13 / 84
第一章
13. イザベル、目撃する
しおりを挟む
季節は初夏から夏本番に変わっていた。
照りつける日差しを窓越しに感じながら、イザベルは学園内を捜索していた。
ちなみに、今は授業中である。
イザベルは腹痛を訴えて、保健室へ行ったことになっている。いわゆる仮病だ。もちろん、これにはよんどころない事情が関係している。
目標はただひとつ、ターゲットの逃亡を阻止することだ。静かな廊下を、忍者のように抜き足差し足で歩く。
(ふっ……数々の乙女ゲーをクリアしたわたくしに、攻略できない相手はいないのよ! これだけ探して見つからないということは、思いがけない場所にいるはず)
お昼前になると、決まってレオンは行方をくらます。
まるで、イザベルが性格矯正のために、サロンに強制連行するのがわかっているような俊敏さだ。
加えて、最近では授業に出てくる回数も少なくなった。これはよくない兆候だ。他人との距離が開けば開くほど、レオンの評判が下がる。
正攻法でダメだとしたら、邪道といわれる方法も試す必要がある。
今回の王子捜索の場合、キーポイントとなるのは授業中だ。
普段のイザベルなら、仮病を使ってまで授業を抜け出すようなことはしない。しかし、こうまで逃げられる日が続けば、最終手段に出るしかない。
普段探さないような場所に絞り、徹底的にチェックしていく。やがてグラウンド脇のクラブハウス棟の近くで、目的の人物を発見する。
「見つけましたわ! レオン王子」
嬉々として駆けつけると、レオンは草陰から身を起こした。どうやら木陰の涼しい場所で、うたた寝をしていたらしい。
「……なんだ。俺は今、自然観察に忙しいんだ」
いや、あなた寝てましたよね! という心の声は一旦抑える。
イザベルは咳払いし、ひとまず話を合わせることにした。
「草花を愛でるのは結構ですが、たまには一緒にお食事でもどうですか?」
「そういう気遣いは俺には不要だ」
本人は眠たいだけなのだろうが、目を細めると眼光が鋭くなる。
他のご令嬢なら怯えて逃げるのがセオリーだろう。だが、イザベルはその他大勢の令嬢とはわけが違う。
なにせ、前世で全ルートを制覇した女なのだ。ヲタク女の怖いものは、現実世界で一般人への擬態が暴かれるときだ。
乙女ゲームの世界では、さまざまなパターンの男を攻略してきた。重要なイベント分岐となる選択肢も数多く見てきた。つまり、確かな実績がある。
ゲーム内のイベントだと割り切れば、ベストな選択肢の想像もたやすい。
ツンデレ王子には変化球で勝負だ。
「まあ。好物のデザートがあるときは、サロンの近くで待機しているの、バレバレなんですよ」
レオンは渋面になり、唸るように言った。
「せめて、もう少しオブラートに包んでくれ」
「表現を変えても、言っていることは同じでしょう」
「……それは、そうだが……いやしかし」
男らしくない言い訳を一蹴するべく、イザベルは強い口調で言い切る。
「学園を卒業したら、王子としての務めの場面も増えるでしょう。今からひねくれた性格を矯正しておかなくて、いつするのですか?」
王子だからと遠慮していたら、彼はきっとこのままだろう。
ジークフリートルートの今、彼の救世主は現れない。ヒロインの救いの手がないとわかった以上、彼を諌める役はイザベルしかいない。
(そうでなければ……あの腹黒兄の魔の手が……)
一従者に矯正された、王子の変わり果てた姿なんて見たくない。
あの悪夢を現実にしないためには、彼自身が王族としての自覚を持ち、努力しているところを見せつける必要がある。
「さあ、今日からは一緒にサロンで食べましょう! 週一でもいいですから、少しずつ他の人とも打ち解ける努力をなさってください!」
イザベルはレオンの腕をつかみ、サロンに強制連行する。
「お前は……本当に遠慮というものをしないな」
「そうですか? これでも、言葉は多少選んでいるつもりなのですが」
「……少しだけか」
諦めたような吐息が背中越しに伝わる。それでも、おとなしくついてきてくれる部分は評価すべきだろう。
