上 下
15 / 20
02『お前の名は。』(2017)

03:自宅にて。

しおりを挟む
 翌日、日曜日。正午を少し過ぎた昼下がり。


 わたしは、いつの間にか微睡まどろんでいたようだった。
 わずかに開いたカーテンから一筋の陽光が漏れ、部屋の中を舞ったハウスダストがきらきらと輝く。
 乱れた髪の毛をそっと撫でつけると、一部だけ熱くなっているのを感じた。
 わたしは窓に面した机に、突っ伏したまま眠っていたのだ。


 ふと、開いたままの日記帳に、水が滴り落ちる。わたしは額を手の平で拭った。
 ひどく寝汗をかいているようで、室内が蒸し暑い。しかし、暑さばかりではないのだろう。
 内容は忘れたが、そういえば、悪夢を見ていたような気がする。


 手を伸ばしても窓には届かず、わたしは椅子いすから腰を浮かせる。
 窓を開けると風が流れ込んできて、カーテンが勢いよくなびいた。
 ハンガーにかけていた高校の制服も、部屋の隅で外気に揺れ動く。
 陽射しは容赦なく照りつけるのに、涼やかな風は包み込むような優しさだった。


 外の風景に視線を移すと、電車が通り過ぎていくのが見える。
 それから少しして、隣りの家から声が響いてきた。


っこ! なにしたなだ、お


 キャリーケースを重たそうに引きりながら、ひとりの女性が前の道路を横切る。
 以前、隣りに住んでいた「笠山沙由子かさやまさゆこ」さんだ。
 結婚して東京に引っ越したと聞いた。


「電話もしねで急に。延久のぶひささんはよ?」


 よくは知らないが、延久さんというのは、沙由子さんの夫なんだろう。


「んー、別れた。しばらく、こっちで暮らすから」


 あっけらかんと言い放つ沙由子さんに、沙由子さんのお祖母ばあさんは呆気あっけにとられた。
 わたしはそのとき、沙由子さんの陰に立っていた男の子の存在に気づく。
 たぶん、息子なんだろう。


「へば……まんず、上がれ」


 お祖母さんは「立ち話もなんだがら」と渋面を作って振り返り、家の中へ母子を招き入れた。


 わたしは窓を閉めると、部屋を出て階段を下りていく。
 茶の間のテーブルには、ラップを被せた皿が置かれていた。料理は自分でも作れるのに。


 惣菜おかずを電子レンジで温めている最中に、玄関の引き戸が開く音がした。
 てっきり、お祖母さんが来てくれたものだと思って、わたしのことはいいから娘さんについていてあげて、と言おうと思った。
 でも、それは違った。


「お父さん? なんで、ここに……」


「ああ? ここは俺の家だ。帰ってきて、なにが悪い」


 久しぶりに見た父は、仏壇の前に勢いよく座って、タバコをぷかりと吸い始める。
「灰皿は?」と周りを探し始め、わたしは副流煙にせ返った。


 電子レンジから急いで惣菜を取り出し、炊飯器のふたを開けてご飯をよそう。
 そそくさと、自分の部屋へ戻ろうとして、父に呼び止められた。


「おい、どこに行く」


「どこって……部屋に……」


「腹へった。なんか作ってくれ」


「なんかって……?」


「カフェでバイトしてんだろ。料理のひとつも、まともに作れねーのか。そんなんじゃあ、嫁に行けねーぞ」


「別に。厨房を任せられているわけじゃ……」


「いいから作れ! 簡単なやつでいいから。とっとと、早くな!」


 簡単なやつでいい? そんな言葉で復旧リカバリーできるとでも思っているのだろうか。
 無神経に投げ出された言葉ナイフは、誰かの心に突き刺さるまで止まることを知らない。


 ~ ~ ~ ~ ~


 そして、部屋着のまま家を出ていった。


 特筆すべきものもなく、わざわざ日記に書くようなこともしていないのに、この習慣だけは身体から抜けきれない。


 五月にもなると、太陽は午後六時半を過ぎないと沈まない。
 机の上に置いた時計を見ると、まだ五時にいくらか早い時刻だった。


 わたしはノートを仕舞い、元の場所へ戻した。
 待合所を出てホームの真ん中に座り、手を後方に置いて天を仰ぎ見る。
 ここから民家のある集落までは、田んぼを挟んだ直線距離で五〇メートルほど離れている。
 誰かが来れば、すぐにわかる見晴らしのいい場所だ。
 見回しても、今は誰も周囲にいない。吹き抜ける風が最高に心地よかった。


 澄み渡った青空をぼんやりと見上げていたが、徐々に電車が近づいてくる音がする。
 スマホを取り出して時間を確認する。そろそろ一時間が経つところだった。
 また観光客が来るかもしれない。次の電車が来る前に退散しようと、わたしはコンクリートの地面から腰を浮かせた。


 そのとき、誰かが来る気配を感じて、とっさに手すりを乗り越えて、ホームから飛び降りる。
 危うく農業用水路にハマるところだった。
 待合所を支える鉄柱の陰から覗くと、階段を上がっていく足が見える。
 電車も来ていないのに、観光客だろうか。


