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11 譲れない境界線
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夏の日差しも和らいできた頃、俺は夕陽の差し込む寝室で一人物思いに耽っていた。
月島のことについてだ。
差し当たって何か問題があった訳ではない。月島に根負けして協定を結んだあの日から、俺たちは週に一度会っては寝るという関係を続けていた。
協定というのは、俺が一方的に押し付けた約束事の数々である。一つ、連絡は必要最低限に留めること。二つ、互いの私生活には干渉しないこと。三つ、夜の生活にも口を出さないこと……等々。
ここぞとばかりにたっぷり注文を付けてやると、月島は不服そうにしていたが、これがセフレになる絶対条件だと断言すると何も言わずに受け入れた。
それから二ヶ月以上、俺たちは大きな衝突も無く関係を続けている。
その関係がいかに順調かは、俺の部屋を見渡せば一目瞭然だ。
「アイツ、また荷物増やしたな?」
部屋のあちこちでは、いつの間にか持ち込まれた月島の私物が我が物顔で鎮座していた。
寝室の枕も、洗面所の歯ブラシも、食器もいつの間にか増やされており、今もベランダにはサイズの違うシャツが並んで干されている。
では、何を悩むことがあるのか。
……問題が無さ過ぎるのだ。
月島との関係に満足してしまっている現状が受け入れられなかった。思えば、せっかく相互不干渉としたにも関わらず、ここ最近は月島としか寝ていない。
それが妙に落ち着かなかった。理由は、分からないのだが。
(何で月島は嫌なんだろう。気持ち良くなれて、都合が良ければ誰でもいいじゃないか)
今まで、特定の相手と長期間関係を持ち続けたことが無い訳じゃない。長い時には一年くらい同じ相手と寝ていたこともある。
馬の合いそうな相手を探すのも楽ではないのだ。むしろ、都合が良ければ関係を維持するように動いてきた。その時には、こんな抵抗感など無かったのに。
(やっぱり嫌いな男だからだろうか? それも今更な気がするけど……)
いくら考えても答えは出そうになかった。それに、うじうじ悩んでいるのは俺らしくない。とりあえず、気分転換がてら月島以外の相手と寝てみることにしよう。
俺はそう決めると、月島に「今週はパス」とだけメールを送ってパソコンを立ち上げた。
——この時、原因不明の焦燥感に苛まれていたことは間違いない。
その結果、俺は当然のことを失念する。
昨日も今日も大丈夫だったことが、明日も大丈夫とは限らない、ということを。
◆
私生活では大きな変化のあった俺と月島の関係だが、こと会社においては驚くほど何の変化も無かった。
セフレにならないかと言われた時には、どんな顔をして会社で会えばいいのかと悩んだものだが、一方の月島は、夜のことなど無かったかのように平然としていた。
素直に感心してしまうほど凄まじい割り切り方である。前に公私混同しないタイプだと匂わせていただけはあるということか。
そういう訳で、俺たちは今日も変わらず、ぶつかり合う日々を送っていた。
「君は付き合う相手をきちんと考えた方がいい。その取引先はあまり業績も素行もよろしくない、信用するに足らない会社だと思うが」
「どこの会社も叩けば埃の一つくらい出るだろ。うちとの取引では過去に何も問題を起こしていない上に、最短納期がこの会社なんだ。少し不安要素があるだけで棄てられるか」
「それは拙速と言うのだよ、リスクは避けて着実に進行するべきだ」
「他社に先を越されてもか? すでにライバル会社が動き出しているんだ。慎重と愚鈍は違うぞ」
「迅速と軽率も違うということを知った方がいい。特に君はね」
