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02『お前の名は。』(2017)
03:自宅にて。
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翌日、日曜日。正午を少し過ぎた昼下がり。
わたしは、いつの間にか微睡んでいたようだった。
わずかに開いたカーテンから一筋の陽光が漏れ、部屋の中を舞ったハウスダストがきらきらと輝く。
乱れた髪の毛をそっと撫でつけると、一部だけ熱くなっているのを感じた。
わたしは窓に面した机に、突っ伏したまま眠っていたのだ。
ふと、開いたままの日記帳に、水が滴り落ちる。わたしは額を手の平で拭った。
ひどく寝汗をかいているようで、室内が蒸し暑い。しかし、暑さばかりではないのだろう。
内容は忘れたが、そういえば、悪夢を見ていたような気がする。
手を伸ばしても窓には届かず、わたしは椅子から腰を浮かせる。
窓を開けると風が流れ込んできて、カーテンが勢いよく靡いた。
ハンガーにかけていた高校の制服も、部屋の隅で外気に揺れ動く。
陽射しは容赦なく照りつけるのに、涼やかな風は包み込むような優しさだった。
外の風景に視線を移すと、電車が通り過ぎていくのが見える。
それから少しして、隣りの家から声が響いてきた。
「沙っこ! なにしたなだ、お前」
キャリーケースを重たそうに引き摺りながら、ひとりの女性が前の道路を横切る。
以前、隣りに住んでいた「笠山沙由子」さんだ。
結婚して東京に引っ越したと聞いた。
「電話もしねで急に。延久さんはよ?」
よくは知らないが、延久さんというのは、沙由子さんの夫なんだろう。
「んー、別れた。しばらく、こっちで暮らすから」
あっけらかんと言い放つ沙由子さんに、沙由子さんのお祖母さんは呆気にとられた。
わたしはそのとき、沙由子さんの陰に立っていた男の子の存在に気づく。
たぶん、息子なんだろう。
「へば……まんず、上がれ」
お祖母さんは「立ち話もなんだがら」と渋面を作って振り返り、家の中へ母子を招き入れた。
わたしは窓を閉めると、部屋を出て階段を下りていく。
茶の間のテーブルには、ラップを被せた皿が置かれていた。料理は自分でも作れるのに。
惣菜を電子レンジで温めている最中に、玄関の引き戸が開く音がした。
てっきり、お祖母さんが来てくれたものだと思って、わたしのことはいいから娘さんについていてあげて、と言おうと思った。
でも、それは違った。
「お父さん? なんで、ここに……」
「ああ? ここは俺の家だ。帰ってきて、なにが悪い」
久しぶりに見た父は、仏壇の前に勢いよく座って、タバコをぷかりと吸い始める。
「灰皿は?」と周りを探し始め、わたしは副流煙に噎せ返った。
電子レンジから急いで惣菜を取り出し、炊飯器の蓋を開けてご飯をよそう。
そそくさと、自分の部屋へ戻ろうとして、父に呼び止められた。
「おい、どこに行く」
「どこって……部屋に……」
「腹へった。なんか作ってくれ」
「なんかって……?」
「カフェでバイトしてんだろ。料理のひとつも、まともに作れねーのか。そんなんじゃあ、嫁に行けねーぞ」
「別に。厨房を任せられているわけじゃ……」
「いいから作れ! 簡単なやつでいいから。とっとと、早くな!」
簡単なやつでいい? そんな言葉で復旧できるとでも思っているのだろうか。
無神経に投げ出された言葉は、誰かの心に突き刺さるまで止まることを知らない。
~ ~ ~ ~ ~
そして、部屋着のまま家を出ていった。
特筆すべきものもなく、わざわざ日記に書くようなこともしていないのに、この習慣だけは身体から抜けきれない。
五月にもなると、太陽は午後六時半を過ぎないと沈まない。
机の上に置いた時計を見ると、まだ五時にいくらか早い時刻だった。
わたしはノートを仕舞い、元の場所へ戻した。
待合所を出てホームの真ん中に座り、手を後方に置いて天を仰ぎ見る。
ここから民家のある集落までは、田んぼを挟んだ直線距離で五〇メートルほど離れている。
誰かが来れば、すぐにわかる見晴らしのいい場所だ。
見回しても、今は誰も周囲にいない。吹き抜ける風が最高に心地よかった。
澄み渡った青空をぼんやりと見上げていたが、徐々に電車が近づいてくる音がする。
スマホを取り出して時間を確認する。そろそろ一時間が経つところだった。
また観光客が来るかもしれない。次の電車が来る前に退散しようと、わたしはコンクリートの地面から腰を浮かせた。
そのとき、誰かが来る気配を感じて、とっさに手すりを乗り越えて、ホームから飛び降りる。
