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13. 今は急いでいるから
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塀の上から百日紅の桃色が見える。空を目指すように花房がこぼれんばかりに咲いている様子を横目に、民家の角を曲がる。
(詠介さんに会いたい……)
本業の仕事が忙しいのか、副業のゲーム案内役としての役目が忙しいのかは定かではないが、何日も詠介に会えていない。彼と会うことが癒やしとなっている絃乃にとっては、完全に詠介ロス状態だ。
今日は華道の授業があり、教師からお小言をもらったダメージも大きい。
以前に比べたら多少マシになったものの、一般的なレベルにはほど遠い出来映えに、ちくちくと嫌みを頂戴した。言われることはそのとおりなので、反論もできなかった。
(癒やしが……足りない)
もう我慢の限界だと、絃乃は呉服屋がある通りにいた。
河川敷に詠介の姿はなく、お店のほうに出ていると予想して来たのだ。
(勢いで来てみたけど、お店に行ったら迷惑かな……)
二軒先には佐々波呉服屋がある。今なら引き返すこともできる。けれど、ここまで来たのだから、せめて顔だけでも見たい。
相反する気持ちを抱え、行ったり来たりを繰り返していると、ふと鼠色の袴が目に入る。
首元まで覆うスタンドカラーのシャツに木綿の絣を合わせ、腰元には書生袴。足元は紺足袋に下駄を履いている。
少し伸びた前髪と顎のラインを確認し、とっさに彼の袖をつかむ。
「葵!」
彼は驚きに目を見張っていたが、引き留めたのが絃乃だとわかると、さっと手を振り払う。見つかってしまった負い目なのか、すぐに背を向けてぼそりと言う。
「……悪いんだけど、今は急いでいるから」
早歩きで立ち去ろうとした葵は、前から歩いてきた人とぶつかりかけ、たたらを踏む。一方、正面衝突しかけた通行人は親しげな声をかける。
「おや、葵君じゃないですか。また父の頼まれ事ですか?」
「詠介兄さん……」
え、と顔を上げると、葵の前方には詠介がいた。彼は絃乃には気づいた様子はなく、心配するような目を向けていた。
「父は人使いが荒いので、無理をさせていませんか? 学業に支障が出るくらいなら断っていいんですよ」
「……いえ、滅相もない。お世話になっているんですから、このぐらいは朝飯前です。成績も落としていませんし、問題ありません」
「そうですか? 何か困ったことがあったら、すぐに言ってくださいね」
「はい!」
なんだろう、この差は。
前世でも今世でも姉となった自分よりも、よほど慕っていると見える。見えない溝を感じ、ささくれ立った心を持て余す。
そんな姉の様子には気づかず、葵は頭を下げて詠介を見上げる。
「すみませんが、急ぎますので。ここで失礼します」
「ああ、はい。引き留めてすみません」
「いえ!」
張りのある声とともに一礼し、葵は人混みの中に紛れていく。その後ろ姿を見つめていると、詠介が今気づいたように声を上げる。
「絃乃さん? こんなところでどうしたんです?」
彼は不思議そうに首を傾げ、呆然と突っ立っている絃乃の前に立つ。
「……不躾ですが、先ほどの彼とは、どういったご関係なんでしょうか……?」
「彼は今、うちで預かっている子なんですよ」
「記憶喪失だったと聞きましたが……」
――須々木葵。確か、そう名乗っていたはずだ。
(本当は白椿葵なのに……どうして偽名なんて……)
前に会ったときのことを回想していると、詠介が意外そうな顔をした。
「おや、そんなことまで言っていましたか。六年前、記憶喪失でさまよっていたときに、巡回中の医師に拾われたそうで。自分の身に関することは名前しか覚えてない状態だったとか。ただ、その後引き取った高齢だった養父母が亡くなり、いざというときに頼れ、とうちを訪れまして」
「……そう……なんですか」
「それから面倒を見ているんですよ。ただ、まだ記憶も思い出せないみたいで」
「……思い出せない? 名前以外にですか?」
「そうなんです。日常生活に支障はないのですが、自分の家族についてはまったく」
おかしい。話が食い違っている。
(前世の記憶と一緒に、ぜんぶ思い出したって言っていたのに……?)
先ほどのやり取りから、葵が詠介に信頼を置いているのは充分伝わってきた。そんな相手に噓をつくのは、よほどの理由があるからではないだろうか。
(狙われていると言っていたことと関係があるの? 狙われているって一体、誰に?)
