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王女と騎士の再会
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恋する人と結ばれない――それは幼い頃から繰り返し見てきた夢。
「シャーロット王女殿下……」
「フィデリオ。わたくしが隣国に嫁いでも、わたくしの心はあなたのもとに。どうか来世ではあなたの妻にしてください」
「もちろんでございます」
誰も近寄らない裏庭の東屋にて、シャーロットは自分の愛する騎士を見つめた。
彼は胸に手を当てて跪き、頭を垂れている。
いつだって、身分違いの恋の結末は、物語のようなハッピーエンドとはほど遠い。所詮、現実なんてこんなものだ。
自分が王女でなければ。彼が他国の王子であったなら。
そんなもしもを想像しても、切ないだけだ。
彼の前で涙は見せてはいけない。彼が思い出す自分の顔は笑顔であってほしいから。
「願わくはあなたに幸多からんことを。――来世では結ばれましょう」
「はい……っ! 姫様もどうぞお元気で」
その約束を最後に、舞台は暗転する。
夢から覚めたときは、心にぽっかりと穴があいたような空虚感が残っている。
目の裏には、夢の中の騎士がエメラルドグリーンの瞳をきらきらさせ、自分を見上げているシーンが焼き付いていた。
別れを惜しむように目を少し潤ませた彼の顔を思い出すたび、胸がつきりと痛む。
その痛みはまるで、忘れるな、と自分に戒めているようだった。
◇◆◇
「ローゼリア様。いつもバザーの品をお持ちくださり、ありがとうございます」
シスターに渡したカゴの中には、ローゼリアが刺繍したハンカチやレース編みのコースターなどが入っている。
「孤児院のためですもの。わたくしにはこのくらいしかできませんので」
「何をおっしゃいますか。ヴェルディ子爵家からは定期的に孤児院に寄附金もいただいておりますし。なんとお礼を申し上げていいか」
恐縮しているシスターをなだめ、ローゼリアはまた来ます、と言って礼拝堂脇の小部屋から退室した。
祭壇の後ろに立つ司祭に目礼し、入り口を目指す。
横に並ぶステンドグラスから光が斜めに差し込み、赤い絨毯の上に降り注ぐ。古びた長椅子には老夫婦が座っている以外、がら空きだ。
とはいえ、ヴェルディ領の教会は週末には人でにぎわう。温厚な司祭の語り口は心を和やかにさせる作用もあり、いつもは騒がしい子供もおとなしくなるとか。
王都の大聖堂に比べたら規模も内装も見劣りするが、領民の憩いの場になっていることは疑いようがない。
教会の裏にある孤児院では今頃、お腹を空かせた子供たちが元気に走り回っているだろう。シスターの話だと、勉強も頑張っているようだし、近いうちにクッキーを差し入れに来ようと決める。
教会の扉を開けると、ちょうど表に横付けされた馬車から青年が降りてくるところだった。
首元に巻かれたクラヴァットに膝丈まであるフロックコート。背も高めだ。貴族らしい格好だけでなく、馭者に言葉を返す言葉遣いも優しい。育ちの良さが垣間見えた。
(……それにしても珍しい。瑠璃紺の髪だわ)
思わず凝視していると、向こうも立ちすくむローゼリアに気がついたように、こちらに視線が向けられる。
その瞬間、切れ長の瞳が瞬いた。
短いような長いような沈黙ののち、ローゼリアは既視感を抱く。
(エメラルドグリーンの瞳……夢と同じ……)
夢の中で未来を誓い合った騎士と同じ瞳に、金縛りに遭ったように体が動けなくなる。
顔の造作は美しいが、昔から夢で会う彼とは別人だ。そもそも髪の色も違う。
――それなのに、なぜか夢で見た騎士と目の前の人物がダブって見えた。
頭の片隅で、そんなことあるわけない、と否定の声がする。
見目麗しい紳士を見ていると、夢の続きを言いそうになってしまう。慌てて口元を手で覆い、ローゼリアは居たたまれなくなって駆け出した。
しかし、すぐに低い声が静止を呼びかける。
「お、お待ちください。シャーロット王女様」
「…………」
その名前は夢の中の自分を指す言葉で。
だけど、今は自分は起きている。これはどういうことだ。
混乱する頭でゆっくり振り返ると、ホッとしたように男が表情をゆるませた。
「覚えていらっしゃいませんか? あなたの護衛騎士をしておりました、フィデリオです」
その目は確かに見覚えがある。
自分をまっすぐに見つめてくる瞳は、愛しい、と訴えかけるように甘くて。
ローゼリアは夢で知っていた彼の名前を無意識に口にしていた。
「あなたは……フィデリオ・キース? 本当に?」
「ああ、女神に感謝を。お会いしとうございました。我が主」
別れのシーンではなく、彼が自分に忠誠を誓っていた夢を思い出す。
誇らしげで、嬉しげな様子は、そのときと酷似していて。
「でも、だって――あれは夢で……」
「夢ではありませんよ。前世でのあなたは王女殿下、私は護衛騎士でした」
「……それでは、あの約束も……?」
「もちろん。シャーロット様と交わした約束を忘れるはずがございません」
ローゼリアは信じられない思いで、フィデリオを見つめ返す。
(嘘でしょ……? あれは前世の記憶だったの? この人はわたくしの騎士?)
