相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~

柊 千鶴

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挿話 月島玲二の決別(後編)

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 兄貴との再会は、『最悪』の一言だった。
 せっかく自分の感情と折り合いを付けて帰ってきたというのに、当の本人は聡義兄さんと『お楽しみ』の真っ最中だったのだから。

 恋人同士だから、当然そういうコトもしているとは思っていた。だが、まさか目の当たりにしてしまうなんて考えてもいなくて。
 現実を受け止めきれないまま、とにかく止めさせたくて扉を開いた。その結果が、このザマだ。

「聡義兄さんを、泣かせてしまった……」

 深い自己嫌悪に苛まれ、床に伏せたまま後悔に呻く。隣では兄貴も似たような有様で蹲っていたが、その姿を詰ってやる余裕は無かった。
 しかし。

「さっきから何なのだ、その呼び方は……! あれほど毛嫌いしていたというのに、目まぐるしい心変わりだな」

 向こうの方には、多少元気が残されていたらしい。兄貴は嫌そうな表情を隠そうともせずに、オレを睨みつけていた。
 敵意に満ちた瞳を見て無性に胸が騒めく。

 本気で兄貴に嫌われている事実に、傷付かなかったと言えば嘘になる。
 けれども、剥き出しの怒りは、仮面で覆い隠された無感情な優しさよりもずっと心地が良かった。

「聡義兄さんの言ったとおりだ」
「何?」
「アンタ、本当は独占欲が強くて嫉妬深い上に、負けず嫌いで心が狭いんだな」
「な、なんだと……! お前、聡と一体何を話したのだ!」

 心が狭いとまでは言ってなかった気がするが、まあいい。
 苦虫を嚙み潰したような兄貴の顔を見て、何だか清々とした気分になっていた。

 何が完璧な兄貴だ。恋人を弟に取られまいと必死になって、虐めすぎて泣かせて、怒らせて、挙句に床へ殴り倒されているような男の何処が完璧なのだろうか。

「は」

 倒れ伏したままの兄貴を見据えて、自嘲気味に笑う。
 オレは今まで何に縛られていたのだろう。胸に抱いていた完璧な兄貴の幻は、目の前で赤くなった鼻をさすっている男の姿とは似ても似つかなかった。
 当然だ。オレの中でオレを見下していたのは、兄貴の顔をした、自分自身だったのだから。

「あーあ、アンタに夢見てた自分をぶん殴りたくなってきた」
「どういう意味だ」
「いや、兄貴も人間だったんだなぁと思ってさ」
「人を何だと思っていたのだ。まあ、私も聡と出会って変わったとは思うが」

 兄貴は居心地悪そうに首筋を掻いて、遠くを見つめていた。
 果たして何を思い出しているのか。その表情は心底幸せそうで、昔の兄貴からは考えられないような柔らかさを纏っている。
 完璧な虚像の裏に隠されていたのは、ありふれた幸せを噛み締める一人の男の姿だった。

 機械のように正確無比で、全てを悟り切った表情を浮かべていた兄は、もう何処にも居ない。それが少し寂しく、同時に嬉しく思ってしまい。
 今まで鬱屈として、いい歳になっても拗ねていた自分が馬鹿馬鹿しくなり、起こしかけた身体を再び床へと放り出した。