「はっ、御高説痛み入りますね。ところで忙しいので仕事に戻ってもいいですか?」
今日も今日とて飽きず懲りず、月島と顔を付き合わせて睨み合う。
やはりコイツとは根本的に考え方が合わなかった。
「私だって忙しいのだ、これだけ説明しているのだからそろそろ理解してくれると助かる」
「俺の反論もそろそろ聞いてくれると嬉しいね、その耳が飾りじゃないならば」
「……君に道理を説くのは酷く骨が折れるね、ここは上司の判断を仰ぐべきかと思うが」
「それには俺も賛成だ、石頭にも染みる言葉を探すのは難しいからな。これ以上は時間の無駄だ」
「課長」
「課長」
月島と口を揃えて振り返れば、非常に嫌そうな顔をした課長と目が合った。俺に振るなと言わんばかりの表情だが、そんな主張は俺も月島も揃って黙殺する。
やがて課長はうんうん唸って悩んだ結果、ゆっくりと俺の方を指差した。
俺はそれに満面の笑みで応え、月島へと向き直る。
「……だ、そうだ。分かったら席に戻ってくれ」
「ふむ、今回はスピード感を重視されているようだね。ならばもう何も言うまい、君の浅慮な判断でプロジェクトに懸念が生じるのは心苦しいところだが、そのリスクを理解させるだけの説明が私には出来ないようだ。己の力不足を恨むばかりだよ」
何が「何も言うまい」だ。充分過ぎるほど喋っているではないか。
もう一発ほど返してから仕事に戻ろうと考えたところで、ずっと黙って俺たちのやり取りを聞いていた神原が辟易した様子で口を開いた。
「お二人とも嫌味抜きで話し合えないんですか……」
溜息交じりに呟く神原はうんざりとした表情を浮かべている。そりゃ自分が仕事をしている隣で言い争われたらさぞ迷惑だろう。だが、乗っからせてもらう。
「おっと神原、お前もなかなか言うな。流石の俺も月島に死ねとまでは言わないぞ」
「はい?」
「コイツにとって嫌味は呼吸と変わらないからな。もし嫌味が言えなくなったら窒息死するぞ」
「ほう、その理屈が通じるなら悲しいね。君の方が早死にしそうだ」
「あぁもう、僕までダシにしないでくださいよ……」
神原は諦めた表情で机に突っ伏した。流石に可哀想になってきたので、この辺でお開きにしておくとしよう。
会話を断ち切るために受話器を取ると、向こうも肩をすくめて自席に戻って行った。
変わらなさ過ぎる、嫌な日常である。
わだかまった気持ちはすぐに晴れそうになかったが、件の取引先と今後の道筋を付け終わった頃には少し頭も冷えてきていた。
「巻き込んで悪かったな」
一言詫びて、神原に菓子を差し出す。
神原はまだむくれていたが、菓子を受け取るとすぐに口へと放り込んだ。
「まあ、いい加減お二人の言い争いにも慣れてきましたけどね。ところで一つ気になったことがあるんですけど」
「なんだ?」
「月島さんとの距離、近過ぎませんか。その、物理的に」
「……まじ?」
指摘されるまで気が付かなかったが、確かに思い返せば睫毛が数えられそうなほど顔が近かったような気もする。
いまいち認めきれない俺に、神原は重々しく頷いた。
「まじです」
「あー……気にするな」
どうやら何も変わらないと思っていたのは当人だけだったようだ。
また疑惑が再燃しても堪らない。せいぜいぼろを出さないように気を付けるとしよう。
——なんて決意をした日の夕方のことだ。
俺が何か決断をした時、もれなく邪魔をして来るのが月島亮介という男だった。
もはやエスパーの如く。俺は自分の思考が読まれているのではないかと気になって仕方がない。
そんな益体の無いことを、俺は月島に肩を抱かれながら考えていた。
「……」
隣には月島。目の前には久しぶりに会った同期。
どうしてこんなことになったのか。時は十分前に遡る。
「そこにいるのは篠崎か? 久しぶりだな!」