しかし、嘘だと断じるには、仕草も口調も、あまりにも似ていた。
何よりも、今まで誰にも話したこともないのに、夢の中の話が一致している。
そして決定的なのは、会いたかった、と思う自分の心。
(どう、して……)
心の奥底の自分が、目の前の彼を求めている。
自分の心なのに、自分のものではないような恐怖感がこみ上げる。本能的に彼に抱きつきたい衝動をなんとかこらえ、額に手を当てて嘆息していると、フィデリオが遠慮がちに質問してきた。
「失礼ですが、シャーロット様の今のお名前をお聞かせいただけませんか?」
その一言で、冷や水を浴びたように、騒ぎ立てていた心がおとなしくなる。
(そうだわ。前世は身分差でこの恋は叶わなかった。そして、今世でも身分が釣り合わなければ、この恋は実らない……)
貴族の中でも、ヴェルディ子爵家は下級よりの中級貴族だ。
ローゼリアは母親から習ったように、ドレスの裾をひとつかみし、淑女の礼をした。
「……ヴェルディ子爵が娘、ローゼリアです」
「ローゼリア様ですか。素敵なお名前ですね。私はエリック・スペンサーと申します」
「ということは、スペンサー伯爵家の……?」
「嫡男です。今世で私たちを遮る身分差の壁はないようですね」
フィデリオ――改め、エリックは貴公子然とした笑みを浮かべ、許しを請うように膝を折り、片手を差し出した。
「ローゼリア様。だいぶお待たせしてしまいましたが、どうか私の妻になっていただけませんか?」
◇◆◇
ふわふわとした気分のまま帰宅したローゼリアを待っていたのは、そわそわと落ち着かない様子で出迎えてくれた父親だった。
お金は領民のために。それを家訓にしたヴェルディ子爵家は貧乏ではないが、贅沢な暮らしとはほど遠い、質素倹約を体現した生活を送っている。無駄な出費を嫌い、王都での社交も必要最低限のみ。それが当たり前だったから、よそはよそ、うちはうちと割り切って生きてきた。
当然ながら、使用人の数も普通の家よりずっと少ない。
自分でできることは自分でする。幼い頃から言われてきたローゼリアは身の回りのことは一通りできる。
滅多にないが、お茶会や夜会を主催する際は臨時使用人を雇う。それで回ってきたのだ。何人もお世話係がいるような、お姫様のような生活なんて自分には縁もない。そう思ってきたが。
(信じられないけれど、わたくし、本当に前世ではお姫様だったのね……)
不意に、先ほどの求婚の言葉を思い出し、ボンッと火を噴いたように顔が熱くなる。
「――ローゼリア?」
「は、はい」
父親に目を合わすと、呆れたように目を細められた。
紅茶を淹れたティーカップをソーサーに戻し、父親がテーブルにソーサーごと戻す。
「その顔は聞いていなかったね」
「ご、ごめんなさい」
「では、もう一度言うが……お前に婚約者ができた」
寝耳に水の言葉に、さっきまで一喜一憂していたローゼリアから一切の表情が抜け落ちた。
「は……?」
「カレイド侯爵令息のレイモンド殿だ。お前も噂ぐらいは聞いているだろう?」
それは社交界にデビューしている者なら、一度は聞く名前だ。
二十歳になったレイモンドはデビュタントを済ませたばかりの淑女だけでなく、未亡人のご婦人の心までとりこにする美貌の紳士だ。
「ちょっと待ってください。レイモンド・カレイド様ですよね? 彼なら女性に困る人ではないでしょうに、どうして……よりによってわたくしに……」
「そこなんだがな、私にもわからないんだ。接点はなかったと思うんだが」
「記憶が確かなら、一度話したことがあるかないか、ぐらいだったはずです」
「だがカレイド侯爵直々に頼まれて、うちが断る理由もない。顔合わせを兼ねて、来月、我が家にレイモンド殿が来るらしい」
あくまで彼は鑑賞用だ。
まかり間違っても、彼の妻の座を狙うなんて、おそろしい行動をしてはならない。そんなことをしては、余計な恨みを買うことは明白だからだ。
「…………我が家に拒否権は?」
「無論、ないに等しいな。向こうは名門侯爵家、うちはただの子爵家だし」
「ですよね……」
遠目になったローゼリアは窓の外に視線を向けた。
屋敷からよく抜け出す飼い猫がメイドに抱っこで連行されていくのを見つめながら、三日後に返事を言うことになっているエリックになんと説明すればいいか、脳内議題は早くも詰んだ。
◇◆◇
「つまり、どういうことです?」
教会前で待ち合わせ、そのまま近くのカフェに入ったローゼリアたちは、店員に注文を済ませた後、ローゼリアから近況報告を始めることになった。
エリックが頼んだブレンドコーヒーが運ばれ、ローゼリアの前にはレモンパイが載ったお皿と紅茶のティーカップが置かれる。
店員が一礼して去っていくのを見て、ローゼリアは口を開いた。
「さっきも説明した通り、カレイド侯爵家から婚約の打診がありました。今は月末ですから、週明けには婚約者が顔見せにいらっしゃるそうです」
「では……その婚約を受けると?」
「うちは子爵家です。断る立場にありません」
「……そう……ですか」
エリックは湯気が立ち上がるコーヒーカップを見下ろし、そのまま沈黙してしまう。
伯爵家と子爵家の結婚なら、前世のような身分差が障害になることはない。
けれど、家格が上の侯爵家からの結婚話が来れば、話は別だ。貴族の結婚とは家同士の取り決め。そこに本人の意思が尊重されることはない。
(わたくしたちが一緒になる道は……また潰えたことになる)
本当に、女神がいるのならば。
喜ばせた後に絶望させる、こんな無慈悲な仕打ちはしないだろう。
つまり、神などいない。自分の人生は自分でどうにかするしかないのだ。
「エリック様。わたくしは…………」
言葉の続きが言えないまま、ローゼリアは口を引き結ぶ。
自分はまた、目の前の人を置いて他の人の元へ行かなければならない。
来世でこそと願い、やっと巡り会ったのに、運命の赤い糸はいとも簡単に自分たちを引き裂く。こんなことならば、いっそ出会わなければよかったかもしれない。
そうすれば、無駄に期待することもなかっただろうから。
「ローゼリア様」
「は、はい」
決意を秘めたようなエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、ローゼリアは姿勢を正した。
対するエリックは眉間に皺を寄せ、重い口を開く。
「私は……臆病者でした。一介の騎士が王女様を幸せにする権利はないと思って、あなたを見送ることしかできなかった。そして後悔しました。あなたが隣国に赴く旅の中で命を落としたと聞いたとき、どうしてお側にいなかったのかと」
「…………フィデリオ」
苦渋に満ちた顔で視線を横にそらすエリックの嘆きに、元主人として何か言葉をかけなければと思うが、口の中で言葉が空回りしてしまう。
自分は彼を置いていった身だ。今さら、慰めの言葉をかける資格はない。
後悔の念にさいなまれていると、エリックがこちらを見ているのに気づく。視線が合わさると、ひどく凪いだ瞳に心を読まれたような錯覚が襲う。
「もしローゼリア様から望むならば、私があなたを連れ出し、遠い国まで逃げてみせましょう。いいえ、どうかご命令ください。我が主」
自分は無力だ。女ができることなんて、たかが知れている。
前世の自分は王女だった。ただ守られるだけの、鳥かごの姫だった。けれど。
(わたくしはいつまでお姫様気分でいるつもり? 愛する人にばかり苦労や心配をかけて、どうして自分で何もしようとしないの。これでは前世の二の舞だわ)
もう自分はお姫様じゃない。
戦う前から諦めているだけでは、何も状況は変わらない。
「フィデリオ――いいえ、エリック様。わたくしはあなたと約束しました。来世では結ばれましょう、と」
「ええ、ですから……」
言葉の続きを引き取ろうとしたエリックに手で制し、ローゼリアは首を横に振る。
「わたくしを信じていただけるなら、どうか待っていただけませんか。せっかく生まれ変わって、またあなたに出会えたのですもの。今のわたくしがただ守られるだけの姫ではないと、証明してみせます」
◇◆◇
渋りながらも仕事で王都に戻るエリックを見送り、ローゼリアは婚約者が来るのを今か今かと待っていた。
三日前、今日の午後にお伺いしますという手紙が届き、時計の針は午後二時を過ぎた。
気を揉みながらハーブティーで心を落ち着かせていると、開けていた窓の向こうから馬車の車輪が止まる音がした。
(――来たわ!)
