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第一曲「さえずりサンライズ」
1Bメロ
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テレビ収録があるときは、自宅からテレビ局へ向かう。ロケがあるときも、仕事現場へ直行するのが常だ。
芸能事務所に所属しているからといって、サラリーマンのように毎日出勤してくる必要はない。
きょう自分が所属する芸能事務所「ミューゼス・プロダクション」に春香が訪れたのは、これから作曲家へあいさつをしに行く目的のためだった。
最寄りの葛西駅から東京メトロ東西線で大手町駅へ行き、そこから東京メトロ丸ノ内線に乗り換えて東京駅へ向かう。
大手町駅に到着したとき、丸ノ内線の次の発車時刻までは、まだ七分ほどあった。
東京駅までは、電車で揺られること約一分で着く。
歩いていったほうが早いような気もするが、特に急いでいるわけでもないので、このまま七分くらい待つことにした。
ミューゼス・プロダクションに到着した春香は、五十平米ほどの会議室に入る。
一台の長テーブルを、数脚の椅子が囲うように並べられた、小さな会議室だった。
部屋の隅に置かれた椅子に腰かける。
廊下からは、慌ただしく人々が往来する音が響き、しばらくのあいだ喧騒が続いていた。
ひたすら会議室の中で待っていると、ドアをノックする音がして、紙袋を携えた五十代くらいの男性が入室してくる。
姿を現したのは、ミューゼス・プロダクションの社長である、紺野昭宏だった。
紺野はテーブルを挟んだ向かい側、春香の前の椅子に腰かける。
紙袋を大事そうに抱えたままだ。
「遅れて申し訳ない。藤崎くんも、もうそろそろ来るはずだから」
「お忙しそうですね」
春香がそう言うと、紺野は気さくに笑った。
「ああ、貧乏暇なしだよ」
藤崎莉奈は、春香のマネージャーである。
複数のタレントを兼任するマネージャーは稀ではなく、莉奈は現在、ヨリミチ・ブレイクタイムのテレビ収録に同行している、とのことだった。
春香もヨリミチ・ブレイクタイムの名前は聞いたことがあり、会社中にポスターが貼られている。確か、ミューゼス・プロダクションが大々的に売り出し中のガールズバンドだったはずだ。
「すまんね、人手が足りなくて」
紺野はぽりぽりと禿げ頭を掻きながら、またひとこと詫びた。
マネージャーの主な仕事は、所属タレントの芸能活動が円滑に行えるようにサポートするものであり、スケジュールの管理やマスメディアへの出演交渉、ときには芸能人の悩みを聞いてアドバイスすることもある。
タレント自らが雇う付き人とは違って、マネージャーは芸能事務所に勤務する会社員だ。
「これ、前に録ったサンプルだ」
紺野は紙袋から取り出した茶封筒を無造作に置き、テーブルを滑らせて春香のもとへ寄越す。
それを受け取って中を覗くと、二枚のCDがケースに入っているのが見えた。
「一枚は雨宮くんに渡してくれ」
「はい……わかりました……」
春香は頷いて茶封筒を半分に折り、持参していた鞄に詰め込む。
それから紺野は、紙袋を膝に載せたまま両手を突っ込み、出しにくそうに一冊の本を持ち上げた。
ほかにも入っているのだろうか、これが紙袋の中身の大部分を占めていたらしい。
「これから雨宮くんの家だろ。これを持っていくといい」
表紙には『クラシック音楽の変遷』とタイトルが書かれている。
作者名は雨宮慎吾。
これから行く訪問先も、確かに雨宮慎吾という名前だった。
「一応、渡しておく」
大判の本だったので、春香が持ってきた鞄の中には入らなさそうだった。
紺野は本を紙袋の中に戻し、その紙袋ごとテーブルを滑らせる。
「読んだふうでもいいから、話題に出すと喜ぶんじゃないかな」
春香は紙袋を、テーブルから自分の膝の上に移動させた。
上から覗き込む形で、中身を見る。
あまりデザイン性のない青単色で、簡素な構成の印象を受ける装丁だった。
春香が本に手を伸ばしたとき、紙袋と本の隙間に立てかけていたと思しき、クリップで纏められた紙の束が崩れ落ちてくる。