もうすぐランチの時間だ。近道をするべく、来た道ではなく、グラウンド脇の細道を突っ切る。
木漏れ日の下を進むと、講堂の裏手に出る。サロンは講堂の二階だ。そのまま裏口から入ろうとしていると、レオンがふと立ち止まる。
「これは珍しいな。ジークフリートがサボりなんて」
「何をおっしゃっていますの。公爵令息が、授業中に抜け出すなんて真似ある……わけが……」
レオンが目を向けた方向に視線を合わせると、見知った姿があった。
講堂の横には、ガーデンテラスがある。芝生と緑の大木、そして四季折々の花が植えられている花壇はよく手入れがされている。
たまに貴族の子女がお茶会をしている場所でもあるが、その手前の東屋に逢い引き中の男女がいた。
寄り添う二つの影は、遠目からでもはっきりわかる。
鮮やかな青い髪はジークフリートで、桜色の髪はフローリアのものだ。背格好もちょうど彼らと同じぐらいだ。
(間違いないわ。あれはジークとフローリア様。でも……どうして、こんな人目がつかないような場所に……?)
話している内容は聞こえないが、友人以上の距離感にイザベルは焦った。
だけど胸が騒ぐ理由は、それだけではない。
(……あ! 見覚えがあると思ったら、ゲームのスチルで見たんだ。ってことは東屋での密会デートだわ!)
東屋のイベントは、一定の親密度に到達したときの特別イベントである。
ジークフリートから手紙で呼び出され、授業を抜け出すというスリルを味わい、かつ、二人きりの甘い時間を過ごすという内容のはずだ。
ちなみに、このイベントをこなすと、親密度が大きく上昇する。
(つまり、攻略は順調に進んでいる、ということね……)
謎が解けてスッキリしたものの、イザベルの気分は急降下した。
見てはいけないものを見てしまった。婚約者として、友人として、見なかったことにしなければ。
レオンの呼び止める声がしたが、振り返らずに教室へと急ぐ。今立ち止まってしまったら、この現実を受け止めなければならない。
イザベルは逃げるように、その場から立ち去った。
*
行く当てのないイザベルの足は、三階の廊下で立ち止まる。
美術教室の前を通り過ぎたところで、ドアが開いていた視聴覚教室に誘われるようにして入った。
映画用のスクリーンが見やすいよう、机は楕円形に配置されている。外との光を遮るため、暗幕で覆われた室内はほどよく暗い。教室の奥まで歩くと、暗闇が濃くなった。
イザベルは床まで覆う暗幕をめくり、窓際に立つ。すがすがしい青空にはひつじ雲。青いキャンパスを泳ぐひつじの群は、雨の予兆でもある。
(こうなることは、わかっていたはずなのに……)
親が決めた許嫁のため、イザベルはジークフリート自身に興味はなかった。
けれど、現実は少し違う。
興味がないフリをしていたが、内面ではジークフリートへの好意は年々募っていた。真面目で責任感があるところも、気の強いイザベルをさりげなくフォローしてくれるところも、すべてを好ましく思っていた。
そして、ヒロインの登場で自分の気持ちを自覚したイザベルは、好きな人を奪われないように、ありとあらゆる手を使ってヒロインを蹴落とそうとする。
次第にエスカレートしていく行為を止める者はおらず、結果、婚約破棄を叩きつけられる。
(「わたし」はイザベルだけど、本当のイザベルじゃない)
なぜなら、前世の記憶を思い出した今、一番ときめく相手はクラウドだからだ。
悲しくなる必要はない。そう自分に言い聞かせるが、なぜだか心がもやもやとする。スッキリとしない。
まるで出口がない迷宮に迷い込んだみたいだった。自分の感情との折り合いがつかない。
(応援……しないといけないのに……)
イザベルが思考の渦におぼれかけていたとき、第三者の声が耳に響く。
「こんなところにお呼びだてして、申し訳ございません」
聞き覚えのある声がして、体に緊張が走る。視聴覚教室に入ってきたのは複数の足音だった。
「いいえ、リシャール様が謝る必要はありません。お互い、誰かに聞かれたら困りますものね」
「恐縮です」
口調といい、低めの声のトーンといい、どう聞いてもリシャールの声だ。
(一体、リシャールが高等部に何の用……?)