ティーセットを厨房に戻し、お客用のお茶の用意を頼む。
淑女の最大速度で玄関に駆けつけると、年配のメイドが客人を応接間に案内しているところだった。
先方で背を向ける、ふわふわのマロンブラウンの髪が見えた。
幸か不幸か、両親はちょうど急ぎの用事で出払っている。じきに帰ってくるだろうが、一対一で話をするなら今を置いて他にない。
退室するメイドと入れ違いになる形でローゼリアは応接間に入り、膝を折って淑女らしく名乗った。
「初めまして。わたくしはヴェルディ子爵ヨーゼルの娘、ローゼリアと申します」
目線を上げると、二人がけのソファに腰を下ろした紳士が立ち上がった。
胸まで伸びた髪を前でゆるく結い、大人の余裕のある笑みが迎える。
「ご丁寧にどうもありがとう。僕はレイモンド・カレイドという。ヴェルディ子爵から聞き及んでいると思うが、今日は君の婚約者として挨拶に伺った。まあ、立ち話もなんだ、座って話をしないかい?」
「……はい」
お互い着席すると、榛色の瞳が興味深げにこちらを見ているのに気づく。
二重の垂れ目は警戒心を解くように穏やかな光を宿し、意気込んでいたローゼリアは肩すかしを食らったような気分になった。
(ううん。騙されちゃダメ。この人は百戦錬磨のレイモンド様。小娘の機嫌を取ることなど造作もないはずだもの。胸の内は何を考えているかなんて、わからないじゃない)
社交用の笑みを貼り付かせ、彼の世間話に相づちを打つ。
話の途中でメイドが紅茶とお茶菓子を持ってきたが、レイモンドは律儀にもメイドに礼を言い、女性第一主義という噂は本物なのかもしれないと分析する。
(やっぱり手慣れているわね……話も選び方も、間の取り方も絶妙なバランスだし、これは世の女性が放っておかないはずだわ)
レイモンドが紅茶を一口飲んだのを見届け、ローゼリアは爆弾を落とした。
「どうすれば、この婚約を白紙にしていただけるでしょうか」
さっきまでの平和な雰囲気を塗り替える発言に、レイモンドが意外そうに目を丸くしている。
「まさかとは思うけど……侯爵家との縁談を蹴るつもりかい?」
「許されるのならば」
素直な気持ちを告白すると、今度は楽しそうに口角が上がる。
「ふうん。好きな男でもいるのかな。――残念だけど、決定権は僕にある。君の意見がどうであれ、僕が結婚すると決めたら君に逃げる道はない」
「…………」
「まあ、こんなことは改めて言わなくてもわかっているとは思うけど」
その通りだ。けれど、こっちにだって譲れないものがあるのだ。
「わたくしは……あなたに好かれるようなことをした覚えはありません」
「そうだね。でも君のことは知っているよ。君の家は定期的に孤児院に寄付をしているね。そして君自身、教会でのバザーには毎回参加している。慈善活動での君は、さながら女神のようだと子供たちに人気だ」
「……わたくしは自分のしたいことをしたまでです」
誰かに褒められたくてやってきたわけじゃない。
孤児院の運営はいつの時代も寄付がなければやっていけない。自分は運良く貴族の娘として生を受けた。おかげで、食べるものも着るものも困らない生活を送れている。
だが、孤児院の子供たちは違う。古着を着まわし、限られた食料を分け合い、命を明日に繋いでいる。
偽善者と呼ばれても構わない。困っている人がいるなら、手助けしたい。
レイモンドは優雅に足を組み直して言う。
「でも、それは誰にでもできることじゃない。貴族の娘なら、自分の姿をいかに美しく見せられるかにこだわっている例も多いしね。だから、君みたいな子は珍しい」
「…………」
「知っていると思うが、僕は昔から女性に囲まれることには慣れている。女性が喜ぶ会話運びや気遣いも得意なほうだと思う。大抵の女性は僕に声をかけられて頬を染めるものだが、何事にも例外がある」
レイモンドは甘い笑みを浮かべ、ローゼリアを真正面から見返す。
意味深な視線に、もしかして、と傾けていた首を元の位置に戻した。
「……それがわたくし、というわけですか?」
「新鮮だったよ。喜ぶどころか、迷惑そうにされるなんて経験、今までなかったからね」
「それは申し訳ございません」
とっさに謝罪を口にすると、レイモンドは困ったように笑った。
「誤解してほしくないんだけど、謝ってほしいわけでもないよ。僕は君のおかげで目が覚めたんだ。世の中、すべて自分の思い通りになるわけないってことに。……今まで僕にいいように事が運んでいたのはカレイド侯爵家という盾があってこそ。本当の僕を必要としてくれる人は思っていたよりずっと少ない。そして、女性が求めるのは次期侯爵夫人という肩書きだった。でも君は違うだろう?」
確信を秘めた言葉を向けられて、不承不承、首を縦に振る。
周りから注目されるより、その他大勢に分類される今の生き方のほうが性に合っている。他人に敬われる生き方は王女時代で充分だ。
「わたくしは贅沢な生活に憧れはありません」
「だろうね。そんな君だからこそ、将来の伴侶に迎えたいと思った。僕には君が必要なんだ。ローゼリア嬢、ぜひ考え直してほしい」
「……何度言われても答えは同じです。たとえ、このまま結婚しても。わたくしの心は一生、手に入りませんよ?」
牽制のつもりで言うと、レイモンドは余裕のある仕草で、ソファの肘掛け部分に長い指先を乗せて笑みを深めた。
「それでも構わないと言ったら?」
