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プロポーズは魔法のドレスとともに
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「…………残念ですが、捕らえられるのはあなた方ですわ」
「ま、待て! 衛兵たちよ、何をする!? 貴君らが捕らえられるのは向こうの悪女だぞっ」
慌てるヨハニスの制止も虚しく、二人とも漆黒のローブをまとった魔法兵によって後ろ手に縛られる。
バサリとレースの黒扇を広げ、ルーリエは嘆息する。
「本当に呆れた方……真実を見せて差し上げます。クライン魔法伯爵閣下、あとをお願いいたしますわ」
「仰せのままに」
名指しされたイグナーツが進み出て、懐から取り出した細長い棒をヘレンに向けた。
彼がしたのは、緑の魔法石が埋め込まれた杖を一振りしただけ。
だがそれを合図にヘレンの姿がゆがみ、徐々にその姿が変わっていく。頭からは木の幹のような角が二本生え、刺々しい尻尾が現れる。貴族令嬢に擬態していたときの愛らしさは掻き消え、性悪そうな顔の女がこちらを睨んでいた。
「う、うわぁ……!?」
「ひぃ……あ、悪魔っ……!」
「……なんて悪夢だ。よもや化け物が現れるとは」
暴かれた正体を前にして、貴族たちの悲鳴が伝播していく。
目尻がつり上がった濃い化粧は、元の姿と似ても似つかない。変化が解かれたせいか、ヘレンの足元からはどす黒い靄が立ちこめている。それが余計、彼女がこの世なるざる者だと否応なしに意識させる。
悪魔は絵本に出てくる架空の生き物。多くの人はそう思っていたはずだ。しかし、目の前で姿形が異形の者に変わるのを見てしまった以上、どんなに信じたくなくても現実だと受け入れざるを得ない。
(これがヘレンの本来の姿……。本当に悪魔だったのね。だから人間ではありえないことができた。イグナーツ様の見立て通りね)
心の中で納得していると、イグナーツが朗々とヨハニスの罪状を述べた。
「殿下。あなたは結界で守られている王城に自ら悪魔を招き入れた。そればかりか、その正体に気づかないまま伴侶にすると誓ってしまった。もう手遅れです」
「……あ……ああ……そんなバカな。俺は取り返しのつかない過ちを犯してしまったというのか……悪魔に心を委ねるなど、極刑ものの大罪ではないか」
先ほどの苛烈さはすでにない。
憑き物が落ちたように、ヨハニスの声は平坦だった。それを隣で見ていたヘレンが、ルーリエに向かって吠える。
「ちょっと、どうして魅了の魔法の効力が切れているわけ? アタシはこの国の王妃になる女よ! なんでこんな女に計画を邪魔されなきゃいけないの!?」
ギャンギャン叫ぶ様子は品性のかけらも感じられない。
おそらく王子にかけられた魔法が解けたのは、手枷のおかげだろう。魔力でできた手枷は鈍い光を放っていて、ルーリエにはその原理はわからない。
ただ、ひとつハッキリしたことがある。
(……ああ。間違いなく、これがわたくしを死に追いやった元凶だわ)
子爵令嬢として人間界に溶け込み、邪魔なルーリエを始末しようとした。未来の王妃の座を狙っていた理由は考えるまでもない。ヨハニスを傀儡の王にして、自分は王妃として好き勝手するためだ。
誰であろうと、魔法で人の心をもてあそぶ真似は許されることではない。
絶対、この女はここで叩かねば。
もしここで見逃してしまったら、また誰かが傷つく。悲しい思いをするのはルーリエだけでいい。
「……一度目はあなたの本性を見抜けなかった。しかし、二度目はありません。今すぐヨハニス殿下とともに魔界へ帰っていただきます。この国は渡しません」
「はぁ!? あんたみたいな魔力なしに、このアタシがやられるわけないじゃない」