紙袋と同じ白色だったので、パッと見ただけでは気づかなかった。
「これは……?」
クリップを摘まみ上げると、その束の全容が明らかになる。
表紙に当たる一番手前の紙には、ただ「『カウントダウン美少女探偵・ニノマエフミ season7』 第1話・台本」と大書されているだけだった。
『クラシック音楽の変遷』以上になんの配色もなく、簡素な作りになっている。
春香が訊ねると「そうだった、忘れていた」と紺野は手を叩いた。
「ドラマのエキストラに興味はないか? オファーがウチに来ていてね、きみを推薦しようと思うんだが」
「ドラマ、ですか? でも、演技なんて全くしたことないですけど……」
この業界に入ったばかりで、仕事を選べる立場ではないのかもしれない。
いまの大事な時期はとにかく遮二無二で、なんでも挑戦していったほうが、思いがけないところで人気が得られるかもしれなかった。
「いや。演技はしなくていいんだ。ただ画面に映り込むだけだから」
紺野が台本の付箋部分を指し示したので、春香はそこを開いてみる。
「一般からエキストラを募集したみたいなんだが、なかなかこれが集まらなかったみたいでね」
申し訳なさのあまり、春香は項垂れてしまった。
「すみません、そこまでしてもらって……」
「いやいや、きみのお母さんには世話になったからね。こんなんで恩返しになればいいが……」
紺野は憂いを帯びた笑顔を見せる。
紺野の優しさが胸を締めつけ、このままここで甘えていていいのだろうかと、一抹の不安が心を掠めていった。
彼が見ているのは春香ではなく、春香の母の面影に過ぎない。
「それだけじゃない。実際、きみの歌声は聴く人の心を打つ。その天賦の才を見込んでのスカウトだからね」
「……ありがとうございます」
春香は俯いた状態から、さらに頭を下げた。
紺野の言うような才能は、自分に存在するものではない。
いままで出した二枚のシングルも、売れ筋が好調とは言えなかった。
いままでのシングルは、全てミューゼス・プロダクションから出したインディーズだが、そのどちらもカヴァー曲がメインだった。
カップリングに、おまけ程度のオリジナルを一曲入れているが、売上になにか影響しているのだろうか?
紺野が言うには、まず人気曲を多くカヴァーして手に取ってもらいやすくし、たくさんの人に聴いてもらう機会をつくるのだそうだ。最初は「ハルカ」の名前を売る戦法らしかった。
「受けるかどうかの返事は、あとでいいからね」
紺野は優しげに微笑む。春香は俯いたまま、視線を台本に移動させた。
「はい……」
台本に貼られた付箋は五ヶ所ほどだった。
最初のページのキャスト一覧表と、中盤・終盤の残り数ヶ所。
キャスト一覧の部分には「オーケストラメンバー役、若干名(エキストラ)」という箇所に、黄色いマーカーで線が引かれていた。
ほかのところも確認してみるが、ページ冒頭のシーン数とト書きの部分にのみマーカーが引かれている。
どうやら役名はなく、確かにセリフもなく、大勢いる中の一人のようだった。
「そういえば……」
紺野は思い出すように、左上へ視線を送る。
「雨宮くんはヴァイオリン奏者でもあって、教え子もたくさんいるみたいだ」
「……ヴァイオリン、ですか?」
「ああ。監督から話を聞いた限りじゃあ、ヴァイオリンの演奏シーンがあるみたいだ……なんて言ったっけな、ハイドンの……葬式?」
「交響曲第四十四番、ですか?」
厳密には「ハイドンの葬式」ではないが、紺野の話を聞いた春香は、真っ先に思い浮かんだ曲を述べてみた。
首を捻って思案顔をした紺野は、思い出そうとして唸る。
「そう、だったかな? 確かに、四十四だか四十五だかと、言っていた気もするが……」
「十八世紀後半の疾風怒濤期に作曲されたものですね!」
数秒前とは打って変わった春香の輝く眼差しに、困惑顔で紺野は腕を組んだ。
「ハイドン自身もお気に入りとしていて、彼の追悼式に演奏されたことでもお馴染みの……このことが関係しているのか、第四十四番は通称『悲しみ』や『哀悼』とも呼ばれています」
「そう……なのか……」
