18 / 29
18. それはこっちの台詞です
しおりを挟む
「ここに入るのは何年ぶりかしら……」
表座敷を抜けて廊下を進んだ西側が、家族に割り当てられた居住空間だ。絃乃の部屋の二つ隣の和室が葵の部屋だった。
主人のいない部屋は、定期的に掃除がされているようで、埃っぽい様子はない。文机の上には弟が読んでいた古い書物が置かれ、行方不明になった当時のまま保管されている。
(この部屋は、まだ気持ちの整理がついていないことの表れなのでしょうね)
心のどこかで、いつか帰ってくると信じていたいのだ。
(葵は……生きていた。でも、まだここには帰ってこられない)
あの晩は、それぞれ自分の部屋で就寝していた。もし隣で寝ていれば、異常事態に早く気づけただろうか。たった一人の弟に、つらい思いをさせることもなかっただろうか。
もしも、と願ってしまうのは、何もできなかった自分が許せないかもしれない。再会した弟は雰囲気がだいぶ違っていた。だから気づくのが遅れた。姉として情けなく思う。
(謎解きルートを攻略しなければ、いずれ、私もここにはいられなくなる。そうしたら、両親はまた子どもを失うことになる)
家族を失ったと知ったときの悲しみは、計り知れない。今思い出しても、苦い気持ちが心にあふれてくる。あんな思いは一度で充分だ。
できることなら、今すぐ葵に詰め寄って問いただしたい。
聞きたいことはたくさんある。夜中に消えたのは自分の意志だったのか、それとも誰かにさらわれたからなのか。せめて狙われている理由がわかれば、対策だって一緒に考えられたのに。
(答えてよ。葵――)
しんと静まった部屋に返る声はなく、襖も閉まったままだ。何年も部屋の主人を失ったままの和室は時が止まったみたいに沈黙していた。
◆◇◆
葵の居場所はわかったけれど、きっと今の彼に詰め寄ったところで、何も話してくれないだろう。まだそのときではないから。
だったら機が熟するのを待つまでだ。
(今後のイベントから考えても、そんなに待つことはないと思うし……)
楽観的な考え方かもしれないが、時には待つのも戦略のひとつだ。ここで絃乃が下手に動くと、葵の身に危険が襲う可能性もある。彼が何から逃げているかもわからない以上、余計な行動は慎むべきだろう。
とはいえ、姉として弟が無茶しないか、心配するぐらいは大目に見てほしい。
佐々波呉服屋の店先が辛うじて見える位置から様子を探る。しかし、活発な従業員が呼びかけしている姿しか確認できない。
(もしかして、まだ学校の方なのかしら)
偶然会えたとしても、彼はきっと理由を話してくれないだろう。それどころか、邪険にされる気がしてならない。
その可能性に行き当たり、つい唸り声を上げる。
「……何を唸っているんだ?」
「頑固な書生の口を割らせる妙案に行き詰まっておりまして……」
「なるほど、お嬢さんの待ち人は書生か。しかも堅物な野郎とは。難儀なもんだな」
「ええ、まあ……。って、篝さんっ? いつからそこに?」
前の様子が気になっていたせいで、無意識に答えてしまったではないか。
背後にいた篝を恨みがましく見つめると、降参とばかりに両手を軽く挙げる。しかし、その顔に強ばりはなく、けろりとしている。
「誰かと思えば、絃乃お嬢さんだったか」
「それはこっちの台詞です」
「……それはそれとして、隠れているつもりだったんだろうが、見るからに怪しかったぞ。こんなところで何をしていたんだ?」
素朴な疑問という風に投げかけられ、うっと詰まる。言葉に窮していると、見かねた篝が助け船を出す。
「まあ、聞かれて困ることは、簡単には口には出したくないよな」
「……そういう篝さんこそ、何をしていたんです?」
責めるように言うと、篝はやれやれと肩をすくめた。
唇に人差し指を立てて、小声で教えてくれる。
「尾行だよ。気になる人物に狙いを定めて、行動を見張っていたわけだ。ただまあ、標的はもう逃げてしまったがな」
「標的?」
つられて通りの向こうを見るが、警官が数人話し合っているだけで、他に人影はいない。
「見張らなくていいんですか?」
「俺は深追いはしない主義だ。先方には感づかれたみたいだからな。引き時だ」
「そういうものですか」
「まあな」
篝は頷くと、思い出したようにズボンのポケットを漁る。鎖で繋がれた懐中時計の蓋を開け、焦ったように早口で告げる。
「おっと。これから取材があるんだった。秋で日の入りも早くなったんだから、お嬢さんも早く帰れよ」
「わかってますっ」
「じゃあ、またな」
くるりと背中を向けて、早足で去っていく。用事があるのは本当のようだ。
東の空はまだ薄青の色で、夕日が沈むまでには猶予がある。けれど、日が傾き始めたら暗くなるのはすぐだ。
ここは助言に従うべきだろう。
絃乃はすごすごと回れ右をし、帰宅の道をたどる。その姿を遠目に確認した若い男はほっと息をつき、佐々波呉服屋の裏手にある戸を引いた。