「確かに、わたくしには悪魔を強制送還する力はありません。所詮、魔力のない伯爵令嬢はただの小娘に過ぎませんから」
「ふふん。わかっているじゃない。中級悪魔のアタシに喧嘩を売ったこと、後悔させてあげるわ。……ってちょっと! この手枷どうなっているの。外れないじゃない!!」
大口を叩いていたのは、いつでも逃亡できると思っていたからに違いない。
その証拠に、彼女の顔は焦りの色が濃くなっていく。
どうにかして脱出を試みているようだが、暴れば暴れるほど締め付けがひどくなっているようだった。苦痛に耐えるヘレンを見下ろし、イグナーツが冷たく言い放つ。
「簡単に外れたら拘束した意味がないでしょう」
「つべこべ言わず外しなさいよ! アタシはこの国を牛耳って、魔王様の幹部に昇進するんだから。痛い目を見るのはそっちよ」
「……ああ、その話ならご心配なく。魔王とはすでに新たな盟約を結んでおります。人間界と魔界の協定をすり抜けて潜り込んできた輩は、魔界でしっかりお灸を据えてくれるそうです。よかったですね、優しい主君に恵まれて」
「は……盟約? 協定?」
「魔王は良識のある方でしたよ。そうでなければ、私は彼を切り刻んでいたでしょう。転移術で現れた魔法使いに驚くことなく、実力差を瞬時に見抜いた。そして私の望みを聞いたうえで、妥協案を提示した。英断です。誰にでもできることではありません」
さらりと爆弾発言を落とし、会場内がしんと静まりかえる。
イグナーツは最年少で魔法省長官に就いたエリートだ。魔力は世界トップクラスと聞く。しかし、単身で魔王と交渉してくる人物だと誰が予想できようか。
もはや人類の敵は魔王ではない。
イグナーツ・クラインに逆らってはいけない。
それがこの場に居合わせた人間の共通認識だった。彼を敵に回すことは死を意味するといっても過言ではない。誰もが口を噤む中、ふとイグナーツが今思い出したように、そうそう、と言葉を付け足した。
「言い忘れていました。魔界への強制送還は、婚約者の同行も許可されています。そういうわけで、ヨハニス殿下。結婚式の準備も手配しておきましたから。罪を償ったあとは、魔界での新婚生活をどうぞ満喫なさってください」
「ま……待ってくれ! 俺は魔界などには……!!」
「勘違いしないでいただきたいのですが、これは王命です。あなたに拒否権など最初から存在しません。国王陛下は、もしヨハニス殿下が悪魔であるヘレンを選んだ際には罰とし、人間界から追放せよとのお達しです。……これで本当にお別れです」
イグナーツが深刻な顔で瞼を伏せる。
事の重大さがわかったのだろう。顔色蒼白になったヨハニスがバッと首を横に動かし、叫ぶように言う。
「ル……ルーリエ! お前からも何か言ってくれ。俺は騙されたんだ。助けてくれッ!」
「殿下……。わたくしに今までしてきた仕打ち、まさかお忘れですか? たとえ本心からの言葉でなくても、一度口をついて出た言葉は取り消せません。どれほど謝っても、決してなかったことにはならないのです。それに、あなたを助ける人は誰一人いないでしょう。誰も魔界になど行きたくないでしょうから」
「…………そ、そんな」
がくりとうなだれるヨハニスは哀れだと思うが、助けたいとは微塵も思わなかった。少しは情に流されるかもと危惧していたが、取り越し苦労だったようだ。
ルーリエは無言のまま、パシッと黒扇を折りたたむ。
けれど、ヨハニスにとっては死刑宣告にも等しい音だったようで、過剰反応というぐらい肩がぶるぶると震えていた。先ほど衛兵に抵抗したせいか、整っていた金茶の髪はぼさぼさだ。服も多少乱れている。
(……散々悪女呼ばわりされていたのだから、最後くらいはその期待に応えてもいいかもしれないわね)
