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36 歯車が狂った日
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「珍しいな、お前が酒を飲もうなんて誘ってくるなんて」
「たまにはそういう気分になるのだ、私も」
入社から一ヶ月後。
私は、カズの家に乗り込んで杯を傾けていた。
彼の愛妻と愛娘は、今日は実家に帰っているらしい。
気を遣わせてしまったことを申し訳なく思いつつ、その心遣いに深く感謝していた。いくらカズの家族とはいえ、カズ以外の人間に崩れた姿を見せたくはない。
人を酒に誘っておいて何だが、私は元来酒は……いや、酔うことは嫌いだった。理性が緩んだ情けない姿を他人に見せるなど、普段なら到底受け入れられないことである。
けれども今日は、酒の力でも借りてこの胸中を吐き出したかったのだ。
そうでもしなければ、初めて味わう感情の奔流に流されてしまいそうだった。
「とりあえずお前は、飲め。何を溜め込んでるか知らないが、全部喋ってしまえよ」
「すまない、また甘えてしまって」
「そう遠慮してる間は本当の話が聞けないからな。俺もいい加減分かってきたんだ。さあ、次はワインを開けるぞ!」
カズに注がれるまま、芳醇な香りをろくに味わいもせずに喉の奥へと流し込む。
『月島亮介』が崩れてもいい理由を作るために。ただ泥酔するためだけに酒を飲む。
無茶なペースでアルコールを摂取し続けた結果、私は一時間と経たないうちに床へと倒れ伏していた。
「それで? どうしてそんな状態になっちゃったんだよ」
虚ろな目で机の脚を睨み続けている私に、カズが優しい声で問いかける。同じペースで飲んでいるハズなのに、向こうは顔色一つ変えていなかった。
どうして、と。
そう問われて湧き上がった感情は、昏く、醜いものだった。
「悔しい」
「ん?」
「彼が憎い、妬ましい、許せない……負けた」
「おいおい、物騒だな」
口からどろどろと零れていく嫉妬の言葉に、カズが表情を硬くする。
しかし、構ってはいられない。
冷静な仮面の裏に詰め込んでいた負の感情は、一度堰を切ったが最後、制御できないままに垂れ流されていく。
「最初から気に障っていた、それでも好敵手になれる相手が見つかったと少し喜んでいた。けれど……いざ本当に負けてみたら、悔しかった。彼が自分より優れていることが許せない自分の汚さに反吐が出そうだ。私は、気付かない内に随分と驕り高ぶっていたらしい」
「ああ……もしかして、篠崎聡か?」
その名前に反応して、カズの方へ視線を動かす。
カズは相変わらずのペースでワインを愉しみながら、私の視線を受け止めた。
「知っているのか?」
「そりゃまあ、今年の新人代表だし。優秀だって評判だからな」
「そうだ、優秀なんだ。彼は頭も切れるし弁も立つ。どこで身に着けたのか、己を良く見せるパフォーマンスを心得ている。その論理は多少荒削りな部分もあるが、聴衆に訴えかける勢いがある。私には無いものを、彼は全て持っていた。決して侮っていた訳ではないが、討論で自分が負けるとは思ってもいなかったんだ」
「それは確かに……珍しい話だな」
私が討論で負けたと聞いて、カズがその顔を驚愕の色に染める。
昔から私は口で負けたことが無かった。それをカズも知っていたからだ。
それに、と言葉を続ける。
「認めがたいことに、彼は私よりも年下だったのだ」
「え……? それは、何でだろうな。お前だって新卒なのに」
「理由は分からない。専門学校を出ているのか、高卒で働いていて転職したのか……彼は自分のことを話そうとはしないからな。それでも確かに、彼が書類に書いていた年齢は私よりも一つ下だった」