「なんか、どうでも良くなってきたわ」

 虚無感と呼ぶには心地よい無気力感に身を任せ、だらしなく床を転がる。
 そんなオレを見て兄貴は眉を吊り上げ、真面目な口調で言った。

「おい、良くないぞ。お前と和解しないと聡が機嫌を直してくれないだろうが」
「はいはい、恋人の御機嫌取りも大変だな。勝手に苦労してろよ、オレは知らない。帰る」

 兄貴の言葉を無視して立ち上がり、部屋の扉に手をかけたが、何故か兄貴が必死の形相で引き留めてきた。

「待て! 悪いことは言わない、本気で怒った彼の言いつけに逆らうのは止めた方がいい」

 構わず振り解こうとしたが、兄貴の酷く真剣な声を聴いて踏み留まる。
 よくよく扉の向こうに意識を向ければ、何か、殺気めいたものが感じられる気がした。

「聡は、怖いのだ」

 冷や汗すら滲ませてそう言った兄貴の言葉に、

「……知ってる」

 オレは頷くことしか出来なかった。

「……」
「……」

 そっとドアノブから手を放し、腹を括って兄貴と向かい合う。
 ラグの上で居住まいを正した兄貴は、相変わらず渋い顔をしたまま口火を切った。

「それで、お前は私の何が気に入らないのだ」
「その態度から始まって全てだよ」

 居丈高な兄貴の態度に、思わず喧嘩腰になってしまう。仲直りをしろと言われているのにこれでは先が思いやられるな、と何処か他人事のように感じた。

「おい、話にならないだろう。私はお前のそういう感情的なところが気に入らない」
「そうかよ。オレは兄貴のそうやって上から物を言ってくる態度が嫌いだね」
「お前がいつまでも子どもっぽいからだろう」
「アンタだって充分ガキっぽいと思うぜ」
「すぐ他人を引き合いに出すのは感心しない」
「人の話を聞けって言うくせに、そうやって自分は聞かないとこもイヤ」
「お前と違って私は……」

 始まってしまった言い争いはまったく終息する気配を見せず。互いに相手を詰り合い、その無益さに気付く頃にはすっかり息が切れていた。

 しばし無言で睨み合う。
 兄貴も、オレに対して積もり積もった不満があるようだ。

「このままじゃ埒が明かないと思うんだが」
「同感だね。お互い、何処かで妥協するしかないだろう」

 その一点でのみ意気投合し、一時休戦して妥協案を検討する。
 協議の結果編み出されたのは、互いの最も許せない点を一つだけ解消して、他のことには目を瞑ろうという、前向きなのか後ろ向きなのか良く分からない案だった。

「先にお前が言うといい」

 水を向けられて真剣に考え込む。
 気に入らないところを上げればキリが無く、どれか一つと言われても迷うばかりだ。
 その中でも、絶対に許せないのは。


「本気で俺に向き合ってくれないこと、かな」

 オレは、今まで兄貴に譲られてばかりの人生を送っていた。
 食べ物も、おもちゃも、勝負事すらも。譲られてばかりで、本気でぶつかり合った経験がなかったのだ。
 オレは、それがとても嫌だった。何をしても心を動かさない兄貴が嫌いだった。目の前に居るオレを見ようとしない兄貴が嫌いだった。負けても平然として悔しそうな素振りも見せない兄貴が嫌いだった。

 そして何より。兄貴に手加減してもらわなきゃ相手にもならない自分が、嫌いだった。

「そう、だったのか」

 力無い呟きが兄貴の口から零れる。それきり、黙り込んでしまった。
 オレと同じように、昔を思い返しているのだろうか。共に一つの盤面を見つめていた、遠い遠い昔のことを。

「……なあ、久々に一緒に遊ばないか?」

 気付けば、オレの口からはそんな言葉が滑り落ちていた。
 唐突な提案に、兄貴は怪訝そうな顔をして首を傾げている。

「は? 何を言っている、ふざけているなら……」
「本気も本気だよ。だから、兄貴も本気でやってくれよ。あの頃には出来なかったことを、やり直したいんだ」
「……む」
「俺は、いつも兄貴に負けてもらって惨めだった。ただ負かされるよりも、ずっとずっと悔しい思いをしてきたんだ」
「……すまない」

 意思に反して浮かびかけた涙を慌てて拭い、歯を見せて笑う。

「だからオレ、兄貴を真っ向から負かしてみたかったんだ。チェスもオセロもまだあるだろ? 片っ端から相手してくれよ」
「承知した。ただし、」

 兄貴は一拍置いて不敵に笑った。

「手加減はしない」
「そうこなくっちゃ」

 初めての宣戦布告に踊る胸を抑えきれず、オレは早速ゲーム盤を取り出した。

 ◆

「うぐ……」

 真っ黒に染まった盤面を見つめて、唸る。
 上機嫌に跳ねていた声も、今は低く沈み、恨み言すら零し始めていた。

「……確かに、本気でやってくれとは言ったけどさ」
「何か文句があるのか」
「ねぇよ! 無い、全く無いね!」
「この上なく不満そうではないか、どうしろと言うのだ……」

 理不尽な怒りを向けられて、兄貴が視線を揺らす。自分でも、これは酷い八つ当たりだという自覚はあった。
 しかし、先手後手を入れ替えながらどんなゲームをやっても、いっそ笑えてくるほど兄貴は強く。俺は本気の兄貴を負かすどころか、引き分けに持ち込むことすらできずに地団駄を踏んでいた。