膝立ちになった元婚約者を冷たく見下ろす。
小首を傾げて右手を口元にやり、悪女らしく笑みを深めた。目が笑っていないことが伝わったのだろう。彼の顔にはわかりやすく怯えが見て取れた。
最後の仕上げだ。
ルーリエは、もう何の未練もないのだと告げるべく、淡々と別れの言葉を述べる。
「ヨハニス殿下。短い付き合いでしたが、どうぞお元気で。魔界での生活を存分にお楽しみくださいませ」
「……ッ……」
否定しようとしたのだろう。
けれども顔を歪ませたヨハニスが言葉を発するより早く、イグナーツの転移術が発動した。ヨハニスとヘレンの足元に浮かぶ魔法陣が二人を包み込み、その姿はあっという間に光に呑み込まれて消える。やがて、光の残滓も消えてなくなった。
誰も言葉を発さない。否、発せない。
目の前で第一王子が消えた。それも悪魔とともに。
衝撃で動けなくなっても無理はない。事前に転移術を使うと知らされていたルーリエもいざその場面を見ると、床に影が縫い止められたように驚きを隠せなかったのだから。
短いようで長い沈黙を破ったのは、イグナーツの足音だった。
コツン、コツンと靴音が広間に反響する。彼はすたすたと歩いたかと思えば、突然くるりと振り返り、ルーリエの前で片膝をつく。
まるで騎士が姫に永遠の忠誠を誓うように。
「ルーリエ嬢。あなたと第一王子との婚約は解消されました。約束通り、私の花嫁になっていただけますか?」
「――ええ。もちろんです」
「では感謝の気持ちを込めて、あなたにドレスを贈る名誉を」
予想外の言葉に、反応するのが数秒遅れた。
ルーリエの返事を待たず、きらきらと淡い光の粒が天井から降り注ぐ。
女神の祝福のような光景に目を瞬くと、小さい光は無数の虹色の蝶へと変化した。蝶はルーリエの体を埋め尽くし、視界が色の洪水で遮られる。思わず目をつぶるが、まぶしいのは数秒だった。
一体何が起きたのかと自分の体を見下ろし、固まった。
「えっ……?」
社交界において、ドレスは女の鎧であり武器である。
かくいうルーリエも自分を鼓舞するため、今夜は深紅のドレスで武装していた。けれど悪女らしい強気な雰囲気から一転、今は優しい趣に様変わりしている。
黒のフリルとリボンは取り払われ、爽やかな青紫のドレスだ。
裾に向かった青紫から桃色のグラデーションは、イグナーツとルーリエの瞳の色を連想させる。薄手の生地は滑らかな触り心地で、腰から足元にかけてチュール風の上品なレースがふわりと揺れる。腰元には大ぶりのコサージュ。シルクの手袋は清潔感がある純白だ。最後に真珠のイヤリングとネックレス、さながら海の女神の装いだ。
身をひねり、新しいドレスをくまなくチェックする。動くたびにひらりひらりと重なったレース生地が揺れるのが楽しい。童心に戻ったような心地になる。
ルーリエは両手を合わせて、イグナーツにこの喜びを一生懸命に伝えた。
「イグナーツ様の魔法は素晴らしいですね! ドレスが魔法で変わるなんて夢みたいです。これほど嬉しい贈り物はありません。一生、大切にいたします」
「……喜んでもらえたようで何よりです。あなたは笑顔が似合います。私はルーリエ嬢を悲しませる真似はしません。選んでくれたことを後悔させないよう、生涯をかけてあなたを愛させてください」
不意打ちのプロポーズに思考停止してしまう。
好き、愛しているといった言葉程度なら、ここまで動揺せずに済んだ。
だがこれは反則だ。正直、顔面偏差値が高い青年の上目遣いがもたらす破壊力を舐めていた。無知とはおそろしい。少女小説で培った知識など、大人の恋ではおままごとのようなものだ。太刀打ちなどできるはずもない。
(ず、ずるいわ! これほど危険な上目遣いが許されるの!? 一歩間違えれば心臓が止まっていたわ……!)
