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15. 婚約者冥利に尽きるんじゃない?
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珍しく早起きをした日。
教室に入るなり、雛菊が駆け寄ってきた。その後ろに百合子が続き、二人に囲まれた絃乃は何ごとかと風呂敷の包みをぎゅっと握りしめた。
「絃乃はもう聞きまして? うちの下級生の家に現れたんですって!」
「え……何の話?」
「怪盗鬼火よ! 今度は蔵にあった家宝がいくつか盗まれたって話よ」
興奮冷めやらぬ口調で言葉が返ってきて、絃乃は気圧されたように曖昧に頷いた。
そんな雰囲気にも動じず、百合子は頬に片手を当てて、落ち着いた声で不安を吐露する。
「最近は令嬢失踪事件もあるじゃない。物騒な世の中になったわよね」
「あ、でもそれ、誘拐して身代金を要求しているって話じゃない? お金を受け取ったら、ご令嬢は無事に戻ってくるって……」
雛菊の言葉に、百合子は整った眉を寄せる。
「だけど、かどわかされたのは事実でしょう。家に戻るまでの間、きっと心細いをしていたはずよ」
「確かにそうね……。そういえば、わたくしも気をつけなさいって言われたんだったわ」
思い出したように言う雛菊を見て、百合子は視線を床に落とす。
どこか落ち込んだような態度に絃乃が声をかけようとすると、沈んだ声が続いた。
「私のところは八尋様が特に心配していて。毎日、お迎えにきてくれる話になったわ……」
「……お迎えに? 毎日?」
「ええ。本当に心配性よね。帰りは俥もあるのに」
確かに、百合子は俥で送迎している。令嬢失踪事件は心配だが、一人で歩くわけでもないし、毎日迎えに来るというのは、いささか度が過ぎている。
それを感じているのだろう。百合子の顔には色濃い困惑があった。
「でも、お仕事もあるでしょう? さすがに毎日お迎えに来るのは無理があるんじゃないかと思うのだけど」
絃乃が言うと、同意を求めていたような食いつきで、百合子が顔を近づける。
「そうよね! お気持ちだけでもありがたいのに、これ以上ご迷惑はかけられないと思っていたの。でも実際に行動に移すのは難しいわよね」
「……一般的にはそうだと思う」
つい視線をそらしてしまったのは、ゲームのスチルが脳裏をよぎったからだ。
(そういえば、心配だからと女学校にお迎えに来てくれるシーンがあったような……。でも記憶が確かなら、毎日ではなかった気がするし……)
おそらくだが、百合子の心配する事態にはならないだろう。
(それよりも問題は令嬢失踪事件よね。ゲームで絃乃が消えるのはどこかのパーティーの後だったはず。夜会には注意しないと……)
新たな決意を胸に、自分の席に着く。まもなくして始業の鐘が鳴った。
◆◇◆
放課後、いつものように三人で下校していると、校門前に人だかりができていた。
(うわあ。この光景、前にも見たなあ……)
あのときは雪之丞が自動車で待ち構えていて、それを八尋が助けていたのだが、今日の注目を集めているのは誰だろう。ブーツで背伸びして前の様子を確かめようとすると、色とりどりのリボン頭の向こうに、濃い緑の軍帽が目に入った。
(軍服の将校ってことは、八尋のお迎えイベントだわ……!)
