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21. わざわざ確認しないでください!
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明かり取りの窓から差し込む月光は頼りなく、視界が制限されているぶん、互いの息づかいが鮮明に聞こえる。
徐々に暗がりに慣れた目でも、顔色までは判断できず、おぼろげな輪郭だけが確認できる。絃乃が身じろぎできずに固まっていると、詠介が動く気配がした。
ずるずると引きずるような音がして、視線を音のほうへ向ける。どうやら、彼は壁際に座り込んだらしい。詠介は自分を戒めるような堅い口調で告げた。
「未婚の女性が男と密室で二人きりなど、本来あまりよくないのですが……」
道ばたで異性と話すことも、はしたないとされる風潮の中、彼の言い分は正しい。女学校の規則でも不純異性交遊は禁止されており、場合によっては補導されることもある。
だけど、前世の記憶を持った絃乃には、そんな問題は些事だ。それよりも気にすべきポイントは他にある。
暗闇で見えないとわかっていても、頬を膨らます。我ながら子どもっぽい反応だと思うが、乙女心は繊細なのだ。
「子ども相手に今さら、気を遣わないでください」
一拍の間を置いて、詠介が困ったように言葉を返す。
「そうは言われましても。あなたみたいな女性は初めてで……どう接していいか、計り兼ねているんですよ」
「……どういうことですか?」
思っていたのと違う答えに、彼の反応を探る。けれど距離が離れているせいで、彼が今どんな表情でいるのかすら、判別ができない。
期待しそうになる自分の心を必死に押しとどめ、彼の言葉を待つ。
「端的に言うと、僕があなたを慕っているということですよ」
暗がりの中で少し笑ったような反応が返ってきて、絃乃の思考は一時停止した。
(……今、なんて?)
聞き違いだろうか。これが幻聴だったら、なんて都合のいい台詞だろう。
絃乃は自分を奮い立たせ、干上がりそうな喉から言葉を発する。
「ご、ご冗談を……」
「あいにくですが、嘘やごまかしが得意な人間ではありません」
返ってくる言葉は事務的だったが、見つめてくる瞳は真摯だった。
その事実が余計、思考をかき乱す。混乱する頭で、必死に過去の出来事を思い起こし、彼が言った言葉を突きつける。
「だ、だって……以前は、妹のように思っていると……」
「あれは便宜上、ああ言うしかなかったというか。僕の本当の気持ちを知られたら、距離を置かれると思ったんです。あなたは華族のお嬢様ですし、立場をわきまえての表現でした」
「…………」
そこで詠介は何かに気づいたのか、焦ったように言い添える。
「ひとつ断っておきますが、良家の子女に手を出すほど愚かではありませんし、あなたを無理やりどうこうするつもりは毛頭ないです。その点に関してはご安心ください」
話は終わったと、詠介は立ち上がる。蔵の中を歩き出し、脱出に使えるものがないかを手探りで調べている。
ここから逃げる手段を考えるつもりなのだろう。
頭の中でそうわかっていても、心はそう簡単に割り切れなくて。
「だ、だったら……仮にもし、私も同じ気持ちだと申し上げたら、どうしますか?」
気づいたら、心の声をそのまま出していた。
大きな背中が、戸惑うようにぴたりと動かなくなる。返ってきたのは長い沈黙。
絃乃はありったけの勇気を振り絞り、声を震わす。
「今はここから出られないかもという不安で鼓動がバクバクしています。でも、詠介さんがそばにいるとドキドキが大きくなっているんです」
彼が振り返る。顔の輪郭もハッキリしていないのに、射るように見つめられる。視線が突き刺さり、影を縫い付けられたように動けない。
詠介は一歩ずつ足を踏み出し、慎重な足取りで近づいてくる。
「つまりは僕のことを意識していると、そういうことですか?」