恋愛経験値の差に内心あわあわしていると、ふっと笑う気配がした。
イグナーツは紺碧の瞳を愛おしそうに細めた。視線が絡め取られる。身動きできずにいると、彼はすっと立ち上がり、ルーリエとの距離を詰めた。
反射的に逃げそうになったが、足にグッと力を入れて立ち止まる。だがその葛藤すら見透かしたように、イグナーツがルーリエの耳元で甘く囁く。
「どうか私だけを見て。他の男は見ないで」
見られるわけがない。
そんなこと、彼が一番わかっているだろうに。なんて人が悪い。ときめきで危うく呼吸困難になるところだったではないか。
ルーリエは耳まで真っ赤に染め上げたまま、純白のレースの扇を広げて小声で答えるのがやっとだった。
「こ、こういった経験は少なくて……どうか、お手柔らかにお願いいたしますわ」
「かしこまりました。善処しましょう」
どうやら悪い男に捕まってしまったようだ。これは、そうそう逃してもらえそうにない。でもいいのだ。最初からルーリエは逃げるつもりなどないから。
ずっと捕まえてほしかった。自分だけを見てくれる人に。
◆◆◆
悪女の噂は、あの夜会を境に立ち消えた。
洗脳状態から解放された貴族たちは自分に都合の悪いことはきれいに忘れ、第一王子は魔界に連れて行かれても当然の罪人という扱いで落ち着いた。後日、病弱な第二王子が次代の王を辞退したため、王太子には第三王子が指名された。
今夜は王太子ご生誕を祝う舞踏会。着飾った紳士淑女が集い、踊り明かす日だ。
けれど、ルーリエは夜会を一人で出席することも、壁の花になることもない。なぜなら横には、いつもルーリエだけを見つめるイグナーツがいるから。
寄り添う二人の中に割って入るような愚か者はいない。
数年前に出会ったときと同じバルコニーで、ルーリエは穏やかに笑う。イグナーツに肩を抱かれ、二人で夜空の月を仰ぐ。薬指にはピンクゴールドの結婚指輪が嵌められている。
もうルーリエを悪女と呼ぶ者はいない。
夫から一途な愛を受ける、ただのクライン伯爵夫人なのだから。
「ま、待て! 衛兵たちよ、何をする!? 貴君らが捕らえられるのは向こうの悪女だぞっ」
慌てるヨハニスの制止も虚しく、二人とも漆黒のローブをまとった魔法兵によって後ろ手に縛られる。
バサリとレースの黒扇を広げ、ルーリエは嘆息する。
「本当に呆れた方……真実を見せて差し上げます。クライン魔法伯爵閣下、あとをお願いいたしますわ」
「仰せのままに」
名指しされたイグナーツが進み出て、懐から取り出した細長い棒をヘレンに向けた。
彼がしたのは、緑の魔法石が埋め込まれた杖を一振りしただけ。
だがそれを合図にヘレンの姿がゆがみ、徐々にその姿が変わっていく。頭からは木の幹のような角が二本生え、刺々しい尻尾が現れる。貴族令嬢に擬態していたときの愛らしさは掻き消え、性悪そうな顔の女がこちらを睨んでいた。
「う、うわぁ……!?」
「ひぃ……あ、悪魔っ……!」
「……なんて悪夢だ。よもや化け物が現れるとは」
暴かれた正体を前にして、貴族たちの悲鳴が伝播していく。
目尻がつり上がった濃い化粧は、元の姿と似ても似つかない。変化が解かれたせいか、ヘレンの足元からはどす黒い靄が立ちこめている。それが余計、彼女がこの世なるざる者だと否応なしに意識させる。
悪魔は絵本に出てくる架空の生き物。多くの人はそう思っていたはずだ。しかし、目の前で姿形が異形の者に変わるのを見てしまった以上、どんなに信じたくなくても現実だと受け入れざるを得ない。
(これがヘレンの本来の姿……。本当に悪魔だったのね。だから人間ではありえないことができた。イグナーツ様の見立て通りね)
心の中で納得していると、イグナーツが朗々とヨハニスの罪状を述べた。