彼らの表情が見えないのがもどかしい。
もし暗幕の隙間からのぞけば、外のまぶしい光が室内に差し込み、目立ってしまうだろう。
イザベルは息を殺して、暗幕の裏側から耳をそば立てる。
「最近のフローリア様は、以前にも増してジークフリート様と懇意にされていると聞きます。そのことに、イザベル様もだいぶ胸を痛めておられるご様子」
「これだから、分をわきまえない庶民は嫌ですわ」
厳しい口調だけど、猫なで声のような少し高い声。記憶が正しければ、最近どこかで同じ声を聞いたはず。
(でもどこで……あっ! ナタリア様の取り巻きの!)
ハンカチ事件でも、渡り廊下の立ちふさがり事件でも、ナタリアのそばにいた女生徒だ。
「ナタリア様との橋渡しをお願いできるのは、あなた方だけ。特に、ラミカ様には感謝しております。フローリア様のクラスメイトとして、いろいろ助けていただいていますし」
「いいえ。私など、知っている情報をお伝えしているだけですから……」
緊張しているのか、言葉尻が弱々しい。
(ナタリア派には下級生もいたわよね。……となると、あの子かしら)
取り巻きにいる下級生はひとりだけだった。
ぬばたまの黒髪ロングストレートを思い浮かべる。確か、知的な眼鏡をかけていたインテリ系女子だったはずだ。どうやら外見どおりに、おとなしい性格らしい。
(それにしても、リシャールがナタリア派と接触しているなんて……嫌な予感しかしないんだけど)
だが当の本人を置いてきぼりにして、話は盛り上がっていく。
「私たちにお任せください。イザベル様の味方はたくさんいます」
「ありがとうございます。皆様が力を貸してくださり、お嬢様もお喜びになるでしょう。……ただ、この件はくれぐれもご内密にお願いいたします。大っぴらにイザベル様のご指示だとわかれば、主人の立場が悪くなりますので」
「もちろんですわ。これは、学園の秩序のためですもの。その一環として、フローリア様に注意をなさるよう、皆様にお願いするだけです」
果たして、それは文字どおりの注意なのか。彼女が口にする「お願い」は、貴族派への通達に等しいものだろう。ナタリア派からの通達ともなれば、それだけの強制力を持っている。
「私はなかなか高等部に出入りができませんから、とても助かります」
決定的な言葉が聞こえ、イザベルは暗幕内に身を潜めたまま、口元を両手で覆う。
(真犯人を突き止めてしまった……。もし、ここで聞き耳を立てていたのがバレたら……口封じ?)
そんなことあるわけない、と頭の中で否定するが、リシャールならやりかねない。リシャールの攻略に失敗したときのバットエンドを思い出し、イザベルは背筋が冷たくなった。彼は、目的のためなら手段を選ばない男だ。
(けど、一体いつから? いつから裏切られていたの……?)