百合子も気づいたのだろう。さっと顔に緊張が走る。だけど逃げるわけにもいかないと覚悟を決めたのか、唇を引き結ぶ。
「まあ、一体何ごとかしら」
のんびりと言う雛菊は、渦中にいる人物にまだピンときていないらしい。
そのまま足を進めると、遠巻きに見つめていた女学生の視線をさらうように堂々と立っていた八尋と目が合う。
彼は隣にいた百合子を見ると、朗らかに言った。
「百合子さん。一緒に帰りましょう」
「八尋様……本当に来てくださったのですね」
「当然です。あなたの身が心配で、仕事になりませんから。無事に送り届けたら、すぐに戻ります」
「そ、そんな申し訳ないですわ。お仕事のほうが大切でしょうに」
「いいえ。大事なのはあなたのほうです」
毅然と告げる声に返す言葉を失ったのか、百合子が薄く口を開いたまま硬直する。
だが、婚約者に手を差し伸べられて、たどたどしく指先をその手に載せる。八尋はふっと口元をゆるめ、優雅に俥へとエスコートしていく。
並んで座席に座ると、車夫が梶棒を持って、ゆっくりと動き出す。
物語の一幕を見ているような気持ちで見つめていると、横で傍観していた雛菊がほうっと息をつく。
去り際の親友の横顔を思い出し、絃乃はつぶやくように言った。
「百合子もなんだかんだ言って、嬉しそうだったね」
「そりゃ、ここまで溺愛されていたら婚約者冥利に尽きるんじゃない?」
「……雛菊の婚約者は、そこのところ、どうなの?」
「うーん。最近はお仕事が忙しいらしくて、一ヶ月に一度ぐらいしか会えていないのよね」
もっと頻繁に会っているのかと思っていただけに、二人の関係が少し心配になる。
「お仕事って何をしていらっしゃる方なの?」
「あれ、言ってなかったかしら。実家は百貨店を経営しているけれど、彼は警官をしているの。市民を守る立場だから、特に忙しいのでしょうね」
「そうだったの……」
怪盗の事件に連続誘拐事件が続けば、警備体制を整えたり、巡回が増えたりと大変そうだ。会えない理由に納得していると、でもね、と雛菊が付け加える。
「今度、フランス料理を食べに連れて行ってくださる約束をしているの。急なお仕事が入らなければ、だけど」
「そうなのね。事件が早く解決すればいいのにね。けどまあ、雛菊も婚約者と順調そうで安心したわ」
「そういう絃乃はどうなのよ?」
「え、私?」
「進展があったんでしょ? 相手の名前、まだ聞いていなかったわね」
ぐいぐいと顔を近づけられ、退路を断たれる。
すでに背中は壁際に押しやられており、目の前には好奇心をきらめかせた友の瞳。
下手にごまかすと後々が大変そうだと悟り、絃乃は心の中で白旗を揚げた。
「え、詠介さんは、その……笑った顔がすてきな人なの……」
笑顔の圧力に負けて小声で答えると、雛菊が意外そうに目を丸くした。
「へえ。詠介さんとおっしゃるの。婚約者でもないのにもう名前で呼んでいるなんて、よっぽど仲がいいのね」
「……あ。こ、これには……事情があって」
「いいじゃない。仲がいいことは悪いことじゃないわ。わたくしたちの自由は限られているのですもの。精いっぱい、今しかできない恋を楽しまなきゃ!」
多くの女学生の恋愛は、うたかたの恋だ。
大っぴらにできない恋の相手は下宿している書生だったり、教師だったり、はたまた付け文で告白された学生だったりとさまざまだ。
現実に好きな人と結ばれることは夢物語のご時世、卒業や結婚というタイムリミットまでの秘密の恋を楽しむ貴重な時間でもある。
雛菊はうろたえる絃乃の両手をつかみ、瞳を輝かせた。
「誰が反対しても、わたくしは応援しているからね」
「……あ、ありがとう……」
