「ふるさと秋田」短編集

モンキー書房

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01『黒沼あい話』(2016)

06:みたけ湖

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「ここになにがあるんだ?」


 ユキツバキ群落から外山落合線を南下し、黒沼を通り過ぎて左右の眼下に大きな湖が見えてくる。
 みたけ湖にある大松川ダムの駐車場へ車を停めた。母さんが車を中に入れて、妹が足早に降りていく。


 ここを何回か通ったことはあるが、こんな間近に来たのは初めてだった。
 理由もわからず、「大松川ダム説明図」と書かれた看板のもとへ、妹に誘われて赴く。


 そこにはダムの平面図や断面図があり、ダムが作られた目的や完成に至るまでの経緯など、基本的な情報が細かく記されていた。


 ☆


 *ダムの目的*
 一、洪水調節。
 ダム地点の計画高水流量三九〇立方メートル毎秒のうち三四五立方メートル毎秒の洪水調節を行い、横手川沿川流域の水害を防除します。
 二、流水の正常な機能の維持。
 ダム地点下流の既得用水の補給を行う等、流水の正常な機能の維持増進を図ります。
 三、水道用水。
 横手市に対して、水道用水として新たに一四〇〇〇立方メートル毎日(〇・一六二立方メートル毎秒)の取水を可能にします。
 四、かんがい用水。
 横手市の金沢中野地区の二七二・四ヘクタールの農地に対して、かんがい用水として最大〇・五三八立方メートル毎秒の取水を可能にします。
 五、発電。
 ダム右岸下流に、大松川発電所を建設して、最大一〇〇〇キロワットの発電を行います。


 *事業の経緯*
 昭和四十五(一九七〇)年五月:全体計画認可。
 昭和四十六(一九七一)年九月:予備調査。
 昭和五十(一九七五)年度~ :実施計画調査。
 昭和五十五(一九八〇)年四月:治水単独ダムから多目的ダムへ計画変更。
 昭和五十八(一九八三)年四月:建設事務所設置。
 昭和六十一(一九八六)年十月:集団移転完了。
 昭和六十二(一九八七)年度~:工事用道路及び付替 道路工事着手。
 平成二(一九九〇)年六月  :本体工事開始。
 平成三(一九九一)年五月  :仮排水路完成、転流、本体基礎掘削開始。
 平成四(一九九二)年九月  :本体コンクリート打設開始。
 平成四(一九九二)年十月  :定礎式。
 平成八(一九九六)年十二月 :二次転流。
 平成十(一九九八)年十月  :試験湛水開始。
 平成十一(一九九九)年三月 :ダム本体工事完成。


 ☆


 看板の上部には、そう書かれている。認可から本体の工事に取りかかったのは、紆余曲折の末、二十年もの歳月が費やされていた。
 もともと人が住んでいた区画だっただけに、工事が始まる四年前には「集団移転完了」とも書かれている。
 工事が終わったのは、いまから十七年前。つまり、認可されてからダムが完成するまで、三十年近くもかかったことになる。


 あらかた内容を読んで、手持ち無沙汰にオレは空を見上げた。
 雲ひとつない、晴れ渡った青空だった。
 しばらく看板を凝視していた妹は、振り向きざまに「それじゃあ、家に帰ろう」とだけ言って車に向かい出す。
 いったい、なにがしたかったんだ。


「『昭和六十一年、集団移転完了』……そう書かれてたでしょ」
 それを聞いて思い出す。大松川ダムにあった看板のことだ。
「大松川ダムが建設された福万はもちろんだけど、近隣にあった田代、そして上流にあった外山の集落も、集団移転の対象になっていたの」


「えっ……それじゃあ」


「外山は三十年も前になくなっている」


 絶句した。
 ツルが住んでいたとしても、三十年以上も前ということになる。
 ひどく混乱してきた。


 オレは信じられない思いで、妹の横顔を見つめた。
 だから、大松川ダムに寄ったのか。
 だから、外山に行こうと言いだしたのか。
 点と点が一本の線になって繋がっていく。


 いつから、気づいていたのだろう。
 さも当たり前のように、妹は涼しい顔でさらりと言いのけた。


「つまり、タイムスリップしてきた、ということだね」


 ドアへ向かった手が空を切り、ツルは膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。
 駐車場のど真ん中で。どう声をかけていいか、わからなかった。
 まだ充分に整理できないまま、それでも目の前の光景を見ていると、これが現実であることを不思議と受け入れてしまいそうだった。


