ショウワスヴニール

ジキ・スズキ

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ショウワスヴニール

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 目が覚めると直ぐにテレビをつけた。ちゃぶ台の上にはご飯と味噌汁。母はいない。ロンパルームが始まっているから昼近くかもしれない。みどりお姉さんが「今日のおやつはミルクですよ」というと子供達は皆お座りして牛乳を飲み始めた。僕はおやつが牛乳だなんて可愛そうに思えた。昨日の子供達のおやつはゼリーだった。僕がロンパルームに行けたら、おやつはプリンがいい。母は僕が「ロンパルームに申し込んでくれた」と聞くと必ず「ハガキ出しましたよ」と答えてくれる。いつ僕はロンパールームでみどりお姉さんと遊べるのだろう。僕は布団の枕元に畳んでそろえてある洋服に着替えるとご飯と味噌汁を食べ、外に出てみた。熱はすっかり下がったらしく体に元気を感じた。
 外に出ると職人さん達は工場からお昼に出てきて流しで手を洗っていた。僕は大好きな若い衆のタケちゃんに母がどこに行ったのか聞いてみた。
 「よっトクちゃん、まだ寝てなくていいのかい。奥さんなら蒲田に買い物に行くって言ってたよ」
 タケちゃんは腰からぶら下げた手拭いでごしごし手を吹きながら教えてくれた。それを聞くと、今度蒲田に行くときは絶対連れて行ってくれると母は約束したくせに置いてきぼりにされたんだと思い、ちょっと泣きそうになった。でも泣くと若い衆達に「おおートクちゃんが泣いてるぞー」とからかわれるのでグッと我慢してうつ向いた。ポケットに手を入れると、ろう石が指に触れたのでそのまま歩道の所まで行き、地面にしゃがみこんでろう石で歩道に絵を描き始めた。描いているとだんだん楽しくなってきて泣きそうになったことなんて忘れてしまった。
 僕は怪獣や妖怪の絵を次々と描いた。一番得意なバルタン星人の最後の足の部分を描いているとピコピコ音が近づいてきた。けど僕が無視していたら、やがてバルタンの頭のところでピンクのサンダルの足が両足揃えて止まり、おもむろに座り込んで僕の顔を下から覗きこんだ。
 「あらーお上手ね。あなたお一人だったら私が一緒に遊んでもいいわよ」
 僕と同じ年頃の女の子だった。でもピコピコサンダルを履いているなんて幼稚だ。僕はこのまえ卒業した。
 「まあいいけど何して遊ぶの」
 幼稚なやつでも一人で遊ぶよりましと思い僕はそう答えた。すると女の子は立ち上がり、手にしたお人形を見せてきた。なんとそれは発売されたばかりのリカちゃん人形ではないか。僕が思わず女の子の顔を見上げると、女の子は得意そうにふふんと笑った。
 「ちょっと待ってて」
 僕はそう言うと立ち上がり、急いで家に飛び込んでソフトビニールのウルトラマン人形を取ってきた。それを見た女の子は何か不服そうだった。
「あらアナタ、リカちゃんパパとか持ってないの。それじゃあ、おままごと出来ないじゃない」
「持ってないよそんなの、おままごとなんてつまんないよ。戦いやろうよ」
「戦いかあ。やったことないけど、できるかなあ」
「できるよ、じゃあキミは襲われてる女の子と宇宙人やって」
「いいよ」
 話がまとまったので僕は数歩下がり、そこでウルトラマンのお腹を持って空を飛んでるカッコを取らせた。キイーーンと唸りながらしばらく飛ばせ僕は叫んだ。
「女の子の助けを呼ぶ声がする声がする。どこだどこだ」
「ここよ、ここよー。ウルトラマン助けてーー」
 見ると女の子はリカちゃんをアスファルトの上に仰向けにし、ジタバタと苦しそうにもがかせていた。僕はゆっくりとウルトラマンを足からリカちゃんのもとに着陸させた。
「おお、リカちゃんじゃあないですか。いったいどうしましたか」
 するともがき苦しんでいたはずのリカちゃんはスックと立ち上がり肩を揺らして笑い始めた。
「ふぉふぉふふぉっ。ワタシハ、バルタンセイジンダ。チキュウヲ、セイフクスルタメニ、ヤッテキタ。ダマサレタナ、ウルトラマン。でやあああああ」
 女の子がそう低く叫ぶと、いきなりリカちゃんに化けていたバルタン星人がドロップキックをウルトラマンにかましてきた。
「ジュワッツ」