「殿下。あなたは結界で守られている王城に自ら悪魔を招き入れた。そればかりか、その正体に気づかないまま伴侶にすると誓ってしまった。もう手遅れです」
「……あ……ああ……そんなバカな。俺は取り返しのつかない過ちを犯してしまったというのか……悪魔に心を委ねるなど、極刑ものの大罪ではないか」
先ほどの苛烈さはすでにない。
憑き物が落ちたように、ヨハニスの声は平坦だった。それを隣で見ていたヘレンが、ルーリエに向かって吠える。
「ちょっと、どうして魅了の魔法の効力が切れているわけ? アタシはこの国の王妃になる女よ! なんでこんな女に計画を邪魔されなきゃいけないの!?」
ギャンギャン叫ぶ様子は品性のかけらも感じられない。
おそらく王子にかけられた魔法が解けたのは、手枷のおかげだろう。魔力でできた手枷は鈍い光を放っていて、ルーリエにはその原理はわからない。
ただ、ひとつハッキリしたことがある。
(……ああ。間違いなく、これがわたくしを死に追いやった元凶だわ)
子爵令嬢として人間界に溶け込み、邪魔なルーリエを始末しようとした。未来の王妃の座を狙っていた理由は考えるまでもない。ヨハニスを傀儡の王にして、自分は王妃として好き勝手するためだ。
誰であろうと、魔法で人の心をもてあそぶ真似は許されることではない。
絶対、この女はここで叩かねば。
もしここで見逃してしまったら、また誰かが傷つく。悲しい思いをするのはルーリエだけでいい。
「……一度目はあなたの本性を見抜けなかった。しかし、二度目はありません。今すぐヨハニス殿下とともに魔界へ帰っていただきます。この国は渡しません」
「はぁ!? あんたみたいな魔力なしに、このアタシがやられるわけないじゃない」
「確かに、わたくしには悪魔を強制送還する力はありません。所詮、魔力のない伯爵令嬢はただの小娘に過ぎませんから」
「ふふん。わかっているじゃない。中級悪魔のアタシに喧嘩を売ったこと、後悔させてあげるわ。……ってちょっと! この手枷どうなっているの。外れないじゃない!!」
大口を叩いていたのは、いつでも逃亡できると思っていたからに違いない。
その証拠に、彼女の顔は焦りの色が濃くなっていく。
どうにかして脱出を試みているようだが、暴れば暴れるほど締め付けがひどくなっているようだった。苦痛に耐えるヘレンを見下ろし、イグナーツが冷たく言い放つ。
「簡単に外れたら拘束した意味がないでしょう」
「つべこべ言わず外しなさいよ! アタシはこの国を牛耳って、魔王様の幹部に昇進するんだから。痛い目を見るのはそっちよ」
「……ああ、その話ならご心配なく。魔王とはすでに新たな盟約を結んでおります。人間界と魔界の協定をすり抜けて潜り込んできた輩は、魔界でしっかりお灸を据えてくれるそうです。よかったですね、優しい主君に恵まれて」
「は……盟約? 協定?」
「魔王は良識のある方でしたよ。そうでなければ、私は彼を切り刻んでいたでしょう。転移術で現れた魔法使いに驚くことなく、実力差を瞬時に見抜いた。そして私の望みを聞いたうえで、妥協案を提示した。英断です。誰にでもできることではありません」
さらりと爆弾発言を落とし、会場内がしんと静まりかえる。
イグナーツは最年少で魔法省長官に就いたエリートだ。魔力は世界トップクラスと聞く。しかし、単身で魔王と交渉してくる人物だと誰が予想できようか。
もはや人類の敵は魔王ではない。
イグナーツ・クラインに逆らってはいけない。
それがこの場に居合わせた人間の共通認識だった。彼を敵に回すことは死を意味するといっても過言ではない。誰もが口を噤む中、ふとイグナーツが今思い出したように、そうそう、と言葉を付け足した。
「言い忘れていました。魔界への強制送還は、婚約者の同行も許可されています。そういうわけで、ヨハニス殿下。結婚式の準備も手配しておきましたから。罪を償ったあとは、魔界での新婚生活をどうぞ満喫なさってください」
