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月光
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「あの、これ落ちましたよ」
僕が彼女と初めて出会ったのは、頼りない外灯を頼りに歩く夜道だった。月が綺麗だったから何となく外に出て歩いていた。吸い込まれそうな程大きく光るそれに目を奪われていたからか、手帳を落としてしまったらしい。
「ありがとうございます」
僕はどうやらおかしい人間らしい。なんとなく周りの人と感性が違うのではないか、という感じは小学校高学年くらいの時から受けていた。
だから小説家がすぐに板についたとき、僕は人と違う代わりにこの才能をもらったのかもしれないと思った。
僕は執筆の間、周りの景色も音も感じられなくなって、頭の中の世界にしか目がいかなくなる。家族のことも気にかけられない。
こんな形でも執筆が終わった直後に人と会話をするなんてことは初めてで、どこか現実と空想の間にぶら下がったようなぼんやりとした感覚のまま彼女から軽く頭を下げてそれを受け取った。担当さん以外の人との会話は久しぶりだったからか、やけに緊張した。急に創作の世界から現実に引き戻されて、頭がついていかなくなるような、そんな感じだ。
なんだか軽いめまいがする。今夜の月は綺麗だけれど、攻撃的なほどやけに眩しいな。
「あの、大丈夫ですか」
すれ違いざまに急に声をかけられた。少し遠慮がちなまなざしだ。月明りに照らされた華奢な身体は、やけに目に入ってきた。
「いえ、すみません、体調が悪いわけではないので」
そう返事をすると、彼女は身体の話をしているわけじゃないんです、とか細い声で言って、何かに気づいたような顔をした後、差し出がましい真似をすみません、と早口で去っていこうとした。
「いえ。あ、あの、ありがとうございます」
僕は何とも言えない気持ちになって、逃げるように早歩きする彼女をとどめるように礼をした。
「僕、普通じゃないんです。物書きをしていて、一度没入するとしばらく戻ってこられなくなって、まわりからはそれがすごいってだけ言われて、でもそれは本来称賛されるようなことではまったくなくて、だから、ありがとうございました」
堰を切ったように話が止まらなくなった。そんなことは生まれて初めてだった。
言葉はある意味では全て嘘だ。人にはそれぞれその人の世界があって、そこで脚色されたものが言葉という形で人の耳に入る。それが僕の信条だったのに。こんなことを思っていたなんて、口に出して初めて分かった。突如のように口から出たこれも、嘘なんだろうか。
足を止めた彼女は黙ってこちらを見ている。
何やってんだ、僕。覆面小説家のくせにぼんやりと正体を明かしてSNSにでも書き込まれたら一環の終わりだな。
しばらく二人立ち止まって、あたりを緊張が支配した。彼女はふとなにかを考えこむような顔をして、僕には目をあまり合わせなかった。
「何が、普通なんでしょうか」
ゆっくりと言葉を選ぶように彼女は言う。その視線は少し泳いでいて、けれど彼女の言葉には確実に力があった。
「普通かどうかの線引きなんてだれにもできないからこのままでいい、って私は思いたいし、色々な人の在り方を、肯定、したいです」
たどたどしく言われたその言葉は僕の世界を小さく照らした。片目から涙がこぼれていた。
「なんだか不思議なお話しちゃいましたね。それじゃあ」
照れているとも苦笑いともとれない表情を浮かべた彼女はそう言って、今度こそ立ち去った。パンプスから鳴る足音、だんだん遠くなる姿、落ち着いた声、言葉選びをするその表情、そのすべてを記憶したいと思った。
その後たまたま街中で出会って、いつしか僕と彼女の距離は縮まり、僕こそが「蒼井そら」だと明かすほどの関係になった。なんとなくわかっていたと言われたときは虚を突かれたような気持ちになった。
彼女は僕の世界の明かりだ。太陽ではなく、月のように静かに、時には残酷さも持つその光に僕は魅了されている。
作品に向き合うときは連絡を取らない、というより取ることができない。担当さんと連絡するだけでもやっとの僕が、それ以上の人数を抱える余裕など持てるはずもなかった。
それでも何の問題もないと、自分はいつでも持っていると彼女は平気で答えた。
僕は我がままだ。いろいろなものを同時に抱える器量もないくせに、作品も彼女も離したくないなんて。