「ぬ、盗み見たのか……」
「偶然、書類を集めている時に目に留まったのだ」
「お前がそう言うなら、そういうことにしておくよ」
私のことなどお見通しのカズは、敢えて深く触れずに話を流してくれた。
無論、わざと見たに決まっている。ばつが悪くて黙りこくった私に、カズは作ったような明るい声で言った。
「でも、張り合える相手が出来てよかったじゃないか。お前、昔からつまらなさそうにしてただろ?」
「そう、だな。対等な人間と共に、切磋琢磨したいと願っていた。そのハズなんだが……」
カズの言葉に素直に頷けないことがもどかしかった。
よりにもよって、彼と私はことごとく馬が合わなかったのだ。
慎重と確実性を重んじる私と、迅速と革新を求める彼とでは、意見も手段も信条も噛み合わないことを日々痛感していた。
初めて現れた対等な人間が、絶対に己の理解者になり得ないなんて、残酷な話である。
彼と分かり合える未来なんて望めないし、望むつもりもない。正直、篠崎のことは苦手だった。
だが、それを理由にしても許されないような感情を私は抱いていた。
同期の中には、私たちを好敵手という者もいる。しかし。
「彼と出会ってから、私は自分の醜さを思い知るばかりだよ」
自分の中に渦巻く思いは、好敵手に向けるにはあまりにも陰湿で醜悪なものだった。
これは、ただの征服欲だ。
あの綺麗な顔を屈辱に歪ませてやりたい。流暢に回る口から言葉が出なくなるほど言い負かしてやりたい。人を小馬鹿にしたような挑発的な笑みを二度と浮かべられないようにしてやりたい。
彼のプライドをへし折り、地に堕とし、屈服させ、私の方が上だと思い知らせたい。
「……」
自分は、なんて卑劣で矮小な、どうしようもない人間だろうか。
カズの顔を見ていられず、行儀悪く寝返りを打って背を向ける。
「誰だって負けたら悔しいし、見返してやりたいと思うのが普通だろ?」
そうなのだろうか。私には分からなかった。
負けたことが無かったから。見返したいと思うような相手に出会わなかったから。
それでも、自分の中に生まれたこの歪んだ感情を「普通」と認めて受け入れることは出来なかった。
そんな都合のいい免罪符で許されるなど、認められる訳がない。
誰よりも、私自身が私を許せなかった。
「普通かどうかなど分からない、感情に流されそうになるなんて初めてだ。理解出来ない。ただ言えるのは、こんな感情は間違っているということだけだ」
「そうかね、お前は堅苦しく考えすぎなんだ。あまり自分を追い詰めすぎるなよ」
「……」
カズの言葉には応えず、無言で起き上がってワイングラスを手に取る。
結局その夜は、喋りつかれて眠りこけるまでカズと話し続けた。
翌週。
カズに付き合ってもらって鬱憤を晴らした私は、半ば無理矢理気持ちを切り替え、これまで以上に気合を入れて研修に打ち込んでいた。
これほど必死で何かに打ち込んだ経験は、無かったと思う。
今までは、さして苦労することもせず頂点を取ることが出来た。自分だけのペースで、一人突端を歩み続けていた。
越したいと思う目標が、誰かの背中が目の前にあるというのは新鮮だった。
次のディベートに向けて執拗なまでの準備を行っている最中には、わだかまった感情も少しは忘れることが出来る。
自分自身でも気付かない程度の変化だったが、確かに、単調だった日々が色を持ち始めていた。
そんな鬼気迫る努力の甲斐もあり、二回目のディベートでは私に軍配が上がった。
「……!」
彼を、下した。
勝敗を告げられた瞬間、冷めきった心の奥から熱が込み上げた。