 僕は派手にウルトラマンを回転させ、数歩分、宙を舞わせてから地に這わせた。卑怯なりバルタン星人。しかし強烈なキックにウルトラマンはなかなか立ち上がれない。
 「ふぉふぉふふぉっ。ウルトラマン。死ねええええ」
 女の子はリカちゃんに化けたバルタン星人でウルトラマンを踏みつけにさせる。危うしウルトラマン。カラータイマーが点滅を始めている。しかしここから急に強くなるのがウルトラマンだ。がばと立ち上がり、激しい反撃を開始した。キックやパンチでウルトラマンをリカちゃんに化けたバルタン星人へ叩きつけると、そこは男の子と女の子の力の違いだろう。バルタンはアスファルトの上に落ちてしまった。僕はウルトラマンをバルタンに馬乗りにさせ、夢中でとどめをさそうとした。
 すると。
「いやああん。ハレンチだわー。ウルトラマンに襲われちゃうー」
 なんと、自分の頬を両の手のひらで押さえ込んで身をよじらせながら女の子がそう叫んだのだ。
「おおー、トクちゃん。女の子を襲ってるのかー」
 工場で作業を開始していたタケちゃんがゲラゲラ笑いながらこっちを見ていた。
 僕は真っ赤になって言い返した。
「違うよー。こいつはリカちゃんに化けてるバルタン星人なんだよ」
「そうかー頑張れー」
 タケちゃんはいよいよゲラゲラ笑っている。こうなったら疑いを張らすためにも、さっさと、とどめをささねばなるまい。僕はウルトラマンの腕を交差させ必殺スペシウム光線を発射した。
「ズッゴーン、ドッカーン、ズッギャーン、ドッカーン、ボッカーン、ズッキュン、ガッガガーン」
 女の子は派手なあらゆる爆発音をわめき散らしながら、なんどもなんどもバルタン星人を爆発させたのだった。それは凄まじいバルタン星人の最後だった。そして女の子は敷石に沈むリカちゃん人形をそっと指でつかみ、今度はゆらゆらと立ち上がらせ、僕の目を見つめながら言った。
「ありがとうウルトラマン。ワタシはバルタン星人に体を乗っ取られていたリカちゃんです。おかげで体を取り戻せました。私を守ってくれてありがとう。このご恩は決して忘れはしませんわ」
「シュワッチ」
 僕はウルトラマンを飛び立たせた。ウルトラマンはいつでも黙って去って行くものなのだ。リカちゃんはずっと感謝の眼差しでサヨナラーサヨナラーと手を振っている。完璧だ。完璧な完全勝利だ。僕はウルトラマンを飛ばし続けながら、小さな胸は何故かうら淋しい感傷に包まれてしまった。リカちゃんとの別れのせいかもしれない。思わず、
「夕焼けー、真っ赤な夕焼けー」
 飛び去るウルトラマンのバックミュージックに、スパイダーズの夕日が泣いているを歌ってしまった。女の子はパチパチと拍手をしてくれた。ちょっと感激しているかもしれない。
「すごいねえ、戦いも面白かったよー。グループサウンズ好きなんだ」
 僕は思わず歌ってしまったことに照れながら、少し得意気に答えてしまった。
「スパイダーズとブルーコメッツが好きだよ。キミ知ってる。英語だけで歌う外国人がビートルズで、英語で歌っててもスパイダーズは日本人だよ」
 タケちゃんにこの間教えてもらったばかりの受け売りだ。
「へえ、知らなかったよ」
 女の子は素直に感心してくれたので僕はさらに続けた。
「僕はね、大人になったらグループサウンズに成ろうと思っているんだ。今度の誕生日にギターを買ってくれるって母さんと約束した」
女の子はうんうんとうなずいてくれている。
「うちのパパはギター弾けるから、うちに来るといいよ。教えてもらいなよ」
 女の子はすぐに遊びに来るように誘ってきた。今日はパパが家にいるからギターを見せてもらえばいいとしきりに繰り返す。僕は女の子についていくことにした。
 女の子の名前は、れなといった。僕はよく聞き取れず、エマと聞き返すこと三回にしてようやく覚えた。ちゃんを付けずに、れなと呼んで欲しいと言った。彼女も気付くと僕のことをトクと呼んでいた。年は僕と同じ5歳だった。戦いごっこでは賢く素晴らしい演技を見せたのだけど、サンダルがピコピコ鳴り続けるのはあまりにも幼い。でも僕はそれを言い出すには忍びないほどに彼女を気に入り始めていた。小学校に入るまでにはもう、そんなものは履かなくなるだろう。そう願いたい。
