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章第三「化物坂、蟷螂坂」
今回の古典:老子『老子道徳経』「第八章」「第二十七章」「第五十八章」(解説&参考文献)
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今回紹介するのは、古代中国の思想家・老子が著したとされる書物である。一般的に広く呼ばれている『老子』とは、老子が著した書という通称であって、丁寧にいえば『老子道徳経』という。通常、上下二篇に分かれ、上篇は三十七章、下篇は四十四章、あわせて八十一章からできている。元来、章立てはおこなわれておらず、帛書『老子』でもところどころに句点と思われる記号があるだけだ。前漢・文帝のころの人、河上公が付注したという『老子』は八十一章の章立てで、これが分章した最初のものということになっている。
前漢の司馬遷(前一四五年ころ?~?)が書いた『史記』に伝記が載っていれば、それを第一資料にするのが普通であるが、その「老子伝」でもひとりの人物に絞りきれず、老萊子や儋など、候補者として三人の伝を記している。すでに司馬遷の時代、老子は伝説のベールに覆われていたわけだ。三人のうち、最も有力なのは老耼である。『史記』によれば老子は、姓は李、名(諱、本名)は耳であり、耼とは字(実名のほかにつける呼び名)である(一説には伯陽が字、耼は謚・死後に贈る称号とする)。老子とは号(通称)のようだ。「耼」とは耳が長いという意味で、古代中国人は身体の特徴を字につけることがあるので、老子は耳の長い人であったようだ。また、耳と耼のように、諱と字が関連してつけられることも多い。
老子は、楚の苦県、厲郷の曲仁里の人であるというが、苦とは苦いとか苦しいなどの意味であるし、厲は皮膚病(ハンセン病)のこと、曲仁とは曲がった仁という意味にもなるから、古代中国人の差別意識を考えると、この地名は老子を貶めた架空の名前のようでもある。だが唐代の張守節による注釈書『史記正義』に引用されている唐初の地理書『括地志』や、他の資料も拠り所にして、地名の特定がなされている。それによれば、曲仁里とは現在の湖南省鹿邑の太清宮というところだとされ、鹿邑には一九九一年に中国鹿邑老子学会が設立された。
老子と合わせて「老荘」ともいわれる『荘子』は、老子と同じく無為自然を唱導していた。その『荘子』の「天下」篇は、最初の中国思想史といえるものだが、そこでは老子(老耼)は関尹とともに「古の博大真人」として位置づけられている。「博大」とは広大な徳のことであり、「真人」とは道を体得し、道が身体中に充満しているような、充実した人物のことである。この『老子』は『道徳経』とも言われるように、「道」と「徳」についての論述が中心となっている。『老子』の思想の最大の特色は、道を宇宙の本体にして根源であるとした点である。通常、思想家の説く道は、人間が歩むべき正しい進路を意味する。ところが『老子』の場合は、道は天地・万物を生み出す創造主であり、自分が生み出した森羅万象の有象世界を制御し、支配し続ける主宰者でもある。
さまざまな宗教で造物主とされる神は、ひたすら自分だけを信じるよう、恩返しを要求する。もし相手が自分の命令に背くと、逆上した神は、その罪を咎めて罰をくだす。だが『老子』の道は、そうした神々とはおよそ性格を異にする。感謝しろなどと恩を着せない代わりに、万物に愛情をかけて救おうともせず、冷ややかに彼らの消滅を見守る。『老子』の思想はその全体が、道の在り方を体して国家を統治するよう君主に求める、政治思想となっている。道の在り方に則る統治とは、すなわち「無為の治」である。名誉や栄光に包まれて君臨したいなどと望むようでは、そもそも君主失格である。君主は権力を振りかざし、支配欲・名誉欲などをむき出しにして統治してはならない、と『老子』は説く。
第八章で、老子は水を最高の徳を備えた物質として讃えている。第七十八章にも「天下の柔弱なるもの、水に過ぐるは莫し。而も堅強を攻むる者、能く勝るあるを知る莫し(世のなかに柔弱なものはたくさんあるが、水より柔弱なものはない。しかし、堅強なものを攻めるのに、水に勝るものを私は知らない)」とあり、また水について直接的なことは述べていないが、第六十六章にも「江海の能く百谷の王たる所以の者は、其の能く之に下るを以てなり(大きな川や海があらゆる谷川の王となれる理由は、大きな川や海があらゆる谷川に対して低い位置にいるからである)」とあり、水の低い位置を目指すという性質を述べている。つまり「衆人の悪む所に処る」というのも、水は誰もが嫌がる低い場所へ低い場所へと向かっていくからで、このような水の性質は、老子の考える無為自然(作為がなく、自然のままであること。老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることを良しとした)の道に極めて幾(近)いものであるというのだ。