背筋が震え、手汗が滲み、微かに頬が紅潮する。全身で歓喜していた。
機械の様に正しく鼓動を繰り返していた心臓が僅かに早まる。
彼は。
私に負かされて、彼は、一体どんな表情を浮かべているのか。
愉悦に醜く歪みそうになる唇を抑えつけながら、素早く彼の方を見やる。
「――ッ」
篠崎は、整った眉をしかめて歯を食いしばり、苦々し気な表情を浮かべていた。
人との関わり合いを避け、誰からも距離を置いていた彼の関心が、今、私だけに向けられている。
鋭く敵意の篭った眼差しを向けられた瞬間、ぞくりと身体の芯が震えた。
「……ふ」
歯車が、狂った音がした。
早鐘を打つ胸に、信じられない思いで手を当てる。あろうことか私は――興奮していた。
理性を感情が上回り、口の端が微かに持ち上がる。
溢れ出しそうになる優越感を薄ら笑いの下に押し隠して、私は研修が終わるや否や足早にその場を去った。
彼に、打ち倒すべき敵と認識されたことが嬉しくて仕方がなかった。
もっと、もっと私のことを意識して欲しい。
ああ、こんな感情は『月島亮介』には相応しくない。
彼と接していると、否が応でも醜く卑小で汚れた大嫌いな自分が顔を出す。
芽生えてしまった感情は、とどまることを知らずに日々膨れ上がっていき……決壊した。
「貴方とは、今後とも良い関係を築いていきたいですね」
篠崎が、見知らぬ男に愛想笑いを浮かべて握手をしていたのだ。
あの日、私だけを見つめていた瞳が、今は別の人間を映している。
彼は、どこの馬の骨とも分からぬ凡庸な男に、利用価値を見出しているようだった。
心にさざ波が立つ。
その男は私よりも優秀なのか? 君が声をかけるに値する男なのか? 私を相手にするよりも有益な時間を過ごしているのか?
湧き上がった疑念は、確かめずにはいられない。
結論から言ってしまえば、男は彼に相応しいとは言い難い人間だった。
こんな男が、自分を差し置いて彼の周りに侍るなんて認められる訳がない。
「突然すみません。先日、うちの篠崎と話されていたようですが……弊社とのパイプ役をお探しでしたら、私の方が適任かと」
幼稚で、卑しい独占欲を抱いていた。
以後、私は彼の人脈づくりをことごとく阻んでいった。無論、篠崎も黙ってはいない。
幾度とない言い争いを経て急速に関係が悪化していき、一年も経つ頃には、顔を見れば悪態を吐き合う仲となっていた。
◆
「おい月島、ちょっと面貸せ」
「……!」
篠崎と険悪な仲になって久しいある日のこと。
昼休みに偶然彼と出会い、腕を取られて近くの会議室へと連れ込まれた。
振り返った篠崎は、ただでさえ鋭い釣り目を更に釣り上げさせていた。
その視線を受け止め、薄ら笑いで応える。
最近では、私に対する嫌悪感を隠そうともしなくなった篠崎は、それを見て頰をぴくりと動かした。
「お前、いい加減にしろよ」
「何のことかね?」
「とぼけるなよ、俺の周りを嗅ぎ回っては事あるごとに邪魔しやがって。何がしたいんだ、お前は」
私は何がしたいのか。その問いに、未だ答えは見い出せていなかった。
代わりに挑発を返して話をはぐらかす。
「ああ。もしかして、君が目をかけていた新人君が私のところに来てしまったことが気に障ったのかな? それは彼らの選択だから仕方ないと思うがね」
「新人だけじゃない、関連会社の人間もだ。お前に必要な人脈だったとも思えないが?」
「どんな人脈が、何時必要となるかなんて分からないだろう? それに、無理矢理引き抜いた訳ではないよ。私は、彼らに合理的な選択肢を提示したに過ぎない。君に惑わされているのを見過ごせなくてね」
「……」
言葉を交わすほど、憎々しげに彼の顔が歪んでいくのが分かった。