熱の入った応援を受け、とりあえず礼を述べておく。雛菊は微笑みとともに手を解放し、迎えに来た乳母と一緒に去っていく。
その後ろ姿を見送っていると、視線に気づいたのか、ひらひらと手を振ってきたので返す。そして右手を下ろし、そっと息をつく。
(というか……そもそも、私の恋は実るのかしら……)
少しずつだが、仲は深まっているとは思う。
けれど、勇気を振り絞った告白も玉砕したばかりだ。まさかの妹発言の衝撃は記憶に新しい。
相手は乙女ゲームに出てきたキャラクターだが、攻略対象ではない。したがって、彼を落とす有力な情報は皆無である。女性の好みすら、わからない。
悲しいかな、現在の作戦はノープランだ。これは早急に対策が必要かもしれない。
教室に入るなり、雛菊が駆け寄ってきた。その後ろに百合子が続き、二人に囲まれた絃乃は何ごとかと風呂敷の包みをぎゅっと握りしめた。
「絃乃はもう聞きまして? うちの下級生の家に現れたんですって!」
「え……何の話?」
「怪盗鬼火よ! 今度は蔵にあった家宝がいくつか盗まれたって話よ」
興奮冷めやらぬ口調で言葉が返ってきて、絃乃は気圧されたように曖昧に頷いた。
そんな雰囲気にも動じず、百合子は頬に片手を当てて、落ち着いた声で不安を吐露する。
「最近は令嬢失踪事件もあるじゃない。物騒な世の中になったわよね」
「あ、でもそれ、誘拐して身代金を要求しているって話じゃない? お金を受け取ったら、ご令嬢は無事に戻ってくるって……」
雛菊の言葉に、百合子は整った眉を寄せる。
「だけど、かどわかされたのは事実でしょう。家に戻るまでの間、きっと心細いをしていたはずよ」
「確かにそうね……。そういえば、わたくしも気をつけなさいって言われたんだったわ」
思い出したように言う雛菊を見て、百合子は視線を床に落とす。
どこか落ち込んだような態度に絃乃が声をかけようとすると、沈んだ声が続いた。
「私のところは八尋様が特に心配していて。毎日、お迎えにきてくれる話になったわ……」
「……お迎えに? 毎日?」
「ええ。本当に心配性よね。帰りは俥もあるのに」
確かに、百合子は俥で送迎している。令嬢失踪事件は心配だが、一人で歩くわけでもないし、毎日迎えに来るというのは、いささか度が過ぎている。
それを感じているのだろう。百合子の顔には色濃い困惑があった。
「でも、お仕事もあるでしょう? さすがに毎日お迎えに来るのは無理があるんじゃないかと思うのだけど」
絃乃が言うと、同意を求めていたような食いつきで、百合子が顔を近づける。
「そうよね! お気持ちだけでもありがたいのに、これ以上ご迷惑はかけられないと思っていたの。でも実際に行動に移すのは難しいわよね」
「……一般的にはそうだと思う」
つい視線をそらしてしまったのは、ゲームのスチルが脳裏をよぎったからだ。
(そういえば、心配だからと女学校にお迎えに来てくれるシーンがあったような……。でも記憶が確かなら、毎日ではなかった気がするし……)
おそらくだが、百合子の心配する事態にはならないだろう。
(それよりも問題は令嬢失踪事件よね。ゲームで絃乃が消えるのはどこかのパーティーの後だったはず。夜会には注意しないと……)
新たな決意を胸に、自分の席に着く。まもなくして始業の鐘が鳴った。
◆◇◆
放課後、いつものように三人で下校していると、校門前に人だかりができていた。
(うわあ。この光景、前にも見たなあ……)
あのときは雪之丞が自動車で待ち構えていて、それを八尋が助けていたのだが、今日の注目を集めているのは誰だろう。ブーツで背伸びして前の様子を確かめようとすると、色とりどりのリボン頭の向こうに、濃い緑の軍帽が目に入った。
(軍服の将校ってことは、八尋のお迎えイベントだわ……!)
