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28. おかえりなさいっ
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白椿家の奥座敷。松と雉が描かれた襖の向こうには、当主を含め、家族四人が数年ぶりに集まっていた。
下座で正座している葵が拳を握りしめて座っている。その緊張が隣で座っている絃乃にも伝わってきて、自然と背筋を伸ばす。
記憶喪失の原因となった怪盗鬼火が捕まったことで、葵も記憶が戻ったことを詠介に伝え、こうして実家に戻ってきた。
実家に戻った葵は、行方不明になった経緯とこれまでの生活について報告を終えると、大事な話があります、と神妙な顔で言い、場所を移して話すことになったのだ。
「話とは一体何なのだ?」
その声は張り詰めたもので、期待と不安がない交ぜになっていた。
一方の葵はふっと息を吐き出して肩の力を抜き、質問に質問を返す。
「復籍したら、俺が跡取りということになるんですよね?」
「そうですよ。あなたはもともと、白椿家の息子なのだから当然ではありませんか」
父親の横で母親が頷くと、葵は真摯な目を当主に向ける。
「でしたら、それを踏まえたうえで、父上にお願いがあります」
「……なんだ。申してみよ」
「姉の結婚相手を決める権限を私にお与えください」
驚きのあまり、誰もが息をのむ。三人のそれぞれの訝しむ視線を受けた葵は態度を崩さず、沈黙を守っている。
緊張の糸を破ったのは、一層低い当主の声。
「それは何を言っているのか、わかったうえでの発言なのだろうな?」
「もちろんです」
母と娘は目を見合わせた。
お互いの顔には、なんて無茶な、と書かれていた。
華族の結婚は華族同士という例も少なくない。そして、その結婚に口出しができるのは家長である父親のみ。それに楯突くということがどれだけ非常識か、聡明な葵がわからないはずがない。
父親は頭が痛いとでもいうように、眉間をもみほぐしながら眼光を鋭くした。
「娘の結婚は家長たる私の意志で決める。しかも、華族の娘の婚姻だ。庶民の娘の話ではない。だというのに、一族の大事な決断を委ねろとは甚だ話にならん」
「姉にはすでに恋い慕う相手がおります。彼は華族の縁組みにはほど遠い身分ですが、誰よりも信頼して任せられる男です」
「くどいな。こんな馬鹿げた話、承知できるわけがない。女に生まれたからには、黙って従うのが務めだ。それがたとえ、好いた男でなくともな」
恋愛結婚なんてのは夢のおとぎ話だ。すでに結納を済ませて、卒業と同時に輿入りすることが決まっている級友も珍しくない。
(一体、どういうつもりなの……?)
葵の横顔からは感情が読めず、一層不安を駆り立てる。
「……そのお考えは、どうあっても変わりませんか」
「当然だ。何のために女学校に行かせ、今まで大事に育ててきたと思っている?」
凍てつくような視線にも動じず、葵は鷹揚に頷く。
「道理ですね。では、話を変えましょうか。……家の事情で想いを遂げられない恋人たちが、追い詰められたときの選択は主にふたつです。外国へ逃げるか、一緒に現世の鎖から解き放たれるか……まあ、平たく言うと心中ですね」
それは悲恋の行く末としてよくある未来だ。
外国への逃亡か、悲劇の結末か。二つに一つの選択肢に、父親の顔にも焦りが浮かぶ。
「何だと?」
「手塩にかけて育てた娘の命。父上にとって、どれほどの価値がありますか? 思いつめて自らの命を絶つ選択を与えてしまったこと、後悔したところで生き返りませんよ」
「……む、……ううむ」
腕を組んで悩む様子に、葵は追撃の手をゆるめない。
今度は優しく諭すような口調で、未来の可能性を示唆する。
「結婚を認めてくだされば、姉は元気に過ごせ、はたまた孫の顔も見られるかもしれません。よく考えてください。一族は俺のことを任せ、姉には幸せを約束してください」
「……ひとつ尋ねたいのだが、どうしてそこまでする?」
「姉の恋人には一生かかっても返せない恩があるのです。ただそれだけです」
素っ気なく答える息子を見て、父親の視線が横に移る。
「……絃乃。葵の言葉はすべて真のものか?」