それを見て私は喜んでいた。
私の言葉が彼の感情を揺さぶり、影響を与えていることがこの上なく嬉しかった。
いっそのこと、もっと怒ってしまえとすら思う。
「お前とは何から何まで意見が合わないとは思っていたが……どうやら、認識を改めた方が良さそうだな」
「ほう? 興味深い意見だね」
「互いのことが心底気に入らないという一点においては、お前と意見が合いそうだ」
「ふ、違いない」
彼の挑発的な笑みに見下すような笑みを返し、一時静かに睨み合う。交錯する視線は鋭く、火花を散らしているような錯覚さえ覚えた。
どちらも相手に一歩たりとも譲る気はなく、そのまま睨み合いが続く。
「ふん、散々人の邪魔をしておいて悪びれもしないとは。どんな環境で育ってきたらこんなに性格が捻じ曲がるのか、一度聞いてみたいものだな」
いつも通りの彼の嫌味に、私も同じように返してやろうと口を開く。
それは、なんて事のない嫌味のハズだった。
「それを言うなら君もだ。まったく、親の顔が見てみたいものだね」
「――――」
売り言葉に買い言葉でそう言い放った瞬間、篠崎が今までにない表情を浮かべる。
憂いを帯びた瞳は、長い前髪ですぐに隠されてしまったが、私の目には、彼の傷付いた表情が克明に焼き付いていた。
ずきりと、胸が痛む。
……違う。そんな顔をさせたい訳ではなかった。彼を傷付けたい訳ではなかった。
私はただ、
「これ以上、お前と話しているだけ時間の無駄だ。お前がその気なら、こっちもそれ相応の対応をさせてもらう」
ただ、彼と友達になりたかっただけなのだ。
「……ぁ」
醜い嫉妬に埋もれていた本心に、唐突に気が付く。
けれども全ては遅すぎた。
既に篠崎の背は遠く、伸ばした手を拒むように会議室の扉が閉められた後だった。
こんな嫉妬と憎しみに塗れた自分では到底叶えられない、望むことさえ烏滸がましい願いだけれども。
出来るなら、相対する敵ではなく、隣に立つ友として彼と歩みたかった。
「私は……何を、やっているんだ」
今の自分は、あまりにも非合理的で感情的だった。
これが、彼と決裂した瞬間だったと思う。
やがて誰かが私と彼の間柄を指して言った『天敵』という言葉が社内へ広まるのに、そう時間はかからなかった。
「たまにはそういう気分になるのだ、私も」
入社から一ヶ月後。
私は、カズの家に乗り込んで杯を傾けていた。
彼の愛妻と愛娘は、今日は実家に帰っているらしい。
気を遣わせてしまったことを申し訳なく思いつつ、その心遣いに深く感謝していた。いくらカズの家族とはいえ、カズ以外の人間に崩れた姿を見せたくはない。
人を酒に誘っておいて何だが、私は元来酒は……いや、酔うことは嫌いだった。理性が緩んだ情けない姿を他人に見せるなど、普段なら到底受け入れられないことである。
けれども今日は、酒の力でも借りてこの胸中を吐き出したかったのだ。
そうでもしなければ、初めて味わう感情の奔流に流されてしまいそうだった。
「とりあえずお前は、飲め。何を溜め込んでるか知らないが、全部喋ってしまえよ」
「すまない、また甘えてしまって」
「そう遠慮してる間は本当の話が聞けないからな。俺もいい加減分かってきたんだ。さあ、次はワインを開けるぞ!」
カズに注がれるまま、芳醇な香りをろくに味わいもせずに喉の奥へと流し込む。
『月島亮介』が崩れてもいい理由を作るために。ただ泥酔するためだけに酒を飲む。
無茶なペースでアルコールを摂取し続けた結果、私は一時間と経たないうちに床へと倒れ伏していた。
「それで? どうしてそんな状態になっちゃったんだよ」
