常な状態に思わず叫び声を上げた。赤黒い何かが右手をびっしりと覆っていた。手だけではなく肘辺りまでそれは広がっている。良く見ると二本の線が絡まりあっているような模様。手に握られている物にもあった二重螺旋が、九十九の腕を浸食していた。まるで血のような、それでいて奇怪な光を発している。
異様な右手。震えを止める様に左手で右手首を抑える。その視界の端で一筋の線が近づいているのを捉えた。九十九は反射的にその線から逃れるように転がった。
「おおうっ、なに避けてやがる小僧ォ!」
「はっは、間抜けめ」
「はぁ……はぁっ」
(危ねぇっ!)
死ぬところだった。心臓は早鐘を打ち、声は震えている。九十九が右手の異常に動揺している隙に弥七が斬りかかってきていた。一瞬でも反応が遅れていたら首と胴は間違いなく切り離されていただろう。そして確信した。あの刀は本物。人が斬れる。
「てめえ……次は避けらんねえぞ」
月明りに照らされて弥七が持つ刀がてらてらと怪しく光る。
「さっさとやろや、弥七」
にじり寄る二人。この場合とる選択肢は決まっている。次の手を待ってやる義理もない。九十九は弾かれるように二人を背にして走り出した。逃げろ。一目散に速く。
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「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
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※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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