 れなが住んでいるのは近くの巨大な団地だった。十階くらいの建物が五つほど並んで建っているのだけど、建物の間は何も無くただの赤土が広がるばかりだった。昨日までの雨で池のような巨大な水溜まりができていて、大勢の子供達が遊んでいた。プラモデルの軍艦を浮かべる者、みずすましを追いかけるもの、バケツや柄杓で水のかけあいをするもの、夏の太陽に照らされ皆大騒ぎで楽しそうだ。僕はそんな素敵な場所を見たのは始めてだったので、ただただ羨ましくなってしまった。そして頭にはこの間買った水中モーターのことが浮かんできた。僕はその水中モーターを買った晩に銭湯で、セルロイドの石鹸箱のふたに吸盤で取り付け、湯船で走らせたいへん愉快に遊んだのである。この巨大な水溜まりで石鹸箱を走らせたらどれだけ楽しいことだろう。僕は家に取りに戻ろうとした。
「ねえトクったらどうしたの」
 れなが慌てて僕の肘を掴んだ。
「いや、ちょっと水中モーターを取りに帰りたいんだけど、この水溜まりで遊ぼうよ」
「だってパパのギターを見に来たんだよねえ」
「こんな大きな水溜まり始めて見たよ。ここで遊ばなきゃもったいないよ」
「こんなの、雨の次の日は珍しくないよ。パパが昼おうちにいるほうが珍しいからギターを見せてもらおうよ」
 確かに本物を見せてもらえることは今を逃せば無いかもしれない。僕は、れなに手を引かれるまま素直に一つの階段を上っていった。
 れなの家に入ると、大喜びで両親が迎えてくれた。れなの友達が遊びに来たのは始めてだったようだ。れなが頼むとすぐにママさんは紅茶とロールケーキを出してくれたし、パパさんはギターを引っ張り出して弾いてみせてくれた。だがそれは念願のギターとは何かが違った。スパイダーズのエレキとは全然違うし、フォーク・クルセダーズが弾くのともちょっと違う。その時はわからなかったのだが、それはクラシックギターというものだったのだ。僕はだんだん気が沈んできたのだけども、エレキが見たかったとは言い出せず、黙ってパパさんのセルロイドのピックを付けた指先を見つめていた。とても上手なのかもしれないが当時のぼくにはクラシックギターの奏でるその曲を知るはずもなかった。パパさんは幼い僕のために一生懸命弾いてくれているのだけど僕はだんだん帰りたくなってきた。長い長いその曲がようやく弾き終わった時、僕がママさんに時間を聞くと、それはもう、僕の大好きなひょっこりひょうたん島が始まりそうな時間だったので僕は皆にお礼を告げておいとますることにした。 
 僕が出るときママさんが、まだここに引っ越してきたばかりだし、れなは人見知りでちっとも友達ができないから、ぜひまた遊んであげてねと言ってくれた。僕に最初話しかけてきたのはれなの方だったし、戦いごっこもあんなに上手だったのに友達がいないのは不思議だったけど、体が弱く幼稚園を休みがちだった僕にも友達は少ない。もしかしたら僕に似た者同士を感じて話しかけたのかもしれないと思った。団地の階段を下りると、ピコピコとサンダルの音が追いかけてきた。
「トク、思ったんだけどパパのギターって、やっぱりトクの欲しかったのと違ったよね。途中でそう思ったよ。ごめんね。代わりに私の宝物あげるね」
 れなはそう言うと僕を手招きした。そして鉄筋コンクリートの建物の下にあった縁の下に潜り込んで行った。そこは子供がしゃがみこんでやっと進める高さで、乾いた地面には沢山の蟻地獄の巣があった。奥行きはそう深くなく、ジリジリしゃがんだまま進むと直ぐに角に行き着いたのだけど、そこで振り向いたれには僕に何か手渡した。その、ひんやりとした感触は泥団子だった。
「凄く硬いでしょ。これアタシが作ったんだ。そこにある破れた袋からこぼれた粉を着けながら固めるとカチンコチンになるんだよ」
 僕は握った指で押してみたけど、それはびっくりするぐらい硬かった。
「ね、凄いでしょ。誰にもこのことは秘密だよ。今度作り方教えるから一緒に作ろうね」
 その頃僕も夢中で泥団子を固めては磨いたものだけど、こんなに固い泥団子は誰にも作れなかったはずだ。僕はれなと別れ歩きながら、まじまじと泥団子を調べてみた。こんなに固くて良く磨かれてピカピカしているものは始めてだ。自分でも作ってみたくなった。今なら分かる。あの破れた袋はマンションを建築した業者が放置したセメント袋だったのだ。しかし五歳の僕には分かるはずもなく、ただただ新しく手にいれた秘密に胸が膨らんでいくばかりであった。