危うく農業用水路にハマるところだった。
待合所を支える鉄柱の陰から覗くと、階段を上がっていく足が見える。
電車も来ていないのに、観光客だろうか。
しかし、車で来た様子もなかった。どこかで乗り捨てて、そこから歩いてきたのか。
しばらく様子を見ていると、ホームの上でカチャカチャという金属音がし出した。
なにごとかと身を乗り出しても、ここからでは死角になって見えない。
そのあと、沙由子さんの声がして、わたしはさらに奥へ隠れた。
「急にいなくならないで」
沙由子さんの声がして、もう一人が答える。男の子の声だった。
「今日はイシュタム流星群がよく見えるんだ。天気もいいし……」
「そのイシュ……なんとかっていうのは、明日も明後日も見えるんでしょ? そんなことより、荷物開けるの手伝って。今日《きょう》から、ここで暮らすんだからね」
そっと鉄柱をすり抜けて、階段の下へと向かう。
二人分の足音が頭上から聞こえ、後ろ姿が遠ざかって見えなくなるのを待ってから、わたしは階段を上った。
ホームの上には、わたしの腰ほどの大きさの天体望遠鏡が残されたままだった。
これを準備していたのか。
待合所の後方に聳える森吉山を眺める。
太陽が徐々に、森吉山の陰に隠れ始め、西側の空は赤みがかってきた。
所謂、黄昏時。
そして一番星、二番星と輝き始め、だんだんと青空が濃紺になっていく。
天体観測するには適した時間帯になろうとしていた。
待合所に明かりが灯り、街灯がホームを照らし出す。
望遠鏡を覗いてみると、ちょうど一筋の光が見える。それは光陰矢の如く消えていった。
目を離して空を見上げれば、肉眼でも視認できる。
一筋、また一筋と流れ星が瞬き、引力に引き寄せられていく。
電車の近づいてくる音がして、天体望遠鏡の三脚を折って片づけた。
急いで担ぐと再びホームの下に潜り込む。
誰も降りてきた様子はなく電車は行ってしまい、肩で息をしながらホームへと戻った。
組み立て直すのも面倒なので、望遠鏡はそのまま、ホームの下に置いておこう。
それから約一時間が経過し、また電車が来たので一旦離れ、駅の様子を遠くから伺う。
数人の男女が降りてきて、駅の写真を撮り始めるが、流星群に目をくれた様子はなかった。
十数分後、彼らの乗ってきた下りとは反対側の電車に乗って帰っていく。
いなくなったあとにホームへ戻って、わたしは待合所の中に入った。
この次も、また一時間ほど空いている。あの子の代わりに天体観測に勤しむことにしよう。
わたしは、いつの間にか微睡んでいたようだった。
わずかに開いたカーテンから一筋の陽光が漏れ、部屋の中を舞ったハウスダストがきらきらと輝く。
乱れた髪の毛をそっと撫でつけると、一部だけ熱くなっているのを感じた。
わたしは窓に面した机に、突っ伏したまま眠っていたのだ。
ふと、開いたままの日記帳に、水が滴り落ちる。わたしは額を手の平で拭った。
ひどく寝汗をかいているようで、室内が蒸し暑い。しかし、暑さばかりではないのだろう。
内容は忘れたが、そういえば、悪夢を見ていたような気がする。
手を伸ばしても窓には届かず、わたしは椅子から腰を浮かせる。
窓を開けると風が流れ込んできて、カーテンが勢いよく靡いた。
ハンガーにかけていた高校の制服も、部屋の隅で外気に揺れ動く。
陽射しは容赦なく照りつけるのに、涼やかな風は包み込むような優しさだった。
外の風景に視線を移すと、電車が通り過ぎていくのが見える。
それから少しして、隣りの家から声が響いてきた。
「沙っこ! なにしたなだ、お前」
キャリーケースを重たそうに引き摺りながら、ひとりの女性が前の道路を横切る。
以前、隣りに住んでいた「笠山沙由子」さんだ。
結婚して東京に引っ越したと聞いた。
「電話もしねで急に。延久さんはよ?」
よくは知らないが、延久さんというのは、沙由子さんの夫なんだろう。
「んー、別れた。しばらく、こっちで暮らすから」
あっけらかんと言い放つ沙由子さんに、沙由子さんのお祖母さんは呆気にとられた。
わたしはそのとき、沙由子さんの陰に立っていた男の子の存在に気づく。
たぶん、息子なんだろう。
「へば……まんず、上がれ」
お祖母さんは「立ち話もなんだがら」と渋面を作って振り返り、家の中へ母子を招き入れた。
わたしは窓を閉めると、部屋を出て階段を下りていく。
茶の間のテーブルには、ラップを被せた皿が置かれていた。料理は自分でも作れるのに。
惣菜を電子レンジで温めている最中に、玄関の引き戸が開く音がした。
てっきり、お祖母さんが来てくれたものだと思って、わたしのことはいいから娘さんについていてあげて、と言おうと思った。
