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01『黒沼あい話』(2016)

02:福万

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 翌日。
 朝が明けて、学校へ行くために起きてくると、母さんはツルと談笑していた。
 同じキッチンに立って、仲良く朝食の支度をしている。
 オレは眠い目を擦りながら、早起きだなツルは、とぼんやり考えていた。


 なんだか、二人が朝食を用意するのを黙って待っているのも気まずく、観たい番組があるわけでもないのにテレビをつける。
 父さんが新聞を広げていたダイニングテーブルに、見覚えのない一輪挿しが置かれていることに気づく。


「なに、その花?」


 オレの質問に母さんが答えた。


雪椿ゆきつばきだど。綺麗なげ花っこだべ」


 まるでアレンデール王国の女王にでも凍らされたみたいな、寒そうな名前だ。
 雪椿。クロッカスではなく。


「へぇ……そんなの、どこで採ってきたの?」


「採っできたっでいうか……」
 母さんはツルのほうへ目を向ける。
「ツルちゃんが着でらった着物のたもとさ、この花っこが入っでらっけよ」
 

「雪椿だ!」
 快活な声が突然したほうには、ランドセルの蓋をパカパカとさせた妹の姿があった。
 人差し指をぴんと立てた妹はドヤ顔で、訊いてもいないのに解説を続ける。
「東北から山陰地方の日本海側……特に豪雪地帯に多く分布している椿の一種」


 なんで、そんなこと知っているんだ。
 蓋を閉めたランドセルをソファーに放り投げ、飛び跳ねるように一輪挿しへ顔を近づける。


「雪に耐えながら育って、春に花を咲かせるから名づけられたんだよねっ」
 妹は振り返りざまに、同意を求めるような表情で周囲を見渡す。
 だよね、と言われても、いや知らんし、としか言いようがない。
「だいたい四月から六月頃が開花時期でぇー。えーっと……花言葉は……なんだっけ」


 ちょうど、いまの時期に咲いているのか。
 まだ枯れていないことを考えると、ここへ来る前に採ってきたのだろう。


 妹は洗面所から戻ってくると、慌ただしく台所へ向かって、母さんの手伝いを始める。
 できあがった料理をテーブルに運ぶ最中、妹は母さんに話しかけていた。
「今度の土曜日、芝桜まつりに連れてって!」


 母さんが快諾し、妹が喜ぶ姿を見て、オレは独りごちる。
「芝桜まつり、ねぇ……」そして彼女に向かって言った。「ツルも一緒に行ってみないか?」


 ☆


 芝桜まつり当日。
 オレと妹とツルは、母さんの車に乗り込み、会場となっている大松川ダム公園へと向かう。
 何度か芝桜まつりに行ったことはあったが、今回の目的は芝桜ではなく黒沼のほうだった。


 身体を突き刺すような暑さが車内に充満していて、エアコンをかけてはみたものの、冷風が届く気配は感じられなかった。
 また汗が頬を伝って落ち、座席に染み込んでいく。
 窓を開けて自然の風を受けたほうが、エアコンをかけるより遥かに涼しかった。


「今日は部活なかったの?」


 そう妹が尋ね、オレは頷く。「ないない。休み休み」


 市立小学校を通り過ぎ、国道一〇七号線を北上する。
 家を出発して三分ほどで「大松川ダム」と書かれた看板が見えて来て、そこに記された矢印に従って左折した。


 そこから、県道二七三号線を道なりに行けば、大松川ダムのある「みたけ湖」へと辿り着く。
 それまで存在していた民家も、八方を山に囲まれた「みたけ湖」の沿道には、一件も見当たらなかった。
 みたけ湖の独特な形状に沿って、大きく湾曲した道を進んで行くと、その先に大松川ダム公園が見えてくる。


 大松川ダムが完成したのを機に、一九九八年から二〇〇〇年までの三年間で、約一ヘクタールの広さに約六十八万株の芝桜が植えられた。
 そこで毎年、五月下旬か六月上旬の土日、二日間だけ芝桜まつりが開催される。
 ……と、横手市のホームページに書かれていた。


 家を出発してから約十五分で、大松川ダム公園の入口に到着する。
「芝桜会場」と記された看板のところで車を右折させ、赤色灯を持った人たちの指示に従って、上のほうにある第二駐車場へと移動させた。


 いちばん奥に車を停めてドアを開けると、冷たい風が一気に流れ込む。
 確かに直射日光は厳しいが、思ったよりも暑くはなかった。
 この場所が山の上にあり、隔てるものがないからだろうか。
 風が心地よく吹き抜けていくのを感じた。


 第二駐車場からは、芝桜会場が一望できる。
 駐車した場所のすぐ近くに、会場へ下りていく砂利道がのびていた。
 墜落防止用のカーストッパーに、妹が小走りで向かう。
 オレとツルも、あとに続いた。


「あそこに、ハート型に植えられた芝桜があるでしょ?」


 唐突に、そう切り出した妹は、真正面に見える丘を指さしている。
 百メートルくらいの距離があるだろうか、確かに白とピンクの鮮やかなハートが逆になった模様が見える。
 あれも、すべて芝桜で形作られているのだろう。