「ん? ……保坂じゃないか、戻ってきてたのか!」
俺は休憩がてら、ラウンジで紅茶を飲んでいるところだった。
そこに懐かしい顔がやってきたのである。同期の保坂だ。
保坂とは新人研修で同じチームになった縁もあり、入社当初から良い関係を築いていた。三年前に保坂が子会社へ出向してからというものの、少し疎遠になっていたが、元気にしていたようである。
「今年からまた本社でやることになってな。広報担当になったからあんまり関わりはないかもしれないが、よろしく頼むよ」
「へえ、広報か。面白そうな話があったら教えてくれよ。あと使えそうなヤツとかもな」
「そういうところ、変わってないな」
冗談交じりに述べれば、保坂は苦笑いを浮かべた。
話を聞いた中では、子会社でも同じノリで周囲に溶け込んで仲良くやっていたようだ。人材交流を終えて本社に帰ることが決まった際には、連日送別会に呼ばれて嬉しい苦労をしたという。
「たった三年とはいえ、本社も様変わりして見えてなぁ。気分は浦島太郎だよ」
「なんだ、心細いのか?」
「それはもう、構ってくれなきゃ寂しくて死ぬぞ?」
「お前が言っても可愛くないからやめろ。この三年間は色々あったな。例えば……」
誰が結婚しただの、どこの部署に誰がいるだの、ここ最近の情報交換をしていたら時間が経つのはあっという間だった。
まだまだ話し足りない思いはあったが、もうすぐ猫宮との約束がある。俺は名残を惜しみつつも、話を切り上げることにした。
「悪い、俺そろそろ行かなきゃならないんだ」
「そうか、また近いうちに飲みにでも行こうぜ」
断りを入れて立ち上がった俺の背中を、保坂が親しげに叩く。
異変が起きたのはその時だった。
「!」
不意に、何者かに強く引き寄せられる。
ぐっと肩を握り込まれる感覚に驚いて振り返れば、月島が恐ろしい形相で保坂を睨みつけていた。
月島は、あまり感情を見せない男だ。
これほどあからさまに激情を浮かべている姿は、散々月島を怒らせてきた俺ですら見たことがない。
「……っ」
誰も二の句が告げずにいると、月島は一度表情を失い、そしてゆっくりと目を見開いて俺を見た。その口は、無意味に開いては閉じてを繰り返している。
にわかには信じ難いが、衝動的な行動の結果、始末に困っている様子だった。コイツが我を忘れるとは、明日は雨に違いない。
「つき、しま?」
静寂を破ったのは、怯えの滲む保坂の声だった。
……さて、この気まずい空気をどうしてくれようか。
不本意ながら月島に対しては借りがある。神原への返答に詰まった際に口添えを受けた件だ。ここは一つ、それを返してやるとしよう。
「悪いな、ちょっと立ちくらみを起こしたみたいだ。支えてもらって助かった」
「……あ、ああ。気を付けてくれ」
適当に理由を付けて身を離せば、向こうも察して話を合わせてくる。
「じゃあな、保坂。また今度」
俺はまだ戸惑っている保坂から逃げるように猫宮の下へと向かった。その足取りはいつもより早い。 妙な高揚感と動悸が不愉快で、許されるなら走り出したい気分だった。
激情を剥き出しにした月島の顔が、脳裏にこびりついて離れない。
「よう、篠崎。時間ピッタリだな……って、どうしたんだ?」
猫宮は俺の顔を見るなり目を丸くする。
その声に引き寄せられた周囲の人間も、同じように驚きを滲ませていた。
「な、何がですか」
「自覚ないのか? 顔、真っ赤だぞ」
猫宮に指摘されて頬に手を当てる。熱い。
絶句した。
違う。絶対に違う。
これは急いで来たからであって、月島とはなんら関係のない現象だ。俺と月島は『天敵』同士、身体だけの関係なのだから。
そう。特別な人間は、二度と作らないと決めたのだ。
「——実は遅刻しそうになって、そこまで走ってきたんです」
「おいおい、お前でもそういうことがあるんだな」
