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十九話 失いそうになって気付くことはよくある

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 パリーンッ!

 ガラス瓶が割れるのと同時に、サキュバスがさっと両手を前に突き出した。バリバリバリッ! と地面が割れる音がして、バラの茎のような棘のついた植物が地面を突き破って出てきた。いく本もの植物が瞬く間にクロードとロベール伯爵の周囲を覆って、棘植物の監獄に二人を閉じ込めてしまった。

「クロード!」

 慌てて駆け寄ったセルジュだったが、植物に触れた瞬間火に触ったような痛みが指を襲って、慌てて腕を引っ込めた。

「痛った!」
「大丈夫ですか?」

 少し触れただけなのに指先から激しく出血している。よほど鋭い棘に違いなかった。

「全く、今回の『余興』はいつも以上に趣味が悪いですね」

 スワンが素早くハンカチを取り出して、セルジュの指を縛ってくれた。

「あの、『余興』って何なんですか?」
「ロベール伯爵は我々を自分の城に招く際に、必ず魔法生物を使った悪戯を仕掛けてくるんです。我々はそれを『余興』と呼んでいます」

 スワンはクロードがロベール伯爵と一緒に閉じ込められた監獄を見てため息をついた。いつの間に姿を消したのか、サキュバスの姿は見当たらない。

「我々もできればここには来たくないのが本音なのですが、ロベール伯爵は自分の城から出るのを嫌がるので、辺境伯が集まる時は結局ここに来る羽目になります。彼は最年長者でもありますしね。わざわざ我々三人が集まってここに来る理由はまさにこの『余興』対策のためです。三人まとめて行けば『余興』は一回で済みますから、犠牲者も一人で済むというわけです」

(なんて迷惑な年長者だ)

 と、セルジュは急に世界が反転するのを感じた。ふわっと柔らかい力で押し倒され、気づいた時にはスワンの優しい顔を見上げていた。

(あれ、何だろう。なんか頭がふわふわする……)

 スワンの力強い手が、セルジュの髪をそっと撫でた。彼はいつも通りの穏やかな表情をしていたが、目の奥に隠しきれないアルファの獰猛さがちらついている。

(あ、やばい。これって……)

 ドカッ! と鈍い音が響いて、スワンの体が横に吹っ飛んだ。二つの人影がゴロゴロと転がっていき、細身の方がぱっと先に跳ね起きると、セルジュの前に背を向けて立ちはだかった。

「ちょっとあんたたち、一体何やってんのよ!」

 イザベルはハンカチで自分の顔を押さえながら、ゼエゼエと苦しそうな息をしている。

「イザベル、これは……」
「オメガの発情を誘発する薬よ! 私は女性のベータだからあんたを襲えないけど、アルファとは距離を取らなきゃ。スワンも一体どういうつもりよ?」

 スワンは地面に転がったまま、服の袖で自分の鼻を覆った。

「これはアルファの私にはキツイですよ。第二の性をこうも刺激されると争い難い」
「ロベールのおっさんがわざわざ薬の効能を言ってくれたんだから、もっと対策の取りようってもんがあったでしょ」
「いやぁ、せっかく美人を前に彼が口実をくれたんですから、男ならあわよくばって思うもんでしょう?」

 いけしゃあしゃあと抜かすスワンを、イザベルは軽蔑した視線で睨みつけた。

「そんな虫ケラを見るような目で見ないでくださいよ。あなただって私と彼がつがった方が都合が良いんじゃないですか?」
「知り合い同士がちちくりあってるとこなんて見たくないのよ! 番うならどっかよそでやってちょうだい」

 イザベルは空いている右手をさっと前に突き出した。白くて綺麗な細い中指に、赤い石のはめこまれた指輪をしている。彼女が棘の監獄に掌を向けると同時に、真っ赤な炎が指輪から吹き出して植物の表面を焦げ付かせた。

(これが『赤の騎士』の力か)

「なかなか燃えないわ。普通の植物ではないみたいね」

 イザベルは悔しげに手を振って炎をおさめた。

「全くあのおっさんは何を考えてるのかしら。とても正気だとは思えないわ」
「あの人、クロードに何かするつもりなんでしょうか?」

 セルジュは急に心配になって、物音一つ聞こえない監獄をじっと見つめた。

「何かするっていうか、あの人オメガなのよ」
「えっ!」
「ロベール伯爵家には他にもアルファやベータの兄弟が居たらしいんだけど、あの人は逆境を乗り越えて後継者の座を勝ち取ったそうよ。だから本来尊敬に値すべき人なの。この変な趣味さえなければね」

 しかしセルジュの耳にはイザベルの言葉はほとんど入ってきていなかった。

(俺とスワンですらあんな感じだったのに、より薬が濃厚な場所で、こんな狭い空間にオメガと一緒に閉じ込められたら……)

「クロード!」
「ちょっと何してるの! やめなさいって!」

 イザベルが慌ててセルジュを監獄から引き剥がした。植物の壁をこじ開けようとして傷ついた両掌からダラダラと血が流れ落ちている。

「素手で開けられるわけないでしょ!」
「あいつが他の誰かと一緒になったら、エミールはどうなるんだ!」

 イザベルは一瞬ハッとして動きを止めたが、すぐに首を振って気を取り直すと、ハンカチでセルジュの両掌を押さえた。

「大丈夫よ。ロベール伯爵はとっくに適齢期を過ぎてるはずだから、子供ができることはないわ」
「あ、あの人、あいつのこと好きだったんですか?」

 セルジュは我慢できずに、大粒の涙をポロポロと溢していた。失いそうになって初めて気がついた。自分がクロードのことをどう思っているかはよく分からない。ただ、エミールの事を考えた時、彼は絶対に必要な存在だった。不器用ながらも世話をして、何だかんだで可愛がってくれ、そしてステヴナン家の子息という確固たる地位を与えてくれる父親。エミールの幸せ、将来はクロードの庇護なしでは考えられなかった。

(イザベルに挑発された時は、俺の方からクロードなんか捨ててやれると本気で思ってた。俺にはエミールさえいればいいって。でもそれって、エミールの将来のこととか全く考えて無かったってことだよな。それから俺はクロードに捨てられることは無いだろうって、心のどこかで甘えてたんだ)

イザベルに対してあんな大見え切ったにも関わらず、いざ取られそうになったらこのザマである。あまりにも無様で恥ずかしく、いよいよ涙は止まらなかった。

「あのおっさんの考えてることはよく分からないけど、腐っても誇り高きフエルストラ王国の辺境伯よ。汚い手を使って他人を手に入れるなんてことはしないはずだわ」

 イザベルは一瞬後ろめたそうに言葉に詰まった。

「こないだはごめんなさい。軽々しく子供が欲しいなんて言っちゃって。あんたはクロード様の事好きじゃないみたいだったから、それなら譲ってくれても良いじゃないって安直に考えてた。子供のこととか、何にも考えてなかったわ」

 このじゃじゃ馬姫がこんなにしおらしいことを言うなんて。セルジュはポカンとして、涙で濡れた目を上げてイザベルを見た。

 その時、メリメリッ! と植物が裂ける音がして、棘の監獄の壁が左右に開かれた。
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