 やがて歩いているとポツリと雨粒が額に当たった。夕立の季節だった。僕は慌てて泥団子を守るためシャツのお腹の所に握った左手を突っ込み、右手は高く差し上げて腕をクルクル旋回させた。この間タケちゃんが教えてくれたのだけど、中国で原爆の実験を始めて、そのせいで日本に降る雨にも放射能が含まれているそうだ。放射能の雨に長く濡れると頭が禿げるらしい。頭の上で高速で腕を回すのは雨から頭を守る為に僕があみだした技だ。まだ五歳だし禿げたくないのだ。すると引き戸を開けたままの蕎麦屋から、ひょっこりひょうたん島のテーマソングが聴こえてきた。いかん始まってしまうと、僕は慌てて駆け出したのだった。左手をシャツのお腹に突っ込み、右腕を頭の上で高速回転させながら。   
          
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 僕が住んでいた所は東京都大田区の京急羽田線糀谷駅から環八を越えて産業道路を左に曲がった萩中という街だった。商店が並ぶ中に父が働く工場があった。その工場の隣の平屋に僕は父と母と三人で住んでいたのだ。空調ダクトの職人だった父は、父の叔父にあたる人が京浜工業地帯であるこの地に空調設備会社を設立した時に、ベテランの職人として招かれた。父は工場で空調ダクトを制作するよりもビル建築現場で取り付け作業をしている事が多く、工場にいるのは父の弟子である若い職人であることが多かった。1967年のその年はベトナム戦争が激しくなってきていて、ビートルズが世界初の衛星同時中継で愛こそ全てを演奏し、何だか世の中は学生運動や平和抗議集会などで騒然としていたらしい。でも僕は五歳と幼く、そんなことは一切わからず、毎日大好きな怪獣と妖怪に夢中だった。駅前の映画館で公開されるゴジラやガメラなどの怪獣映画は全て一人で見に行っていたし、若い職人が読み終わって積んでいた漫画雑誌でゲゲゲの鬼太郎を一人で黙々と読んでいた。
 病み上がりに一人で遊びに行き、夕立に濡れて帰った僕は次の日からまた熱を出して寝込んでいた。母は一人僕を残して蒲田に買い物に行ったのをやましく思ったのか、僕に怒りはしなかった。しかし熱にうなされながら、放射能で禿げるのを恐れて何度も髪の毛が抜けていないか聞くのと、明日の誕生日にギターを買ってくるのを忘れないでってしつこく言うので煩わしかったらしい。次の日遅い時間に目が覚めると、ちゃぶ台の上にはショートケーキとプレゼントの包みが置いてあった。僕はのそのそ起き上がるとケーキを食べ、包みを開いた。中にはギターが入っていた。でもそれはエレキとは程遠いどころか、幼児向けの変な絵の着いているプラスチック製のオモチャのギターだった。僕は泣いた。確かに僕は幼児だ。しかし僕はグループサウンズを志す幼児なのだ。エレキギター以外は無意味だった。怪訝そうに覗きこむ母に僕は、これはオモチャだからいらない、本物のエレキギターを買えないなら代わりの物は何もいらないから、とにかくこれは買った所に返して来て欲しいと言った。そしてそのまま布団に入り二度と何も話さず眠ってしまった。
 次の朝目が覚めると熱は下がっていた。ちゃぶ台の上には朝御飯と新しい箱の包みが置いてあった。母は台所仕事をしていた。僕は着替えて朝御飯を食べて包みを開けてみた。中にはサンダーバード3号の電池で走る新発売されたばかりのオモチャが入っていた。僕がサンダーバードを毎日見ていて、中でも3号が一番好きなことも母はわかってくれていたのだ。僕は箱を抱えて台所に行き母にありがとうを言った。でもどうしても笑顔にはなれなかった。
 その日の午後、現場に全員出払った工場の前でサンダーバード3号をぐるぐると走らせ、僕は一人でじっと見つめていた。するとピピコピコと通りの方から聞き覚えのある音が聞こえた。振り向くとれながいた。
「昨日も来たんだけど熱があって寝てるから遊べないって言われたんだ。元気になって良かったね。泥団子作りに行かない」
 れなはそう誘ってくれたけど「まだ熱が下がったばかりだから何処かに遊びに行っちゃいけないんだ」とボソッと独り言のように呟き、僕はしゃがみこんでしまった。しゃがみこんで、ぐるぐる回るサンダーバード3号を見つめていると、れにも僕の隣にしゃがみこんだ。