「自分のための人形がほしいのなら、お店でお買い求めくださいませ。わたくしは商品ではありません」
「…………驚いたな。そんな断り文句、初めて聞いたよ」
「あなたには本音でぶつかったほうがよいかと思いましたので」
無表情で淡々と述べると、しばし沈黙が降りた。
それから少しの間を置いて、くつくつとこらえきれない笑いの声が聞こえた。
「くくっ、そうか。わかった。――五年だ。五年以内に君が幸せな花嫁になっていなければ、僕は今度こそ君を離さない。そのときは覚悟しておいてくれ」
最初、何を言われたのか、とっさに理解ができなかった。
けれど、彼の言葉を頭の中で反芻し、彼が折れてくれたのだとわかる。と同時に、ピンと張っていた緊張の糸がゆるまるのを感じた。
ここが自室だったら、へなへなとソファから崩れ落ちていたに違いない。
「……承知しました」
「もしも僕に鞍替えしたくなったら、いつでも言ってくれ」
「万に一つもないと思いますが、そのときが来ればご連絡を差し上げます」
「それは期待してもいいということかな?」
「社交辞令です」
「残念だ」
本当に残念そうに肩をすくめてみせるものだから、ローゼリアもつい笑みをこぼしてしまう。入室したときとは違い、応接間は和らいだ雰囲気に包まれていた。
その後、雑談をしながら父親が来るのを待ち、綺麗な焼き目がついたクッキーをつまむ。外は快晴。絶体絶命だと思われた問題も回避できた。
(今度こそ、わたくしは幸せな花嫁になってみせるわ――)
まずは父親に事情を説明し、この婚約の話を白紙に戻して、新たな婚約者としてエリック・スペンサーの名前を挙げなければならない。
◇◆◇
内々に教会での誓約を済ませ、婚約公示も秒読みだろうということは社交界にも知れ渡っていたらしく、久しぶりに会った友人に祝福の言葉をもらう中で、ローゼリアは遅れてやってきた婚約者の姿を目に留めた。
それから気を利かせた友人に追い立てられるように、タキシード姿のエリックのもとに行く。エリックはすぐにローゼリアに気がつき、頭を下げた。
「遅れてしまい、申し訳ございません」
「いいえ。問題ありません。お仕事、大変そうですね」
「ええまあ。ちょっと今、新しい販路を開拓している関係で、いろいろ調整しているところでして。――ダンスにお誘いしても?」
「喜んで」
ちょうど、曲調がスローテンポのワルツに変わったところだ。フルートが春の風を呼び込み、バイオリンが芽吹く若葉を表現するように軽やかな音楽を奏でてている。手を繋ぎ、アイコンタクトで示し合わせ、同時にダンスの輪に入っていく。
二人きりになったところで、エリックは申し訳なさそうに眉を下げた。
「姫様……いえ、ローゼリア様」
「今のわたくしに様付けは不要です、エリック様」
「立場が変わっても、あなたはわたくしにとって、生涯守りたい姫君であり、主君です。これだけは譲れません。それに、二人きりのときならば問題ないでしょう?」
まるで許されるのがわかっているような確認に、ローゼリアは飼い犬に噛まれたような複雑な気持ちになった。
「もしかして、根に持っていますか?」
「何のことでしょう?」
すっとぼけた様子で聞き返す婚約者の顔は晴れやかだ。
「……わたくしが、あなたとの婚姻に根回しをしたことについてです。あなたにはほとんど事後承諾のような扱いになってしまいましたから」
「私の姫様は優秀でいらっしゃる。それを見事、証明してくれましたからね。驚くなというほうが無理があります。ですが、主の成長は臣下として喜ばしく思っているのも本当ですよ」
「……本音は?」
尋ねると、片手を外されて、くるくると回転させられる。と思ったら、背中に手を回されてぐっと抱き起こされた。離れていた距離が一気に縮まり、あやうく呼吸が止まりそうになった。
その反応がおかしかったのか、エリックはふっと笑みを浮かべた。
頬を膨らす隙すら作らせずに優雅にエスコートされるまま、会場をステップを踏みながら移動していく。他のダンス客とぶつからないように誘導されている中で、エリックがゆっくり口を開く。
「いつか、ローゼリア様をあっと驚かせてやりたいと思っています」
「……そうですか」
「こんなことを思う私は不敬でしょうか?」
「いいえ。前世の記憶がある以上、主従関係はそう簡単に変えられないということはわかりました。ですが、そのくらいなら許容範囲でしょう。だって、今のわたくしたちは婚約者なのですから」
そう、ここは前世とは違う。
たとえ記憶があったとしても、育ってきた環境が違えば、昔と違うことだって多いはずだ。
彼と婚約を決めたのは、ただ人生をやり直すだけでなく、エリックとして生きてきた彼をもっと知りたいと思ったから。そしてもう一度、恋をするため。
前世は確かに、自分たちの関係は秘密の恋人同士だったのだろう。だが、転生後の関係は記憶があるというだけで、ローゼリアの心はどこかちぐはぐだった。
彼に恋い焦がれる自分がいる一方で、それを客観視している自分がいた。まるで、誰かの恋物語を読んでいるみたいな感覚だった。
それでも、この人を好きになるという確信はあった。
だからこそ、シャーロットとしてではなく、ローゼリアとして彼に恋をするため、彼と婚約できるように手を尽くしたのだ。
今、自分に必要なのは時間だ。この小さな胸騒ぎに名前をつけるための。
「――ローゼリア様」
「はい」