 こうなったら、最後の手段を使うしかあるまい。
 流石にこの手は卑怯すぎると思って封印していたが、なり振り構っていられるものか。

「兄貴、オレの部屋ってそのままだよな」
「ああ」
「じゃあそっちに行くぞ!」
「ええ……まだやるのか?」

 言外に「どうせ勝てやしないのに」と滲ませて、兄貴は辟易した表情で溜息を吐く。
 その憎たらしい面を睨み付け、オレは扉の向こうへ勢いよく……しかし低い物腰で話しかけた。

「聡義兄さん!? ちょっと部屋を出たいんですけど!」
「仲直りしたのか?」
「してない!」
「ならダメだ」
「オレの部屋に行くだけだから!」
「……」

 無言のまま、僅かに扉が開かれる。
 風呂に入った後、兄貴の服を勝手に拝借したらしい聡義兄さんは、やや長い裾を引き摺りながら部屋へと入ってきた。
 そして、ゲーム盤や駒の数々で散らかった部屋を一瞥して目を丸くする。

「なんだ、結構仲良くやってたんじゃないか」
「それは解釈が分かれるところだね」
「素直じゃないな。お前がこんなけちょんけちょんにやっつけるのも珍しい。打ち方に余裕が無さ過ぎるだろ」

 決着がついたままの姿で放置されていたチェス盤を眺め、聡義兄さんが意味深に笑う。兄貴は僅かに肩を強張らせたが、すぐに取り繕っていつもの薄ら笑いを浮かべた。

「他ならぬ玲二が、私の全力を御所望だったからね」
「……ふぅん。そういうことにしておこうか」

 兄貴が気まずそうに頬を掻く。目と目で通じ合った二人の姿に一瞬目的を忘れかけたが、気を引き締め直して立ち上がった。

 このまま終われるものか。一度でいい。本気の兄貴を負かすと心に決めたのだ。
 そんなオレの覚悟を察してか、聡義兄さんが悪い顔をして扉の前を譲った。

「それで。ぼろぼろに負かされてる玲二君に何か策はあるのかな?」
「もちろん。とびきり、卑怯なヤツが」


 兄貴と聡義兄さんを引き連れて、久しぶりに自室の扉を開く。
 そして、押し入れの奥に仕舞い込んでいた懐かしの品を引っ張り出した。
 黒く四角い箱型のそれは、型落ちのテレビゲームだ。

「……て、テレビゲームだと?」
「うわぁ、お前それでいいのかよ」

 オレが何をするつもりなのか察した二人は、驚き呆れていた。
 何とでも言うがいい。ちょっと卑怯であることはオレが一番よく分かっていた。

「もう手段を選んではいられないんだよ。操作方法くらいは教えてやる」

 遠い記憶を辿りながら配線を済ませた本体に、コントローラーを二つ繋ぐ。
 一方は使い込まれていたが、もう片方は新品同様である。この家で、オレ以外にテレビゲームに興じる人間は居なかった。

 もうこのコントローラーは使わないまま捨てることになるかと思っていたが、まさか今になって陽の目を浴びることになるとは。
 コイツが現役だった頃は、思ってもみなかった。

「亮介。一応聞くが、お前テレビゲームって……」
「当然、やったことは無いな」
「だよなぁ。うわ楽しくなってきた」
「君、性格悪いな……」

 何故かこの面々の中で、聡義兄さんが一番はしゃいでいる。
 どうも兄貴が負かされることを期待しているようで、じっとりとした兄貴の視線を満面の笑みで受け止めていた。

「よし出来た。ほら、兄貴のはこれな」
「む」

 ゲームの電源を付け、真新しいコントローラーを兄貴へと放り投げる。
 それを受け取って興味深げに観察する兄貴の姿を前に、言いようの無い感傷が湧き上がり……しかし、それ以上に笑いの衝動に襲われてオレは口元を手で押さえた。

「ふは、似合わねぇ」

 オレが口に出さなかった台詞を平然と言ってのけて、聡義兄さんが兄貴を指差して笑う。むっとする兄貴の顔を見て噴き出したら、オレだけ兄貴に睨まれた。理不尽だ。
 まあいい、今に見ていろ。流石の兄貴もテレビゲームには疎いだろう。すぐに吠え面かかせてやる。