どことなく疲れきったような声に、絃乃は少し考えて、首を縦に振る。
「はい。……偽りはございません」
「その恋人というのは、一体誰のことなのだ?」
「え、ええと。佐々波呉服屋の次男、詠介さんです」
たどたどしく答えると、先に反応したのは母親のほうだった。
頬に手を当て、小首を傾げる。
「あら? その名前は、最近出入りしている呉服屋と同じね」
「なに、そうなのか。……ふむ」
顎をさすっていた当主は何かを決意したように膝を打った。
「葵よ。しばらく見ない間に逞しく育ったものだ。これなら白椿家のことも任せられる。……お前の条件を飲もう」
「では、姉が自由に結婚しても構いませんね?」
「……ああ。好きに致せ。子供に先立たれるのは、親としてこの上なく辛い」
「ありがとうございます。今この瞬間から、白椿家のために尽くすことを誓います」
曉久が鷹揚と頷くのを見て、ふわふわとした気持ちのまま部屋を辞する。
廊下を進み、彼が自分の部屋に入っていくのを見て、絃乃も慌ててその背を追う。
「ちょ、ちょっと。葵ってば!」
彼は無言のままに戻ってきたかと思えば、静かに襖を閉めた。そして大きなため息のあとに、やっと口を開く。
「……なんだよ。姉さんに不都合になることしてないだろ」
「そうじゃなくて! いきなり驚かせないで。いやあの、最大限に感謝しているけどっ!」
なかなか振り向いてくれない弟に耐えかね、つい声を荒らげる。
(しまった。間違えた)
お礼を言いたいだけなのに。こんな喧嘩口調では伝わるものも伝わらない。
反省していると、前方を歩いていた彼の足がふと止まる。
「じゃあ、何」
面倒くさそうに視線が投げられる。姉としての威厳を無視され、絃乃は打ちひしがれる。
「うう。久しぶりに会った弟が冷たい……」
「あーはいはい。冷たくて悪かったな」
「肯定してほしいわけじゃない……」
しゅんと落ち込むと、焦ったように言葉が飛んでくる。
「俺は昔からこうだろ。姉さんだって、見た目は変わったけど、中身はそんなに変わってないだろ」
「まあ、そうなんだけど……」
目の前には、ぶっきらぼうな弟がいる。
長らく行方不明だった彼の帰るべき場所は、この白椿家だ。
もう離れて暮らす必要なんてない。これからはずっと近くにいられるのだから。声をひそめて名前を呼ぶ必要もないし、前世の思い出話だってできるのだ。
これからのことを思うと、自然と胸が弾んだ。
「まずは……おかえりなさいっ」
「どわっ! 子供じゃないんだから、不用意に抱きつくなよ!」
「だって嬉しいんだもん。転生しても弟と再会できて、また家族になれたんだから」
「あーそうかよ」
葵は赤らめた頬をふいっと背ける。そして、抱きついてきた姉をはがす。
(確かに抱きつく年齢じゃなかったかも……)
年甲斐もなく、はしゃいでしまったことを反省し、話題を変える。
「そういえば、どうして転生したの? 病死? 他殺?」
「なんで物騒なものが候補にあがるんだよ……。言っとくけど、俺は恨みなんて買ってないからな」
「でも、こんな偶然……そうそうあるわけないじゃない」
葵は口を歪め、言いたくなさそうに明後日の方向を見やる。
「姉さんが倒れてすぐ、交通事故に遭っただけだよ」
「え、とんだ親不孝者じゃない」
「お互い様だろ」
「……それもそうね。今世では親孝行、しっかりしようね。前世の分まで!」
「おう」
そっぽを向いていた葵がやっと目を合わせ、神妙に頷く。
前世の弟らしい一面を見つけ、嬉しくなる。
「記憶は? いつ戻ったの?」
「……断片的に思い出してはいたけど、全部の記憶が戻ったのは半年前だな。前世の記憶はただの夢だと思っていたけど、姉さんに会って夢じゃないことがわかった。っていうか、姉さんこそ、いつ思い出したんだよ?」
逆に聞き返され、絃乃は数ヶ月前の記憶を辿る。
「十六歳の誕生パーティーの夜よ。ワインを一口飲んで倒れたの」
「……前世はお酒に強かった姉さんが、今世では一口で目を回すようになったのか」
「う、うるさいわね。体質は前世の記憶と関係ないでしょ」
「それもそうか」
納得した声に、つい噴き出してしまう。
こんな風に家族と再会することができるなんて。また、こうして他愛ない話ができるなんて、本当に不思議な縁だ。