 しかし、車で来た様子もなかった。どこかで乗り捨てて、そこから歩いてきたのか。


 しばらく様子を見ていると、ホームの上でカチャカチャという金属音がし出した。
 なにごとかと身を乗り出しても、ここからでは死角になって見えない。
 そのあと、沙由子さんの声がして、わたしはさらに奥へ隠れた。


「急にいなくならないで」


 沙由子さんの声がして、もう一人が答える。男の子の声だった。


「今日はイシュタム流星群がよく見えるんだ。天気もいいし……」


「そのイシュ……なんとかっていうのは、明日あした明後日あさっても見えるんでしょ? そんなことより、荷物開けるの手伝って。今日《きょう》から、ここで暮らすんだからね」


 そっと鉄柱をすり抜けて、階段の下へと向かう。
 二人分の足音が頭上から聞こえ、後ろ姿が遠ざかって見えなくなるのを待ってから、わたしは階段を上った。
 ホームの上には、わたしの腰ほどの大きさの天体望遠鏡が残されたままだった。
 これを準備していたのか。


 待合所の後方にそびえる森吉山もりよしさんを眺める。
 太陽が徐々に、森吉山の陰に隠れ始め、西側の空は赤みがかってきた。
 所謂いわゆる黄昏時たそがれどき
 そして一番星、二番星と輝き始め、だんだんと青空が濃紺になっていく。
 天体観測するには適した時間帯になろうとしていた。


 待合所に明かりがともり、街灯がホームを照らし出す。
 望遠鏡を覗いてみると、ちょうど一筋の光が見える。それは光陰矢の如く消えていった。
 目を離して空を見上げれば、肉眼でも視認できる。
 一筋、また一筋と流れ星がまたたき、引力に引き寄せられていく。


 電車の近づいてくる音がして、天体望遠鏡の三脚を折って片づけた。
 急いで担ぐと再びホームの下に潜り込む。
 誰も降りてきた様子はなく電車は行ってしまい、肩で息をしながらホームへと戻った。
 組み立て直すのも面倒なので、望遠鏡はそのまま、ホームの下に置いておこう。


 それから約一時間が経過し、また電車が来たので一旦いったん離れ、駅の様子を遠くから伺う。
 数人の男女が降りてきて、駅の写真を撮り始めるが、流星群に目をくれた様子はなかった。
 十数分後、彼らの乗ってきた下りとは反対側の電車に乗って帰っていく。
 いなくなったあとにホームへ戻って、わたしは待合所の中に入った。
 この次も、また一時間ほど空いている。あの子の代わりに天体観測にいそしむことにしよう。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【ショートショート】おやすみ

樹(いつき)@作品使用時は作者名明記必須
恋愛
◆こちらは声劇用台本になりますが普通に読んで頂いても癒される作品になっています。 声劇用だと1分半ほど、黙読だと1分ほどで読みきれる作品です。 ⚠動画・音声投稿サイトにご使用になる場合⚠ ・使用許可は不要ですが、自作発言や転載はもちろん禁止です。著作権は放棄しておりません。必ず作者名の樹(いつき)を記載して下さい。(何度注意しても作者名の記載が無い場合には台本使用を禁止します) ・語尾変更や方言などの多少のアレンジはokですが、大幅なアレンジや台本の世界観をぶち壊すようなアレンジやエフェクトなどはご遠慮願います。 その他の詳細は【作品を使用する際の注意点】をご覧下さい。

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

校長先生の話が長い、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
学校によっては、毎週聞かされることになる校長先生の挨拶。 学校で一番多忙なはずのトップの話はなぜこんなにも長いのか。 とあるテレビ番組で関連書籍が取り上げられたが、実はそれが理由ではなかった。 寒々とした体育館で長時間体育座りをさせられるのはなぜ? なぜ女子だけが前列に集められるのか? そこには生徒が知りえることのない深い闇があった。 新年を迎え各地で始業式が始まるこの季節。 あなたの学校でも、実際に起きていることかもしれない。

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

入れ替わり家族

廣瀬純一
大衆娯楽
家族の体が毎日入れ替わる話

亜由美の北上

きうり
青春
幣原春子は高校時代からの親友だ。密かに彼女に憧れていた私は、ある日を境に毎日のように言葉を交わすようになった。しかし春子には、男と遊んでいるという嫌な噂がつきまとう。彼女が他の女子から因縁をつけられていても助けることができなかった私は、友達を名乗る資格があるのだろうか? 葛藤を抱えながら十年、二十年と時が経ち、マグニチュード7の地震が春子の住む秋田市を襲う。彼女からの連絡を受けた私が、その時取った選択は――。田舎町に住む女子たちの関係と友情を描いた”百合”小説。

台本集(声劇)

架月はるか
大衆娯楽
フリー台本(声劇)集。ショートショートから、長編までごちゃ混ぜです。 ご使用の際は、「リンク」もしくは「作品名および作者」を、概要欄等にご記入下さい。また、音声のみでご使用の場合は、「作品名および作者」の読み上げをお願い致します。 使用に際してご連絡は不要ですが、一報頂けると喜びます。 最後までお付き合い下さると嬉しいです。 お気に入り・感想等頂けましたら、今後の励みになります。 よろしくお願い致します。

処理中です...