虚ろな目で机の脚を睨み続けている私に、カズが優しい声で問いかける。同じペースで飲んでいるハズなのに、向こうは顔色一つ変えていなかった。
どうして、と。
そう問われて湧き上がった感情は、昏く、醜いものだった。
「悔しい」
「ん?」
「彼が憎い、妬ましい、許せない……負けた」
「おいおい、物騒だな」
口からどろどろと零れていく嫉妬の言葉に、カズが表情を硬くする。
しかし、構ってはいられない。
冷静な仮面の裏に詰め込んでいた負の感情は、一度堰を切ったが最後、制御できないままに垂れ流されていく。
「最初から気に障っていた、それでも好敵手になれる相手が見つかったと少し喜んでいた。けれど……いざ本当に負けてみたら、悔しかった。彼が自分より優れていることが許せない自分の汚さに反吐が出そうだ。私は、気付かない内に随分と驕り高ぶっていたらしい」
「ああ……もしかして、篠崎聡か?」
その名前に反応して、カズの方へ視線を動かす。
カズは相変わらずのペースでワインを愉しみながら、私の視線を受け止めた。
「知っているのか?」
「そりゃまあ、今年の新人代表だし。優秀だって評判だからな」
「そうだ、優秀なんだ。彼は頭も切れるし弁も立つ。どこで身に着けたのか、己を良く見せるパフォーマンスを心得ている。その論理は多少荒削りな部分もあるが、聴衆に訴えかける勢いがある。私には無いものを、彼は全て持っていた。決して侮っていた訳ではないが、討論で自分が負けるとは思ってもいなかったんだ」
「それは確かに……珍しい話だな」
私が討論で負けたと聞いて、カズがその顔を驚愕の色に染める。
昔から私は口で負けたことが無かった。それをカズも知っていたからだ。
それに、と言葉を続ける。
「認めがたいことに、彼は私よりも年下だったのだ」
「え……? それは、何でだろうな。お前だって新卒なのに」
「理由は分からない。専門学校を出ているのか、高卒で働いていて転職したのか……彼は自分のことを話そうとはしないからな。それでも確かに、彼が書類に書いていた年齢は私よりも一つ下だった」
「ぬ、盗み見たのか……」
「偶然、書類を集めている時に目に留まったのだ」
「お前がそう言うなら、そういうことにしておくよ」
私のことなどお見通しのカズは、敢えて深く触れずに話を流してくれた。
無論、わざと見たに決まっている。ばつが悪くて黙りこくった私に、カズは作ったような明るい声で言った。
「でも、張り合える相手が出来てよかったじゃないか。お前、昔からつまらなさそうにしてただろ?」
「そう、だな。対等な人間と共に、切磋琢磨したいと願っていた。そのハズなんだが……」
カズの言葉に素直に頷けないことがもどかしかった。
よりにもよって、彼と私はことごとく馬が合わなかったのだ。
慎重と確実性を重んじる私と、迅速と革新を求める彼とでは、意見も手段も信条も噛み合わないことを日々痛感していた。
初めて現れた対等な人間が、絶対に己の理解者になり得ないなんて、残酷な話である。
彼と分かり合える未来なんて望めないし、望むつもりもない。正直、篠崎のことは苦手だった。
だが、それを理由にしても許されないような感情を私は抱いていた。
同期の中には、私たちを好敵手という者もいる。しかし。
「彼と出会ってから、私は自分の醜さを思い知るばかりだよ」
自分の中に渦巻く思いは、好敵手に向けるにはあまりにも陰湿で醜悪なものだった。
これは、ただの征服欲だ。
あの綺麗な顔を屈辱に歪ませてやりたい。流暢に回る口から言葉が出なくなるほど言い負かしてやりたい。人を小馬鹿にしたような挑発的な笑みを二度と浮かべられないようにしてやりたい。
彼のプライドをへし折り、地に堕とし、屈服させ、私の方が上だと思い知らせたい。