今世はできるだけ親孝行をし、そしてたった一人の弟の幸せを祈りたい。
下座で正座している葵が拳を握りしめて座っている。その緊張が隣で座っている絃乃にも伝わってきて、自然と背筋を伸ばす。
記憶喪失の原因となった怪盗鬼火が捕まったことで、葵も記憶が戻ったことを詠介に伝え、こうして実家に戻ってきた。
実家に戻った葵は、行方不明になった経緯とこれまでの生活について報告を終えると、大事な話があります、と神妙な顔で言い、場所を移して話すことになったのだ。
「話とは一体何なのだ?」
その声は張り詰めたもので、期待と不安がない交ぜになっていた。
一方の葵はふっと息を吐き出して肩の力を抜き、質問に質問を返す。
「復籍したら、俺が跡取りということになるんですよね?」
「そうですよ。あなたはもともと、白椿家の息子なのだから当然ではありませんか」
父親の横で母親が頷くと、葵は真摯な目を当主に向ける。
「でしたら、それを踏まえたうえで、父上にお願いがあります」
「……なんだ。申してみよ」
「姉の結婚相手を決める権限を私にお与えください」
驚きのあまり、誰もが息をのむ。三人のそれぞれの訝しむ視線を受けた葵は態度を崩さず、沈黙を守っている。
緊張の糸を破ったのは、一層低い当主の声。
「それは何を言っているのか、わかったうえでの発言なのだろうな?」
「もちろんです」
母と娘は目を見合わせた。
お互いの顔には、なんて無茶な、と書かれていた。
華族の結婚は華族同士という例も少なくない。そして、その結婚に口出しができるのは家長である父親のみ。それに楯突くということがどれだけ非常識か、聡明な葵がわからないはずがない。
父親は頭が痛いとでもいうように、眉間をもみほぐしながら眼光を鋭くした。
「娘の結婚は家長たる私の意志で決める。しかも、華族の娘の婚姻だ。庶民の娘の話ではない。だというのに、一族の大事な決断を委ねろとは甚だ話にならん」
「姉にはすでに恋い慕う相手がおります。彼は華族の縁組みにはほど遠い身分ですが、誰よりも信頼して任せられる男です」
「くどいな。こんな馬鹿げた話、承知できるわけがない。女に生まれたからには、黙って従うのが務めだ。それがたとえ、好いた男でなくともな」
恋愛結婚なんてのは夢のおとぎ話だ。すでに結納を済ませて、卒業と同時に輿入りすることが決まっている級友も珍しくない。
(一体、どういうつもりなの……?)
葵の横顔からは感情が読めず、一層不安を駆り立てる。
「……そのお考えは、どうあっても変わりませんか」
「当然だ。何のために女学校に行かせ、今まで大事に育ててきたと思っている?」
凍てつくような視線にも動じず、葵は鷹揚に頷く。
「道理ですね。では、話を変えましょうか。……家の事情で想いを遂げられない恋人たちが、追い詰められたときの選択は主にふたつです。外国へ逃げるか、一緒に現世の鎖から解き放たれるか……まあ、平たく言うと心中ですね」
それは悲恋の行く末としてよくある未来だ。
外国への逃亡か、悲劇の結末か。二つに一つの選択肢に、父親の顔にも焦りが浮かぶ。
「何だと?」
「手塩にかけて育てた娘の命。父上にとって、どれほどの価値がありますか? 思いつめて自らの命を絶つ選択を与えてしまったこと、後悔したところで生き返りませんよ」
「……む、……ううむ」
腕を組んで悩む様子に、葵は追撃の手をゆるめない。
今度は優しく諭すような口調で、未来の可能性を示唆する。
「結婚を認めてくだされば、姉は元気に過ごせ、はたまた孫の顔も見られるかもしれません。よく考えてください。一族は俺のことを任せ、姉には幸せを約束してください」
「……ひとつ尋ねたいのだが、どうしてそこまでする?」
「姉の恋人には一生かかっても返せない恩があるのです。ただそれだけです」
素っ気なく答える息子を見て、父親の視線が横に移る。
「……絃乃。葵の言葉はすべて真のものか?」
どことなく疲れきったような声に、絃乃は少し考えて、首を縦に振る。
「はい。……偽りはございません」
「その恋人というのは、一体誰のことなのだ?」
「え、ええと。佐々波呉服屋の次男、詠介さんです」