「そ、そうです……」
改めて言われると気恥ずかしさがこみ上げ、声がしぼんでいく。
「なら今は、不安よりも僕のことで頭がいっぱいと?」
「わ、わざわざ確認しないでください!」
口を尖らせて抗議する。詠介は無言のまま、絃乃の手首をつかんで自分に引き寄せた。抱きしめられていると絃乃が理解するまでに数拍の間があった。
「……あの……」
「わかりますか? 僕も同じなんですよ、さっきからずっと暴れています」
絃乃は瞬き、おそるおそる大きな胸板に耳を寄せた。自分と同じくらい、大きく脈打つ心臓の音が間近に響く。
「ですが、あなたは白椿家のご息女。由緒ある華族の方です。遠くない未来、しかるべき身分の方との縁談が調うでしょう。そして、僕ではない男へ嫁いでいく。――ですから今だけ、もう少しこうさせてください」
切々とした言葉が胸を締めつける。抱きしめられる腕に力が入っても、絃乃は抗えなかった。
(このまま時間が止まってしまえばいいのに)
おずおずと詠介の背中に腕を回した。途端に、一層強く抱きしめられた。痛いほどの力が今は心地よく、しばらくお互い抱き合っていた。
◆◇◆
あれから、どのくらい経っただろう。もしかしたら、そんなに時間は経っていないのかもしれない。
突如、扉をたたく音がして息をのむ。
「おいっ! 誰かいるか!」
「っ……」
目を見合わせ、詠介がゆっくりと体を離す。
入り口のほうに近づき、声を張り上げた。
「閉じ込められているんです! 鍵を開けてもらえませんか」
「お前は誰だ?」
「絃乃さんの連れの佐々波です。彼女も一緒です。助けてください」
詠介が嘆願するように言うと、外で悩むような沈黙があった。だが、少しして閂が外される音がして、観音開きの扉がゆっくりと開かれる。
外の空気が入ってきて、埃がふわりと浮かぶ。外にいた男は呆れたように言った。
「……本当にいるとはな」
「ありがとうございます。助かりました」
詠介に手を引かれて、蔵の外へ出る。
篝が疲れたような二人の顔を見て、首を傾げた。
「なんだって、こんなところに監禁されていたんだ? しかも二人揃って」
「さあ、わかりません。犯人は絃乃さんだけを閉じ込めたかったのかもしれませんが、僕が来てしまったので、一緒に閉じ込められたようです」
「犯人の顔は? 見ていないのか?」
「…………」
篝の質問に、絃乃はゆるく首を横に振る。
あのときは気が動転していて、閉まっていく扉の音しか聞いていない。それは詠介も同じだったようで、うつむいてしまう。
最初に閉じ込めた犯人と、詠介が助けに来てから閂を締めた犯人が同一人物かはわからない。ここに連れてきたボーイもすでに逃げた後かもしれない。
「一体、何の目的だったかはわからないが。まあ、無事で何よりだった」
「そういえば、篝さんはなんでこんなところに?」
詠介のもっともな質問に、絃乃も篝を見つめる。彼は首の後ろに手を当てて、勘だよ、と小さくつぶやいた。
「これからダンスが始まるのに、絃乃お嬢さんの姿が見えないし、百合子お嬢さんに聞いても知らないみたいだし。それに、一言もないまま帰る性格とも思えなかったからな。だから、念のために敷地内を探していたんだ。そしたら、閂が中途半端に閉まっている蔵があったからよ。まさかと思いながら、呼びかけたってわけだ」
ぶっきらぼうな口調だけど、心底心配してくれたことが伝わり、絃乃は胸に迫るものがあった。
だけど、それを悟られるのは妙に気恥ずかしくて、可愛げのない声を返してしまう。
「……正義感が強いんですね」
「ったく、感謝しろよ? この記者魂がなかったら、お前らはまだ閉じ込められていたんだろうからな」
「……篝さん。本当にありがとうございます。おかげさまで、これからも生き延びられます」
詠介が丁寧に頭を下げると、篝がおもむろに目を泳がした。
「そこまで丁寧に言われると対応に困るな……」
「もう、篝さんが言ったんじゃないですか」