「元気ないんだねえ。まだ寝てた方がいいんじゃない」
「母さんがギター買ってくれなかった」
「そっかー。でもサンダーバード3号もかっこいいよ」
 僕らがそのまま黙って座り込んでいると、通りから「よおっ」と声がした。それは産業道路を挟んだはす向かい数件先のスポーツ店の一人息子の幸夫さんだった。
 「おっ、かっこいいサンダーバードだねえ。でもトクちゃん元気無いね。また熱出して寝込んでいたのかい」
 幸夫さんは大学生なんだけど優しいお兄さんで、僕が一人で遊んでいると、良くこんなふうに話しかけてくれるし、一人遊びを幾つも教えてくれた。そして工場が忙しい時にアルバイトで簡単な仕事を手伝いに来ていた。僕はなんとなく、幸夫さんに母がギターを買ってくれなかったことなどを全て打ち明けてしまっていた。そんな時幸夫さんはいつも、幼児だからといってバカにすること無く真剣に話を聞いてくれるからだった。
「そうか、トクちゃん、もう少し大きくならないと弾けるエレキギターは売っていないよ。クラシックギターなら君のような小さな子供用もあるのだけど、話を聞くとそれじゃあ嫌なんだろう。でも、本当はギターはどんなギターも弾くのは一緒なんだよ」
「でもオモチャじゃしょうがないよ」
「確かにそうだね。じゃあうちにエレキ見に来るかい」
「えっ幸夫さんエレキギター持ってたの」
「こう見えても僕だって若者だからねえ。結構上手いんだぜ。そのお嬢ちゃんも一緒においでよ」
 そう言うと幸夫さんは僕の家の玄関の引き戸を開け、中に向かって僕を幸夫さんのうちに連れていく旨を告げた。中から「すいません」と答える母の声が返ってきた。
 幸夫さんは本当にギターが上手かった。僕が弾いてと頼んだグループサウンズの曲は「はいよっ」と何でも直ぐに弾きながら歌ってくれたから、僕も一緒に歌って楽しかった。今となっては幸夫さんの弾いていたエレキギターが何だったのか思い出せないのだけれど、薄いクリーム色の輝くボディをうっとりとしながら撫でさせてもらった。
 れなはニコニコしながら黙って見ていたのだけど「お嬢ちゃんには何を弾いてあげたら良いのかな」と幸夫さんに尋ねられると恥ずかしそうに「ザ・ピーナッツ」とポツリと答えたのだった。
「おっ、ピーナッツ良いねえ」
 そう言って幸夫さんはザ・ピーナッツの新曲「ウナセラディ東京」を歌いながら弾いてくれた。
 幸夫さんの部屋から出るとスポーツ店内には親父さんがいて僕達は声をかけられた。
「幸夫のヤロー大学まで行かせてやったのにエレキなんてモンにかぶれやがって、もうホントにしょうがねえヤロウだよ。まあ、学生運動なんぞやるよりマシってもんだがねえ。オジサン呆れているんだよ。でもトクちゃん、いつでも遊びにおいでね。お嬢ちゃんもね」
 エレキを弾くのはしょうがねえとは思えないので僕はちょっとムッとしたのだけど、このスポーツ店の親父さんは、そしておかみさんも本当に優しいのだった。れなは幸夫さんのエレキのカッコ良さに頬を少し赤く染めながら言った。
「カッコ良かったねえ。トクがグループサウンズに成りたいって気持ちがわかったよ。アタシはピーナッツみたいに成りたいな」
僕はすぐに賛成した。大賛成した。 
 
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 その夏から僕はもう熱を出して寝込む事はなくなって、れなと泥団子を作ったり、戦いごっこをしたり、向かいのスポーツ店の裏窓に行って、開いていると幸夫さんがいるのでギターを弾いてもらったりした。市民プールに行ったりもできたくらい元気だった。ただ気になったのは時々幸夫さんの部屋に女の人が来ていたことだ。幸夫さんによると大学の同学部生と言うだけで恋人でもなんでもないということだったけど、確かに二人にはそんな雰囲気は無かった。二人はよく言い争っていたのだ。
「幸夫君、今度の集会には来てよ」
「嫌だね」
「幸夫君はベトナム戦争に日本が加担しても良いと思っているの」
「思ってないよ。でもセクトとかオルグとかもう勘弁だよ」
「でも人民を思っての活動だよ」
「じゃあ何で君達はくっついたり分裂して争ってばかりなんだ」
「でもそれはヘーゲルにおける弁証法的な展開なんだけどな」