 ……なんて。


「余裕で勝てると思ってたのに……!」

 かれこれ一時間後。ただの一度も勝利をもぎ取れず、悔しさに床を叩いているのはオレの方だった。
 本気で打ちひしがれているオレに不憫そうな目を向けて、聡義兄さんが呆れた口調で呟く。

「おい、自信満々だったわりにぼろ負けじゃねーか」
「オレも社会人になってからは全然触ってなかったんだよ……」
「わざわざ負ける勝負を挑むなって」
「ぐ……ッ」

 容赦ない詰りに、ぐうの音も出ない。
 しかし、例えブランクがあったとしても、今日初めてコントローラーを握った人間に負けるなんて誰が考えられただろうか。

「亮介も亮介だ。ここはお前が負ける流れじゃないのか?」
「ふ、期待を裏切ってしまってすまないな。あいにくと、大抵のことは人並み以上にこなせてしまうのだ」
「うわ、嫌味ぃ……」

 操作方法を学んだだけで圧倒的な適応力を見せた兄貴は、肩をすくめて薄ら笑いを浮かべていた。
 すっかり忘れていたが、これが兄貴なのだ。運動も勉強も音楽だってピカイチで、卑怯な手を使っても下せない。これが――、

「玲二君。とっておきの話を教えてやろう」
「なに……?」

 諦めかけたオレの背を、聡義兄さんが叩く。

「勝負に勝つ為に大事なことは、いかに戦いを有利に進めるかじゃない。自分が絶対に勝てる土俵へどうやって相手を引きずり込むかだ」
「そんなこと言っても、兄貴の弱点なんて……」
「初見殺しってのはなかなかイイ線行ってたけどな。駆け引きの要素が強い勝負なんて、コイツに挑んじゃダメだろ。亮介に勝ちたいなら、もっと単純で良い方法がある」
「おい、君。人の弟に変なことを吹き込むのはやめたまえ」

 兄貴の制止を黙殺し、聡義兄さんは見惚れるほど輝いた笑顔を浮かべて言った。

「お前ん家、ジェンガとかある?」

 ◆

「……ぁ」

 じゃらり、と派手な音を立てて積んだ木々が崩れていく。
 長い間、危ういバランスで成り立っていた積木の塔は、兄貴がその一欠片を摘まみ出そうとした瞬間に均衡を失った。

「……!」

 兄貴の指先が突き崩したのは、それだけではない。オレが抱いていた劣等感も、兄貴へと押し付けていた幻想も、兄弟間のわだかまりも、積木と共に形を失っていた。
 長年胸にのしかかっていた重石が急に取り除かれ、オレもバランスを失ってソファへと崩れ落ちる。
 目の前の光景が、信じられなかった。

「兄貴が、負けた……?」
「……」

 木々で散らばったテーブルから顔を上げると、そこには苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた兄貴が居た。
 初めて見る表情だ。

「そうだよ、初勝利おめでとう。玲二君」

 未だに事実を受け止めきれず、感情を持て余すオレの背を聡義兄さんが叩く。
 その痛みに多少現実へと引き戻され、改めて兄貴へと向き直った。

「わざと負けた、訳ではなさそうだよな。その顔は」
「当たり前だろう。実は、あまり器用な方ではないのだ。よくもバラしてくれたな、聡」
「ふん、俺が受けた仕打ちを思えばかわいらしい仕返しだと思うがな」
「……」

 恨み節を吐いた兄貴は、一瞬で聡義兄さんに言い負かされていた。
 今日だけで、目から何枚鱗が剥がれ落ちたことだろう。
 兄貴に弱点があることも、それをバラされて苦々しい顔をすることも、時には誰かに言い負かされることも、オレは知らなかった。

 これでは確かに、本当の兄貴の姿を知らないと言われてしまうワケだ。

(何だ。兄貴も人の子だったんじゃないか)

 昔はとても大きく、遠くに見えていた背中が、今は隣に並んでいるように感じられた。ようやく自分も、本当の兄の姿を垣間見ることが出来たのだろうか。


「ありがとう、聡義兄さん」

 自然とオレの口からは感謝の言葉か溢れていた。
 聡義兄さんに目を覚まさせてもらわなくては、オレはいつまでも兄貴の虚像に苛まれていただろう。例え兄貴が居なくなったとしても、一生苦しみ続けたに違いない。