「とにかく戻るぞ。……どこも怪我とかしてないだろうな?」
「幸い、無事です」
よろめく肩を詠介に介抱されながら会場に戻ると、雛菊が真っ先に駆け寄ってきた。
「よかった。ダンスの時間になっても姿が見えないから、心配していたのよ」
「え、えっと。ちょっと夜風に吹かれたい気分だったから……」
「ともかく戻ってきてくれて安心したわ」
とっさの言い訳は疑われなかったようで、百合子のもとへ連れて行かれる。その途中、何か強い視線を感じて足を止める。
「……?」
そろりと振り向くが、ホールに集まった紳士淑女はそれぞれ談笑している。怪しい人物はどこにもいない。
(気のせい……かしら。穏やかじゃない視線を向けられていた気がしたのだけど……)
絃乃が倒れないように付き添っていた詠介が不思議そうに尋ねる。
「……絃乃さん? どうしました?」
「ああ、いえ。なんでもないです」
百合子は深刻な様子で八尋と話し合っていたが、絃乃が姿を見せるとパッと顔を上げた。
「絃乃さん、どこに行っていらしたの?」
「心配させて、ごめんなさい。外の風にあたっていただけなの」
「最近は令嬢失踪事件もあるし、絃乃さんがさらわれたんじゃないかって、心配で……。でも無事なようで安心したわ」
涙をためた顔を見て、罪悪感に駆られる。
(本当は何者かに閉じ込められていたんだけど、話したら余計心配させるだけよね)
詠介が駆けつけてくれたが、結局二人とも閉じ込められてしまった。篝が来てくれなかったら、この会場には戻れずにいただろう。
(土蔵に連れて行ったボーイはもう逃げた後みたいね。共犯者っていう見方もあるけど、お金をつかまされた臨時の雇い人っていう線もあるし)
気になるのは先ほどの視線。殺気のような強い視線は、ボーイをそそのかした犯人の可能性が高い。ということは、今もこの会場にいるということになる。
一体、誰が犯人なのか。攻略相手のメンバーが犯人なのか、それとも違う人か。
(犯人にとって、私がここに戻ってきたのは計算違いのはず)
万が一の事態に備えて、周囲には警戒しておかなければならない。だけど、その日も翌日以降もいつもの日常が過ぎていくだけだった。
ぬるま湯のような日々に、最初は緊張して過ごしていた絃乃も徐々に警戒をゆるめていく。さらに数日が経過し、号外新聞では新たな令嬢の失踪事件が大きく報道されていた。
徐々に暗がりに慣れた目でも、顔色までは判断できず、おぼろげな輪郭だけが確認できる。絃乃が身じろぎできずに固まっていると、詠介が動く気配がした。
ずるずると引きずるような音がして、視線を音のほうへ向ける。どうやら、彼は壁際に座り込んだらしい。詠介は自分を戒めるような堅い口調で告げた。
「未婚の女性が男と密室で二人きりなど、本来あまりよくないのですが……」
道ばたで異性と話すことも、はしたないとされる風潮の中、彼の言い分は正しい。女学校の規則でも不純異性交遊は禁止されており、場合によっては補導されることもある。
だけど、前世の記憶を持った絃乃には、そんな問題は些事だ。それよりも気にすべきポイントは他にある。
暗闇で見えないとわかっていても、頬を膨らます。我ながら子どもっぽい反応だと思うが、乙女心は繊細なのだ。
「子ども相手に今さら、気を遣わないでください」
一拍の間を置いて、詠介が困ったように言葉を返す。
「そうは言われましても。あなたみたいな女性は初めてで……どう接していいか、計り兼ねているんですよ」
「……どういうことですか?」
思っていたのと違う答えに、彼の反応を探る。けれど距離が離れているせいで、彼が今どんな表情でいるのかすら、判別ができない。
期待しそうになる自分の心を必死に押しとどめ、彼の言葉を待つ。
「端的に言うと、僕があなたを慕っているということですよ」
暗がりの中で少し笑ったような反応が返ってきて、絃乃の思考は一時停止した。
(……今、なんて?)