「鶴ヶ池と黒沼にまつわる伝説があるんだけど、あれって実はそれを表しているの」


「鶴ヶ池と黒沼にまつわる伝説? なにそれ」


「え? お兄ちゃん知らないの?」


 悪いか。
 優しい妹が、ときどき上から目線の態度を取りつつ懇切丁寧に話してくれた、その伝説の内容は次の通りだった。


 ☆


 その昔、平野沢ひらのさわという村に、ツルという娘がいた。
 その村の東のほうにある福万ふくまんというところには、クロウという大した働き者がいた。


 ツルはたいそう美しく、多くの男性から求婚されていた。
 その男たちの中でも、髭をぼうぼうと生やして、目玉をぎょろりとした、見るからに恐ろしい格好の大男が、毎日のようにしつこく通ってきていた。
 その男は平野沢にある藍婆王山らんばおうさんの主である、藍婆王という乱暴者だった。


 しかしツルは、朝早くから夜遅くまで田畑に行って働く、クロウのことが好きだった。
 そしてクロウも、ツルのことが好きだった。
 いつしか二人は、村はずれの野原で会うようになり、一日の仕事終わりで語り合うのが楽しみになっていった。


 ところが、藍婆王山の頂上から二人の姿を見た藍婆王はヤキモチを焼き、頭に血を上らせて山を降りてきた。


「こら、おだぢ。こごの野原を誰の土地だど思ってる。俺の許しば来たてダメだ。二度と二人して会ってみれ、この村がら追い出してやるがらな」


 そう言って、力の強い藍婆王が、クロウの首元を掴んで投げた。
 すると、ずっと遠くの田代たしろのほうまで飛ばされて、クロウは明け方まで気を失って、倒れていたのだそうだ。


 その日から、藍婆王山の頂上から目を光らせて見張っているので、クロウとツルは二人で会うことができなくなってしまった。
 会いたい気持ちを募らせて、福万のほうを見ては溜め息を吐く毎日ばかりを、ツルは送っていた。
 また、藍婆王は綺麗な着物やかんざしを持ってきては、毎日「俺の嫁っこになれ」と言って、それを断ると「へば、お前の親どご殺すぞ」と脅してきていた。


 その頃クロウは、自分の家のそばから穴を掘っていた。
 地上を行けば藍婆王に見つかるため、土に穴を掘って会いに行こうと、ツルがいるところまで一里くらい、ろくに夜も寝ずに掘っていたのだ。


 夏になり、秋になり、冬も過ぎて、また桜の花が咲く春になっても、ツルはクロウに会うことが叶わなかった。
 藍婆王の乱暴な口説きに負けたツルは、「おら、藍婆王の嫁っこになる」と、とうとう言ってしまった。


 だけど毎日、嫌で嫌で泣いてばかりいた。
 そして、いよいよ明日、藍婆王に嫁ぐという前の晩のこと。
 ツルは化粧をして綺麗な花嫁衣装を着て、クロウに別れを告げようと、思い出の野原に行った。


 月も星もない真っ暗な夜。
 クロウのことを呼びかけてツルが泣くと、空からザーザーと悲しみの雨が降ってきた。


 ちょうどそのとき、クロウが掘っていた穴が野原まで通じ、ツルが泣いていたところに出てきたのだ。


 二人は手を取り合って、泣いて喜んだ。
 そうすると、野原一面に水が溜まって、大きな池になった。
 そして、クロウが掘った穴にも水が入って行って、クロウが住んでいた村にも深い沼ができた。


 その晩から二人の姿が見えなくなり、クロウが履いていた泥のついた草履ぞうりと、ツルが着ていた花嫁衣装が、池の上にプカプカと浮かんでいた。


 いつからか、野原にできた池のことを鶴ヶ池、クロウの村にできた沼のことを黒沼と呼ぶようになった。
 そして、二人が会っていた野原のことを愛の野、もしくは逢い引きの野といって、そこから相野々あいののと呼ばれるようになった。


 ☆


 伝説を話し終えた妹は、芝桜会場へと続く砂利道を下り始める。
 その間も、説明は終わらなかった。


「ツルが住んでいた平野沢は、鶴ヶ池の南のほうにあって、藍婆王山も実際に、そこにあるんだよ」


 芝桜会場は人で賑わっていた。
 左側にはトラックの側面が開いた特設ステージがあり、その近くで恒例行事となっている「千本杵祝せんぼんきねいわい餅つき」が始まろうとしている。


「それでね、クロウが住んでいた福万は、ここに昔あった集落なんだって」


 そう説明を締めくくって、何本も用意されている杵に視線を移した妹の背後には、「福万・青空教室ゾーン案内図」と書かれた看板が見えていた。
 要するにここは、福万の集落跡にできたダム、ということなのだろう。
 ……地元民であるはずなのに初耳だ。
 オレがこの世に生を享けて、十三年も経ってから知った新事実だった。
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