「前世ではできなかったことをたくさんして、お互いのことを知って、未来もずっと一緒に過ごしていきましょうね」
「……はい!」
自分たちはもう王女と騎士ではない。
世間から見れば、ごくありふれた、ただの婚約者だ。それでいい。
(わたくしたちの関係はここから始まる。夢のような悲恋で終わる結末にはさせない)
前世はあくまで前世だ。今世の恋は今から育んでいく。
そして、あの夢の続きの結末を幸せな余韻で満たしていくのだ。
「シャーロット王女殿下……」
「フィデリオ。わたくしが隣国に嫁いでも、わたくしの心はあなたのもとに。どうか来世ではあなたの妻にしてください」
「もちろんでございます」
誰も近寄らない裏庭の東屋にて、シャーロットは自分の愛する騎士を見つめた。
彼は胸に手を当てて跪き、頭を垂れている。
いつだって、身分違いの恋の結末は、物語のようなハッピーエンドとはほど遠い。所詮、現実なんてこんなものだ。
自分が王女でなければ。彼が他国の王子であったなら。
そんなもしもを想像しても、切ないだけだ。
彼の前で涙は見せてはいけない。彼が思い出す自分の顔は笑顔であってほしいから。
「願わくはあなたに幸多からんことを。――来世では結ばれましょう」
「はい……っ! 姫様もどうぞお元気で」
その約束を最後に、舞台は暗転する。
夢から覚めたときは、心にぽっかりと穴があいたような空虚感が残っている。
目の裏には、夢の中の騎士がエメラルドグリーンの瞳をきらきらさせ、自分を見上げているシーンが焼き付いていた。
別れを惜しむように目を少し潤ませた彼の顔を思い出すたび、胸がつきりと痛む。
その痛みはまるで、忘れるな、と自分に戒めているようだった。
◇◆◇
「ローゼリア様。いつもバザーの品をお持ちくださり、ありがとうございます」
シスターに渡したカゴの中には、ローゼリアが刺繍したハンカチやレース編みのコースターなどが入っている。
「孤児院のためですもの。わたくしにはこのくらいしかできませんので」
「何をおっしゃいますか。ヴェルディ子爵家からは定期的に孤児院に寄附金もいただいておりますし。なんとお礼を申し上げていいか」
恐縮しているシスターをなだめ、ローゼリアはまた来ます、と言って礼拝堂脇の小部屋から退室した。
祭壇の後ろに立つ司祭に目礼し、入り口を目指す。
横に並ぶステンドグラスから光が斜めに差し込み、赤い絨毯の上に降り注ぐ。古びた長椅子には老夫婦が座っている以外、がら空きだ。
とはいえ、ヴェルディ領の教会は週末には人でにぎわう。温厚な司祭の語り口は心を和やかにさせる作用もあり、いつもは騒がしい子供もおとなしくなるとか。
王都の大聖堂に比べたら規模も内装も見劣りするが、領民の憩いの場になっていることは疑いようがない。
教会の裏にある孤児院では今頃、お腹を空かせた子供たちが元気に走り回っているだろう。シスターの話だと、勉強も頑張っているようだし、近いうちにクッキーを差し入れに来ようと決める。
教会の扉を開けると、ちょうど表に横付けされた馬車から青年が降りてくるところだった。
首元に巻かれたクラヴァットに膝丈まであるフロックコート。背も高めだ。貴族らしい格好だけでなく、馭者に言葉を返す言葉遣いも優しい。育ちの良さが垣間見えた。
(……それにしても珍しい。瑠璃紺の髪だわ)
思わず凝視していると、向こうも立ちすくむローゼリアに気がついたように、こちらに視線が向けられる。
その瞬間、切れ長の瞳が瞬いた。
短いような長いような沈黙ののち、ローゼリアは既視感を抱く。
(エメラルドグリーンの瞳……夢と同じ……)
夢の中で未来を誓い合った騎士と同じ瞳に、金縛りに遭ったように体が動けなくなる。
顔の造作は美しいが、昔から夢で会う彼とは別人だ。そもそも髪の色も違う。
――それなのに、なぜか夢で見た騎士と目の前の人物がダブって見えた。
頭の片隅で、そんなことあるわけない、と否定の声がする。
見目麗しい紳士を見ていると、夢の続きを言いそうになってしまう。慌てて口元を手で覆い、ローゼリアは居たたまれなくなって駆け出した。
しかし、すぐに低い声が静止を呼びかける。
「お、お待ちください。シャーロット王女様」
「…………」
その名前は夢の中の自分を指す言葉で。
だけど、今は自分は起きている。これはどういうことだ。
混乱する頭でゆっくり振り返ると、ホッとしたように男が表情をゆるませた。
「覚えていらっしゃいませんか? あなたの護衛騎士をしておりました、フィデリオです」
その目は確かに見覚えがある。
自分をまっすぐに見つめてくる瞳は、愛しい、と訴えかけるように甘くて。
ローゼリアは夢で知っていた彼の名前を無意識に口にしていた。
「あなたは……フィデリオ・キース? 本当に?」
「ああ、女神に感謝を。お会いしとうございました。我が主」
別れのシーンではなく、彼が自分に忠誠を誓っていた夢を思い出す。
誇らしげで、嬉しげな様子は、そのときと酷似していて。
「でも、だって――あれは夢で……」
「夢ではありませんよ。前世でのあなたは王女殿下、私は護衛騎士でした」
「……それでは、あの約束も……?」
「もちろん。シャーロット様と交わした約束を忘れるはずがございません」
ローゼリアは信じられない思いで、フィデリオを見つめ返す。
(嘘でしょ……? あれは前世の記憶だったの? この人はわたくしの騎士?)