第二十七章では、善がどういったものかについて議論している。人為を捨て去り、無為自然の道に合致して、万物をありのままに受け入れることで、道を体得した聖人は、善悪といった概念を超越した真の善により、万物を包容していくことを述べている。第五十八章では、「其の政……欠欠たり」の上段部分と、続く「禍や福」からの後半部分に連続性がなく、別章と考えたほうがよい。上段は、前の第五十七章と内容的な関連が見られ(「我れ欲無くして民自ずから樸なり(わたしが無欲であれば、人民は、おのずと素朴である)」等)、そちらに移したほうがよいとする説もある。
上段には、次のことが書かれている。道を体得した聖人の政治は、無為自然の政治なので、人々から見ると、ぼんやりとしたはっきりとはわからない政治であって、そのために民も純朴になると説く。そして一見、世のなかは正しいものが正しくないように感じられ、はっきりと明瞭におこなわれることは、逆に怪しいものであって、常に暗い混沌とした道の曖昧さを目指すべきだと主張している。つまり、人民に為政者がおり、政治がおこなわれていると認識させないような、人為を用いない政治をおこなう。その結果、人民は政治の重圧を感じることもなく、のんびりと純朴な民のままでいられる、ということ。逆に、その政治が人民に対してはっきりと目を光らせているような政治であったら、人民は片時も心休まることなく、常に落ち着きのない状態になってしまう、というのだ。
それとは別に、後半部分には次のことが述べられている。正否などという概念は、相対的な概念であって絶対的に正しい状態などというものはなく、正しいと思っていることが奇怪なものに変容し、善なるものと見えるものも、たちまち怪しいものに変化してしまう。人間が、道という絶対的な世界から抜け出て、この相対的な迷いの世界に入り込み、抜け出られなくなる性を持っているのだ。そこからさらに、比喩を使い、聖人というものはなんたるか、を例示している。自分が方正であっても、他に対して自分と同じように切りそろえて方正にしようなどとはせず、自分は清廉であっても、他を傷つけてまで清廉にしようなどとはせず、自分は真っ直ぐな人間であっても、無理やり他を引き伸ばして真っ直ぐにしようなどとはせず、自分は英知の光を有していても、無理に他を光り輝かせようなどとはしないものだ、というのである。
本章で引用したのは、第二十七章と、第五十八章の「光りて而も耀かず」部分と、第八章の「事は能を善しとし」部分だ。この第八章の訳は、小説本編と「今回の古典」に載せたもので異なっているが、今回の古典では「明治書院」を参考にして書き、本編のほうは「岩波文庫」の説を採用したためである(下記の「参考文献」を参照のこと)。岩波文庫に記された説によれば、「能」は「任なり」(『広雅』釈詁)とあるように「任せる」意と考え、「ものごとは成りゆきに任せるのがよい」と解釈しているようだ。
…………。
……。
参考文献:
☆明治書院『新書漢文大系2 老子』著者:阿部吉雄、山本敏夫(一九九六)
☆岩波文庫『老子』訳注者:蜂谷邦夫(二〇〇八)
☆平凡社『中国古典文学大系4 老子・荘子・列子・孫子・呉子』訳者:金谷治、倉石武四郎、関正郎、福永光司、村山吉廣(一九七三)
前漢の司馬遷(前一四五年ころ?~?)が書いた『史記』に伝記が載っていれば、それを第一資料にするのが普通であるが、その「老子伝」でもひとりの人物に絞りきれず、老萊子や儋など、候補者として三人の伝を記している。すでに司馬遷の時代、老子は伝説のベールに覆われていたわけだ。三人のうち、最も有力なのは老耼である。『史記』によれば老子は、姓は李、名(諱、本名)は耳であり、耼とは字(実名のほかにつける呼び名)である(一説には伯陽が字、耼は謚・死後に贈る称号とする)。老子とは号(通称)のようだ。「耼」とは耳が長いという意味で、古代中国人は身体の特徴を字につけることがあるので、老子は耳の長い人であったようだ。また、耳と耼のように、諱と字が関連してつけられることも多い。
老子は、楚の苦県、厲郷の曲仁里の人であるというが、苦とは苦いとか苦しいなどの意味であるし、厲は皮膚病(ハンセン病)のこと、曲仁とは曲がった仁という意味にもなるから、古代中国人の差別意識を考えると、この地名は老子を貶めた架空の名前のようでもある。だが唐代の張守節による注釈書『史記正義』に引用されている唐初の地理書『括地志』や、他の資料も拠り所にして、地名の特定がなされている。それによれば、曲仁里とは現在の湖南省鹿邑の太清宮というところだとされ、鹿邑には一九九一年に中国鹿邑老子学会が設立された。
老子と合わせて「老荘」ともいわれる『荘子』は、老子と同じく無為自然を唱導していた。その『荘子』の「天下」篇は、最初の中国思想史といえるものだが、そこでは老子(老耼)は関尹とともに「古の博大真人」として位置づけられている。「博大」とは広大な徳のことであり、「真人」とは道を体得し、道が身体中に充満しているような、充実した人物のことである。この『老子』は『道徳経』とも言われるように、「道」と「徳」についての論述が中心となっている。『老子』の思想の最大の特色は、道を宇宙の本体にして根源であるとした点である。通常、思想家の説く道は、人間が歩むべき正しい進路を意味する。ところが『老子』の場合は、道は天地・万物を生み出す創造主であり、自分が生み出した森羅万象の有象世界を制御し、支配し続ける主宰者でもある。
さまざまな宗教で造物主とされる神は、ひたすら自分だけを信じるよう、恩返しを要求する。もし相手が自分の命令に背くと、逆上した神は、その罪を咎めて罰をくだす。だが『老子』の道は、そうした神々とはおよそ性格を異にする。感謝しろなどと恩を着せない代わりに、万物に愛情をかけて救おうともせず、冷ややかに彼らの消滅を見守る。『老子』の思想はその全体が、道の在り方を体して国家を統治するよう君主に求める、政治思想となっている。道の在り方に則る統治とは、すなわち「無為の治」である。名誉や栄光に包まれて君臨したいなどと望むようでは、そもそも君主失格である。君主は権力を振りかざし、支配欲・名誉欲などをむき出しにして統治してはならない、と『老子』は説く。
第八章で、老子は水を最高の徳を備えた物質として讃えている。第七十八章にも「天下の柔弱なるもの、水に過ぐるは莫し。而も堅強を攻むる者、能く勝るあるを知る莫し(世のなかに柔弱なものはたくさんあるが、水より柔弱なものはない。しかし、堅強なものを攻めるのに、水に勝るものを私は知らない)」とあり、また水について直接的なことは述べていないが、第六十六章にも「江海の能く百谷の王たる所以の者は、其の能く之に下るを以てなり(大きな川や海があらゆる谷川の王となれる理由は、大きな川や海があらゆる谷川に対して低い位置にいるからである)」とあり、水の低い位置を目指すという性質を述べている。つまり「衆人の悪む所に処る」というのも、水は誰もが嫌がる低い場所へ低い場所へと向かっていくからで、このような水の性質は、老子の考える無為自然(作為がなく、自然のままであること。老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることを良しとした)の道に極めて幾(近)いものであるというのだ。
第二十七章では、善がどういったものかについて議論している。人為を捨て去り、無為自然の道に合致して、万物をありのままに受け入れることで、道を体得した聖人は、善悪といった概念を超越した真の善により、万物を包容していくことを述べている。第五十八章では、「其の政……欠欠たり」の上段部分と、続く「禍や福」からの後半部分に連続性がなく、別章と考えたほうがよい。上段は、前の第五十七章と内容的な関連が見られ(「我れ欲無くして民自ずから樸なり(わたしが無欲であれば、人民は、おのずと素朴である)」等)、そちらに移したほうがよいとする説もある。
上段には、次のことが書かれている。道を体得した聖人の政治は、無為自然の政治なので、人々から見ると、ぼんやりとしたはっきりとはわからない政治であって、そのために民も純朴になると説く。そして一見、世のなかは正しいものが正しくないように感じられ、はっきりと明瞭におこなわれることは、逆に怪しいものであって、常に暗い混沌とした道の曖昧さを目指すべきだと主張している。つまり、人民に為政者がおり、政治がおこなわれていると認識させないような、人為を用いない政治をおこなう。その結果、人民は政治の重圧を感じることもなく、のんびりと純朴な民のままでいられる、ということ。逆に、その政治が人民に対してはっきりと目を光らせているような政治であったら、人民は片時も心休まることなく、常に落ち着きのない状態になってしまう、というのだ。
それとは別に、後半部分には次のことが述べられている。正否などという概念は、相対的な概念であって絶対的に正しい状態などというものはなく、正しいと思っていることが奇怪なものに変容し、善なるものと見えるものも、たちまち怪しいものに変化してしまう。人間が、道という絶対的な世界から抜け出て、この相対的な迷いの世界に入り込み、抜け出られなくなる性を持っているのだ。そこからさらに、比喩を使い、聖人というものはなんたるか、を例示している。自分が方正であっても、他に対して自分と同じように切りそろえて方正にしようなどとはせず、自分は清廉であっても、他を傷つけてまで清廉にしようなどとはせず、自分は真っ直ぐな人間であっても、無理やり他を引き伸ばして真っ直ぐにしようなどとはせず、自分は英知の光を有していても、無理に他を光り輝かせようなどとはしないものだ、というのである。
本章で引用したのは、第二十七章と、第五十八章の「光りて而も耀かず」部分と、第八章の「事は能を善しとし」部分だ。この第八章の訳は、小説本編と「今回の古典」に載せたもので異なっているが、今回の古典では「明治書院」を参考にして書き、本編のほうは「岩波文庫」の説を採用したためである(下記の「参考文献」を参照のこと)。岩波文庫に記された説によれば、「能」は「任なり」(『広雅』釈詁)とあるように「任せる」意と考え、「ものごとは成りゆきに任せるのがよい」と解釈しているようだ。
…………。
……。
参考文献:
☆明治書院『新書漢文大系2 老子』著者:阿部吉雄、山本敏夫(一九九六)
☆岩波文庫『老子』訳注者:蜂谷邦夫(二〇〇八)
☆平凡社『中国古典文学大系4 老子・荘子・列子・孫子・呉子』訳者:金谷治、倉石武四郎、関正郎、福永光司、村山吉廣(一九七三)
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