「そこからして間違っているよ。弁証法は自分の思索を深めるには有用だけど、社会に実装するとろくなことにならないんだよ。権力争いの方便にしかならない」
「そんなふうに言わないでよ・・・」
 僕には何を言っているのかわからなかったけど、女の人が幸夫さんを学生運動にしきりに誘いに来ていることだけはわかった。僕は女の人がいる時はすぐに帰るようにした。嫌いだったのだ。
 そして夏が過ぎ、ある秋の良く晴れた日だった。
 僕は誰もいない工場の前で一人遊びをしていたと思う。僕は全く気にしていなかったのだけど産業道路の車がいつの間にか途絶えていた。そして、しんと静まりかえった商店街に突然ワッセワッセという怒号にも似た声が響き渡った。するといきなり左の糀谷駅の方の角から黄色いヘルメットをかぶり、手拭いやタオルで口元を隠した若者達が隊列を成して現れたのだった。一番先頭は長い棒を横にして数人で持ち、その後に何十人もきちんと隊列を組んでいた。ワッセワッセの掛け声で綺麗に足並みが揃っている。そしてそれぞれ、手に棒や石を持っている。中には口に笛をくわえている人もいてピッピッピッピッと調子をとっているのが楽しかった。僕が目の前を通り過ぎて行く隊列をただ呆然と眺めていると、やがてそれは右の萩中公園の方へ遠ざかってしまった。
 するとまた別の隊列が左から現れた。今度は重そうな黒っぽい紺服に真っ白いヘルメットを被った棒や盾を持った集団だった。今度の隊列は寡黙だった。誰も声を出していなかった。されど寡黙な男達のザッザッザッザッツという足音がさっきの隊列と足並みのリズムもスピードも全く一緒なのだ。それが何だか面白かった。
 その集団が通り過ぎると次は違う色のヘルメットを被った若者集団が現れ、しばらく間をおいて紺服の寡黙な男集団、その後また違う色のヘルメットを被ったワッセワッセの騒がしい若者集団と、何組かが交互に同じ歩調同じスピードで続いたのだ。
 僕は考えた。これは夏に見たアレだ。何十人もの子供達が引っ張る山車を先頭にワッショイワッショイと賑やかに続いた、夏祭りの隊列の秋バージョンに違いない。あの時僕はあまりの暑さに山車を引っ張ることも、付いて行くことさえ出来なかった。だけど今日は風が気持ちいい、あの日と違う。それに人数も断然多いし隊列の人々の目付きも全然違う。絶対隊列の行き着く向こうでは物凄いことが起きるはずだ。僕は隊列に付いて行くことにした。
 紺服軍団は怖い感じがしたので僕は若者隊列に付いて行くことにした。そして長い隊列の後ろに付いて歩き出した。すると前の方に隊列から外れてスポーツ店に向かって何か叫んでいる人がいた。緑のヘルメットをしているけど、だんだん近づいて来て良く見ると幸夫さんの所に来ていた女の人らしい。やがてスポーツ店の引き戸が開いて幸夫さんが顔を出した。幸夫さんは女の人と何か言い争っていたのだけど、後ろに付いてきている僕に気付くとサッと顔色が変わった。そしてダッと僕に駆け寄り、抱き上げ、そのまま店に飛び込んで引き戸をピシャリと閉め、鍵をかけてしまった。外からガラスを手のひらで叩きながら、あの女の人が何か叫んでいたのだけれど、やがて誰かに腕を引かれ隊列に戻って行ってしまった。
「おいおいトクちゃん、あんなのに付いて行っちゃあダメじゃないか」
 幸夫さんがしゃがみこんで僕の目を見ながら言った。ちょっと怖い目をしていた。僕はただビックリしていた。
「何で?」
「何でじゃないよ。危ないんだよ。何であんなのに付いて行こうとしたの。オルグされたわけじゃないだろうけどさあ」
「夏祭りに付いて行けなかったから・・・」
 僕がそう言うと幸夫さんの目はまん丸になり、そしてすぐに優しい目になって笑い出した。
「あれはお祭りなんかじゃないよ。いや、やっぱりお祭りかな。でも怪我しちゃうよ」
 そう言って幸夫さんは僕の頭を大きな手のひらでグリグリしてくれた。
「家の人はいないの?あっそう。親父もお袋も病院に行っていて留守だけど、誰か帰って来るまでここにいるといいよ。一人じゃ危ないからね。ギターを弾く気分じゃないから一緒にテレビでも見ようか」