聞き違いだろうか。これが幻聴だったら、なんて都合のいい台詞だろう。
絃乃は自分を奮い立たせ、干上がりそうな喉から言葉を発する。
「ご、ご冗談を……」
「あいにくですが、嘘やごまかしが得意な人間ではありません」
返ってくる言葉は事務的だったが、見つめてくる瞳は真摯だった。
その事実が余計、思考をかき乱す。混乱する頭で、必死に過去の出来事を思い起こし、彼が言った言葉を突きつける。
「だ、だって……以前は、妹のように思っていると……」
「あれは便宜上、ああ言うしかなかったというか。僕の本当の気持ちを知られたら、距離を置かれると思ったんです。あなたは華族のお嬢様ですし、立場をわきまえての表現でした」
「…………」
そこで詠介は何かに気づいたのか、焦ったように言い添える。
「ひとつ断っておきますが、良家の子女に手を出すほど愚かではありませんし、あなたを無理やりどうこうするつもりは毛頭ないです。その点に関してはご安心ください」
話は終わったと、詠介は立ち上がる。蔵の中を歩き出し、脱出に使えるものがないかを手探りで調べている。
ここから逃げる手段を考えるつもりなのだろう。
頭の中でそうわかっていても、心はそう簡単に割り切れなくて。
「だ、だったら……仮にもし、私も同じ気持ちだと申し上げたら、どうしますか?」
気づいたら、心の声をそのまま出していた。
大きな背中が、戸惑うようにぴたりと動かなくなる。返ってきたのは長い沈黙。
絃乃はありったけの勇気を振り絞り、声を震わす。
「今はここから出られないかもという不安で鼓動がバクバクしています。でも、詠介さんがそばにいるとドキドキが大きくなっているんです」
彼が振り返る。顔の輪郭もハッキリしていないのに、射るように見つめられる。視線が突き刺さり、影を縫い付けられたように動けない。
詠介は一歩ずつ足を踏み出し、慎重な足取りで近づいてくる。
「つまりは僕のことを意識していると、そういうことですか?」
「そ、そうです……」
改めて言われると気恥ずかしさがこみ上げ、声がしぼんでいく。
「なら今は、不安よりも僕のことで頭がいっぱいと?」
「わ、わざわざ確認しないでください!」
口を尖らせて抗議する。詠介は無言のまま、絃乃の手首をつかんで自分に引き寄せた。抱きしめられていると絃乃が理解するまでに数拍の間があった。
「……あの……」
「わかりますか? 僕も同じなんですよ、さっきからずっと暴れています」
絃乃は瞬き、おそるおそる大きな胸板に耳を寄せた。自分と同じくらい、大きく脈打つ心臓の音が間近に響く。
「ですが、あなたは白椿家のご息女。由緒ある華族の方です。遠くない未来、しかるべき身分の方との縁談が調うでしょう。そして、僕ではない男へ嫁いでいく。――ですから今だけ、もう少しこうさせてください」
切々とした言葉が胸を締めつける。抱きしめられる腕に力が入っても、絃乃は抗えなかった。
(このまま時間が止まってしまえばいいのに)
おずおずと詠介の背中に腕を回した。途端に、一層強く抱きしめられた。痛いほどの力が今は心地よく、しばらくお互い抱き合っていた。
◆◇◆
あれから、どのくらい経っただろう。もしかしたら、そんなに時間は経っていないのかもしれない。
突如、扉をたたく音がして息をのむ。
「おいっ! 誰かいるか!」
「っ……」
目を見合わせ、詠介がゆっくりと体を離す。
入り口のほうに近づき、声を張り上げた。
「閉じ込められているんです! 鍵を開けてもらえませんか」
「お前は誰だ?」
「絃乃さんの連れの佐々波です。彼女も一緒です。助けてください」
詠介が嘆願するように言うと、外で悩むような沈黙があった。だが、少しして閂が外される音がして、観音開きの扉がゆっくりと開かれる。
外の空気が入ってきて、埃がふわりと浮かぶ。外にいた男は呆れたように言った。
「……本当にいるとはな」
「ありがとうございます。助かりました」
詠介に手を引かれて、蔵の外へ出る。
篝が疲れたような二人の顔を見て、首を傾げた。
「なんだって、こんなところに監禁されていたんだ? しかも二人揃って」
「さあ、わかりません。犯人は絃乃さんだけを閉じ込めたかったのかもしれませんが、僕が来てしまったので、一緒に閉じ込められたようです」