しかし、嘘だと断じるには、仕草も口調も、あまりにも似ていた。
何よりも、今まで誰にも話したこともないのに、夢の中の話が一致している。
そして決定的なのは、会いたかった、と思う自分の心。
(どう、して……)
心の奥底の自分が、目の前の彼を求めている。
自分の心なのに、自分のものではないような恐怖感がこみ上げる。本能的に彼に抱きつきたい衝動をなんとかこらえ、額に手を当てて嘆息していると、フィデリオが遠慮がちに質問してきた。
「失礼ですが、シャーロット様の今のお名前をお聞かせいただけませんか?」
その一言で、冷や水を浴びたように、騒ぎ立てていた心がおとなしくなる。
(そうだわ。前世は身分差でこの恋は叶わなかった。そして、今世でも身分が釣り合わなければ、この恋は実らない……)
貴族の中でも、ヴェルディ子爵家は下級よりの中級貴族だ。
ローゼリアは母親から習ったように、ドレスの裾をひとつかみし、淑女の礼をした。
「……ヴェルディ子爵が娘、ローゼリアです」
「ローゼリア様ですか。素敵なお名前ですね。私はエリック・スペンサーと申します」
「ということは、スペンサー伯爵家の……?」
「嫡男です。今世で私たちを遮る身分差の壁はないようですね」
フィデリオ――改め、エリックは貴公子然とした笑みを浮かべ、許しを請うように膝を折り、片手を差し出した。
「ローゼリア様。だいぶお待たせしてしまいましたが、どうか私の妻になっていただけませんか?」
◇◆◇
ふわふわとした気分のまま帰宅したローゼリアを待っていたのは、そわそわと落ち着かない様子で出迎えてくれた父親だった。
お金は領民のために。それを家訓にしたヴェルディ子爵家は貧乏ではないが、贅沢な暮らしとはほど遠い、質素倹約を体現した生活を送っている。無駄な出費を嫌い、王都での社交も必要最低限のみ。それが当たり前だったから、よそはよそ、うちはうちと割り切って生きてきた。
当然ながら、使用人の数も普通の家よりずっと少ない。
自分でできることは自分でする。幼い頃から言われてきたローゼリアは身の回りのことは一通りできる。
滅多にないが、お茶会や夜会を主催する際は臨時使用人を雇う。それで回ってきたのだ。何人もお世話係がいるような、お姫様のような生活なんて自分には縁もない。そう思ってきたが。
(信じられないけれど、わたくし、本当に前世ではお姫様だったのね……)
不意に、先ほどの求婚の言葉を思い出し、ボンッと火を噴いたように顔が熱くなる。
「――ローゼリア?」
「は、はい」
父親に目を合わすと、呆れたように目を細められた。
紅茶を淹れたティーカップをソーサーに戻し、父親がテーブルにソーサーごと戻す。
「その顔は聞いていなかったね」
「ご、ごめんなさい」
「では、もう一度言うが……お前に婚約者ができた」
寝耳に水の言葉に、さっきまで一喜一憂していたローゼリアから一切の表情が抜け落ちた。
「は……?」
「カレイド侯爵令息のレイモンド殿だ。お前も噂ぐらいは聞いているだろう?」
それは社交界にデビューしている者なら、一度は聞く名前だ。
二十歳になったレイモンドはデビュタントを済ませたばかりの淑女だけでなく、未亡人のご婦人の心までとりこにする美貌の紳士だ。
「ちょっと待ってください。レイモンド・カレイド様ですよね? 彼なら女性に困る人ではないでしょうに、どうして……よりによってわたくしに……」
「そこなんだがな、私にもわからないんだ。接点はなかったと思うんだが」
「記憶が確かなら、一度話したことがあるかないか、ぐらいだったはずです」
「だがカレイド侯爵直々に頼まれて、うちが断る理由もない。顔合わせを兼ねて、来月、我が家にレイモンド殿が来るらしい」
あくまで彼は鑑賞用だ。
まかり間違っても、彼の妻の座を狙うなんて、おそろしい行動をしてはならない。そんなことをしては、余計な恨みを買うことは明白だからだ。
「…………我が家に拒否権は?」
「無論、ないに等しいな。向こうは名門侯爵家、うちはただの子爵家だし」
「ですよね……」
遠目になったローゼリアは窓の外に視線を向けた。
屋敷からよく抜け出す飼い猫がメイドに抱っこで連行されていくのを見つめながら、三日後に返事を言うことになっているエリックになんと説明すればいいか、脳内議題は早くも詰んだ。
◇◆◇
「つまり、どういうことです?」
教会前で待ち合わせ、そのまま近くのカフェに入ったローゼリアたちは、店員に注文を済ませた後、ローゼリアから近況報告を始めることになった。
エリックが頼んだブレンドコーヒーが運ばれ、ローゼリアの前にはレモンパイが載ったお皿と紅茶のティーカップが置かれる。
店員が一礼して去っていくのを見て、ローゼリアは口を開いた。
「さっきも説明した通り、カレイド侯爵家から婚約の打診がありました。今は月末ですから、週明けには婚約者が顔見せにいらっしゃるそうです」
「では……その婚約を受けると?」
「うちは子爵家です。断る立場にありません」
「……そう……ですか」
エリックは湯気が立ち上がるコーヒーカップを見下ろし、そのまま沈黙してしまう。
伯爵家と子爵家の結婚なら、前世のような身分差が障害になることはない。
けれど、家格が上の侯爵家からの結婚話が来れば、話は別だ。貴族の結婚とは家同士の取り決め。そこに本人の意思が尊重されることはない。
(わたくしたちが一緒になる道は……また潰えたことになる)
本当に、女神がいるのならば。
喜ばせた後に絶望させる、こんな無慈悲な仕打ちはしないだろう。
つまり、神などいない。自分の人生は自分でどうにかするしかないのだ。
「エリック様。わたくしは…………」
言葉の続きが言えないまま、ローゼリアは口を引き結ぶ。
自分はまた、目の前の人を置いて他の人の元へ行かなければならない。
来世でこそと願い、やっと巡り会ったのに、運命の赤い糸はいとも簡単に自分たちを引き裂く。こんなことならば、いっそ出会わなければよかったかもしれない。
そうすれば、無駄に期待することもなかっただろうから。
「ローゼリア様」
「は、はい」
決意を秘めたようなエメラルドグリーンの瞳に見つめられ、ローゼリアは姿勢を正した。
対するエリックは眉間に皺を寄せ、重い口を開く。
「私は……臆病者でした。一介の騎士が王女様を幸せにする権利はないと思って、あなたを見送ることしかできなかった。そして後悔しました。あなたが隣国に赴く旅の中で命を落としたと聞いたとき、どうしてお側にいなかったのかと」
「…………フィデリオ」
苦渋に満ちた顔で視線を横にそらすエリックの嘆きに、元主人として何か言葉をかけなければと思うが、口の中で言葉が空回りしてしまう。
自分は彼を置いていった身だ。今さら、慰めの言葉をかける資格はない。
後悔の念にさいなまれていると、エリックがこちらを見ているのに気づく。視線が合わさると、ひどく凪いだ瞳に心を読まれたような錯覚が襲う。
「もしローゼリア様から望むならば、私があなたを連れ出し、遠い国まで逃げてみせましょう。いいえ、どうかご命令ください。我が主」
自分は無力だ。女ができることなんて、たかが知れている。
前世の自分は王女だった。ただ守られるだけの、鳥かごの姫だった。けれど。
(わたくしはいつまでお姫様気分でいるつもり? 愛する人にばかり苦労や心配をかけて、どうして自分で何もしようとしないの。これでは前世の二の舞だわ)
もう自分はお姫様じゃない。
戦う前から諦めているだけでは、何も状況は変わらない。
「フィデリオ――いいえ、エリック様。わたくしはあなたと約束しました。来世では結ばれましょう、と」
「ええ、ですから……」
言葉の続きを引き取ろうとしたエリックに手で制し、ローゼリアは首を横に振る。
「わたくしを信じていただけるなら、どうか待っていただけませんか。せっかく生まれ変わって、またあなたに出会えたのですもの。今のわたくしがただ守られるだけの姫ではないと、証明してみせます」
◇◆◇
渋りながらも仕事で王都に戻るエリックを見送り、ローゼリアは婚約者が来るのを今か今かと待っていた。
三日前、今日の午後にお伺いしますという手紙が届き、時計の針は午後二時を過ぎた。
気を揉みながらハーブティーで心を落ち着かせていると、開けていた窓の向こうから馬車の車輪が止まる音がした。
(――来たわ!)