猫宮はさして疑わず俺の言葉を信じ、呆れたように笑った。
俺も同調して曖昧な笑みを返す。そして大きく深呼吸をしてから、猫宮の後に続いてその場を離れた。
月島のことについてだ。
差し当たって何か問題があった訳ではない。月島に根負けして協定を結んだあの日から、俺たちは週に一度会っては寝るという関係を続けていた。
協定というのは、俺が一方的に押し付けた約束事の数々である。一つ、連絡は必要最低限に留めること。二つ、互いの私生活には干渉しないこと。三つ、夜の生活にも口を出さないこと……等々。
ここぞとばかりにたっぷり注文を付けてやると、月島は不服そうにしていたが、これがセフレになる絶対条件だと断言すると何も言わずに受け入れた。
それから二ヶ月以上、俺たちは大きな衝突も無く関係を続けている。
その関係がいかに順調かは、俺の部屋を見渡せば一目瞭然だ。
「アイツ、また荷物増やしたな?」
部屋のあちこちでは、いつの間にか持ち込まれた月島の私物が我が物顔で鎮座していた。
寝室の枕も、洗面所の歯ブラシも、食器もいつの間にか増やされており、今もベランダにはサイズの違うシャツが並んで干されている。
では、何を悩むことがあるのか。
……問題が無さ過ぎるのだ。
月島との関係に満足してしまっている現状が受け入れられなかった。思えば、せっかく相互不干渉としたにも関わらず、ここ最近は月島としか寝ていない。
それが妙に落ち着かなかった。理由は、分からないのだが。
(何で月島は嫌なんだろう。気持ち良くなれて、都合が良ければ誰でもいいじゃないか)
今まで、特定の相手と長期間関係を持ち続けたことが無い訳じゃない。長い時には一年くらい同じ相手と寝ていたこともある。
馬の合いそうな相手を探すのも楽ではないのだ。むしろ、都合が良ければ関係を維持するように動いてきた。その時には、こんな抵抗感など無かったのに。
(やっぱり嫌いな男だからだろうか? それも今更な気がするけど……)
いくら考えても答えは出そうになかった。それに、うじうじ悩んでいるのは俺らしくない。とりあえず、気分転換がてら月島以外の相手と寝てみることにしよう。
俺はそう決めると、月島に「今週はパス」とだけメールを送ってパソコンを立ち上げた。
——この時、原因不明の焦燥感に苛まれていたことは間違いない。
その結果、俺は当然のことを失念する。
昨日も今日も大丈夫だったことが、明日も大丈夫とは限らない、ということを。
◆
私生活では大きな変化のあった俺と月島の関係だが、こと会社においては驚くほど何の変化も無かった。
セフレにならないかと言われた時には、どんな顔をして会社で会えばいいのかと悩んだものだが、一方の月島は、夜のことなど無かったかのように平然としていた。
素直に感心してしまうほど凄まじい割り切り方である。前に公私混同しないタイプだと匂わせていただけはあるということか。
そういう訳で、俺たちは今日も変わらず、ぶつかり合う日々を送っていた。
「君は付き合う相手をきちんと考えた方がいい。その取引先はあまり業績も素行もよろしくない、信用するに足らない会社だと思うが」
「どこの会社も叩けば埃の一つくらい出るだろ。うちとの取引では過去に何も問題を起こしていない上に、最短納期がこの会社なんだ。少し不安要素があるだけで棄てられるか」
「それは拙速と言うのだよ、リスクは避けて着実に進行するべきだ」
「他社に先を越されてもか? すでにライバル会社が動き出しているんだ。慎重と愚鈍は違うぞ」
「迅速と軽率も違うということを知った方がいい。特に君はね」
「はっ、御高説痛み入りますね。ところで忙しいので仕事に戻ってもいいですか?」
今日も今日とて飽きず懲りず、月島と顔を付き合わせて睨み合う。
やはりコイツとは根本的に考え方が合わなかった。