黒幕の正体はリシャール。主人の噂を陰で操っていた人物。だが同時に、イザベル専属執事としてずっと身近にいた、家族同然の存在でもある。
信頼関係がもろくも崩れ去っていく瞬間、まるで世界が止まったようだった。音がすべて遮断され、呼吸すらままならない。
イザベルの耳には、もう彼らの会話は頭に入ってこなかった。
照りつける日差しを窓越しに感じながら、イザベルは学園内を捜索していた。
ちなみに、今は授業中である。
イザベルは腹痛を訴えて、保健室へ行ったことになっている。いわゆる仮病だ。もちろん、これにはよんどころない事情が関係している。
目標はただひとつ、ターゲットの逃亡を阻止することだ。静かな廊下を、忍者のように抜き足差し足で歩く。
(ふっ……数々の乙女ゲーをクリアしたわたくしに、攻略できない相手はいないのよ! これだけ探して見つからないということは、思いがけない場所にいるはず)
お昼前になると、決まってレオンは行方をくらます。
まるで、イザベルが性格矯正のために、サロンに強制連行するのがわかっているような俊敏さだ。
加えて、最近では授業に出てくる回数も少なくなった。これはよくない兆候だ。他人との距離が開けば開くほど、レオンの評判が下がる。
正攻法でダメだとしたら、邪道といわれる方法も試す必要がある。
今回の王子捜索の場合、キーポイントとなるのは授業中だ。
普段のイザベルなら、仮病を使ってまで授業を抜け出すようなことはしない。しかし、こうまで逃げられる日が続けば、最終手段に出るしかない。
普段探さないような場所に絞り、徹底的にチェックしていく。やがてグラウンド脇のクラブハウス棟の近くで、目的の人物を発見する。
「見つけましたわ! レオン王子」
嬉々として駆けつけると、レオンは草陰から身を起こした。どうやら木陰の涼しい場所で、うたた寝をしていたらしい。
「……なんだ。俺は今、自然観察に忙しいんだ」
いや、あなた寝てましたよね! という心の声は一旦抑える。
イザベルは咳払いし、ひとまず話を合わせることにした。
「草花を愛でるのは結構ですが、たまには一緒にお食事でもどうですか?」
「そういう気遣いは俺には不要だ」
本人は眠たいだけなのだろうが、目を細めると眼光が鋭くなる。
他のご令嬢なら怯えて逃げるのがセオリーだろう。だが、イザベルはその他大勢の令嬢とはわけが違う。
なにせ、前世で全ルートを制覇した女なのだ。ヲタク女の怖いものは、現実世界で一般人への擬態が暴かれるときだ。
乙女ゲームの世界では、さまざまなパターンの男を攻略してきた。重要なイベント分岐となる選択肢も数多く見てきた。つまり、確かな実績がある。
ゲーム内のイベントだと割り切れば、ベストな選択肢の想像もたやすい。
ツンデレ王子には変化球で勝負だ。
「まあ。好物のデザートがあるときは、サロンの近くで待機しているの、バレバレなんですよ」
レオンは渋面になり、唸るように言った。
「せめて、もう少しオブラートに包んでくれ」
「表現を変えても、言っていることは同じでしょう」
「……それは、そうだが……いやしかし」
男らしくない言い訳を一蹴するべく、イザベルは強い口調で言い切る。
「学園を卒業したら、王子としての務めの場面も増えるでしょう。今からひねくれた性格を矯正しておかなくて、いつするのですか?」
王子だからと遠慮していたら、彼はきっとこのままだろう。
ジークフリートルートの今、彼の救世主は現れない。ヒロインの救いの手がないとわかった以上、彼を諌める役はイザベルしかいない。
(そうでなければ……あの腹黒兄の魔の手が……)
一従者に矯正された、王子の変わり果てた姿なんて見たくない。
あの悪夢を現実にしないためには、彼自身が王族としての自覚を持ち、努力しているところを見せつける必要がある。
「さあ、今日からは一緒にサロンで食べましょう! 週一でもいいですから、少しずつ他の人とも打ち解ける努力をなさってください!」
イザベルはレオンの腕をつかみ、サロンに強制連行する。
「お前は……本当に遠慮というものをしないな」
「そうですか? これでも、言葉は多少選んでいるつもりなのですが」
「……少しだけか」
諦めたような吐息が背中越しに伝わる。それでも、おとなしくついてきてくれる部分は評価すべきだろう。
もうすぐランチの時間だ。近道をするべく、来た道ではなく、グラウンド脇の細道を突っ切る。
木漏れ日の下を進むと、講堂の裏手に出る。サロンは講堂の二階だ。そのまま裏口から入ろうとしていると、レオンがふと立ち止まる。
「これは珍しいな。ジークフリートがサボりなんて」
「何をおっしゃっていますの。公爵令息が、授業中に抜け出すなんて真似ある……わけが……」
レオンが目を向けた方向に視線を合わせると、見知った姿があった。
講堂の横には、ガーデンテラスがある。芝生と緑の大木、そして四季折々の花が植えられている花壇はよく手入れがされている。
たまに貴族の子女がお茶会をしている場所でもあるが、その手前の東屋に逢い引き中の男女がいた。
寄り添う二つの影は、遠目からでもはっきりわかる。
鮮やかな青い髪はジークフリートで、桜色の髪はフローリアのものだ。背格好もちょうど彼らと同じぐらいだ。
(間違いないわ。あれはジークとフローリア様。でも……どうして、こんな人目がつかないような場所に……?)
