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後悔とパニック
しおりを挟む堅三郎と瑠璃の会話を立ち聞きしてから暫くは庭の片隅にへたり込んでいた。
それでも、そのままで居ることは出来なくて一度風呂に戻り仲居に替えの浴衣を頼んで風呂を浴びた。
広い湯殿に体を浸して湯気の向こうの天井を見る。
天井にもきちんと装飾がなされていて、華美ではないがすべてが整っている感じがよく表れている。
(滅茶苦茶だな…)
自分では理路整然としているつもりだった。
瑠璃の事もきっぱり線を引けていると思い込んで居た。
けれど蓋を開けたらこれだった。
醜い執着と。
未練と。
瑠璃への歪んだ愛執。
そしてそれを隠すことも無くさらけ出した。
他ならぬ瑠璃の前に。
(是正…しなくちゃな……)
藤堂がじっと揺らぐ湯を見つめた。
ここに来てから見た瑠璃の表情は。
凍ったような顔か、愛想笑いか、泣き顔だけ。
それが今の自分と、瑠璃の関係。
もう自分のものじゃないと改めて突きつけられる迄、まだこんなにも好きだという事にすら気がつけていなかった。
東京のオフィスの写真立てに入れた瑠璃の写真を時折眺めるのは踏みにじられた記憶を忘れないためだと自分に言い聞かせてた。
女を遊びで侍らせ。
成功したという感覚に酔いしれて。
それで満足だと言い聞かせてた。
家に帰れば冷え切った空間に、ただ寝に帰るだけの生活をカッコいいのだと自分に言い聞かせた。
ここに来て。
瑠璃を目の前にして。
初めて気が付いた欲望。
本当に欲しかったもの。
大学の時の。
あの六畳一間とキッチンしかない下宿で。
瑠璃と二人、何時も笑いあってた日々。
お金も、大した夢も無く。
多分平凡なサラリーマンになるんだ程度の考えで。
ただ瑠璃の笑顔とじゃれあってた。
(多分もう絶対に手に入らないもの…)
卒業間近になって、瑠璃が超老舗の旅館のお嬢様だと知らされて。
母に合わせると連れていかれた実家で。
その格式に飲み込まれるようで。
勿論瑠璃の母はこんなどこの馬の骨とも知れない男なんて反対に決まってて。
お試しで修行しろと言われ、就職という形で卒業と同時に一条に入った。
埼玉の両親にはホテルマンになりたいと適当を言った。
入ってそれが甘かったと痛感して。
上手くいかない事ばかりに苛立って。
瑠璃にすら当たって。
最後は瑠璃からも旅館に向いてないと三行半を突き付けられた。
逃げ出すように帰った東京で。
駅のホームで佇んで。
何もなくなった自分に愕然とした。
だから瑠璃を見返すと。
瑠璃なんかに手の届かない男になってやると思い込んだ。
憎んでると思い込もうとした。
けど違ってた。
宿の玄関で。
いかにも育ちのよさそうな男の傍に立ってる瑠璃に。
心の奥底で嫉妬した。
此処にふさわしいのはお前じゃないと突きつけられた気がした。
それにすら気がつけなかった。
そして。
欲しかったものを見間違えた。
一番欲しかったものをぶち壊した。
自分の手で。
(多分もうこの溝は埋まらない…)
多分俺は東京に戻り。
そしてまたあの砂を噛んでるような虚しい日々に戻る。
誰か適当な、どうでもいい女を嫁にして。
たぶんきっと浮気を繰り返し。
誰も愛せないままに死んでいく。
(…それが因果応報だよな……)
藤堂がふーっと深く息を吐く。
「どうやって始末をつけるのかだよな…」
と、呟く。
そして湯船から勢いよく上がった。
新しい浴衣を羽織って部屋に戻ると、既に豪華な膳が設え終わっていた。
「ごゆっくりだったんですね?」
土方が聞いてくる。
「ああ。まあな、いい湯だったよ」
と、適当に答えた。
「確かに。細部に至るまでここの設えは素晴らしいですわ。それに係員たちも一流のコンシェルジュと言っていい出来ですわね」
土方も微笑む。
(確かにな…)
同僚として働いた時には敷居が高く、何でそこまでという事が多かったし理解できなかったが。
もてなされてみると解る。