「犯人の顔は? 見ていないのか?」
「…………」
篝の質問に、絃乃はゆるく首を横に振る。
あのときは気が動転していて、閉まっていく扉の音しか聞いていない。それは詠介も同じだったようで、うつむいてしまう。
最初に閉じ込めた犯人と、詠介が助けに来てから閂を締めた犯人が同一人物かはわからない。ここに連れてきたボーイもすでに逃げた後かもしれない。
「一体、何の目的だったかはわからないが。まあ、無事で何よりだった」
「そういえば、篝さんはなんでこんなところに?」
詠介のもっともな質問に、絃乃も篝を見つめる。彼は首の後ろに手を当てて、勘だよ、と小さくつぶやいた。
「これからダンスが始まるのに、絃乃お嬢さんの姿が見えないし、百合子お嬢さんに聞いても知らないみたいだし。それに、一言もないまま帰る性格とも思えなかったからな。だから、念のために敷地内を探していたんだ。そしたら、閂が中途半端に閉まっている蔵があったからよ。まさかと思いながら、呼びかけたってわけだ」
ぶっきらぼうな口調だけど、心底心配してくれたことが伝わり、絃乃は胸に迫るものがあった。
だけど、それを悟られるのは妙に気恥ずかしくて、可愛げのない声を返してしまう。
「……正義感が強いんですね」
「ったく、感謝しろよ? この記者魂がなかったら、お前らはまだ閉じ込められていたんだろうからな」
「……篝さん。本当にありがとうございます。おかげさまで、これからも生き延びられます」
詠介が丁寧に頭を下げると、篝がおもむろに目を泳がした。
「そこまで丁寧に言われると対応に困るな……」
「もう、篝さんが言ったんじゃないですか」
「とにかく戻るぞ。……どこも怪我とかしてないだろうな?」
「幸い、無事です」
よろめく肩を詠介に介抱されながら会場に戻ると、雛菊が真っ先に駆け寄ってきた。
「よかった。ダンスの時間になっても姿が見えないから、心配していたのよ」
「え、えっと。ちょっと夜風に吹かれたい気分だったから……」
「ともかく戻ってきてくれて安心したわ」
とっさの言い訳は疑われなかったようで、百合子のもとへ連れて行かれる。その途中、何か強い視線を感じて足を止める。
「……?」
そろりと振り向くが、ホールに集まった紳士淑女はそれぞれ談笑している。怪しい人物はどこにもいない。
(気のせい……かしら。穏やかじゃない視線を向けられていた気がしたのだけど……)
絃乃が倒れないように付き添っていた詠介が不思議そうに尋ねる。
「……絃乃さん? どうしました?」
「ああ、いえ。なんでもないです」
百合子は深刻な様子で八尋と話し合っていたが、絃乃が姿を見せるとパッと顔を上げた。
「絃乃さん、どこに行っていらしたの?」
「心配させて、ごめんなさい。外の風にあたっていただけなの」
「最近は令嬢失踪事件もあるし、絃乃さんがさらわれたんじゃないかって、心配で……。でも無事なようで安心したわ」
涙をためた顔を見て、罪悪感に駆られる。
(本当は何者かに閉じ込められていたんだけど、話したら余計心配させるだけよね)
詠介が駆けつけてくれたが、結局二人とも閉じ込められてしまった。篝が来てくれなかったら、この会場には戻れずにいただろう。
(土蔵に連れて行ったボーイはもう逃げた後みたいね。共犯者っていう見方もあるけど、お金をつかまされた臨時の雇い人っていう線もあるし)
気になるのは先ほどの視線。殺気のような強い視線は、ボーイをそそのかした犯人の可能性が高い。ということは、今もこの会場にいるということになる。
一体、誰が犯人なのか。攻略相手のメンバーが犯人なのか、それとも違う人か。
(犯人にとって、私がここに戻ってきたのは計算違いのはず)
万が一の事態に備えて、周囲には警戒しておかなければならない。だけど、その日も翌日以降もいつもの日常が過ぎていくだけだった。
ぬるま湯のような日々に、最初は緊張して過ごしていた絃乃も徐々に警戒をゆるめていく。さらに数日が経過し、号外新聞では新たな令嬢の失踪事件が大きく報道されていた。
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