ティーセットを厨房に戻し、お客用のお茶の用意を頼む。
淑女の最大速度で玄関に駆けつけると、年配のメイドが客人を応接間に案内しているところだった。
先方で背を向ける、ふわふわのマロンブラウンの髪が見えた。
幸か不幸か、両親はちょうど急ぎの用事で出払っている。じきに帰ってくるだろうが、一対一で話をするなら今を置いて他にない。
退室するメイドと入れ違いになる形でローゼリアは応接間に入り、膝を折って淑女らしく名乗った。
「初めまして。わたくしはヴェルディ子爵ヨーゼルの娘、ローゼリアと申します」
目線を上げると、二人がけのソファに腰を下ろした紳士が立ち上がった。
胸まで伸びた髪を前でゆるく結い、大人の余裕のある笑みが迎える。
「ご丁寧にどうもありがとう。僕はレイモンド・カレイドという。ヴェルディ子爵から聞き及んでいると思うが、今日は君の婚約者として挨拶に伺った。まあ、立ち話もなんだ、座って話をしないかい?」
「……はい」
お互い着席すると、榛色の瞳が興味深げにこちらを見ているのに気づく。
二重の垂れ目は警戒心を解くように穏やかな光を宿し、意気込んでいたローゼリアは肩すかしを食らったような気分になった。
(ううん。騙されちゃダメ。この人は百戦錬磨のレイモンド様。小娘の機嫌を取ることなど造作もないはずだもの。胸の内は何を考えているかなんて、わからないじゃない)
社交用の笑みを貼り付かせ、彼の世間話に相づちを打つ。
話の途中でメイドが紅茶とお茶菓子を持ってきたが、レイモンドは律儀にもメイドに礼を言い、女性第一主義という噂は本物なのかもしれないと分析する。
(やっぱり手慣れているわね……話も選び方も、間の取り方も絶妙なバランスだし、これは世の女性が放っておかないはずだわ)
レイモンドが紅茶を一口飲んだのを見届け、ローゼリアは爆弾を落とした。
「どうすれば、この婚約を白紙にしていただけるでしょうか」
さっきまでの平和な雰囲気を塗り替える発言に、レイモンドが意外そうに目を丸くしている。
「まさかとは思うけど……侯爵家との縁談を蹴るつもりかい?」
「許されるのならば」
素直な気持ちを告白すると、今度は楽しそうに口角が上がる。
「ふうん。好きな男でもいるのかな。――残念だけど、決定権は僕にある。君の意見がどうであれ、僕が結婚すると決めたら君に逃げる道はない」
「…………」
「まあ、こんなことは改めて言わなくてもわかっているとは思うけど」
その通りだ。けれど、こっちにだって譲れないものがあるのだ。
「わたくしは……あなたに好かれるようなことをした覚えはありません」
「そうだね。でも君のことは知っているよ。君の家は定期的に孤児院に寄付をしているね。そして君自身、教会でのバザーには毎回参加している。慈善活動での君は、さながら女神のようだと子供たちに人気だ」
「……わたくしは自分のしたいことをしたまでです」
誰かに褒められたくてやってきたわけじゃない。
孤児院の運営はいつの時代も寄付がなければやっていけない。自分は運良く貴族の娘として生を受けた。おかげで、食べるものも着るものも困らない生活を送れている。
だが、孤児院の子供たちは違う。古着を着まわし、限られた食料を分け合い、命を明日に繋いでいる。
偽善者と呼ばれても構わない。困っている人がいるなら、手助けしたい。
レイモンドは優雅に足を組み直して言う。
「でも、それは誰にでもできることじゃない。貴族の娘なら、自分の姿をいかに美しく見せられるかにこだわっている例も多いしね。だから、君みたいな子は珍しい」
「…………」
「知っていると思うが、僕は昔から女性に囲まれることには慣れている。女性が喜ぶ会話運びや気遣いも得意なほうだと思う。大抵の女性は僕に声をかけられて頬を染めるものだが、何事にも例外がある」
レイモンドは甘い笑みを浮かべ、ローゼリアを真正面から見返す。
意味深な視線に、もしかして、と傾けていた首を元の位置に戻した。
「……それがわたくし、というわけですか?」
「新鮮だったよ。喜ぶどころか、迷惑そうにされるなんて経験、今までなかったからね」
「それは申し訳ございません」
とっさに謝罪を口にすると、レイモンドは困ったように笑った。
「誤解してほしくないんだけど、謝ってほしいわけでもないよ。僕は君のおかげで目が覚めたんだ。世の中、すべて自分の思い通りになるわけないってことに。……今まで僕にいいように事が運んでいたのはカレイド侯爵家という盾があってこそ。本当の僕を必要としてくれる人は思っていたよりずっと少ない。そして、女性が求めるのは次期侯爵夫人という肩書きだった。でも君は違うだろう?」
確信を秘めた言葉を向けられて、不承不承、首を縦に振る。
周りから注目されるより、その他大勢に分類される今の生き方のほうが性に合っている。他人に敬われる生き方は王女時代で充分だ。
「わたくしは贅沢な生活に憧れはありません」
「だろうね。そんな君だからこそ、将来の伴侶に迎えたいと思った。僕には君が必要なんだ。ローゼリア嬢、ぜひ考え直してほしい」
「……何度言われても答えは同じです。たとえ、このまま結婚しても。わたくしの心は一生、手に入りませんよ?」
牽制のつもりで言うと、レイモンドは余裕のある仕草で、ソファの肘掛け部分に長い指先を乗せて笑みを深めた。
「それでも構わないと言ったら?」
「自分のための人形がほしいのなら、お店でお買い求めくださいませ。わたくしは商品ではありません」
「…………驚いたな。そんな断り文句、初めて聞いたよ」
「あなたには本音でぶつかったほうがよいかと思いましたので」
無表情で淡々と述べると、しばし沈黙が降りた。