表座敷を抜けて廊下を進んだ西側が、家族に割り当てられた居住空間だ。絃乃の部屋の二つ隣の和室が葵の部屋だった。
主人のいない部屋は、定期的に掃除がされているようで、埃っぽい様子はない。文机の上には弟が読んでいた古い書物が置かれ、行方不明になった当時のまま保管されている。
(この部屋は、まだ気持ちの整理がついていないことの表れなのでしょうね)
心のどこかで、いつか帰ってくると信じていたいのだ。
(葵は……生きていた。でも、まだここには帰ってこられない)
あの晩は、それぞれ自分の部屋で就寝していた。もし隣で寝ていれば、異常事態に早く気づけただろうか。たった一人の弟に、つらい思いをさせることもなかっただろうか。
もしも、と願ってしまうのは、何もできなかった自分が許せないかもしれない。再会した弟は雰囲気がだいぶ違っていた。だから気づくのが遅れた。姉として情けなく思う。
(謎解きルートを攻略しなければ、いずれ、私もここにはいられなくなる。そうしたら、両親はまた子どもを失うことになる)
家族を失ったと知ったときの悲しみは、計り知れない。今思い出しても、苦い気持ちが心にあふれてくる。あんな思いは一度で充分だ。
できることなら、今すぐ葵に詰め寄って問いただしたい。
聞きたいことはたくさんある。夜中に消えたのは自分の意志だったのか、それとも誰かにさらわれたからなのか。せめて狙われている理由がわかれば、対策だって一緒に考えられたのに。
(答えてよ。葵――)
しんと静まった部屋に返る声はなく、襖も閉まったままだ。何年も部屋の主人を失ったままの和室は時が止まったみたいに沈黙していた。
◆◇◆
葵の居場所はわかったけれど、きっと今の彼に詰め寄ったところで、何も話してくれないだろう。まだそのときではないから。
だったら機が熟するのを待つまでだ。
(今後のイベントから考えても、そんなに待つことはないと思うし……)
楽観的な考え方かもしれないが、時には待つのも戦略のひとつだ。ここで絃乃が下手に動くと、葵の身に危険が襲う可能性もある。彼が何から逃げているかもわからない以上、余計な行動は慎むべきだろう。
とはいえ、姉として弟が無茶しないか、心配するぐらいは大目に見てほしい。
佐々波呉服屋の店先が辛うじて見える位置から様子を探る。しかし、活発な従業員が呼びかけしている姿しか確認できない。
(もしかして、まだ学校の方なのかしら)
偶然会えたとしても、彼はきっと理由を話してくれないだろう。それどころか、邪険にされる気がしてならない。
その可能性に行き当たり、つい唸り声を上げる。
「……何を唸っているんだ?」
「頑固な書生の口を割らせる妙案に行き詰まっておりまして……」
「なるほど、お嬢さんの待ち人は書生か。しかも堅物な野郎とは。難儀なもんだな」
「ええ、まあ……。って、篝さんっ? いつからそこに?」
前の様子が気になっていたせいで、無意識に答えてしまったではないか。
背後にいた篝を恨みがましく見つめると、降参とばかりに両手を軽く挙げる。しかし、その顔に強ばりはなく、けろりとしている。
「誰かと思えば、絃乃お嬢さんだったか」
「それはこっちの台詞です」
「……それはそれとして、隠れているつもりだったんだろうが、見るからに怪しかったぞ。こんなところで何をしていたんだ?」
素朴な疑問という風に投げかけられ、うっと詰まる。言葉に窮していると、見かねた篝が助け船を出す。
「まあ、聞かれて困ることは、簡単には口には出したくないよな」
「……そういう篝さんこそ、何をしていたんです?」
責めるように言うと、篝はやれやれと肩をすくめた。
唇に人差し指を立てて、小声で教えてくれる。
「尾行だよ。気になる人物に狙いを定めて、行動を見張っていたわけだ。ただまあ、標的はもう逃げてしまったがな」
「標的?」
つられて通りの向こうを見るが、警官が数人話し合っているだけで、他に人影はいない。
「見張らなくていいんですか?」
「俺は深追いはしない主義だ。先方には感づかれたみたいだからな。引き時だ」
「そういうものですか」
「まあな」
篝は頷くと、思い出したようにズボンのポケットを漁る。鎖で繋がれた懐中時計の蓋を開け、焦ったように早口で告げる。
「おっと。これから取材があるんだった。秋で日の入りも早くなったんだから、お嬢さんも早く帰れよ」
「わかってますっ」
「じゃあ、またな」
くるりと背中を向けて、早足で去っていく。用事があるのは本当のようだ。
東の空はまだ薄青の色で、夕日が沈むまでには猶予がある。けれど、日が傾き始めたら暗くなるのはすぐだ。
ここは助言に従うべきだろう。
絃乃はすごすごと回れ右をし、帰宅の道をたどる。その姿を遠目に確認した若い男はほっと息をつき、佐々波呉服屋の裏手にある戸を引いた。
0
お気に入りに追加
82
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。

