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24. 僕は知っていたんです

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 女学校の帰り道に賀茂川に降り立つと、いつもの定位置に詠介が座っていた。けれど、いつもの帳面はなく、絃乃の姿を認めると立ち上がって迎える。

「ここにいれば、会えるような気がしていました」
「……何かありましたか?」

 ただならぬ気配に身構えていると、重い沈黙が返ってくる。

(どうしたのかしら? 飄々と笑顔を浮かべる詠介さんらしくない……)

 言いよどむ様子を見て、彼が気持ちを落ち着けるまで待つことにする。言いだしにくいことを告白するときは、直前で決心が鈍ることもままあるものだ。
 鰯雲が空を泳いでいるのを眺めながら、稜線からこっそり姿を出した月を見つける。空が明るいから存在感は薄く、白というより青空の透き通った色だ。
 今夜は居待ち月いまちづきだ。十五夜の満月から三日過ぎ、右側が少し欠けている。これから下弦の月、有明月と変わっていき、晦日つごもりの新月になる。
 月の満ち欠けを思い出していると声が届き、覚悟を決めたような顔と目が合う。

「……少し、歩きませんか」
「わかりました」

 なんとなく人気を避けていくうちに、ただすの森に来ていた。聖域とでもいうのか、一歩足を踏み入れただけなのに外の雑音が遠くなったように感じる。
 澄んだ空気は神聖な気配を感じさせ、自然と背筋が伸びた。表参道には人気がなく、両側を流れる小川のせせらぎに耳を澄ます。
 ふと、前を歩いていた詠介が足を止めた。絃乃も同じように立ち止まると、ゆっくりと振り返った詠介が重い口を開いた。

「……僕はあなたに隠し事をしています」

 沈痛な表情とともに告白されたせいで、とっさに取り繕うことができなかった。

「隠し事は……誰にもひとつやふたつ、あるものでしょう。そのことで、詠介さんが思い詰める必要はないと思いますが」
「いえ。それはそうなんですが。そうではなくて……」

 詠介は口を濁し、斜めに顔をそらした。話すべきかどうか、踏ん切りがつかないように。
 けれど、絃乃と目が合うと、意を決したように頭を下げた。

「すみません。僕は知っていたんです。……あなたがあの夜、さらわれることを」

 驚きはしなかった。彼はゲーム案内役だ。知識として、未来の出来事を知っていても不思議ではない。
 知っていて止められなかった。そう言いたいのだろう。
 しかし、詠介が気に病む必要は何もない。だって、彼はそういう役割なのだから。
 絃乃はどう言葉を返そうか逡巡し、ゲームと違った行動を取った意味を考える。おそらく、本来助けに来てくれる役は彼ではなかったはずだ。

「だから……助けに来てくれたんですか?」
「……はい。とはいえ、一緒に閉じ込められてしまいましたけど」
「でも、どうして助けに来てくれたんですか?」

 これまで、彼が手助けするのはヒロインが攻略に困ったときのみ。つまり、サブキャラクターである絃乃を助ける義理も義務もないはずだ。
 詠介は瞼を伏せ、懺悔をするように口を滑らかにする。

「すべては僕のわがままです。あなたを失いたくなかった。あの日邪魔をすれば、あなたの身は守られる。本当は僕が介入するなんてこと、してはいけなかったのに……」
「では、その危険を冒して……?」
「そうです。百合子さんが藤永さんを選んでしまった以上、あなたを助けに来るはずの葵くんは来ない。それがわかってしまったから、なんとかできないかと……。結果的に、篝さんの機転で難を逃れましたが」

 絃乃が知らないことも、彼ならば知っている。謎解きルートについても、おおよその流れは把握しているだろう。

「……未来を知っていたなら当然、犯人の正体も……?」

 ごくりと喉を鳴らす。犯人がわかれば、弟を取り戻すこともできるかもしれない。
 期待が大きくなったところで、詠介が言葉を濁す。

「すみません。それは僕の口からは答えられない決まりなんです。僕もすべてを知っているわけではなくて。犯人に近づくためには、葵くんの協力が必要ということだけしか知らないんですよ」
「……そうなんですね」