それから少しの間を置いて、くつくつとこらえきれない笑いの声が聞こえた。
「くくっ、そうか。わかった。――五年だ。五年以内に君が幸せな花嫁になっていなければ、僕は今度こそ君を離さない。そのときは覚悟しておいてくれ」
最初、何を言われたのか、とっさに理解ができなかった。
けれど、彼の言葉を頭の中で反芻し、彼が折れてくれたのだとわかる。と同時に、ピンと張っていた緊張の糸がゆるまるのを感じた。
ここが自室だったら、へなへなとソファから崩れ落ちていたに違いない。
「……承知しました」
「もしも僕に鞍替えしたくなったら、いつでも言ってくれ」
「万に一つもないと思いますが、そのときが来ればご連絡を差し上げます」
「それは期待してもいいということかな?」
「社交辞令です」
「残念だ」
本当に残念そうに肩をすくめてみせるものだから、ローゼリアもつい笑みをこぼしてしまう。入室したときとは違い、応接間は和らいだ雰囲気に包まれていた。
その後、雑談をしながら父親が来るのを待ち、綺麗な焼き目がついたクッキーをつまむ。外は快晴。絶体絶命だと思われた問題も回避できた。
(今度こそ、わたくしは幸せな花嫁になってみせるわ――)
まずは父親に事情を説明し、この婚約の話を白紙に戻して、新たな婚約者としてエリック・スペンサーの名前を挙げなければならない。
◇◆◇
内々に教会での誓約を済ませ、婚約公示も秒読みだろうということは社交界にも知れ渡っていたらしく、久しぶりに会った友人に祝福の言葉をもらう中で、ローゼリアは遅れてやってきた婚約者の姿を目に留めた。
それから気を利かせた友人に追い立てられるように、タキシード姿のエリックのもとに行く。エリックはすぐにローゼリアに気がつき、頭を下げた。
「遅れてしまい、申し訳ございません」
「いいえ。問題ありません。お仕事、大変そうですね」
「ええまあ。ちょっと今、新しい販路を開拓している関係で、いろいろ調整しているところでして。――ダンスにお誘いしても?」
「喜んで」
ちょうど、曲調がスローテンポのワルツに変わったところだ。フルートが春の風を呼び込み、バイオリンが芽吹く若葉を表現するように軽やかな音楽を奏でてている。手を繋ぎ、アイコンタクトで示し合わせ、同時にダンスの輪に入っていく。
二人きりになったところで、エリックは申し訳なさそうに眉を下げた。
「姫様……いえ、ローゼリア様」
「今のわたくしに様付けは不要です、エリック様」
「立場が変わっても、あなたはわたくしにとって、生涯守りたい姫君であり、主君です。これだけは譲れません。それに、二人きりのときならば問題ないでしょう?」
まるで許されるのがわかっているような確認に、ローゼリアは飼い犬に噛まれたような複雑な気持ちになった。
「もしかして、根に持っていますか?」
「何のことでしょう?」
すっとぼけた様子で聞き返す婚約者の顔は晴れやかだ。
「……わたくしが、あなたとの婚姻に根回しをしたことについてです。あなたにはほとんど事後承諾のような扱いになってしまいましたから」
「私の姫様は優秀でいらっしゃる。それを見事、証明してくれましたからね。驚くなというほうが無理があります。ですが、主の成長は臣下として喜ばしく思っているのも本当ですよ」
「……本音は?」
尋ねると、片手を外されて、くるくると回転させられる。と思ったら、背中に手を回されてぐっと抱き起こされた。離れていた距離が一気に縮まり、あやうく呼吸が止まりそうになった。
その反応がおかしかったのか、エリックはふっと笑みを浮かべた。
頬を膨らす隙すら作らせずに優雅にエスコートされるまま、会場をステップを踏みながら移動していく。他のダンス客とぶつからないように誘導されている中で、エリックがゆっくり口を開く。
「いつか、ローゼリア様をあっと驚かせてやりたいと思っています」
「……そうですか」
「こんなことを思う私は不敬でしょうか?」
「いいえ。前世の記憶がある以上、主従関係はそう簡単に変えられないということはわかりました。ですが、そのくらいなら許容範囲でしょう。だって、今のわたくしたちは婚約者なのですから」
そう、ここは前世とは違う。
たとえ記憶があったとしても、育ってきた環境が違えば、昔と違うことだって多いはずだ。
彼と婚約を決めたのは、ただ人生をやり直すだけでなく、エリックとして生きてきた彼をもっと知りたいと思ったから。そしてもう一度、恋をするため。
前世は確かに、自分たちの関係は秘密の恋人同士だったのだろう。だが、転生後の関係は記憶があるというだけで、ローゼリアの心はどこかちぐはぐだった。
彼に恋い焦がれる自分がいる一方で、それを客観視している自分がいた。まるで、誰かの恋物語を読んでいるみたいな感覚だった。
それでも、この人を好きになるという確信はあった。
だからこそ、シャーロットとしてではなく、ローゼリアとして彼に恋をするため、彼と婚約できるように手を尽くしたのだ。
今、自分に必要なのは時間だ。この小さな胸騒ぎに名前をつけるための。
「――ローゼリア様」
「はい」
「前世ではできなかったことをたくさんして、お互いのことを知って、未来もずっと一緒に過ごしていきましょうね」
「……はい!」
自分たちはもう王女と騎士ではない。
世間から見れば、ごくありふれた、ただの婚約者だ。それでいい。
(わたくしたちの関係はここから始まる。夢のような悲恋で終わる結末にはさせない)
前世はあくまで前世だ。今世の恋は今から育んでいく。
そして、あの夢の続きの結末を幸せな余韻で満たしていくのだ。
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