「ま……待ってくれ! 俺は魔界などには……!!」
「勘違いしないでいただきたいのですが、これは王命です。あなたに拒否権など最初から存在しません。国王陛下は、もしヨハニス殿下が悪魔であるヘレンを選んだ際には罰とし、人間界から追放せよとのお達しです。……これで本当にお別れです」
イグナーツが深刻な顔で瞼を伏せる。
事の重大さがわかったのだろう。顔色蒼白になったヨハニスがバッと首を横に動かし、叫ぶように言う。
「ル……ルーリエ! お前からも何か言ってくれ。俺は騙されたんだ。助けてくれッ!」
「殿下……。わたくしに今までしてきた仕打ち、まさかお忘れですか? たとえ本心からの言葉でなくても、一度口をついて出た言葉は取り消せません。どれほど謝っても、決してなかったことにはならないのです。それに、あなたを助ける人は誰一人いないでしょう。誰も魔界になど行きたくないでしょうから」
「…………そ、そんな」
がくりとうなだれるヨハニスは哀れだと思うが、助けたいとは微塵も思わなかった。少しは情に流されるかもと危惧していたが、取り越し苦労だったようだ。
ルーリエは無言のまま、パシッと黒扇を折りたたむ。
けれど、ヨハニスにとっては死刑宣告にも等しい音だったようで、過剰反応というぐらい肩がぶるぶると震えていた。先ほど衛兵に抵抗したせいか、整っていた金茶の髪はぼさぼさだ。服も多少乱れている。
(……散々悪女呼ばわりされていたのだから、最後くらいはその期待に応えてもいいかもしれないわね)
膝立ちになった元婚約者を冷たく見下ろす。
小首を傾げて右手を口元にやり、悪女らしく笑みを深めた。目が笑っていないことが伝わったのだろう。彼の顔にはわかりやすく怯えが見て取れた。
最後の仕上げだ。
ルーリエは、もう何の未練もないのだと告げるべく、淡々と別れの言葉を述べる。
「ヨハニス殿下。短い付き合いでしたが、どうぞお元気で。魔界での生活を存分にお楽しみくださいませ」
「……ッ……」
否定しようとしたのだろう。
けれども顔を歪ませたヨハニスが言葉を発するより早く、イグナーツの転移術が発動した。ヨハニスとヘレンの足元に浮かぶ魔法陣が二人を包み込み、その姿はあっという間に光に呑み込まれて消える。やがて、光の残滓も消えてなくなった。
誰も言葉を発さない。否、発せない。
目の前で第一王子が消えた。それも悪魔とともに。
衝撃で動けなくなっても無理はない。事前に転移術を使うと知らされていたルーリエもいざその場面を見ると、床に影が縫い止められたように驚きを隠せなかったのだから。
短いようで長い沈黙を破ったのは、イグナーツの足音だった。
コツン、コツンと靴音が広間に反響する。彼はすたすたと歩いたかと思えば、突然くるりと振り返り、ルーリエの前で片膝をつく。
まるで騎士が姫に永遠の忠誠を誓うように。
「ルーリエ嬢。あなたと第一王子との婚約は解消されました。約束通り、私の花嫁になっていただけますか?」
「――ええ。もちろんです」
「では感謝の気持ちを込めて、あなたにドレスを贈る名誉を」
予想外の言葉に、反応するのが数秒遅れた。
ルーリエの返事を待たず、きらきらと淡い光の粒が天井から降り注ぐ。
女神の祝福のような光景に目を瞬くと、小さい光は無数の虹色の蝶へと変化した。蝶はルーリエの体を埋め尽くし、視界が色の洪水で遮られる。思わず目をつぶるが、まぶしいのは数秒だった。
一体何が起きたのかと自分の体を見下ろし、固まった。
「えっ……?」
社交界において、ドレスは女の鎧であり武器である。
かくいうルーリエも自分を鼓舞するため、今夜は深紅のドレスで武装していた。けれど悪女らしい強気な雰囲気から一転、今は優しい趣に様変わりしている。