「……」
自分は、なんて卑劣で矮小な、どうしようもない人間だろうか。
カズの顔を見ていられず、行儀悪く寝返りを打って背を向ける。
「誰だって負けたら悔しいし、見返してやりたいと思うのが普通だろ?」
そうなのだろうか。私には分からなかった。
負けたことが無かったから。見返したいと思うような相手に出会わなかったから。
それでも、自分の中に生まれたこの歪んだ感情を「普通」と認めて受け入れることは出来なかった。
そんな都合のいい免罪符で許されるなど、認められる訳がない。
誰よりも、私自身が私を許せなかった。
「普通かどうかなど分からない、感情に流されそうになるなんて初めてだ。理解出来ない。ただ言えるのは、こんな感情は間違っているということだけだ」
「そうかね、お前は堅苦しく考えすぎなんだ。あまり自分を追い詰めすぎるなよ」
「……」
カズの言葉には応えず、無言で起き上がってワイングラスを手に取る。
結局その夜は、喋りつかれて眠りこけるまでカズと話し続けた。
翌週。
カズに付き合ってもらって鬱憤を晴らした私は、半ば無理矢理気持ちを切り替え、これまで以上に気合を入れて研修に打ち込んでいた。
これほど必死で何かに打ち込んだ経験は、無かったと思う。
今までは、さして苦労することもせず頂点を取ることが出来た。自分だけのペースで、一人突端を歩み続けていた。
越したいと思う目標が、誰かの背中が目の前にあるというのは新鮮だった。
次のディベートに向けて執拗なまでの準備を行っている最中には、わだかまった感情も少しは忘れることが出来る。
自分自身でも気付かない程度の変化だったが、確かに、単調だった日々が色を持ち始めていた。
そんな鬼気迫る努力の甲斐もあり、二回目のディベートでは私に軍配が上がった。
「……!」
彼を、下した。
勝敗を告げられた瞬間、冷めきった心の奥から熱が込み上げた。
背筋が震え、手汗が滲み、微かに頬が紅潮する。全身で歓喜していた。
機械の様に正しく鼓動を繰り返していた心臓が僅かに早まる。
彼は。
私に負かされて、彼は、一体どんな表情を浮かべているのか。
愉悦に醜く歪みそうになる唇を抑えつけながら、素早く彼の方を見やる。
「――ッ」
篠崎は、整った眉をしかめて歯を食いしばり、苦々し気な表情を浮かべていた。
人との関わり合いを避け、誰からも距離を置いていた彼の関心が、今、私だけに向けられている。
鋭く敵意の篭った眼差しを向けられた瞬間、ぞくりと身体の芯が震えた。
「……ふ」
歯車が、狂った音がした。
早鐘を打つ胸に、信じられない思いで手を当てる。あろうことか私は――興奮していた。
理性を感情が上回り、口の端が微かに持ち上がる。
溢れ出しそうになる優越感を薄ら笑いの下に押し隠して、私は研修が終わるや否や足早にその場を去った。
彼に、打ち倒すべき敵と認識されたことが嬉しくて仕方がなかった。
もっと、もっと私のことを意識して欲しい。
ああ、こんな感情は『月島亮介』には相応しくない。
彼と接していると、否が応でも醜く卑小で汚れた大嫌いな自分が顔を出す。
芽生えてしまった感情は、とどまることを知らずに日々膨れ上がっていき……決壊した。
「貴方とは、今後とも良い関係を築いていきたいですね」
篠崎が、見知らぬ男に愛想笑いを浮かべて握手をしていたのだ。
あの日、私だけを見つめていた瞳が、今は別の人間を映している。
彼は、どこの馬の骨とも分からぬ凡庸な男に、利用価値を見出しているようだった。
心にさざ波が立つ。
その男は私よりも優秀なのか? 君が声をかけるに値する男なのか? 私を相手にするよりも有益な時間を過ごしているのか?