此処での応対は一般人をもてなす為のものではないのだと。
例えば同じ京都の祇園の御座敷のように。
来るものにも格式に答えるだけの品格と教養が求められる。
それでは本当のもてなしではないというものも居るが、地位が上がって周りに対して自分というものを常に作らねばならない立場になって今わかる。
特別なものになるという事の意味と。
特別な人間として扱われるだけの資格。
それが無い時に与えられても意味を持たないものがここにはある。
特別な人間になれたという確かな満足を客に提供する。
そういう世界が存在する。
仮に大学生の俺がここに居て、このもてなしを受けても。
ただ飲まれて臆して居心地が悪いだけだ。
頭が悪ければ横柄に振舞って居丈高になってやり過ごせる。
裏で蔑まれて居るかもという怯えを、相手に対して居丈高になり、やり過ごしても、その通りに裏では蔑まれて終わる。
けど少しでも、考える知恵を持っていたら自分が追いついてない恥ずかしさに飲まれる。
その場に入ってそこに馴染めるだけのものを持ってるかを試されるもてなしというのは何処にでも存在する。
ヨーロッパだろうが南フランスだろうがそれこそ銀座だろうが。
歴史のないニューヨークにすらそういう世界は多々存在する。
そこにあり相応しいふるまいと品格を持てる人間だと周りが自分を扱うという事の意味。
それを理解できるだけの品格。
此処にはそれがあって。
そして俺は………。
此処の客にはなれても。
主にはなれない。
「失礼いたします。夕餉をお勧めしてもええどすか?」
若い仲居が頭を下げて来る。
自分がここに居た時には居なかった仲居。
こういう所にすら気を遣っている。
「ああ。始めてくれ」
藤堂が答える。
あの時に一緒に居たものが来れば気まずいかも知れないと先回りし不快感のないようにと配慮する。
当たり前のようにそれが行われる。
例え過去にはここの見習いだった俺にでも。
どこかの王侯貴族でも。
与えられるサービスは同じ。
受け手がそれを受けられるかだけの世界。
「素晴らしいお料理ですわね?これだけでも味わう価値があるわ」
土方が言った。
「だな」
藤堂も適当に頷く。
格式の高い宿だけに子供は受け入れしないし、宴会なども無い。
京都らしい静かな夜が、庭のそこかしこにも満ちていて、遠くに観光客のざわめきがあって。
それが特別な空気感を伝えてくれる。
(だから欲しがったのかもな…)
此処を手に入れることで。
無意識に瑠璃を手に入れられる気がしていたのかもしれない。
所詮最初から住んでいる世界が違い過ぎていた。
瑠璃の傍にあるべきは今横に立っているあの男のような人間だったのに。
(……)
進んでいく料理と静かな時間が、虚しさだけを運んできた。
東京に居た時のような空虚感。
ここに居ても俺はここに居ないのと同じ。
食事の終わりが来て。
食器が下げられて、また今度は別の仲居がやってきて
「お庭の風情がきれいどす。お散歩されてはどないですか?」
と、聞いてくる。
布団を敷きたいと暗に促しているんだなと解った。
「ああ」
促されるままに部屋を出て庭への導線から庭に降りる。
土方が何故かついてきて、ちょっと違和感を感じて、振り向いた。
「土方?もういいぞ?今日は用は無い。部屋に下がっても構わん」
と、言うと土方がちょっと驚いたような顔をする。
意味が解らなくて藤堂が怪訝な顔をした。
「社長…?…私、社長のことを…」
突然土方が潤んだ瞳で媚びてきて驚く。
(はあ?)
と、内心では目を見開く。
正直、土方はデスクの備品と同じ扱いのもので、便利なツール程度の認識だった。
勿論仕事仲間としての愛着はあるが、決してそういう目で見たことが無い。
藤堂が面食らう。
「社長………!」
土方がいきなり縋りついてきて、しかも自分に唇を寄せようとして来て、受け身を取れずに唇が半分触れるような格好になる。
突き飛ばすのはいけないと、ちょっと強めに引き放そうとして土方が自分の首にしがみついてくるのにさらに驚く。
(ちょっっっ!待て!何だこの豹変!?)