黒のフリルとリボンは取り払われ、爽やかな青紫のドレスだ。
裾に向かった青紫から桃色のグラデーションは、イグナーツとルーリエの瞳の色を連想させる。薄手の生地は滑らかな触り心地で、腰から足元にかけてチュール風の上品なレースがふわりと揺れる。腰元には大ぶりのコサージュ。シルクの手袋は清潔感がある純白だ。最後に真珠のイヤリングとネックレス、さながら海の女神の装いだ。
身をひねり、新しいドレスをくまなくチェックする。動くたびにひらりひらりと重なったレース生地が揺れるのが楽しい。童心に戻ったような心地になる。
ルーリエは両手を合わせて、イグナーツにこの喜びを一生懸命に伝えた。
「イグナーツ様の魔法は素晴らしいですね! ドレスが魔法で変わるなんて夢みたいです。これほど嬉しい贈り物はありません。一生、大切にいたします」
「……喜んでもらえたようで何よりです。あなたは笑顔が似合います。私はルーリエ嬢を悲しませる真似はしません。選んでくれたことを後悔させないよう、生涯をかけてあなたを愛させてください」
不意打ちのプロポーズに思考停止してしまう。
好き、愛しているといった言葉程度なら、ここまで動揺せずに済んだ。
だがこれは反則だ。正直、顔面偏差値が高い青年の上目遣いがもたらす破壊力を舐めていた。無知とはおそろしい。少女小説で培った知識など、大人の恋ではおままごとのようなものだ。太刀打ちなどできるはずもない。
(ず、ずるいわ! これほど危険な上目遣いが許されるの!? 一歩間違えれば心臓が止まっていたわ……!)
恋愛経験値の差に内心あわあわしていると、ふっと笑う気配がした。
イグナーツは紺碧の瞳を愛おしそうに細めた。視線が絡め取られる。身動きできずにいると、彼はすっと立ち上がり、ルーリエとの距離を詰めた。
反射的に逃げそうになったが、足にグッと力を入れて立ち止まる。だがその葛藤すら見透かしたように、イグナーツがルーリエの耳元で甘く囁く。
「どうか私だけを見て。他の男は見ないで」
見られるわけがない。
そんなこと、彼が一番わかっているだろうに。なんて人が悪い。ときめきで危うく呼吸困難になるところだったではないか。
ルーリエは耳まで真っ赤に染め上げたまま、純白のレースの扇を広げて小声で答えるのがやっとだった。
「こ、こういった経験は少なくて……どうか、お手柔らかにお願いいたしますわ」
「かしこまりました。善処しましょう」
どうやら悪い男に捕まってしまったようだ。これは、そうそう逃してもらえそうにない。でもいいのだ。最初からルーリエは逃げるつもりなどないから。
ずっと捕まえてほしかった。自分だけを見てくれる人に。
◆◆◆
悪女の噂は、あの夜会を境に立ち消えた。
洗脳状態から解放された貴族たちは自分に都合の悪いことはきれいに忘れ、第一王子は魔界に連れて行かれても当然の罪人という扱いで落ち着いた。後日、病弱な第二王子が次代の王を辞退したため、王太子には第三王子が指名された。
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けれど、ルーリエは夜会を一人で出席することも、壁の花になることもない。なぜなら横には、いつもルーリエだけを見つめるイグナーツがいるから。
寄り添う二人の中に割って入るような愚か者はいない。
数年前に出会ったときと同じバルコニーで、ルーリエは穏やかに笑う。イグナーツに肩を抱かれ、二人で夜空の月を仰ぐ。薬指にはピンクゴールドの結婚指輪が嵌められている。
もうルーリエを悪女と呼ぶ者はいない。
夫から一途な愛を受ける、ただのクライン伯爵夫人なのだから。
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