「ふっ、感謝しろよ。いつかコイツをボロクソに負かしてやろうと思って考えてたネタを一つ明かしたんだからな」
「君、そんなロクでもないことを考えていたのか」
「まあまあ」

 兄貴の追及を適当に受け流して、聡義兄さんがひらひらと手を振る。あの調子だと、まだ他にも悪巧みをしていそうだ。いつか、こっそりと教えて欲しいものである。

「それで、お前達は何でゲームなんかやってたんだ?」

 その言葉で忘れかけていた本題を思い出した。

「ああ、それは……」

 同じく本題を忘れかけていたらしい兄貴が、これまでの経過を掻い摘んで説明する。
 話を聞いた聡義兄さんは、納得がいったように頷いて兄貴へと問いかけた。

「なるほどね。で、お前が一番根に持っていることは何なんだ?」
「身も蓋もない聞き方はやめてくれ。そうだな……」

 考え込むように目を瞑った兄貴を見ながら、否が応でも緊張が高まっていく。
 兄貴は、オレのどこを一番許せないと思っているのだろう。心当たりがあり過ぎて何を言われるか逆に分からなかった。

「私は……お前に、奪われることが辛かった」

 それは、兄貴を突き落としてしまったあの夜にも聞いた話だった。

「兄という立場を、恨んでいた。本当は、私だってお前に譲りたくはなかった。両親の関心も気に入った玩具も独り占めしていたかったし、本気を出していなくても負けてやるのは悔しかった。けれども、兄だからと思って我慢を重ねて来たのだ」
「そう、だったんだな。……ごめん。たくさん、酷いことした」
「あの頃はお前も幼かったからな」
「……それは、言い訳にならないんだよ」

 何だかんだ言いつつも、オレを甘やかそうとする兄貴の目を直視できずに視線を逸らす。
 オレの我儘は、幼さ故の癇癪などではなかった。もっと、陰湿で卑怯なものだ。

「オレは、どうしても兄貴の物が欲しくて駄々をこねていたわけじゃないんだ。アンタを傷付けると分かって、敢えて横取りしてきたんだよ」

 兄貴がオレに何かを譲る時、ごく稀に、苦しそうな表情を浮かべることがあった。それは、唯一オレが兄貴の心を動かせる瞬間だと思っていたのだ。

「ずっと、兄貴に無視されてるって思っててさ……例え傷付けてでも、オレのことを意識して欲しかったんだ」
「玲二……」

 何故か兄貴の方が苦しげな顔をしているのに、釣られてオレも泣きそうになる。
 兄貴は、オレの目を真っ直ぐに見据えて言った。

「改めて、すまなかった。お前とは、もっと早く向き合うべきだったな」
「何で兄貴が謝ってるんだよ。オレの方が、たくさん、悪いことをしてきただろ。わざとアンタを傷付けたり、ガキっぽく無視したり……大怪我させたり、さ」

 未だ包帯が巻かれた兄貴の右手を見て、息が苦しくなる。他にも、自分の最低な行いは上げればキリがなかった。

「いいんだ」

 それでも、その全てを許して兄貴は笑みを浮かべる。

「今はもう、お前の気持ちも分かっている。だから、構わない」
「でも、オレは……結局、兄貴に何も返せてない……!」
「気にするな。兄に甘えるのは、弟の特権だ」

 俯いたオレの頭に、兄貴の温かい手が乗せられる。
 兄貴に許されても、自分が自分を許せなかった。何か一つでも返せないだうか。オレが、兄貴から奪ってしまった物を——

「……あ」

 思い当る節があり、慌てて財布を引っ張り出す。
 不思議そうにこちらを見守っている兄貴の目の前で中身をひっくり返し、小さな薄紫色をした石を摘まみ出した。
 それを目にして、兄貴が息を飲む。

「それは……」
「やっぱり、覚えてたか」

 飾り紐が擦り切れるほど年季が入ったストラップは、遥か昔、兄貴が遠足の土産に買ってきた物を、オレが横から奪った品だった。
 その時の兄貴の顔は、今も覚えている。思えば、あの傷付いた顔を見てから、オレの行為はエスカレートしていった。

「随分、ボロボロになちゃったけど……返すよ」
「まだ持っているとは思わなかった」
「アンタが、すごく辛そうな顔をしていたから……絶対無くせないと思って、ずっと大事に取っていたんだ」
「……」