 そこで僕達は二人で茶の間に行きテレビを見ていた。大人のテレビはつまらなかったけど、僕は気後れして大人しく瓶で渡されたペプシを飲みながら一緒に見ていた。幸夫さんがテレビを見ていても心ここに在らずでずっと考え事をしていたからだ。ふと気付くと街はまた静けさをとり戻していた。
 でも幾つかの番組を見終わった頃に外がまた騒然としてきた。しかも今度はさっきとは違って規則正しい隊列のリズムがあるわけではなかった。激しい怒号や悲鳴が聞こえてきたのだ。幸夫さんはお茶の間を飛び出し、店の方へいって窓から外を覗いていた。続いて僕も恐る恐る幸夫さんの後ろから外を見た。   
 沢山の若者達が萩中公園の方から走り戻って来ていた。それを紺服の強そうな男達が追いかけ回している。行く時は皆綺麗な隊列だったのに帰りはぐちゃぐちゃだ。そして紺服軍団に捕まった若者は男も女も、たちまち数人の紺服軍団に囲まれ、地面に押し付けられ悲鳴や怒号をあげている。ぐったりして引きずられるように連れていかれる人もいる。血が出ている人もいる。道の向かい側には三人で固まって紺服軍団に石を投げつけている若者がいたのだけれど、大勢の紺服軍団の盾に囲まれ、じりじりと詰め寄られ、仕舞いには押さえつけられてしまった。そんなふうに石を投げている若者が何人かあちこちにいるようで、歩道の敷石を剥がして投げつけていた。手に持った棒で戦っている若者も何人かいたけれど、紺服軍団は盾を持っているので強い。それに戦う若者には数人で取り囲むようにしていたからかなわない。
 幸夫さんは僕に茶の間に戻るように言ったので僕は戻り、茶の間から幸夫さんの様子をうかがっていた。そしてこれがお祭りなんかじゃなくて学生運動なんだとわかってきて怖くなってしまった。
 僕がまんじりともできずに見守るなか、幸夫さんは外のあちこちを見回し何かを探しているようだったのだけど、やがて外に向かって「裏口に回れ」と手でゼスチャアしながら何度も叫んだ。そして裏口のドアがドンドンと鳴りだしたら台所に駆け込みドアを開けた。
 女の人が転がりこんできた。
 あの女の人だった。幸夫さんはすぐに鍵をかけ女の人を抱え込むようにうちにあげると、お茶の間に連れてきた。女の人は茶の間にへたりこむと両手を畳について「悔しい、悔しい」とうめくように繰り返した。その声は苦しそうで肩でゼイゼイ息をしている。幸夫さんはそんな女の人の様子を立ったまま腕を組んで見下ろしていたのだけど、そっと声をかけた。
「大丈夫か。怪我は無いか」
 静かなその声に女の人ははっとしたように幸夫さんを見上げたのだけど、最初見た時にしていたヘルメットは無くなっていてボサボサになった長い髪が分けられたおでこに赤いコブができていた。そして大きく開かれた目から涙がポロポロ流れ落ちた。
 女の人は膝を抱えて座り直し、膝に顔を埋めてすすり泣き始めた。
 幸夫さんはそれを見て、くるりとテレビの方に向き直りストンとあぐらをかくと僕の方を見た。僕達は顔を見合わせたのだけど僕はすごく困った顔をしていたと思う。幸夫さんはちょっと顔をしかたねえなってふうにしかめると、テレビに手を伸ばしてチャンネルをガチャガチャ回した。テレビはサンダーバードが始まっていた。僕は黙ってそれを見ていたのだけれど女の人のすすり泣きが気になってちっとも話がわからなかった。やがて女の人の鳴き声が収まると、幸夫さんは台所に行きペプシを取って来て女の人に手渡した。それから三人で何も言わず、ただ黙ってテレビを見続けていた。
 やがて僕はテーブルに突っ伏し寝てしまったらしい。幸夫さんに起こされると外は静かで真っ暗になっていた。女の人はもう居なかった。スポーツ店の親父さんとおかみさんはまだ帰って来ていないようだったけど僕の父と母が迎えに来ていた。車が夜になって街に入れるようになり、工場にトラックが次々と帰って来る様子に気づいた幸夫さんが、すぐに知らせてくれたのだった。

          4

 それからの日常はどうって事の無い毎日だった。季節が冬になると、スポーツ店は閉まっていることが多くなり、幸夫さんを全く見かけなくなった。僕は幼稚園に毎日通えるようになっていた。それから父が電気オルガンを買って来て僕に楽器店がやっているオルガン教室へ通わせた。母がオモチャのギターで激しく僕が傷ついたらしい事を父に話したら、エレキギターは不良になる楽器だからダメだ、ピアノは買えないけどオルガンならよろしいだろうと考えたらしい。僕はこれじゃないと思ったけれど、何も言えない性格だったので言われるままにオルガン教室に通ったが、つまらなかった。れなとは良く遊んだ。れなはピーナッツの歌を口ずさむようになった。れなは「スパイダーズにもブルーコメッツにもオルガンはいるよ」って笑っていた。