「第四楽章で構成されているんですけど、わたしが個人的に好きなのはやっぱり、『悲しみ』の由来ともなったであろう第三楽章の緩徐楽章ですかね……」
春香は話に熱中するあまり、ずいっとテーブルから身を乗り出していた。
「長調なので本来は明るいメロディーになるはずなんですけど、弱音器をつけることで物静かな『悲しみ』を表現していて……聴いていると心地よく思うような調べになっていてっ……」
「そうか、そうか。口惜しいが、その話はまた今度に頼むよ」
「あ、すみません! 勝手に盛り上がってしまって……」
直樹同様、こうなったときの春香の対処法は、付き合いが長くなったいま、紺野も上手くなりつつあった。
「本当に……きみは音楽が好きなのだね」
紺野の優しげな眼差しを見て気づいた。また、母の面影と重ねて、春香のことを見ているのだ、と。
「実際にエキストラが演奏することはないらしいけど、きみも雨宮くんに習ってみてはどうかな。ヴァイオリニストの役かもしれないし、扱い方くらいは……」
「ごめんっ、遅れて……」
そのとき勢いよく開かれたドアから、息せき切らした莉奈が入室してきた。
振り返った紺野と目が合った莉奈は、汗の滲む笑顔をぎこちなく取り繕う。
「あ、社長。いらしてたんですか」
「春……音無さん、それでは行きましょうか」
わざわざ隠すようなことでもないが、莉奈は一会社員として社長の前での、普段のタメ語は自重したようだった。
敬語になるのはいいとして、普段とは違う「音無さん」呼びに、春香は思わず吹き出しそうになる。
別に名前は変えなくてもいいんだよ? 芸名はハルカのままなわけだから。
「それじゃあ……」
「あの……っ!」春香は立ち上がって、退室していこうとする紺野の背後に呼びかけた。「ドラマの件、考えておきます」
そうか、ありがとう。と頷くも、紺野の表情は晴れなかった。「やはり、公表する気はないのかい?」
それがどのことなのか考えるまでもなく、思い当たる節は一つしかない。
「……はい」
「そうか、すまない。変なことを訊いたな」
春香は椅子を元の位置に戻し、鞄と紙袋を小脇に抱える。紺野を完全に見送ってから、莉奈はノブに手をかけてドアを開いた。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
芸能事務所に所属しているからといって、サラリーマンのように毎日出勤してくる必要はない。
きょう自分が所属する芸能事務所「ミューゼス・プロダクション」に春香が訪れたのは、これから作曲家へあいさつをしに行く目的のためだった。
最寄りの葛西駅から東京メトロ東西線で大手町駅へ行き、そこから東京メトロ丸ノ内線に乗り換えて東京駅へ向かう。
大手町駅に到着したとき、丸ノ内線の次の発車時刻までは、まだ七分ほどあった。
東京駅までは、電車で揺られること約一分で着く。
歩いていったほうが早いような気もするが、特に急いでいるわけでもないので、このまま七分くらい待つことにした。
ミューゼス・プロダクションに到着した春香は、五十平米ほどの会議室に入る。
一台の長テーブルを、数脚の椅子が囲うように並べられた、小さな会議室だった。
部屋の隅に置かれた椅子に腰かける。
廊下からは、慌ただしく人々が往来する音が響き、しばらくのあいだ喧騒が続いていた。
ひたすら会議室の中で待っていると、ドアをノックする音がして、紙袋を携えた五十代くらいの男性が入室してくる。
姿を現したのは、ミューゼス・プロダクションの社長である、紺野昭宏だった。
紺野はテーブルを挟んだ向かい側、春香の前の椅子に腰かける。
紙袋を大事そうに抱えたままだ。
「遅れて申し訳ない。藤崎くんも、もうそろそろ来るはずだから」
「お忙しそうですね」
春香がそう言うと、紺野は気さくに笑った。
「ああ、貧乏暇なしだよ」
藤崎莉奈は、春香のマネージャーである。
複数のタレントを兼任するマネージャーは稀ではなく、莉奈は現在、ヨリミチ・ブレイクタイムのテレビ収録に同行している、とのことだった。
春香もヨリミチ・ブレイクタイムの名前は聞いたことがあり、会社中にポスターが貼られている。確か、ミューゼス・プロダクションが大々的に売り出し中のガールズバンドだったはずだ。