湧き上がった疑念は、確かめずにはいられない。
結論から言ってしまえば、男は彼に相応しいとは言い難い人間だった。
こんな男が、自分を差し置いて彼の周りに侍るなんて認められる訳がない。
「突然すみません。先日、うちの篠崎と話されていたようですが……弊社とのパイプ役をお探しでしたら、私の方が適任かと」
幼稚で、卑しい独占欲を抱いていた。
以後、私は彼の人脈づくりをことごとく阻んでいった。無論、篠崎も黙ってはいない。
幾度とない言い争いを経て急速に関係が悪化していき、一年も経つ頃には、顔を見れば悪態を吐き合う仲となっていた。
◆
「おい月島、ちょっと面貸せ」
「……!」
篠崎と険悪な仲になって久しいある日のこと。
昼休みに偶然彼と出会い、腕を取られて近くの会議室へと連れ込まれた。
振り返った篠崎は、ただでさえ鋭い釣り目を更に釣り上げさせていた。
その視線を受け止め、薄ら笑いで応える。
最近では、私に対する嫌悪感を隠そうともしなくなった篠崎は、それを見て頰をぴくりと動かした。
「お前、いい加減にしろよ」
「何のことかね?」
「とぼけるなよ、俺の周りを嗅ぎ回っては事あるごとに邪魔しやがって。何がしたいんだ、お前は」
私は何がしたいのか。その問いに、未だ答えは見い出せていなかった。
代わりに挑発を返して話をはぐらかす。
「ああ。もしかして、君が目をかけていた新人君が私のところに来てしまったことが気に障ったのかな? それは彼らの選択だから仕方ないと思うがね」
「新人だけじゃない、関連会社の人間もだ。お前に必要な人脈だったとも思えないが?」
「どんな人脈が、何時必要となるかなんて分からないだろう? それに、無理矢理引き抜いた訳ではないよ。私は、彼らに合理的な選択肢を提示したに過ぎない。君に惑わされているのを見過ごせなくてね」
「……」
言葉を交わすほど、憎々しげに彼の顔が歪んでいくのが分かった。
それを見て私は喜んでいた。
私の言葉が彼の感情を揺さぶり、影響を与えていることがこの上なく嬉しかった。
いっそのこと、もっと怒ってしまえとすら思う。
「お前とは何から何まで意見が合わないとは思っていたが……どうやら、認識を改めた方が良さそうだな」
「ほう? 興味深い意見だね」
「互いのことが心底気に入らないという一点においては、お前と意見が合いそうだ」
「ふ、違いない」
彼の挑発的な笑みに見下すような笑みを返し、一時静かに睨み合う。交錯する視線は鋭く、火花を散らしているような錯覚さえ覚えた。
どちらも相手に一歩たりとも譲る気はなく、そのまま睨み合いが続く。
「ふん、散々人の邪魔をしておいて悪びれもしないとは。どんな環境で育ってきたらこんなに性格が捻じ曲がるのか、一度聞いてみたいものだな」
いつも通りの彼の嫌味に、私も同じように返してやろうと口を開く。
それは、なんて事のない嫌味のハズだった。
「それを言うなら君もだ。まったく、親の顔が見てみたいものだね」
「――――」
売り言葉に買い言葉でそう言い放った瞬間、篠崎が今までにない表情を浮かべる。
憂いを帯びた瞳は、長い前髪ですぐに隠されてしまったが、私の目には、彼の傷付いた表情が克明に焼き付いていた。
ずきりと、胸が痛む。
……違う。そんな顔をさせたい訳ではなかった。彼を傷付けたい訳ではなかった。
私はただ、
「これ以上、お前と話しているだけ時間の無駄だ。お前がその気なら、こっちもそれ相応の対応をさせてもらう」
ただ、彼と友達になりたかっただけなのだ。
「……ぁ」
醜い嫉妬に埋もれていた本心に、唐突に気が付く。
けれども全ては遅すぎた。
既に篠崎の背は遠く、伸ばした手を拒むように会議室の扉が閉められた後だった。
こんな嫉妬と憎しみに塗れた自分では到底叶えられない、望むことさえ烏滸がましい願いだけれども。
出来るなら、相対する敵ではなく、隣に立つ友として彼と歩みたかった。
「私は……何を、やっているんだ」
今の自分は、あまりにも非合理的で感情的だった。
これが、彼と決裂した瞬間だったと思う。
やがて誰かが私と彼の間柄を指して言った『天敵』という言葉が社内へ広まるのに、そう時間はかからなかった。
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裕貴は平穏な生活を取り戻すために婚活を始めるのだが、こじらせてる彼はなかなかうまくいかなくて…。
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