と、心底焦る。
美人でも鉄の女だと思っていたし、正直男と女の差別を部下にしたことが無い。
だから自分の中では土方は男に分類されていた。
「土方。迷惑だ。離れてくれ」
藤堂が流石に人目をはばかって小さい声で言った。
「嫌ですわ。ずっと社長が好きでした。ここに連れてきてくださったという事は特別な意味があるのでしょう?」
土方が浴衣の胸元が乱れるのも構わずにしがみついてくる。
「土方。最初に言ったよな?俺は部下を男女差別しないと。お前はあくまでただの俺の秘書という感覚しか持ってない」
藤堂が言った。
若くして成功したせいで、まだ藤堂は二十代で。
本当は脳内パニックは起こしていたけれど。
上司として、ここは取り乱してはならない局面だと思った。
だから必死で自分を押さえる。
「今日この時間からの移動は大変だろうから。自室で休んで明日の朝、社へ戻れ」
藤堂が出来るだけ抑揚のない声で言った。
酷く事務的なその声に土方が傷つく。
好きだった恋心を全否定されたような気になる。
「どうして!ずっと忠実に仕えて来ましたわ!あなたをサポートできるのは私のような人間だと!」
土方が食い下がる。
「ああ。仕事の部下としては信頼している。」
と、藤堂が答える。
その言葉にも土方が傷ついた。
女としては興味が無いとぶった切られた気分になる。
「嫌です!ずっと好きだったの!お願い此処で無碍にしないで!頸になってもいい!今晩だけでもいいから!」
土方が縋ってくる。
オマケにめちゃくちゃ力強くパワフルに、首ったまをホールドしてくる。
(………ちょっと待て。土方…そのキャラ変はないだろ……プロレスの寝技じゃないんだから…)
と、藤堂が心で呟く。
土方が必死なのは解るが、何時もの機械的な土方とのギャップがありすぎて眩暈がしそうだった。
藤堂だってこなれた大人とは言えない年齢なのだ。
言っても二十代。
若造と言っていい年齢だった。
信頼していた部下が、いきなりそこいら辺の女と変わらない有様に豹変する、正にモンスターイリュージョン状態だった。
(ああ…経団連のパーティでの忠告聞いとけばよかった……)
経済界の人たちの集まるパーティに呼んで貰えた時に、年配の社長が言ってた言葉。
「秘書は男にした方がいい」
その時は、男女差別感覚のある古いタイプなのかな、と受け流した。
(裏にこんな意味があったのか………)
勿論多くの女性はプライベートと仕事を分けているのだろう。
土方だって元はそういうタイプなのかもしれない。
ただ、やっぱり社会的成功している男と言うのは女にして見たら狙いたい獲物としての価値は上がる訳で。
人間の女性だって哺乳類なんだから、哺乳類としての本能に従っているわけで。
(ああ。大学の先生の言ってたのって、これな)
と、目の前のモンスター状態の土方に眩暈を感じつつ藤堂が思い出す。
「女性は営巣し子供を育てるのが哺乳類本来の役目です。だから当然により強くて餌をとってこれる男を惹きつけようとします」
と、その教授は言っていた。
だから女性は着飾ったり自分をよりよく見せようとするのだという。
逆に男は種をまかねば子孫が残せないから、浮気をするとも言っていた。
(ここで実践的に目の当たりにして初めて理解してどうするよ?俺)
土方にしがみ付かれつつ、それをやんわりと必死に引き離す。
「土方。お前は優秀な部下だ。何度も言う様に俺は仕事にそういうのを持ち込む奴は嫌いだ」
藤堂が必死に言った。
まだ首に腕は絡まっていて、女性なのに土方はひたすら力強い。
細身で大きくも無いのに。
(必死なのは解るんだが…)
興味も無い土方からイキナリそう来られても、ただ困るだけだ。
職場の部下だけに遊びの相手にも出来ない。
それこそセクハラだのパワハラだので首狩りの憂き目にあいかねない。
「土方?流石に俺も怒るぞ?」
藤堂が務めて冷静に言った。
パワハラやセクハラだと言われないために受けたセミナーやストーカー対策で受けたセミナーのありがたみを今思い知る。
「絶対に部下の誘いに乗ってはいけません。それは身の破滅です。泣き落としてきても努めて冷静に」
セミナー講師の厳ついおばちゃんは、唾を飛ばして言っていた。
(ほんとだな…習ってなかったらパニック起こすよ…)
土方が今度は泣き落としにかかってくる。
「嫌です!嫌!好きなの」
本当かどうかも解らない涙をぶん回してくる。
何時ものクールでカッコいい女は何処へ行ったのか、つかその前に、あんた誰?と言いたくなる。
藤堂がうんざりする。
「土方。それこそお前、俺と一緒にセミナー参加してたよな。お前のやってるの逆セクハラだからな」
と、藤堂が言った。
土方がそれにガーンとした顔をする。
「そ、そんなつもりじゃ………」
と、目が覚めたのか、ちょっと動揺する。
「ああ、食事の酒に酔ったんだろ?見なかったことにする。ただし。配属部署は変えるぞ?互いに気まずいよな?」
と、藤堂が言った。
土方が項垂れる。
その土方の肩を藤堂がポンポンと叩いた。
「お前の部下としての能力は信頼してる。だから別部署でその力を発揮してくれ」
と、藤堂が言った。
(まあ、こんなことの後じゃあ多分辞めるんだろうけど…それは土方の選択肢って格好にするのが正解だよな……)
土方が落ち着いたのを見て藤堂が泣いている土方を部屋へと促す。
この場を乗り切れたことに心底安堵しながら。
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