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会社に戻らない理由
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その朝、勇気はいつものようにオフィスのドアを開けた。冷たく光るフロアは無機質で、窓から差し込む朝の光が、無駄に眩しく感じられる。デスクに座る社員たちは、みな無言でキーボードを叩き、ただ業務をこなすことだけに集中していた。そんな静寂を破るように、勇気は見慣れた顔を見つけた。
「後藤さん?」
声に出した瞬間、後藤はゆっくりと顔を上げ、少しぎこちない笑みを浮かべてみせた。その笑顔はどこか違和感があり、無理に作り出されたような表情だった。
「おお、川添。久しぶりだなあ。」
後藤孝通――勇気が新卒でかもめ化学に入社した時、隣の営業所の所長だった。あの頃は頼りがいのある上司だった彼も、今や日本橋化学との吸収合併で札幌支店長の座を追われ、この冷え切ったオフィスに戻ってきた。日本橋化学の統合は、かもめ化学の者たちにとって厳しい現実を突きつけた。後藤もまた、その冷酷な再編の中で居場所を失い、閑職へと追いやられたのだ。
「今日からお前と二人のチームだ。」
後藤はそう言うと、口元に不敵な笑みを浮かべた。その笑顔には、どこか皮肉が滲んでいた。
本来なら9時に始業を迎える日本橋化学本社。しかし、時計の針はすでに9時半を指していた。勇気は何の予定もなく、どこに行くべきかもわからないまま、後藤に促されて外出の準備をした。
オフィスの外に出ると、夏の日差しが街を白く照らし出していた。青空は一面に広がり、目を細めるほどの強い光が降り注ぐ。後藤は一瞬、陽射しに顔をしかめたが、すぐに何事もなかったように笑顔を取り戻した。
「しかしまあ、本社にお前が居てよかったよ。俺は、懲役3年だ。」
軽く漏らした言葉には、深い諦念が込められていた。定年までの3年間がまるで刑務所生活のように感じられることを暗示するその言葉は、後藤の疲れた心境を象徴していた。かつての営業エースが、今や曖昧な立場に追いやられた現実は、まさに「一寸先は闇」だと、勇気は感じた。
突然、後藤は通りかかったタクシーに手を挙げた。まるで、迷いもなく決断したかのように。
「じゃあ、俺、行くから。今日は会社に戻らないぞ。お前も戻らなくていいから。ていうか、戻るな。」
勇気が戸惑いながら返事をすると、後藤はニヤッと笑い、タクシーに乗り込んだ。その笑顔には、どこか謎めいたものがあり、彼の本心を隠しているかのようだった。タクシーは静かに発進し、後藤を乗せて視界から消えていった。
その後、勇気にははっきりとわかっていた。後藤がどこかで時間を潰しに行ったこと、そして彼が「戻るな」と言った意味も――彼らを監視する目が確実にあるということ。後藤の立ち回りの巧さが、また一つ証明された瞬間だった。
勇気はふと空を見上げた。太陽の光は相変わらず強く、夏の街を照らしている。神田駅に向かう途中の通りには、通勤客が忙しそうに行き交う中、勇気は一人、帰宅の途についた。乾いたコンクリートの駅構内を歩きながら、彼はふと考える。このまま帰宅してしまって、本当に良いのだろうか?改札に進む足取りが、どこか重く、そして曖昧な決意を象徴していた。
「後藤さん?」
声に出した瞬間、後藤はゆっくりと顔を上げ、少しぎこちない笑みを浮かべてみせた。その笑顔はどこか違和感があり、無理に作り出されたような表情だった。
「おお、川添。久しぶりだなあ。」
後藤孝通――勇気が新卒でかもめ化学に入社した時、隣の営業所の所長だった。あの頃は頼りがいのある上司だった彼も、今や日本橋化学との吸収合併で札幌支店長の座を追われ、この冷え切ったオフィスに戻ってきた。日本橋化学の統合は、かもめ化学の者たちにとって厳しい現実を突きつけた。後藤もまた、その冷酷な再編の中で居場所を失い、閑職へと追いやられたのだ。
「今日からお前と二人のチームだ。」
後藤はそう言うと、口元に不敵な笑みを浮かべた。その笑顔には、どこか皮肉が滲んでいた。
本来なら9時に始業を迎える日本橋化学本社。しかし、時計の針はすでに9時半を指していた。勇気は何の予定もなく、どこに行くべきかもわからないまま、後藤に促されて外出の準備をした。
オフィスの外に出ると、夏の日差しが街を白く照らし出していた。青空は一面に広がり、目を細めるほどの強い光が降り注ぐ。後藤は一瞬、陽射しに顔をしかめたが、すぐに何事もなかったように笑顔を取り戻した。
「しかしまあ、本社にお前が居てよかったよ。俺は、懲役3年だ。」
軽く漏らした言葉には、深い諦念が込められていた。定年までの3年間がまるで刑務所生活のように感じられることを暗示するその言葉は、後藤の疲れた心境を象徴していた。かつての営業エースが、今や曖昧な立場に追いやられた現実は、まさに「一寸先は闇」だと、勇気は感じた。
突然、後藤は通りかかったタクシーに手を挙げた。まるで、迷いもなく決断したかのように。
「じゃあ、俺、行くから。今日は会社に戻らないぞ。お前も戻らなくていいから。ていうか、戻るな。」
勇気が戸惑いながら返事をすると、後藤はニヤッと笑い、タクシーに乗り込んだ。その笑顔には、どこか謎めいたものがあり、彼の本心を隠しているかのようだった。タクシーは静かに発進し、後藤を乗せて視界から消えていった。
その後、勇気にははっきりとわかっていた。後藤がどこかで時間を潰しに行ったこと、そして彼が「戻るな」と言った意味も――彼らを監視する目が確実にあるということ。後藤の立ち回りの巧さが、また一つ証明された瞬間だった。
勇気はふと空を見上げた。太陽の光は相変わらず強く、夏の街を照らしている。神田駅に向かう途中の通りには、通勤客が忙しそうに行き交う中、勇気は一人、帰宅の途についた。乾いたコンクリートの駅構内を歩きながら、彼はふと考える。このまま帰宅してしまって、本当に良いのだろうか?改札に進む足取りが、どこか重く、そして曖昧な決意を象徴していた。
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