 はっきり言って拍子抜けだ。真相に近づけると思ったが、現実はそう甘くはないらしい。

「葵は誰かから逃げているって言っていました。それが今回の犯人ということですか?」
「……ええ。そうだと思います」
「葵の記憶喪失については……他に何か知っていることはありますか……?」

 過去、何があったのか。それを知るきっかけになればと繰り出した質問だったが、詠介は意外だったようで目を丸くしていた。

「絃乃さんは、彼の正体もすでに知っているようですね」
「……彼は白椿家の人間です。神隠しにあったと思っていた、私のたった一人の弟です。彼が記憶を思い出すと、何か困るのでしょうか?」
「六年前、葵くんは見てはいけないものを見てしまったとか。だから記憶が戻らないふりをしているようですが、最近の彼は何かに焦っているようです」

 困ったように眉を下げるのを見て、絃乃は首を傾げる。

「焦っている……?」
「おそらくですが、あなたに出会ったからではないかと」
「私のせい、ということですか?」

 思い出すのは、家の前で再会したときの顔。数年ぶりの再会で、お互いが誰だかわからずに会話した日が懐かしく感じる。
 すがるような瞳で見つめると、詠介は小さく頷いた。

「お姉さんに心配をかけさせたくないのでしょう。だから、犯人と一人だけで接触してどうにか解決しようとしている、と考えている可能性が高いです」
「そんな! それでは、葵が危険じゃありませんか」
「ええ、おっしゃるとおりです。彼を一人にするのは得策ではありません。ですから、ここは手を組みませんか?」

 以前と同じような誘いに、絃乃は体を硬直させる。

(今回は百合子の恋路を応援するときとは違う。あのときと比べて格段に危険だし、何が起こるかもわからない)

 ヒロインの代わりに謎解きルートをクリアし、弟を救う。サブキャラクターが出しゃばるなんて、シナリオを無視した行動だし、何の弊害があるかもわからない。
 けれど、迷っていられる時間も少ない。

「……助けられますか? 私に」
「絃乃さんの力が必要です。もちろん、僕もできうる限りで助けるつもりですし、あなたのことは僕が守ります」

 まるで恋愛小説のような台詞に、思わずまじまじと見つめてしまう。
 だが詠介は真面目な顔を向けるだけで、噓や冗談を言っている様子は微塵もない。先ほどの力強い励ましは、彼の純粋な言葉なのだろう。
 そこまで理解して、絃乃は動悸でめまいがした。両手で胸を押さえるが、さっきから心臓の音が激しい。

(だって守るって……私はヒロインじゃないのに?)

 これは願望が夢になったのではないだろうか。そうでないと、説明がつかない。
 詠介が妹としてではなく、一人の女性として慕ってくれている。そんな奇跡みたいなことが本当に起きたなんて、にわかには信じられない。
 あの夜、抱きしめられた感触も少しずつ薄れている。
 まるで砂をすくった後のように、強く残っていた感触や香りもぼんやりとしていく。時折、あれは本当に現実だったのかと疑いたくなる。

「……ごめんなさい。ちょっと頭が整理できていなくて」
「こちらこそ配慮が足りませんでした。いきなりこんな話をされて、動揺なさるのは無理もないです」
「いえ、あの……違うんです」
「というと?」

 秘密を抱えているのは詠介だけではない。
 協力するならば、こちらも話さなければならない。そうでなければフェアではない。
 絃乃は心を落ち着けようと、細く息を吐き出した。

「……詠介さんには本当のことを伝えたいと思います。……私には前世の記憶があります。転生前はこの乙女ゲームをプレイしていました。要するに『紡ぎ紡がれ恋模様』のストーリーはある程度、知っています」