たどたどしく答えると、先に反応したのは母親のほうだった。
頬に手を当て、小首を傾げる。
「あら? その名前は、最近出入りしている呉服屋と同じね」
「なに、そうなのか。……ふむ」
顎をさすっていた当主は何かを決意したように膝を打った。
「葵よ。しばらく見ない間に逞しく育ったものだ。これなら白椿家のことも任せられる。……お前の条件を飲もう」
「では、姉が自由に結婚しても構いませんね?」
「……ああ。好きに致せ。子供に先立たれるのは、親としてこの上なく辛い」
「ありがとうございます。今この瞬間から、白椿家のために尽くすことを誓います」
曉久が鷹揚と頷くのを見て、ふわふわとした気持ちのまま部屋を辞する。
廊下を進み、彼が自分の部屋に入っていくのを見て、絃乃も慌ててその背を追う。
「ちょ、ちょっと。葵ってば!」
彼は無言のままに戻ってきたかと思えば、静かに襖を閉めた。そして大きなため息のあとに、やっと口を開く。
「……なんだよ。姉さんに不都合になることしてないだろ」
「そうじゃなくて! いきなり驚かせないで。いやあの、最大限に感謝しているけどっ!」
なかなか振り向いてくれない弟に耐えかね、つい声を荒らげる。
(しまった。間違えた)
お礼を言いたいだけなのに。こんな喧嘩口調では伝わるものも伝わらない。
反省していると、前方を歩いていた彼の足がふと止まる。
「じゃあ、何」
面倒くさそうに視線が投げられる。姉としての威厳を無視され、絃乃は打ちひしがれる。
「うう。久しぶりに会った弟が冷たい……」
「あーはいはい。冷たくて悪かったな」
「肯定してほしいわけじゃない……」
しゅんと落ち込むと、焦ったように言葉が飛んでくる。
「俺は昔からこうだろ。姉さんだって、見た目は変わったけど、中身はそんなに変わってないだろ」
「まあ、そうなんだけど……」
目の前には、ぶっきらぼうな弟がいる。
長らく行方不明だった彼の帰るべき場所は、この白椿家だ。
もう離れて暮らす必要なんてない。これからはずっと近くにいられるのだから。声をひそめて名前を呼ぶ必要もないし、前世の思い出話だってできるのだ。
これからのことを思うと、自然と胸が弾んだ。
「まずは……おかえりなさいっ」
「どわっ! 子供じゃないんだから、不用意に抱きつくなよ!」
「だって嬉しいんだもん。転生しても弟と再会できて、また家族になれたんだから」
「あーそうかよ」
葵は赤らめた頬をふいっと背ける。そして、抱きついてきた姉をはがす。
(確かに抱きつく年齢じゃなかったかも……)
年甲斐もなく、はしゃいでしまったことを反省し、話題を変える。
「そういえば、どうして転生したの? 病死? 他殺?」
「なんで物騒なものが候補にあがるんだよ……。言っとくけど、俺は恨みなんて買ってないからな」
「でも、こんな偶然……そうそうあるわけないじゃない」
葵は口を歪め、言いたくなさそうに明後日の方向を見やる。
「姉さんが倒れてすぐ、交通事故に遭っただけだよ」
「え、とんだ親不孝者じゃない」
「お互い様だろ」
「……それもそうね。今世では親孝行、しっかりしようね。前世の分まで!」
「おう」
そっぽを向いていた葵がやっと目を合わせ、神妙に頷く。
前世の弟らしい一面を見つけ、嬉しくなる。
「記憶は? いつ戻ったの?」
「……断片的に思い出してはいたけど、全部の記憶が戻ったのは半年前だな。前世の記憶はただの夢だと思っていたけど、姉さんに会って夢じゃないことがわかった。っていうか、姉さんこそ、いつ思い出したんだよ?」
逆に聞き返され、絃乃は数ヶ月前の記憶を辿る。
「十六歳の誕生パーティーの夜よ。ワインを一口飲んで倒れたの」
「……前世はお酒に強かった姉さんが、今世では一口で目を回すようになったのか」
「う、うるさいわね。体質は前世の記憶と関係ないでしょ」
「それもそうか」
納得した声に、つい噴き出してしまう。
こんな風に家族と再会することができるなんて。また、こうして他愛ない話ができるなんて、本当に不思議な縁だ。
今世はできるだけ親孝行をし、そしてたった一人の弟の幸せを祈りたい。
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