「私だって忙しいのだ、これだけ説明しているのだからそろそろ理解してくれると助かる」
「俺の反論もそろそろ聞いてくれると嬉しいね、その耳が飾りじゃないならば」
「……君に道理を説くのは酷く骨が折れるね、ここは上司の判断を仰ぐべきかと思うが」
「それには俺も賛成だ、石頭にも染みる言葉を探すのは難しいからな。これ以上は時間の無駄だ」
「課長」
「課長」
月島と口を揃えて振り返れば、非常に嫌そうな顔をした課長と目が合った。俺に振るなと言わんばかりの表情だが、そんな主張は俺も月島も揃って黙殺する。
やがて課長はうんうん唸って悩んだ結果、ゆっくりと俺の方を指差した。
俺はそれに満面の笑みで応え、月島へと向き直る。
「……だ、そうだ。分かったら席に戻ってくれ」
「ふむ、今回はスピード感を重視されているようだね。ならばもう何も言うまい、君の浅慮な判断でプロジェクトに懸念が生じるのは心苦しいところだが、そのリスクを理解させるだけの説明が私には出来ないようだ。己の力不足を恨むばかりだよ」
何が「何も言うまい」だ。充分過ぎるほど喋っているではないか。
もう一発ほど返してから仕事に戻ろうと考えたところで、ずっと黙って俺たちのやり取りを聞いていた神原が辟易した様子で口を開いた。
「お二人とも嫌味抜きで話し合えないんですか……」
溜息交じりに呟く神原はうんざりとした表情を浮かべている。そりゃ自分が仕事をしている隣で言い争われたらさぞ迷惑だろう。だが、乗っからせてもらう。
「おっと神原、お前もなかなか言うな。流石の俺も月島に死ねとまでは言わないぞ」
「はい?」
「コイツにとって嫌味は呼吸と変わらないからな。もし嫌味が言えなくなったら窒息死するぞ」
「ほう、その理屈が通じるなら悲しいね。君の方が早死にしそうだ」
「あぁもう、僕までダシにしないでくださいよ……」
神原は諦めた表情で机に突っ伏した。流石に可哀想になってきたので、この辺でお開きにしておくとしよう。
会話を断ち切るために受話器を取ると、向こうも肩をすくめて自席に戻って行った。
変わらなさ過ぎる、嫌な日常である。
わだかまった気持ちはすぐに晴れそうになかったが、件の取引先と今後の道筋を付け終わった頃には少し頭も冷えてきていた。
「巻き込んで悪かったな」
一言詫びて、神原に菓子を差し出す。
神原はまだむくれていたが、菓子を受け取るとすぐに口へと放り込んだ。
「まあ、いい加減お二人の言い争いにも慣れてきましたけどね。ところで一つ気になったことがあるんですけど」
「なんだ?」
「月島さんとの距離、近過ぎませんか。その、物理的に」
「……まじ?」
指摘されるまで気が付かなかったが、確かに思い返せば睫毛が数えられそうなほど顔が近かったような気もする。
いまいち認めきれない俺に、神原は重々しく頷いた。
「まじです」
「あー……気にするな」
どうやら何も変わらないと思っていたのは当人だけだったようだ。
また疑惑が再燃しても堪らない。せいぜいぼろを出さないように気を付けるとしよう。
——なんて決意をした日の夕方のことだ。
俺が何か決断をした時、もれなく邪魔をして来るのが月島亮介という男だった。
もはやエスパーの如く。俺は自分の思考が読まれているのではないかと気になって仕方がない。
そんな益体の無いことを、俺は月島に肩を抱かれながら考えていた。
「……」
隣には月島。目の前には久しぶりに会った同期。
どうしてこんなことになったのか。時は十分前に遡る。
「そこにいるのは篠崎か? 久しぶりだな!」
「ん? ……保坂じゃないか、戻ってきてたのか!」
俺は休憩がてら、ラウンジで紅茶を飲んでいるところだった。
そこに懐かしい顔がやってきたのである。同期の保坂だ。