でも、それは違った。
「お父さん? なんで、ここに……」
「ああ? ここは俺の家だ。帰ってきて、なにが悪い」
久しぶりに見た父は、仏壇の前に勢いよく座って、タバコをぷかりと吸い始める。
「灰皿は?」と周りを探し始め、わたしは副流煙に噎せ返った。
電子レンジから急いで惣菜を取り出し、炊飯器の蓋を開けてご飯をよそう。
そそくさと、自分の部屋へ戻ろうとして、父に呼び止められた。
「おい、どこに行く」
「どこって……部屋に……」
「腹へった。なんか作ってくれ」
「なんかって……?」
「カフェでバイトしてんだろ。料理のひとつも、まともに作れねーのか。そんなんじゃあ、嫁に行けねーぞ」
「別に。厨房を任せられているわけじゃ……」
「いいから作れ! 簡単なやつでいいから。とっとと、早くな!」
簡単なやつでいい? そんな言葉で復旧できるとでも思っているのだろうか。
無神経に投げ出された言葉は、誰かの心に突き刺さるまで止まることを知らない。
~ ~ ~ ~ ~
そして、部屋着のまま家を出ていった。
特筆すべきものもなく、わざわざ日記に書くようなこともしていないのに、この習慣だけは身体から抜けきれない。
五月にもなると、太陽は午後六時半を過ぎないと沈まない。
机の上に置いた時計を見ると、まだ五時にいくらか早い時刻だった。
わたしはノートを仕舞い、元の場所へ戻した。
待合所を出てホームの真ん中に座り、手を後方に置いて天を仰ぎ見る。
ここから民家のある集落までは、田んぼを挟んだ直線距離で五〇メートルほど離れている。
誰かが来れば、すぐにわかる見晴らしのいい場所だ。
見回しても、今は誰も周囲にいない。吹き抜ける風が最高に心地よかった。
澄み渡った青空をぼんやりと見上げていたが、徐々に電車が近づいてくる音がする。
スマホを取り出して時間を確認する。そろそろ一時間が経つところだった。
また観光客が来るかもしれない。次の電車が来る前に退散しようと、わたしはコンクリートの地面から腰を浮かせた。
そのとき、誰かが来る気配を感じて、とっさに手すりを乗り越えて、ホームから飛び降りる。
危うく農業用水路にハマるところだった。
待合所を支える鉄柱の陰から覗くと、階段を上がっていく足が見える。
電車も来ていないのに、観光客だろうか。
しかし、車で来た様子もなかった。どこかで乗り捨てて、そこから歩いてきたのか。
しばらく様子を見ていると、ホームの上でカチャカチャという金属音がし出した。
なにごとかと身を乗り出しても、ここからでは死角になって見えない。
そのあと、沙由子さんの声がして、わたしはさらに奥へ隠れた。
「急にいなくならないで」
沙由子さんの声がして、もう一人が答える。男の子の声だった。
「今日はイシュタム流星群がよく見えるんだ。天気もいいし……」
「そのイシュ……なんとかっていうのは、明日も明後日も見えるんでしょ? そんなことより、荷物開けるの手伝って。今日《きょう》から、ここで暮らすんだからね」
そっと鉄柱をすり抜けて、階段の下へと向かう。
二人分の足音が頭上から聞こえ、後ろ姿が遠ざかって見えなくなるのを待ってから、わたしは階段を上った。
ホームの上には、わたしの腰ほどの大きさの天体望遠鏡が残されたままだった。
これを準備していたのか。
待合所の後方に聳える森吉山を眺める。
太陽が徐々に、森吉山の陰に隠れ始め、西側の空は赤みがかってきた。
所謂、黄昏時。
そして一番星、二番星と輝き始め、だんだんと青空が濃紺になっていく。
天体観測するには適した時間帯になろうとしていた。
待合所に明かりが灯り、街灯がホームを照らし出す。
望遠鏡を覗いてみると、ちょうど一筋の光が見える。それは光陰矢の如く消えていった。
目を離して空を見上げれば、肉眼でも視認できる。
一筋、また一筋と流れ星が瞬き、引力に引き寄せられていく。
電車の近づいてくる音がして、天体望遠鏡の三脚を折って片づけた。
急いで担ぐと再びホームの下に潜り込む。
誰も降りてきた様子はなく電車は行ってしまい、肩で息をしながらホームへと戻った。
組み立て直すのも面倒なので、望遠鏡はそのまま、ホームの下に置いておこう。
それから約一時間が経過し、また電車が来たので一旦離れ、駅の様子を遠くから伺う。
数人の男女が降りてきて、駅の写真を撮り始めるが、流星群に目をくれた様子はなかった。
十数分後、彼らの乗ってきた下りとは反対側の電車に乗って帰っていく。
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