謎は深まるばかりだ。けれど、いくら考えても答えはわからない。
「ところで、絃乃さんはどちらに向かうところだったんですか?」
「あ、……ええと。実は詠介さんの顔を見に。お店に行ったら会えるかと思って……」
「それなら、入れ違いにならなくてよかったです」
人懐っこい笑みとともに言われ、絃乃は今更ながら不純な動機に後ろめたくなる。
そんな心中を知らない詠介は気さくに話しかける。
「ちょうどよかった。僕もお話ししたいと思っていたんです。この後、お時間はありますか?」
「あ、はい。大丈夫です……」
「でしたら、いつものお店に行きましょうか。おごりますよ」
「……お誘いは嬉しいのですが、お仕事の最中だったのでは?」
「今は区切りがついて、休憩に入るところだったので問題ないです。さあ、参りましょうか」
詠介にしては少し強引だったが、断る理由もないので、そのまま彼の背中に続いて来た道を戻った。
◆◇◆
店内奥の二人がけのテーブルには、渋い緑茶と四角く成形された金つばが載ったお皿が置かれている。
そわそわとする絃乃と対照的に、落ち着いた詠介は話を切り出す。
「百合子さんと藤永さんのことなんです」
「…………」
ええ、そうだろうと思いましたよ。共通の話題といったら、それしかないですもんね。
心の中でやさぐれていると、詠介が声のトーンを低くする。
「絃乃さんのおかげで、二人の仲は順調です。想定よりも早く、仲が深まって驚きましたが、今後の予定も滞りなく進みそうです」
「……それはよかったです」
「前々から疑問だったのですが、絃乃さんは普通の女学生と少し違っていますよね」
「え……」
思わぬ指摘に目を丸くしていると、言葉が足りないと思ったのか、咳払いをして詠介が話を続ける。
「僕とこうして話しているのもそうですが、初対面の男にも物怖じをしない方というか。器が別次元とでもいいましょうか。それに物わかりがよすぎるというか……ひょっとして未来が見えているのではないかと」
「…………」
「あ、責めているわけではないんですよ。実際、とても助かっていますし。ただ、ちょっと僕が知っていた白椿家のご令嬢と雰囲気が違っていたので……ちょっと気になって」
そこで言葉を切ると、彼は手前の湯飲みを傾けて喉を潤した。
一方の絃乃は瞬きさえ忘れて、詠介を注視することしかできなかった。
(詠介さんに会いたい……)
本業の仕事が忙しいのか、副業のゲーム案内役としての役目が忙しいのかは定かではないが、何日も詠介に会えていない。彼と会うことが癒やしとなっている絃乃にとっては、完全に詠介ロス状態だ。
今日は華道の授業があり、教師からお小言をもらったダメージも大きい。
以前に比べたら多少マシになったものの、一般的なレベルにはほど遠い出来映えに、ちくちくと嫌みを頂戴した。言われることはそのとおりなので、反論もできなかった。
(癒やしが……足りない)
もう我慢の限界だと、絃乃は呉服屋がある通りにいた。
河川敷に詠介の姿はなく、お店のほうに出ていると予想して来たのだ。
(勢いで来てみたけど、お店に行ったら迷惑かな……)
二軒先には佐々波呉服屋がある。今なら引き返すこともできる。けれど、ここまで来たのだから、せめて顔だけでも見たい。
相反する気持ちを抱え、行ったり来たりを繰り返していると、ふと鼠色の袴が目に入る。
首元まで覆うスタンドカラーのシャツに木綿の絣を合わせ、腰元には書生袴。足元は紺足袋に下駄を履いている。
少し伸びた前髪と顎のラインを確認し、とっさに彼の袖をつかむ。
「葵!」
彼は驚きに目を見張っていたが、引き留めたのが絃乃だとわかると、さっと手を振り払う。見つかってしまった負い目なのか、すぐに背を向けてぼそりと言う。
「……悪いんだけど、今は急いでいるから」
早歩きで立ち去ろうとした葵は、前から歩いてきた人とぶつかりかけ、たたらを踏む。一方、正面衝突しかけた通行人は親しげな声をかける。
「おや、葵君じゃないですか。また父の頼まれ事ですか?」
「詠介兄さん……」
え、と顔を上げると、葵の前方には詠介がいた。彼は絃乃には気づいた様子はなく、心配するような目を向けていた。
「父は人使いが荒いので、無理をさせていませんか? 学業に支障が出るくらいなら断っていいんですよ」
「……いえ、滅相もない。お世話になっているんですから、このぐらいは朝飯前です。成績も落としていませんし、問題ありません」