 ただ泣き叫ぶ彼女を見て、いたたまれなく胸を締めつける。
 自分の故郷に帰れなくなった経験がないし、ひとり見ず知らずの土地に取り残された試しもない。


 なにすることもできず、オレはただツルのことを、呆然と眺めていただけだった。


     ☆


 そこから、母と妹とオレとツルの四人は、なんの会話をすることもなく、帰宅の途へと着いた。


 お湯を沸かそうとして、なにやら手間取っているようだった。
「あれ? おかしぇな……」
 水は出るようだが、どうやらボイラーが故障したようだ。


 せっかくなら、と母は財布から千円札を四枚ほど取り出し、「ついでに夕飯ままも食って」と言い加える。
 泥にまみれてしまった服を洗濯するため、オレたち三人は新しい服へ着替えてから、仲良く鶴ヶ池荘つるがいけそうへと向かうことになった。
 鶴ヶ池の水面が、沈みゆく日光の照り返しで燦然と輝き、鶴ヶ池荘の悠然とした佇まいを、赤く染まった背景の中に映し出していた。


 フロントの横に券売機があり、そこの「当日入浴 大人(中学生以上) 五〇〇円」と書かれたボタンを二回押す。
 妹は「小人 二五〇円」のボタンを押し、出てきたチケットをフロントへ持っていく。
 自前のタオル等を持参したオレとは違い、プラス、ツルのぶんの「タオルセット 二〇〇円」をレンタルした。
 三人で計一四五〇円。チケットを係員に手渡し、奥の温泉棟へと向かう。


 脱いだ靴を棚に入れて扉を閉める。木板を抜くことによって、扉は施錠された。
 オレが八番で、ツルが二十番。木板が抜かれて鍵のしまった扉が、かなりの広範囲にわたって目立っていた。
 日が傾き始め、入浴客が増えだす時間帯らしい。


 エントランスホールを抜けて、奥へ進むと休憩ホールが見えてきた。
 テレビを見たり、コーヒー牛乳を飲んだり、湯上りの人たちが各々おのおのくつろいでいる。
 休憩ホール前に設けられたロッカーに貴重品を預け、抜いた鍵を腕に巻く。
 きょうは「清流の湯」が男湯で「杜氏の湯」が女湯のようで、キョロキョロしているツルと別れて、青く「ゆ」と書かれた暖簾のれんをくぐる。
 そして脱衣室へと足を踏み入れた。


 頭にタオルを載せ、湯船に浸かっているとき、更衣室のほうで騒がしい物音が響いてくる。
 自動ドアが開かれたそこに立っていたのは、服を着たままの妹だった。
 だが、その服は裏表が逆になっているうえ、身体を充分に拭き取っていないのか、ツルと初めて会ったときのように濡れていた。


「お、お兄ちゃんは?」
「おとよさんとこの……」


 隣りにいたおじさんが、大きく見開いた目をぱちくりと瞬いた。
 周りを見回した妹と目が合う。ずんずんと近づいてくる。


「な、なにしてんだ……?」
 オレの質問には答えず、妹は「とにかく急いで」の一点張りだった。
 むんずっとオレの腕を掴むと、妹は非力ながらも無理やり立ち上がらせようとする。
「お、おい。ちょっ……」


 咄嗟とっさにタオルで下腹部を覆い隠し、言われるがまま更衣室へと向かった。
 裏表を確認しながら服を着て、慌てて休憩ホールへ出ると、わずかに人だかりができている。
 そこで、ようやく妹の説明が入った。お湯に浸かった瞬間、ツルが倒れ込んだらしい。


「大変なの。ツルちゃんが……」
「どうした? のぼせたか?」
 入って十分も経っていないと思うが、一応、床に横たわったツルへ訊いてみる。


「お、温泉さ入るのが初めてで……面目しがたねぇっす」
「湯疲れしたのか? それとも湯あたりか?」


 心配そうに見守るおばさんたちに囲まれたツルは、心配かけまいと頭を何度も下げて気丈に振る舞い、これじゃあ余計に疲れてしまうんじゃないかとオレも心配になる。
 周囲の群衆がいなくなったところで、ツルからほんのわずかに笑みがこぼれてきた。


すごし休めば、大丈夫だがら。ひんやりしでで気持ちいい」


 そうか。そう呟き、オレも中断していた入浴を再開しようかと、腰を浮かせる。
 ツルのそばから離れようとして、妹の驚いた声で引き留められてしまった。
 耳を近づけた妹に向かって、ツルの唇が動くのを視認する。今度はオレにも聞こえた。


「おゆきって名前なめ、聞きおべある……おらの名前っこだ」


「お腹空いたよね、おゆきちゃん」
 たしかに、どこからか腹の虫の鳴き声が聞こえた。
 妹はすんなりと受け入れたようで、すぐに新しい名前を呼び始める。
「『レストラン「湖水」』で、なに食べようかなっ」
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