話している内容は聞こえないが、友人以上の距離感にイザベルは焦った。
だけど胸が騒ぐ理由は、それだけではない。
(……あ! 見覚えがあると思ったら、ゲームのスチルで見たんだ。ってことは東屋での密会デートだわ!)
東屋のイベントは、一定の親密度に到達したときの特別イベントである。
ジークフリートから手紙で呼び出され、授業を抜け出すというスリルを味わい、かつ、二人きりの甘い時間を過ごすという内容のはずだ。
ちなみに、このイベントをこなすと、親密度が大きく上昇する。
(つまり、攻略は順調に進んでいる、ということね……)
謎が解けてスッキリしたものの、イザベルの気分は急降下した。
見てはいけないものを見てしまった。婚約者として、友人として、見なかったことにしなければ。
レオンの呼び止める声がしたが、振り返らずに教室へと急ぐ。今立ち止まってしまったら、この現実を受け止めなければならない。
イザベルは逃げるように、その場から立ち去った。
*
行く当てのないイザベルの足は、三階の廊下で立ち止まる。
美術教室の前を通り過ぎたところで、ドアが開いていた視聴覚教室に誘われるようにして入った。
映画用のスクリーンが見やすいよう、机は楕円形に配置されている。外との光を遮るため、暗幕で覆われた室内はほどよく暗い。教室の奥まで歩くと、暗闇が濃くなった。
イザベルは床まで覆う暗幕をめくり、窓際に立つ。すがすがしい青空にはひつじ雲。青いキャンパスを泳ぐひつじの群は、雨の予兆でもある。
(こうなることは、わかっていたはずなのに……)
親が決めた許嫁のため、イザベルはジークフリート自身に興味はなかった。
けれど、現実は少し違う。
興味がないフリをしていたが、内面ではジークフリートへの好意は年々募っていた。真面目で責任感があるところも、気の強いイザベルをさりげなくフォローしてくれるところも、すべてを好ましく思っていた。
そして、ヒロインの登場で自分の気持ちを自覚したイザベルは、好きな人を奪われないように、ありとあらゆる手を使ってヒロインを蹴落とそうとする。
次第にエスカレートしていく行為を止める者はおらず、結果、婚約破棄を叩きつけられる。
(「わたし」はイザベルだけど、本当のイザベルじゃない)
なぜなら、前世の記憶を思い出した今、一番ときめく相手はクラウドだからだ。
悲しくなる必要はない。そう自分に言い聞かせるが、なぜだか心がもやもやとする。スッキリとしない。
まるで出口がない迷宮に迷い込んだみたいだった。自分の感情との折り合いがつかない。
(応援……しないといけないのに……)
イザベルが思考の渦におぼれかけていたとき、第三者の声が耳に響く。
「こんなところにお呼びだてして、申し訳ございません」
聞き覚えのある声がして、体に緊張が走る。視聴覚教室に入ってきたのは複数の足音だった。
「いいえ、リシャール様が謝る必要はありません。お互い、誰かに聞かれたら困りますものね」
「恐縮です」
口調といい、低めの声のトーンといい、どう聞いてもリシャールの声だ。
(一体、リシャールが高等部に何の用……?)