「そうですか? 何か困ったことがあったら、すぐに言ってくださいね」
「はい!」
なんだろう、この差は。
前世でも今世でも姉となった自分よりも、よほど慕っていると見える。見えない溝を感じ、ささくれ立った心を持て余す。
そんな姉の様子には気づかず、葵は頭を下げて詠介を見上げる。
「すみませんが、急ぎますので。ここで失礼します」
「ああ、はい。引き留めてすみません」
「いえ!」
張りのある声とともに一礼し、葵は人混みの中に紛れていく。その後ろ姿を見つめていると、詠介が今気づいたように声を上げる。
「絃乃さん? こんなところでどうしたんです?」
彼は不思議そうに首を傾げ、呆然と突っ立っている絃乃の前に立つ。
「……不躾ですが、先ほどの彼とは、どういったご関係なんでしょうか……?」
「彼は今、うちで預かっている子なんですよ」
「記憶喪失だったと聞きましたが……」
――須々木葵。確か、そう名乗っていたはずだ。
(本当は白椿葵なのに……どうして偽名なんて……)
前に会ったときのことを回想していると、詠介が意外そうな顔をした。
「おや、そんなことまで言っていましたか。六年前、記憶喪失でさまよっていたときに、巡回中の医師に拾われたそうで。自分の身に関することは名前しか覚えてない状態だったとか。ただ、その後引き取った高齢だった養父母が亡くなり、いざというときに頼れ、とうちを訪れまして」
「……そう……なんですか」
「それから面倒を見ているんですよ。ただ、まだ記憶も思い出せないみたいで」
「……思い出せない? 名前以外にですか?」
「そうなんです。日常生活に支障はないのですが、自分の家族についてはまったく」
おかしい。話が食い違っている。
(前世の記憶と一緒に、ぜんぶ思い出したって言っていたのに……?)
先ほどのやり取りから、葵が詠介に信頼を置いているのは充分伝わってきた。そんな相手に噓をつくのは、よほどの理由があるからではないだろうか。
(狙われていると言っていたことと関係があるの? 狙われているって一体、誰に?)
謎は深まるばかりだ。けれど、いくら考えても答えはわからない。
「ところで、絃乃さんはどちらに向かうところだったんですか?」
「あ、……ええと。実は詠介さんの顔を見に。お店に行ったら会えるかと思って……」
「それなら、入れ違いにならなくてよかったです」
人懐っこい笑みとともに言われ、絃乃は今更ながら不純な動機に後ろめたくなる。
そんな心中を知らない詠介は気さくに話しかける。
「ちょうどよかった。僕もお話ししたいと思っていたんです。この後、お時間はありますか?」
「あ、はい。大丈夫です……」
「でしたら、いつものお店に行きましょうか。おごりますよ」
「……お誘いは嬉しいのですが、お仕事の最中だったのでは?」
「今は区切りがついて、休憩に入るところだったので問題ないです。さあ、参りましょうか」
詠介にしては少し強引だったが、断る理由もないので、そのまま彼の背中に続いて来た道を戻った。
◆◇◆
店内奥の二人がけのテーブルには、渋い緑茶と四角く成形された金つばが載ったお皿が置かれている。
そわそわとする絃乃と対照的に、落ち着いた詠介は話を切り出す。
「百合子さんと藤永さんのことなんです」
「…………」
ええ、そうだろうと思いましたよ。共通の話題といったら、それしかないですもんね。
心の中でやさぐれていると、詠介が声のトーンを低くする。
「絃乃さんのおかげで、二人の仲は順調です。想定よりも早く、仲が深まって驚きましたが、今後の予定も滞りなく進みそうです」
「……それはよかったです」
「前々から疑問だったのですが、絃乃さんは普通の女学生と少し違っていますよね」
「え……」
思わぬ指摘に目を丸くしていると、言葉が足りないと思ったのか、咳払いをして詠介が話を続ける。
「僕とこうして話しているのもそうですが、初対面の男にも物怖じをしない方というか。器が別次元とでもいいましょうか。それに物わかりがよすぎるというか……ひょっとして未来が見えているのではないかと」
「…………」
「あ、責めているわけではないんですよ。実際、とても助かっていますし。ただ、ちょっと僕が知っていた白椿家のご令嬢と雰囲気が違っていたので……ちょっと気になって」
そこで言葉を切ると、彼は手前の湯飲みを傾けて喉を潤した。
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