保坂とは新人研修で同じチームになった縁もあり、入社当初から良い関係を築いていた。三年前に保坂が子会社へ出向してからというものの、少し疎遠になっていたが、元気にしていたようである。
「今年からまた本社でやることになってな。広報担当になったからあんまり関わりはないかもしれないが、よろしく頼むよ」
「へえ、広報か。面白そうな話があったら教えてくれよ。あと使えそうなヤツとかもな」
「そういうところ、変わってないな」
冗談交じりに述べれば、保坂は苦笑いを浮かべた。
話を聞いた中では、子会社でも同じノリで周囲に溶け込んで仲良くやっていたようだ。人材交流を終えて本社に帰ることが決まった際には、連日送別会に呼ばれて嬉しい苦労をしたという。
「たった三年とはいえ、本社も様変わりして見えてなぁ。気分は浦島太郎だよ」
「なんだ、心細いのか?」
「それはもう、構ってくれなきゃ寂しくて死ぬぞ?」
「お前が言っても可愛くないからやめろ。この三年間は色々あったな。例えば……」
誰が結婚しただの、どこの部署に誰がいるだの、ここ最近の情報交換をしていたら時間が経つのはあっという間だった。
まだまだ話し足りない思いはあったが、もうすぐ猫宮との約束がある。俺は名残を惜しみつつも、話を切り上げることにした。
「悪い、俺そろそろ行かなきゃならないんだ」
「そうか、また近いうちに飲みにでも行こうぜ」
断りを入れて立ち上がった俺の背中を、保坂が親しげに叩く。
異変が起きたのはその時だった。
「!」
不意に、何者かに強く引き寄せられる。
ぐっと肩を握り込まれる感覚に驚いて振り返れば、月島が恐ろしい形相で保坂を睨みつけていた。
月島は、あまり感情を見せない男だ。
これほどあからさまに激情を浮かべている姿は、散々月島を怒らせてきた俺ですら見たことがない。
「……っ」
誰も二の句が告げずにいると、月島は一度表情を失い、そしてゆっくりと目を見開いて俺を見た。その口は、無意味に開いては閉じてを繰り返している。
にわかには信じ難いが、衝動的な行動の結果、始末に困っている様子だった。コイツが我を忘れるとは、明日は雨に違いない。
「つき、しま?」
静寂を破ったのは、怯えの滲む保坂の声だった。
……さて、この気まずい空気をどうしてくれようか。
不本意ながら月島に対しては借りがある。神原への返答に詰まった際に口添えを受けた件だ。ここは一つ、それを返してやるとしよう。
「悪いな、ちょっと立ちくらみを起こしたみたいだ。支えてもらって助かった」
「……あ、ああ。気を付けてくれ」
適当に理由を付けて身を離せば、向こうも察して話を合わせてくる。
「じゃあな、保坂。また今度」
俺はまだ戸惑っている保坂から逃げるように猫宮の下へと向かった。その足取りはいつもより早い。 妙な高揚感と動悸が不愉快で、許されるなら走り出したい気分だった。
激情を剥き出しにした月島の顔が、脳裏にこびりついて離れない。
「よう、篠崎。時間ピッタリだな……って、どうしたんだ?」
猫宮は俺の顔を見るなり目を丸くする。
その声に引き寄せられた周囲の人間も、同じように驚きを滲ませていた。
「な、何がですか」
「自覚ないのか? 顔、真っ赤だぞ」
猫宮に指摘されて頬に手を当てる。熱い。
絶句した。
違う。絶対に違う。
これは急いで来たからであって、月島とはなんら関係のない現象だ。俺と月島は『天敵』同士、身体だけの関係なのだから。
そう。特別な人間は、二度と作らないと決めたのだ。
「——実は遅刻しそうになって、そこまで走ってきたんです」
「おいおい、お前でもそういうことがあるんだな」
猫宮はさして疑わず俺の言葉を信じ、呆れたように笑った。
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