「すまんね、人手が足りなくて」
紺野はぽりぽりと禿げ頭を掻きながら、またひとこと詫びた。
マネージャーの主な仕事は、所属タレントの芸能活動が円滑に行えるようにサポートするものであり、スケジュールの管理やマスメディアへの出演交渉、ときには芸能人の悩みを聞いてアドバイスすることもある。
タレント自らが雇う付き人とは違って、マネージャーは芸能事務所に勤務する会社員だ。
「これ、前に録ったサンプルだ」
紺野は紙袋から取り出した茶封筒を無造作に置き、テーブルを滑らせて春香のもとへ寄越す。
それを受け取って中を覗くと、二枚のCDがケースに入っているのが見えた。
「一枚は雨宮くんに渡してくれ」
「はい……わかりました……」
春香は頷いて茶封筒を半分に折り、持参していた鞄に詰め込む。
それから紺野は、紙袋を膝に載せたまま両手を突っ込み、出しにくそうに一冊の本を持ち上げた。
ほかにも入っているのだろうか、これが紙袋の中身の大部分を占めていたらしい。
「これから雨宮くんの家だろ。これを持っていくといい」
表紙には『クラシック音楽の変遷』とタイトルが書かれている。
作者名は雨宮慎吾。
これから行く訪問先も、確かに雨宮慎吾という名前だった。
「一応、渡しておく」
大判の本だったので、春香が持ってきた鞄の中には入らなさそうだった。
紺野は本を紙袋の中に戻し、その紙袋ごとテーブルを滑らせる。
「読んだふうでもいいから、話題に出すと喜ぶんじゃないかな」
春香は紙袋を、テーブルから自分の膝の上に移動させた。
上から覗き込む形で、中身を見る。
あまりデザイン性のない青単色で、簡素な構成の印象を受ける装丁だった。
春香が本に手を伸ばしたとき、紙袋と本の隙間に立てかけていたと思しき、クリップで纏められた紙の束が崩れ落ちてくる。
紙袋と同じ白色だったので、パッと見ただけでは気づかなかった。
「これは……?」
クリップを摘まみ上げると、その束の全容が明らかになる。
表紙に当たる一番手前の紙には、ただ「『カウントダウン美少女探偵・ニノマエフミ season7』 第1話・台本」と大書されているだけだった。
『クラシック音楽の変遷』以上になんの配色もなく、簡素な作りになっている。
春香が訊ねると「そうだった、忘れていた」と紺野は手を叩いた。
「ドラマのエキストラに興味はないか? オファーがウチに来ていてね、きみを推薦しようと思うんだが」
「ドラマ、ですか? でも、演技なんて全くしたことないですけど……」
この業界に入ったばかりで、仕事を選べる立場ではないのかもしれない。
いまの大事な時期はとにかく遮二無二で、なんでも挑戦していったほうが、思いがけないところで人気が得られるかもしれなかった。
「いや。演技はしなくていいんだ。ただ画面に映り込むだけだから」
紺野が台本の付箋部分を指し示したので、春香はそこを開いてみる。
「一般からエキストラを募集したみたいなんだが、なかなかこれが集まらなかったみたいでね」
申し訳なさのあまり、春香は項垂れてしまった。
「すみません、そこまでしてもらって……」
「いやいや、きみのお母さんには世話になったからね。こんなんで恩返しになればいいが……」
紺野は憂いを帯びた笑顔を見せる。
紺野の優しさが胸を締めつけ、このままここで甘えていていいのだろうかと、一抹の不安が心を掠めていった。
彼が見ているのは春香ではなく、春香の母の面影に過ぎない。
「それだけじゃない。実際、きみの歌声は聴く人の心を打つ。その天賦の才を見込んでのスカウトだからね」
「……ありがとうございます」
春香は俯いた状態から、さらに頭を下げた。
紺野の言うような才能は、自分に存在するものではない。
いままで出した二枚のシングルも、売れ筋が好調とは言えなかった。
いままでのシングルは、全てミューゼス・プロダクションから出したインディーズだが、そのどちらもカヴァー曲がメインだった。
カップリングに、おまけ程度のオリジナルを一曲入れているが、売上になにか影響しているのだろうか?