彼らの表情が見えないのがもどかしい。
もし暗幕の隙間からのぞけば、外のまぶしい光が室内に差し込み、目立ってしまうだろう。
イザベルは息を殺して、暗幕の裏側から耳をそば立てる。
「最近のフローリア様は、以前にも増してジークフリート様と懇意にされていると聞きます。そのことに、イザベル様もだいぶ胸を痛めておられるご様子」
「これだから、分をわきまえない庶民は嫌ですわ」
厳しい口調だけど、猫なで声のような少し高い声。記憶が正しければ、最近どこかで同じ声を聞いたはず。
(でもどこで……あっ! ナタリア様の取り巻きの!)
ハンカチ事件でも、渡り廊下の立ちふさがり事件でも、ナタリアのそばにいた女生徒だ。
「ナタリア様との橋渡しをお願いできるのは、あなた方だけ。特に、ラミカ様には感謝しております。フローリア様のクラスメイトとして、いろいろ助けていただいていますし」
「いいえ。私など、知っている情報をお伝えしているだけですから……」
緊張しているのか、言葉尻が弱々しい。
(ナタリア派には下級生もいたわよね。……となると、あの子かしら)
取り巻きにいる下級生はひとりだけだった。
ぬばたまの黒髪ロングストレートを思い浮かべる。確か、知的な眼鏡をかけていたインテリ系女子だったはずだ。どうやら外見どおりに、おとなしい性格らしい。
(それにしても、リシャールがナタリア派と接触しているなんて……嫌な予感しかしないんだけど)
だが当の本人を置いてきぼりにして、話は盛り上がっていく。
「私たちにお任せください。イザベル様の味方はたくさんいます」
「ありがとうございます。皆様が力を貸してくださり、お嬢様もお喜びになるでしょう。……ただ、この件はくれぐれもご内密にお願いいたします。大っぴらにイザベル様のご指示だとわかれば、主人の立場が悪くなりますので」
「もちろんですわ。これは、学園の秩序のためですもの。その一環として、フローリア様に注意をなさるよう、皆様にお願いするだけです」
果たして、それは文字どおりの注意なのか。彼女が口にする「お願い」は、貴族派への通達に等しいものだろう。ナタリア派からの通達ともなれば、それだけの強制力を持っている。
「私はなかなか高等部に出入りができませんから、とても助かります」
決定的な言葉が聞こえ、イザベルは暗幕内に身を潜めたまま、口元を両手で覆う。
(真犯人を突き止めてしまった……。もし、ここで聞き耳を立てていたのがバレたら……口封じ?)
そんなことあるわけない、と頭の中で否定するが、リシャールならやりかねない。リシャールの攻略に失敗したときのバットエンドを思い出し、イザベルは背筋が冷たくなった。彼は、目的のためなら手段を選ばない男だ。
(けど、一体いつから? いつから裏切られていたの……?)
黒幕の正体はリシャール。主人の噂を陰で操っていた人物。だが同時に、イザベル専属執事としてずっと身近にいた、家族同然の存在でもある。
信頼関係がもろくも崩れ去っていく瞬間、まるで世界が止まったようだった。音がすべて遮断され、呼吸すらままならない。
イザベルの耳には、もう彼らの会話は頭に入ってこなかった。
0
お気に入りに追加
687
あなたにおすすめの小説
【完結】攻略を諦めたら騎士様に溺愛されました。悪役でも幸せになれますか?
うり北 うりこ
恋愛
メイリーンは、大好きな乙女ゲームに転生をした。しかも、ヒロインだ。これは、推しの王子様との恋愛も夢じゃない! そう意気込んで学園に入学してみれば、王子様は悪役令嬢のローズリンゼットに夢中。しかも、悪役令嬢はおかめのお面をつけている。
これは、巷で流行りの悪役令嬢が主人公、ヒロインが悪役展開なのでは?
命一番なので、攻略を諦めたら騎士様の溺愛が待っていた。
悪役令嬢に転生したら手遅れだったけど悪くない
おこめ
恋愛
アイリーン・バルケスは断罪の場で記憶を取り戻した。
どうせならもっと早く思い出せたら良かったのに!