 一息に喋り終えると、詠介は困ったように笑った。

「……なんとなく、そんな気はしていました」
「ちゃんと言い出せなくて、ごめんなさい。こんなことを言っても、信じてもらえると思わなくて」
「……いえ、僕が逆の立場でも真実を伝える勇気はなかったと思います」
「でも謎解きルートは未プレイだったんです。そこで命が尽きて、気づいたら絃乃に生まれ変わっていて」

 彼はゲーム案内役で、自分はヒロインの友人。
 本来、関わりあいがなかったはずの間柄だ。けれど、二人で協力して、百合子の恋を影ながら見守ってきた。

(一人じゃない。二人ならきっと、どんな困難だって乗り越えられる)

 敵地に挑むならば、情報は多いに越したことはない。

「答えられる範囲でいいんです。詠介さんの知っていることを教えてください」
「……百合子さんが葵くんを選んだ場合、彼にまつわる謎を解く必要があります。まず、葵くんが記憶を取り戻します。次に、双子の姉の様子を見に行くところを、百合子さんに目撃されます。そこで面識を持った彼女と何度か出会い、話す中で徐々に心を開いていくんです」

 ここまでは大方、想像どおりだ。問題はこの後だろう。

「連続失踪事件で、絃乃さんは行方をくらませます。ただ、事前に葵くんの好感度をある程度あげていれば、それ自体は防げるんです。そして、百合子さんと力を合わせ、六年前の謎の真相を追い、真犯人に近づいていくというのが大まかな流れです」

 やはり、先日の閉じ込められた件は好感度が足りなかったのが原因だったのだ。
 百合子は八尋ルートを攻略中のため、謎解きルートには参加しない。したがって、ヒロイン不在で、このルートをクリアしなければならない。

(本当にできるかしら。……ううん、できるかどうかではなく、やるかやらないかよね)

 葵を救う。その目的のためならば、手段は選んでいられない。
 詠介は視線を地面にそらし、ただ、と前置きした。

「僕は百合子さんの恋の手助けは多少できますが、核心に迫る場面での介入は禁じられています。これから起こる出来事の概略も知っていますが、細かいところまでは把握していません。もちろん、僕が犯人と対峙するのも難しいです。そういう役割ではありませんから」
「なるほど。だいたいは理解しました。……今は葵はどうしているんです? ここには来ていませんよね?」
「そうですね……。この時間は家で勉強をしているはずですよ」

 絃乃は小首を傾げ、真面目な顔の詠介を見やる。

「でも、さっきの話を聞いた限りでは、詠介さんができることって限られていますよね? どうやって葵を守るんですか?」
「……世の中には多くの例外があります」

 まるで内緒話をするように、人差し指を口元にあてて、詠介が密やかに言う。

「百合子さんの未来を変えることには介入できない決まりですが、彼女は葵くんと接触していません。つまり、僕の行動による影響はないものと考えられます」
「それって……」
「そうです。本来はできないことも、葵くんのことに限っては見逃されるということです」

 本来のルートに支障がないからか。そうだとしても、彼の立場上、結構ギリギリの綱渡りなのではないだろうか。

「これは僕の推測ですが……犯人はまた絃乃さんと接触してくると見込んでいます」
「どうしてですか? 一度、失敗したのに?」

 一度は確かに閉じ込められた。だが篝のおかげで危機は脱出した。その後に行方不明事件が起きたから、絃乃の身は安全なのではないか。
 その疑問に答えるように、詠介は声のトーンを少し下げて説明する。

「葵くんにとって、絃乃さんは特別な存在です。つまり、おびき出すには格好の標的だということです」

 犯人にとって、自分はまだ利用価値のある存在だということだろう。

「……では、逆に、私が囮になって犯人を追い詰めることも可能と?」
「可能でしょう。ですが、これは最後の手段にとっておきたいです。あなたの身が危険にさらされるのですから」
「ですが、葵が一人で犯人と対峙するよりはいいですよね?」
「それは……まあ。彼一人でどうにかできる相手ではないでしょうからね」

 犯人は今この瞬間も、その機会を待っているのだとしたら。

(逃げ場はないのかもしれない)
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