【完結】私ですか?ただの令嬢です。
凛 伊緒
恋愛
死んで転生したら、大好きな乙女ゲーの世界の悪役令嬢だった!?
バッドエンドだらけの悪役令嬢。
しかし、
「悪さをしなければ、最悪な結末は回避出来るのでは!?」
そう考え、ただの令嬢として生きていくことを決意する。
運命を変えたい主人公の、バッドエンド回避の物語!
※完結済です。
※作者がシステムに不慣れかつ創作初心者な時に書いたものなので、温かく見守っていだければ幸いです……(。_。///)
※ご感想・ご指摘につきましては、近況ボードをお読みくださいませ。
《皆様のご愛読に、心からの感謝を申し上げますm(*_ _)m》

溺愛最強 ~気づいたらゲームの世界に生息していましたが、悪役令嬢でもなければ断罪もされないので、とにかく楽しむことにしました~
夏笆(なつは)
恋愛
「おねえしゃま。こえ、すっごくおいしいでし!」
弟のその言葉は、晴天の霹靂。
アギルレ公爵家の長女であるレオカディアは、その瞬間、今自分が生きる世界が前世で楽しんだゲーム「エトワールの称号」であることを知った。
しかし、自分は王子エルミニオの婚約者ではあるものの、このゲームには悪役令嬢という役柄は存在せず、断罪も無いので、攻略対象とはなるべく接触せず、穏便に生きて行けば大丈夫と、生きることを楽しむことに決める。
醤油が欲しい、うにが食べたい。
レオカディアが何か「おねだり」するたびに、アギルレ領は、周りの領をも巻き込んで豊かになっていく。
既にゲームとは違う展開になっている人間関係、その学院で、ゲームのヒロインは前世の記憶通りに攻略を開始するのだが・・・・・?
小説家になろうにも掲載しています。

【完結】人生2回目の少女は、年上騎士団長から逃げられない
櫻野くるみ
恋愛
伯爵家の長女、エミリアは前世の記憶を持つ転生者だった。
手のかからない赤ちゃんとして可愛がられたが、前世の記憶を活かし類稀なる才能を見せ、まわりを驚かせていた。
大人びた子供だと思われていた5歳の時、18歳の騎士ダニエルと出会う。
成り行きで、父の死を悔やんでいる彼を慰めてみたら、うっかり気に入られてしまったようで?
歳の差13歳、未来の騎士団長候補は執着と溺愛が凄かった!
出世するたびにアプローチを繰り返す一途なダニエルと、年齢差を理由に断り続けながらも離れられないエミリア。
騎士団副団長になり、団長までもう少しのところで訪れる愛の試練。乗り越えたダニエルは、いよいよエミリアと結ばれる?
5歳で出会ってからエミリアが年頃になり、逃げられないまま騎士団長のお嫁さんになるお話。
ハッピーエンドです。
完結しています。
小説家になろう様にも投稿していて、そちらでは少し修正しています。

だから言ったでしょう?
わらびもち
恋愛
ロザリンドの夫は職場で若い女性から手製の菓子を貰っている。
その行為がどれだけ妻を傷つけるのか、そしてどれだけ危険なのかを理解しない夫。
ロザリンドはそんな夫に失望したーーー。


家族と移住した先で隠しキャラ拾いました
狭山ひびき@バカふり160万部突破
恋愛
「はい、ちゅーもーっく! 本日わたしは、とうとう王太子殿下から婚約破棄をされました! これがその証拠です!」
ヴィルヘルミーネ・フェルゼンシュタインは、そう言って家族に王太子から届いた手紙を見せた。
「「「やっぱりかー」」」
すぐさま合いの手を入れる家族は、前世から家族である。
日本で死んで、この世界――前世でヴィルヘルミーネがはまっていた乙女ゲームの世界に転生したのだ。
しかも、ヴィルヘルミーネは悪役令嬢、そして家族は当然悪役令嬢の家族として。
ゆえに、王太子から婚約破棄を突きつけられることもわかっていた。
前世の記憶を取り戻した一年前から準備に準備を重ね、婚約破棄後の身の振り方を決めていたヴィルヘルミーネたちは慌てず、こう宣言した。
「船に乗ってシュティリエ国へ逃亡するぞー!」「「「おー!」」」
前世も今も、実に能天気な家族たちは、こうして断罪される前にそそくさと海を挟んだ隣国シュティリエ国へ逃亡したのである。
そして、シュティリエ国へ逃亡し、新しい生活をはじめた矢先、ヴィルヘルミーネは庭先で真っ黒い兎を見つけて保護をする。
まさかこの兎が、乙女ゲームのラスボスであるとは気づかづに――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる