歌姫探偵

モンキー書房

文字の大きさ
上 下
3 / 5
第一曲「さえずりサンライズ」

1Bメロ

しおりを挟む
 テレビ収録があるときは、自宅からテレビ局へ向かう。ロケがあるときも、仕事現場へ直行するのが常だ。
 芸能事務所に所属しているからといって、サラリーマンのように毎日出勤してくる必要はない。
 きょう自分が所属する芸能事務所「ミューゼス・プロダクション」に春香が訪れたのは、これから作曲家へあいさつをしに行く目的のためだった。


 最寄りの葛西駅から東京メトロ東西線で大手町駅へ行き、そこから東京メトロ丸ノ内線に乗り換えて東京駅へ向かう。
 大手町駅に到着したとき、丸ノ内線の次の発車時刻までは、まだ七分ほどあった。
 東京駅までは、電車で揺られること約一分で着く。
 歩いていったほうが早いような気もするが、特に急いでいるわけでもないので、このまま七分くらい待つことにした。


 ミューゼス・プロダクションに到着した春香は、五十平米ほどの会議室に入る。
 一台の長テーブルを、数脚の椅子が囲うように並べられた、小さな会議室だった。
 部屋の隅に置かれた椅子に腰かける。
 廊下からは、慌ただしく人々が往来する音が響き、しばらくのあいだ喧騒が続いていた。


 ひたすら会議室の中で待っていると、ドアをノックする音がして、紙袋を携えた五十代くらいの男性が入室してくる。
 姿を現したのは、ミューゼス・プロダクションの社長である、紺野昭宏こんのあきひろだった。
 紺野はテーブルを挟んだ向かい側、春香の前の椅子に腰かける。
 紙袋を大事そうに抱えたままだ。


「遅れて申し訳ない。藤崎くんも、もうそろそろ来るはずだから」


「お忙しそうですね」


 春香がそう言うと、紺野は気さくに笑った。
「ああ、貧乏暇なしだよ」


 藤崎莉奈ふじさきりなは、春香のマネージャーである。
 複数のタレントを兼任するマネージャーはまれではなく、莉奈は現在、ヨリミチ・ブレイクタイムのテレビ収録に同行している、とのことだった。
 春香もヨリミチ・ブレイクタイムの名前は聞いたことがあり、会社中にポスターが貼られている。確か、ミューゼス・プロダクションが大々的に売り出し中のガールズバンドだったはずだ。


「すまんね、人手が足りなくて」


 紺野はぽりぽりと禿げ頭を掻きながら、またひとこと詫びた。
 マネージャーの主な仕事は、所属タレントの芸能活動が円滑に行えるようにサポートするものであり、スケジュールの管理やマスメディアへの出演交渉、ときには芸能人の悩みを聞いてアドバイスすることもある。
 タレント自らが雇う付き人とは違って、マネージャーは芸能事務所に勤務する会社員だ。


「これ、前に録ったサンプルだ」
 紺野は紙袋から取り出した茶封筒を無造作に置き、テーブルを滑らせて春香のもとへ寄越す。
 それを受け取って中を覗くと、二枚のCDがケースに入っているのが見えた。
「一枚は雨宮くんに渡してくれ」


「はい……わかりました……」


 春香は頷いて茶封筒を半分に折り、持参していた鞄に詰め込む。
 それから紺野は、紙袋を膝に載せたまま両手を突っ込み、出しにくそうに一冊の本を持ち上げた。
 ほかにも入っているのだろうか、これが紙袋の中身の大部分を占めていたらしい。


「これから雨宮くんの家だろ。これを持っていくといい」


 表紙には『クラシック音楽の変遷』とタイトルが書かれている。
 作者名は雨宮慎吾あまみやしんご
 これから行く訪問先も、確かに雨宮慎吾という名前だった。


「一応、渡しておく」
 大判の本だったので、春香が持ってきた鞄の中には入らなさそうだった。
 紺野は本を紙袋の中に戻し、その紙袋ごとテーブルを滑らせる。
「読んだふうでもいいから、話題に出すと喜ぶんじゃないかな」


 春香は紙袋を、テーブルから自分の膝の上に移動させた。
 上から覗き込む形で、中身を見る。
 あまりデザイン性のない青単色で、簡素な構成の印象を受ける装丁だった。


 春香が本に手を伸ばしたとき、紙袋と本の隙間に立てかけていたと思しき、クリップで纏められた紙の束が崩れ落ちてくる。
 紙袋と同じ白色だったので、パッと見ただけでは気づかなかった。


「これは……?」


 クリップを摘まみ上げると、その束の全容が明らかになる。
 表紙に当たる一番手前の紙には、ただ「『カウントダウン美少女探偵・ニノマエフミ season7』 第1話・台本」と大書されているだけだった。
『クラシック音楽の変遷』以上になんの配色もなく、簡素な作りになっている。


 春香が訊ねると「そうだった、忘れていた」と紺野は手を叩いた。


「ドラマのエキストラに興味はないか? オファーがウチに来ていてね、きみを推薦しようと思うんだが」


「ドラマ、ですか? でも、演技なんて全くしたことないですけど……」


 この業界に入ったばかりで、仕事を選べる立場ではないのかもしれない。
 いまの大事な時期はとにかく遮二無二で、なんでも挑戦していったほうが、思いがけないところで人気が得られるかもしれなかった。


「いや。演技はしなくていいんだ。ただ画面に映り込むだけだから」
 紺野が台本の付箋部分を指し示したので、春香はそこを開いてみる。
「一般からエキストラを募集したみたいなんだが、なかなかこれが集まらなかったみたいでね」


 申し訳なさのあまり、春香は項垂れてしまった。
「すみません、そこまでしてもらって……」


「いやいや、きみのお母さんには世話になったからね。こんなんで恩返しになればいいが……」


 紺野はうれいを帯びた笑顔を見せる。
 紺野の優しさが胸を締めつけ、このままここで甘えていていいのだろうかと、一抹の不安が心をかすめていった。
 彼が見ているのは春香ではなく、春香の母の面影に過ぎない。


「それだけじゃない。実際、きみの歌声は聴く人の心を打つ。その天賦てんぷの才を見込んでのスカウトだからね」


「……ありがとうございます」


 春香は俯いた状態から、さらに頭を下げた。
 紺野の言うような才能は、自分に存在するものではない。
 いままで出した二枚のシングルも、売れ筋が好調とは言えなかった。


 いままでのシングルは、全てミューゼス・プロダクションから出したインディーズだが、そのどちらもカヴァー曲がメインだった。
 カップリングに、おまけ程度のオリジナルを一曲入れているが、売上になにか影響しているのだろうか?
 紺野が言うには、まず人気曲を多くカヴァーして手に取ってもらいやすくし、たくさんの人に聴いてもらう機会をつくるのだそうだ。最初は「ハルカ」の名前を売る戦法らしかった。


「受けるかどうかの返事は、あとでいいからね」


 紺野は優しげに微笑む。春香は俯いたまま、視線を台本に移動させた。


「はい……」


 台本に貼られた付箋は五ヶ所ほどだった。
 最初のページのキャスト一覧表と、中盤・終盤の残り数ヶ所。
 キャスト一覧の部分には「オーケストラメンバー役、若干名(エキストラ)」という箇所に、黄色いマーカーで線が引かれていた。
 ほかのところも確認してみるが、ページ冒頭のシーン数とト書きの部分にのみマーカーが引かれている。
 どうやら役名はなく、確かにセリフもなく、大勢いる中の一人のようだった。


「そういえば……」
 紺野は思い出すように、左上へ視線を送る。
「雨宮くんはヴァイオリン奏者でもあって、教え子もたくさんいるみたいだ」


「……ヴァイオリン、ですか?」


「ああ。監督から話を聞いた限りじゃあ、ヴァイオリンの演奏シーンがあるみたいだ……なんて言ったっけな、ハイドンの……葬式?」


「交響曲第四十四番、ですか?」


 厳密には「ハイドンの葬式」ではないが、紺野の話を聞いた春香は、真っ先に思い浮かんだ曲を述べてみた。
 首を捻って思案顔をした紺野は、思い出そうとして唸る。


「そう、だったかな? 確かに、四十四だか四十五だかと、言っていた気もするが……」


「十八世紀後半の疾風怒濤シュトゥルム・ウント・ドラング期に作曲されたものですね!」
 数秒前とは打って変わった春香の輝く眼差しに、困惑顔で紺野は腕を組んだ。
「ハイドン自身もお気に入りとしていて、彼の追悼式に演奏されたことでもお馴染みの……このことが関係しているのか、第四十四番は通称『悲しみ』や『哀悼』とも呼ばれています」


「そう……なのか……」


「第四楽章で構成されているんですけど、わたしが個人的に好きなのはやっぱり、『悲しみ』の由来ともなったであろう第三楽章の緩徐楽章アダージョですかね……」
 春香は話に熱中するあまり、ずいっとテーブルから身を乗り出していた。
「長調なので本来は明るいメロディーになるはずなんですけど、弱音器をつけることで物静かな『悲しみ』を表現していて……聴いていると心地よく思うような調べになっていてっ……」


「そうか、そうか。口惜しいが、その話はまた今度に頼むよ」


「あ、すみません! 勝手に盛り上がってしまって……」


 直樹同様、こうなったときの春香の対処法は、付き合いが長くなったいま、紺野も上手くなりつつあった。


「本当に……きみは音楽が好きなのだね」
 紺野の優しげな眼差しを見て気づいた。また、母の面影と重ねて、春香のことを見ているのだ、と。
「実際にエキストラが演奏することはないらしいけど、きみも雨宮くんに習ってみてはどうかな。ヴァイオリニストの役かもしれないし、扱い方くらいは……」


「ごめんっ、遅れて……」
 そのとき勢いよく開かれたドアから、息せき切らした莉奈が入室してきた。
 振り返った紺野と目が合った莉奈は、汗の滲む笑顔をぎこちなく取り繕う。
「あ、社長。いらしてたんですか」


「春……音無さん、それでは行きましょうか」


 わざわざ隠すようなことでもないが、莉奈は一会社員として社長の前での、普段のタメ語は自重したようだった。
 敬語になるのはいいとして、普段とは違う「音無さん」呼びに、春香は思わず吹き出しそうになる。
 別に名前は変えなくてもいいんだよ? 芸名はハルカのままなわけだから。


「それじゃあ……」


「あの……っ!」春香は立ち上がって、退室していこうとする紺野の背後に呼びかけた。「ドラマの件、考えておきます」


 そうか、ありがとう。と頷くも、紺野の表情は晴れなかった。「やはり、公表する気はないのかい?」


 それがどのことなのか考えるまでもなく、思い当たる節は一つしかない。


「……はい」


「そうか、すまない。変なことを訊いたな」


 春香は椅子を元の位置に戻し、鞄と紙袋を小脇に抱える。紺野を完全に見送ってから、莉奈はノブに手をかけてドアを開いた。


 ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

[恥辱]りみの強制おむつ生活

rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。 保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。

エロ・ファンタジー

フルーツパフェ
大衆娯楽
 物事は上手くいかない。  それは異世界でも同じこと。  夢と好奇心に溢れる異世界の少女達は、恥辱に塗れた現実を味わうことになる。

【完】あの、……どなたでしょうか?

桐生桜月姫
恋愛
「キャサリン・ルーラー  爵位を傘に取る卑しい女め、今この時を以て貴様との婚約を破棄する。」 見た目だけは、麗しの王太子殿下から出た言葉に、婚約破棄を突きつけられた美しい女性は……… 「あの、……どなたのことでしょうか?」 まさかの意味不明発言!! 今ここに幕開ける、波瀾万丈の間違い婚約破棄ラブコメ!! 結末やいかに!! ******************* 執筆終了済みです。

処理中です...