けれどそのわがままが許されるその時まで、僕なりに歩んでみたいと思うんだ。
僕が彼女と初めて出会ったのは、頼りない外灯を頼りに歩く夜道だった。月が綺麗だったから何となく外に出て歩いていた。吸い込まれそうな程大きく光るそれに目を奪われていたからか、手帳を落としてしまったらしい。
「ありがとうございます」
僕はどうやらおかしい人間らしい。なんとなく周りの人と感性が違うのではないか、という感じは小学校高学年くらいの時から受けていた。
だから小説家がすぐに板についたとき、僕は人と違う代わりにこの才能をもらったのかもしれないと思った。
僕は執筆の間、周りの景色も音も感じられなくなって、頭の中の世界にしか目がいかなくなる。家族のことも気にかけられない。
こんな形でも執筆が終わった直後に人と会話をするなんてことは初めてで、どこか現実と空想の間にぶら下がったようなぼんやりとした感覚のまま彼女から軽く頭を下げてそれを受け取った。担当さん以外の人との会話は久しぶりだったからか、やけに緊張した。急に創作の世界から現実に引き戻されて、頭がついていかなくなるような、そんな感じだ。
なんだか軽いめまいがする。今夜の月は綺麗だけれど、攻撃的なほどやけに眩しいな。
「あの、大丈夫ですか」
すれ違いざまに急に声をかけられた。少し遠慮がちなまなざしだ。月明りに照らされた華奢な身体は、やけに目に入ってきた。
「いえ、すみません、体調が悪いわけではないので」
そう返事をすると、彼女は身体の話をしているわけじゃないんです、とか細い声で言って、何かに気づいたような顔をした後、差し出がましい真似をすみません、と早口で去っていこうとした。
「いえ。あ、あの、ありがとうございます」
僕は何とも言えない気持ちになって、逃げるように早歩きする彼女をとどめるように礼をした。
「僕、普通じゃないんです。物書きをしていて、一度没入するとしばらく戻ってこられなくなって、まわりからはそれがすごいってだけ言われて、でもそれは本来称賛されるようなことではまったくなくて、だから、ありがとうございました」
堰を切ったように話が止まらなくなった。そんなことは生まれて初めてだった。
言葉はある意味では全て嘘だ。人にはそれぞれその人の世界があって、そこで脚色されたものが言葉という形で人の耳に入る。それが僕の信条だったのに。こんなことを思っていたなんて、口に出して初めて分かった。突如のように口から出たこれも、嘘なんだろうか。
足を止めた彼女は黙ってこちらを見ている。
何やってんだ、僕。覆面小説家のくせにぼんやりと正体を明かしてSNSにでも書き込まれたら一環の終わりだな。
しばらく二人立ち止まって、あたりを緊張が支配した。彼女はふとなにかを考えこむような顔をして、僕には目をあまり合わせなかった。
「何が、普通なんでしょうか」
ゆっくりと言葉を選ぶように彼女は言う。その視線は少し泳いでいて、けれど彼女の言葉には確実に力があった。
「普通かどうかの線引きなんてだれにもできないからこのままでいい、って私は思いたいし、色々な人の在り方を、肯定、したいです」
たどたどしく言われたその言葉は僕の世界を小さく照らした。片目から涙がこぼれていた。
「なんだか不思議なお話しちゃいましたね。それじゃあ」
照れているとも苦笑いともとれない表情を浮かべた彼女はそう言って、今度こそ立ち去った。パンプスから鳴る足音、だんだん遠くなる姿、落ち着いた声、言葉選びをするその表情、そのすべてを記憶したいと思った。
その後たまたま街中で出会って、いつしか僕と彼女の距離は縮まり、僕こそが「蒼井そら」だと明かすほどの関係になった。なんとなくわかっていたと言われたときは虚を突かれたような気持ちになった。
彼女は僕の世界の明かりだ。太陽ではなく、月のように静かに、時には残酷さも持つその光に僕は魅了されている。
作品に向き合うときは連絡を取らない、というより取ることができない。担当さんと連絡するだけでもやっとの僕が、それ以上の人数を抱える余裕など持てるはずもなかった。
それでも何の問題もないと、自分はいつでも持っていると彼女は平気で答えた。
僕は我がままだ。いろいろなものを同時に抱える器量もないくせに、作品も彼女も離したくないなんて。
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