百合子も気づいたのだろう。さっと顔に緊張が走る。だけど逃げるわけにもいかないと覚悟を決めたのか、唇を引き結ぶ。
「まあ、一体何ごとかしら」
のんびりと言う雛菊は、渦中にいる人物にまだピンときていないらしい。
そのまま足を進めると、遠巻きに見つめていた女学生の視線をさらうように堂々と立っていた八尋と目が合う。
彼は隣にいた百合子を見ると、朗らかに言った。
「百合子さん。一緒に帰りましょう」
「八尋様……本当に来てくださったのですね」
「当然です。あなたの身が心配で、仕事になりませんから。無事に送り届けたら、すぐに戻ります」
「そ、そんな申し訳ないですわ。お仕事のほうが大切でしょうに」
「いいえ。大事なのはあなたのほうです」
毅然と告げる声に返す言葉を失ったのか、百合子が薄く口を開いたまま硬直する。
だが、婚約者に手を差し伸べられて、たどたどしく指先をその手に載せる。八尋はふっと口元をゆるめ、優雅に俥へとエスコートしていく。
並んで座席に座ると、車夫が梶棒を持って、ゆっくりと動き出す。
物語の一幕を見ているような気持ちで見つめていると、横で傍観していた雛菊がほうっと息をつく。
去り際の親友の横顔を思い出し、絃乃はつぶやくように言った。
「百合子もなんだかんだ言って、嬉しそうだったね」
「そりゃ、ここまで溺愛されていたら婚約者冥利に尽きるんじゃない?」
「……雛菊の婚約者は、そこのところ、どうなの?」
「うーん。最近はお仕事が忙しいらしくて、一ヶ月に一度ぐらいしか会えていないのよね」
もっと頻繁に会っているのかと思っていただけに、二人の関係が少し心配になる。
「お仕事って何をしていらっしゃる方なの?」
「あれ、言ってなかったかしら。実家は百貨店を経営しているけれど、彼は警官をしているの。市民を守る立場だから、特に忙しいのでしょうね」
「そうだったの……」
怪盗の事件に連続誘拐事件が続けば、警備体制を整えたり、巡回が増えたりと大変そうだ。会えない理由に納得していると、でもね、と雛菊が付け加える。
「今度、フランス料理を食べに連れて行ってくださる約束をしているの。急なお仕事が入らなければ、だけど」
「そうなのね。事件が早く解決すればいいのにね。けどまあ、雛菊も婚約者と順調そうで安心したわ」
「そういう絃乃はどうなのよ?」
「え、私?」
「進展があったんでしょ? 相手の名前、まだ聞いていなかったわね」
ぐいぐいと顔を近づけられ、退路を断たれる。
すでに背中は壁際に押しやられており、目の前には好奇心をきらめかせた友の瞳。
下手にごまかすと後々が大変そうだと悟り、絃乃は心の中で白旗を揚げた。
「え、詠介さんは、その……笑った顔がすてきな人なの……」
笑顔の圧力に負けて小声で答えると、雛菊が意外そうに目を丸くした。
「へえ。詠介さんとおっしゃるの。婚約者でもないのにもう名前で呼んでいるなんて、よっぽど仲がいいのね」
「……あ。こ、これには……事情があって」
「いいじゃない。仲がいいことは悪いことじゃないわ。わたくしたちの自由は限られているのですもの。精いっぱい、今しかできない恋を楽しまなきゃ!」
多くの女学生の恋愛は、うたかたの恋だ。
大っぴらにできない恋の相手は下宿している書生だったり、教師だったり、はたまた付け文で告白された学生だったりとさまざまだ。
現実に好きな人と結ばれることは夢物語のご時世、卒業や結婚というタイムリミットまでの秘密の恋を楽しむ貴重な時間でもある。
雛菊はうろたえる絃乃の両手をつかみ、瞳を輝かせた。
「誰が反対しても、わたくしは応援しているからね」
「……あ、ありがとう……」
熱の入った応援を受け、とりあえず礼を述べておく。雛菊は微笑みとともに手を解放し、迎えに来た乳母と一緒に去っていく。
その後ろ姿を見送っていると、視線に気づいたのか、ひらひらと手を振ってきたので返す。そして右手を下ろし、そっと息をつく。
(というか……そもそも、私の恋は実るのかしら……)
少しずつだが、仲は深まっているとは思う。
けれど、勇気を振り絞った告白も玉砕したばかりだ。まさかの妹発言の衝撃は記憶に新しい。
相手は乙女ゲームに出てきたキャラクターだが、攻略対象ではない。したがって、彼を落とす有力な情報は皆無である。女性の好みすら、わからない。
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