 おずおずと手を伸ばし、兄貴の手の平の上にストラップを落とす。
 十数年ぶりにようやく本当の持ち主の手に帰った輝きを見て、目を細めた。

「……」

 兄貴は石を大事そうに胸に抱え、不意に立ち上がった。

「……私もね、お前に渡せずにいた物があったのだ」

 そう言って部屋を出ていき、数分後。兄貴は、色褪せた小さな紙袋を持って戻ってきた。

「荷物を整理していたら出てきたのだ。これも、何かの縁だろう」

 兄貴の言葉を聞き終わらないうちに封を切る。
 風化してぼろけた紙袋の中には、寄木細工のストラップが入っていた。

「これは……?」
「お前用に買っていた土産だよ。ずっと渡しそびれて、そのままになっていた」
「そう、か」

 ちゃんと、オレのことも気にしていてくれたのか。
 奪わずとも、与えられていたというのに。オレは。

「……ごめん。いや、ありがとう。大切にする」
「そうしてくれると、私も嬉しい」

 初めて、兄弟で顔を見合わせて笑う。劣等感で歪んだ顔が、解れていく心地がした。

「聡義兄さんも、ありがとう。アンタに話を聞いてもらって、本当に助かった」
「いいって。やめろよ、むずがゆいから」
「相変わらず釣れないな。そういうところも好きだけどさ」
「何?」

 突如、部屋に轟いた低く重い声に硬直する。
 一瞬で声のトーンを下げた兄貴は、昏い目をしてオレを睨みつけていた。
 つい先ほどまでの柔らかい笑顔は何処へやったのか、その顔は独占欲と警戒心で一杯だ。せっかく歩み寄れたというのに、また拗らせては叶わない。オレは何とか誤解を解こうと弁明を繰り広げた。

 聡義兄さんの必死なアイコンタクトにも気付かず。

「安心しろよ。確かに聡義兄さんのことは好きだけど、オレはちゃんと振られたからさ。今更二人の間を邪魔する気も無いよ」
「振られた……? 初耳だな。君、玲二に告白されていたのか」
「あ、いや、えっと、その……」

 聡義兄さんは縮こまって視線を彷徨わせている。どうにも様子がおかしい。
 まさか。

「兄貴には言ってなかったのか?」
「言う訳ないだろ! あっ、いつか言おうとは思ってたんだけど……」
「うむ。分かっているよ、君のことは。よく、分かっている」
「やめろ寄るな!」

 声を裏返させながら後退る聡義兄さんを、兄貴がゆっくりと追い詰めていく。何だか雲行きが怪しくなったのを感じて立ち上がった。

「じゃあ、オレはこの辺で……」
「待て玲二! 話はまだ終わっていないッ!」
「おいこの裏切り者! 爆弾放り投げて自分だけ逃げるな!」

 すぐさま二人分の罵声が飛んできたが、ここで分りましたと素直に座り直す人間はいないだろう。
 かくしてオレは、引き留める声に構わず部屋から逃げ出した。

「邪魔者は帰るから、後は恋人同士ゆっくり話し合ってくれ!」
「おい、本当に置いていくのか薄情者!」

 そのまま立ち去ろうとも思ったが、ふと悪戯心が芽生えて来た道を引き返す。

「兄貴に虐められて嫌気が差したら何時でも呼んでくれよな、聡義兄さん」
「……なッ!」
「ふはっ」

 聡義兄さんを大事そうに抱え込んでいた兄貴が、その姿をオレから隠すように立ち位置を変える。
 その必死な有様に笑いがこみ上げて声を上げたら、恐ろしい形相で睨みつけられた。
 わなわなと唇を震わせて兄貴が叫ぶ。


「やっぱりお前のことは嫌いだ!」
「オレも、アンタなんか嫌いだよバカ兄貴!」

 売り言葉に、買い言葉。そして、満面の笑みで言葉を続ける。

「でもさ、本当は心から尊敬してるんだ。じゃあ、またな!」

 照れくさい言葉を紡ぐのに精一杯で、兄貴の反応を確かめないままオレは逃げるように家を後にした。
 子どものままだった自分とも、勝手に作り上げていた兄貴の虚像とも別れを告げ。


 自慢の兄貴と、また会う約束を交わして。
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