紺野が言うには、まず人気曲を多くカヴァーして手に取ってもらいやすくし、たくさんの人に聴いてもらう機会をつくるのだそうだ。最初は「ハルカ」の名前を売る戦法らしかった。
「受けるかどうかの返事は、あとでいいからね」
紺野は優しげに微笑む。春香は俯いたまま、視線を台本に移動させた。
「はい……」
台本に貼られた付箋は五ヶ所ほどだった。
最初のページのキャスト一覧表と、中盤・終盤の残り数ヶ所。
キャスト一覧の部分には「オーケストラメンバー役、若干名(エキストラ)」という箇所に、黄色いマーカーで線が引かれていた。
ほかのところも確認してみるが、ページ冒頭のシーン数とト書きの部分にのみマーカーが引かれている。
どうやら役名はなく、確かにセリフもなく、大勢いる中の一人のようだった。
「そういえば……」
紺野は思い出すように、左上へ視線を送る。
「雨宮くんはヴァイオリン奏者でもあって、教え子もたくさんいるみたいだ」
「……ヴァイオリン、ですか?」
「ああ。監督から話を聞いた限りじゃあ、ヴァイオリンの演奏シーンがあるみたいだ……なんて言ったっけな、ハイドンの……葬式?」
「交響曲第四十四番、ですか?」
厳密には「ハイドンの葬式」ではないが、紺野の話を聞いた春香は、真っ先に思い浮かんだ曲を述べてみた。
首を捻って思案顔をした紺野は、思い出そうとして唸る。
「そう、だったかな? 確かに、四十四だか四十五だかと、言っていた気もするが……」
「十八世紀後半の疾風怒濤期に作曲されたものですね!」
数秒前とは打って変わった春香の輝く眼差しに、困惑顔で紺野は腕を組んだ。
「ハイドン自身もお気に入りとしていて、彼の追悼式に演奏されたことでもお馴染みの……このことが関係しているのか、第四十四番は通称『悲しみ』や『哀悼』とも呼ばれています」
「そう……なのか……」
「第四楽章で構成されているんですけど、わたしが個人的に好きなのはやっぱり、『悲しみ』の由来ともなったであろう第三楽章の緩徐楽章ですかね……」
春香は話に熱中するあまり、ずいっとテーブルから身を乗り出していた。
「長調なので本来は明るいメロディーになるはずなんですけど、弱音器をつけることで物静かな『悲しみ』を表現していて……聴いていると心地よく思うような調べになっていてっ……」
「そうか、そうか。口惜しいが、その話はまた今度に頼むよ」
「あ、すみません! 勝手に盛り上がってしまって……」
直樹同様、こうなったときの春香の対処法は、付き合いが長くなったいま、紺野も上手くなりつつあった。
「本当に……きみは音楽が好きなのだね」
紺野の優しげな眼差しを見て気づいた。また、母の面影と重ねて、春香のことを見ているのだ、と。
「実際にエキストラが演奏することはないらしいけど、きみも雨宮くんに習ってみてはどうかな。ヴァイオリニストの役かもしれないし、扱い方くらいは……」
「ごめんっ、遅れて……」
そのとき勢いよく開かれたドアから、息せき切らした莉奈が入室してきた。
振り返った紺野と目が合った莉奈は、汗の滲む笑顔をぎこちなく取り繕う。
「あ、社長。いらしてたんですか」
「春……音無さん、それでは行きましょうか」
わざわざ隠すようなことでもないが、莉奈は一会社員として社長の前での、普段のタメ語は自重したようだった。
敬語になるのはいいとして、普段とは違う「音無さん」呼びに、春香は思わず吹き出しそうになる。
別に名前は変えなくてもいいんだよ? 芸名はハルカのままなわけだから。
「それじゃあ……」
「あの……っ!」春香は立ち上がって、退室していこうとする紺野の背後に呼びかけた。「ドラマの件、考えておきます」
そうか、ありがとう。と頷くも、紺野の表情は晴れなかった。「やはり、公表する気はないのかい?」
それがどのことなのか考えるまでもなく、思い当たる節は一つしかない。
「……はい」
「そうか、すまない。変なことを訊いたな」
春香は椅子を元の位置に戻し、鞄と紙袋を小脇に抱える。紺野を完全に見送ってから、莉奈はノブに手をかけてドアを開いた。
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