 けれどそんな日常は突然に変わった。父の母、僕の祖母が歳老いて来たので神奈川県に引っ越して一緒に住み、そこから工場に通うと言い出したのだ。僕の小学校入学のタイミングで引っ越すことになった。
 春めいてきたある日、僕は人形で戦いごっこをした後に引っ越すことをれなに告げた。れなは話を聞いた後もしばらく自分の爪先をじっと見つめていたのだけど、パアッと輝く笑顔をあげて言った。
「そおっかぁ。すぐにお別れかあ。トクは絶対グループサウンズになってね。アタシはピーナッツになるから」
 見つめていた足にはもうピコピコサンダルを履いていなかった。

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 それから、僕は神奈川県の小学校に入った。健康になった僕は小学校に行ってからは友達が沢山出来るようになった。東京のあの街の事も次第に忘れていったのだけど、僕が二年生のある晩の事だった。遅い時間に工場から帰って来た父と母が茶の間で話している声が聞こえてきた。僕は真っ暗な部屋の布団の中でうとうとと夢うつつに聞いていた。
「今日は一日中工場に居て仕事していたんだけどね、幸夫君が挨拶に来て色々話を聞いたよ。スポーツ店の親父さん亡くなっちゃったよ」
「えっ、そうなの」
「今年に入ってから急に悪くなったらしい。今は大学やめた幸夫君が商売を継いでいるって」
「あらあ、お気の毒ねえ。幸夫君、羽田事件の時にトクの事を守ってくれて本当に助かったわ。あの時、私まで現場の手伝いに行っていたから気が気じゃなかったもの」
「そうだよなあ。でもあの後、荒らされた街の後片付けに幸夫君が手伝いに出ていて、材木屋の角材が学生に武器にしようとぐちゃぐちゃにされちゃってさ、幸夫君が片付けていたらお巡りに捕まっちゃたんだよねえ」
「そうだったわね」
「角材を盗みに来た全学連と間違われたんだよなあ」
「あんな良い子が全学連なわけ無いのにねえ。あなた、おかみさんに頼まれて病気の親父さんの代わりに署まで迎えに行ってたものねえ。あの店の人達は皆良い人だった。トクも可愛がってもらったし・・・じゃあ、今は幸夫さんとおかみさんと二人きりだ」
「それが、そうじゃないらしい」
「えっ、なんで」
「どうやら幸夫君の所に押し掛け女房が来ているらしいよ」
「あらまあ」
「あとさあ、トクと良く遊んでいた女の子がいたじゃないか」
「覚えているわよ」
「この間墜落事故があったじゃないか」
「旅客機と自衛隊機が衝突したやつ?」
「そうそう。幸夫君が言っていたのだけどアレに女の子の一家がどうも乗っていたらしい」
「まあ・・・そんな事が・・・」

          6

 僕の記憶はそこで止まってしまっている。両親の話を聞きながらどう思っていたのか、それとも夢だったのかもわからない。何しろ何十何年だか随分時が経ってしまった。なのに最近急にあの、ひどく幼い時の事が懐かしい。
 僕は結局グループサウンズなんてモノに成れなかった。カッコいい何者にも成れずに大人になり、仕事をし、結婚して子供を持ち、年老いていった。
 そして僕はあの時を思い出すたびに願う。あの両親の話が夢だったらいい。あのピーナッツに成りたかった女の子も僕と同じだけ歳をとっていて、ピーナッツに成れなかったとしても、ただ笑ったり微笑んでくれていたらいい。そう願っている。  
 そして幸夫さんに押し掛けたのが、あの女の人だったらいい。もし学生運動を続けていたら悲惨な運命が彼女に訪れていたかもしれないからだ。あの事件の後、学生運動はより過激になり、時には内ゲバを繰り返した。そして今まだスポーツ店が有るかどうかは不明だけど、二人が孫に囲まれて健在だったらいい。そう願っている。
   
 あれはそう、ピコピコサンダルが赤い靴に変わっていた春のこと。
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