あれ、でも意外と悪くないかも!
断罪され婚約破棄された令嬢のその後の日常。
※うりぼう名義の「悪役令嬢婚約破棄諸々」に掲載していたものと同じものです。
【完結】私ですか?ただの令嬢です。
凛 伊緒
恋愛
死んで転生したら、大好きな乙女ゲーの世界の悪役令嬢だった!?
バッドエンドだらけの悪役令嬢。
しかし、
「悪さをしなければ、最悪な結末は回避出来るのでは!?」
そう考え、ただの令嬢として生きていくことを決意する。
運命を変えたい主人公の、バッドエンド回避の物語!
※完結済です。
※作者がシステムに不慣れな時に書いたものなので、温かく見守っていだければ幸いです……(。_。///)
【完結】悪役令嬢の妹に転生しちゃったけど推しはお姉様だから全力で断罪破滅から守らせていただきます!
くま
恋愛
え?死ぬ間際に前世の記憶が戻った、マリア。
ここは前世でハマった乙女ゲームの世界だった。
マリアが一番好きなキャラクターは悪役令嬢のマリエ!
悪役令嬢マリエの妹として転生したマリアは、姉マリエを守ろうと空回り。王子や執事、騎士などはマリアにアプローチするものの、まったく鈍感でアホな主人公に周りは振り回されるばかり。
少しずつ成長をしていくなか、残念ヒロインちゃんが現る!!
ほんの少しシリアスもある!かもです。
気ままに書いてますので誤字脱字ありましたら、すいませんっ。
月に一回、二回ほどゆっくりペースで更新です(*≧∀≦*)
転生したらただの女子生徒Aでしたが、何故か攻略対象の王子様から溺愛されています
平山和人
恋愛
平凡なOLの私はある日、事故にあって死んでしまいました。目が覚めるとそこは知らない天井、どうやら私は転生したみたいです。
生前そういう小説を読みまくっていたので、悪役令嬢に転生したと思いましたが、実際はストーリーに関わらないただの女子生徒Aでした。
絶望した私は地味に生きることを決意しましたが、なぜか攻略対象の王子様や悪役令嬢、更にヒロインにまで溺愛される羽目に。
しかも、私が聖女であることも判明し、国を揺るがす一大事に。果たして、私はモブらしく地味に生きていけるのでしょうか!?
オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。
家庭の事情で歪んだ悪役令嬢に転生しましたが、溺愛されすぎて歪むはずがありません。
木山楽斗
恋愛
公爵令嬢であるエルミナ・サディードは、両親や兄弟から虐げられて育ってきた。
その結果、彼女の性格は最悪なものとなり、主人公であるメリーナを虐め抜くような悪役令嬢となったのである。
そんなエルミナに生まれ変わった私は困惑していた。
なぜなら、ゲームの中で明かされた彼女の過去とは異なり、両親も兄弟も私のことを溺愛していたからである。
私は、確かに彼女と同じ姿をしていた。
しかも、人生の中で出会う人々もゲームの中と同じだ。
それなのに、私の扱いだけはまったく違う。
どうやら、私が転生したこの世界は、ゲームと少しだけずれているようだ。
当然のことながら、そんな環境で歪むはずはなく、私はただの公爵令嬢として育つのだった。
【完結】実は白い結婚でしたの。元悪役令嬢は未亡人になったので今度こそ推しを見守りたい。
氷雨そら
恋愛
悪役令嬢だと気がついたのは、断罪直後。
私は、五十も年上の辺境伯に嫁いだのだった。
「でも、白い結婚だったのよね……」
奥様を愛していた辺境伯に、孫のように可愛がられた私は、彼の亡き後、王都へと戻ってきていた。
全ては、乙女ゲームの推しを遠くから眺めるため。
一途な年下枠ヒーローに、元悪役令嬢は溺愛される。
断罪に引き続き、私に拒否権はない……たぶん。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる