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章第三「化物坂、蟷螂坂」
今回の古典:老子『老子道徳経』「第八章」「第六十八章」
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(抜粋)
上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道に幾し。居は地を善しとし、心は淵を善しとし、与るは仁を善しとし、言は信を善しとし、正は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。夫れ唯だ争わず、故に尤無し。
※ ※ ※ ※ ※
善く士為る者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与にせず。善く人を用いる者は之が下と為る。是れを争わざるの徳と謂う。是れを人の力を用いると謂う。是れを天に配すと謂う。古の極なり。
【現代語訳】
最上の善とは水のようなものである。水は万物に利益を与えながら他と争うことがない。そして皆が嫌がる低い場所にいる。それゆえ道に近い存在と言えるのである。居所は大地がよく、心は深遠なのがよく、与えるのには仁愛をもってするのがよく、言葉は嘘がないのがよく、政治は治まるのがよく、物事をおこなうには能力があるのがよく、動くのには時機をみはからうのがよい。水はただただ争わない。だから他から咎められないのである。
※ ※ ※ ※ ※
すぐれた武将は猛々しくない。すぐれた戦士は怒りに任せない。うまく敵に勝つ者は敵とまともにぶつからない。うまく人を使う者は、彼らにへりくだる。これを争わない徳といい、これを人の能力を使うといい、これを天に匹敵するという。むかしからの最高の道理である。
…………。
……。
今回紹介するのは、古代中国の思想家・老子が著したとされる書物である。一般的に広く呼ばれている『老子』とは、老子が著した書という通称であって、丁寧にいえば『老子道徳経』という。通常、上下二篇に分かれ、上篇は三十七章、下篇は四十四章、あわせて八十一章からできている。元来、章立てはおこなわれておらず、帛書『老子』でもところどころに句点と思われる記号があるだけだ。前漢・文帝のころの人、河上公が付注したという『老子』は八十一章の章立てで、これが分章した最初のものということになっている。
前漢の司馬遷(前一四五年ころ?~?)が書いた『史記』に伝記が載っていれば、それを第一資料にするのが普通であるが、その「老子伝」でもひとりの人物に絞りきれず、老萊子や儋など、候補者として三人の伝を記している。すでに司馬遷の時代、老子は伝説のベールに覆われていたわけだ。三人のうち、最も有力なのは老耼である。『史記』によれば老子は、姓は李、名(諱、本名)は耳であり、耼とは字(実名のほかにつける呼び名)である(一説には伯陽が字、耼は謚・死後に贈る称号とする)。老子とは号(通称)のようだ。「耼」とは耳が長いという意味で、古代中国人は身体の特徴を字につけることがあるので、老子は耳の長い人であったようだ。また、耳と耼のように、諱と字が関連してつけられることも多い。
老子は、楚の苦県、厲郷の曲仁里の人であるというが、苦とは苦いとか苦しいなどの意味であるし、厲は皮膚病(ハンセン病)のこと、曲仁とは曲がった仁という意味にもなるから、古代中国人の差別意識を考えると、この地名は老子を貶めた架空の名前のようでもある。だが唐代の張守節による注釈書『史記正義』に引用されている唐初の地理書『括地志』や、他の資料も拠り所にして、地名の特定がなされている。それによれば、曲仁里とは現在の湖南省鹿邑の太清宮というところだとされ、鹿邑には一九九一年に中国鹿邑老子学会が設立された。
老子と合わせて「老荘」ともいわれる『荘子』は、老子と同じく無為自然を唱導していた。その『荘子』の「天下」篇は、最初の中国思想史といえるものだが、そこでは老子(老耼)は関尹とともに「古の博大真人」として位置づけられている。「博大」とは広大な徳のことであり、「真人」とは道を体得し、道が身体中に充満しているような、充実した人物のことである。この『老子』は『道徳経』とも言われるように、「道」と「徳」についての論述が中心となっている。『老子』の思想の最大の特色は、道を宇宙の本体にして根源であるとした点である。通常、思想家の説く道は、人間が歩むべき正しい進路を意味する。ところが『老子』の場合は、道は天地・万物を生み出す創造主であり、自分が生み出した森羅万象の有象世界を制御し、支配し続ける主宰者でもある。
さまざまな宗教で造物主とされる神は、ひたすら自分だけを信じるよう、恩返しを要求する。もし相手が自分の命令に背くと、逆上した神は、その罪を咎めて罰をくだす。だが『老子』の道は、そうした神々とはおよそ性格を異にする。感謝しろなどと恩を着せない代わりに、万物に愛情をかけて救おうともせず、冷ややかに彼らの消滅を見守る。『老子』の思想はその全体が、道の在り方を体して国家を統治するよう君主に求める、政治思想となっている。道の在り方に則る統治とは、すなわち「無為の治」である。名誉や栄光に包まれて君臨したいなどと望むようでは、そもそも君主失格である。君主は権力を振りかざし、支配欲・名誉欲などをむき出しにして統治してはならない、と『老子』は説く。
第八章で、老子は水を最高の徳を備えた物質として讃えている。第七十八章にも「天下の柔弱なるもの、水に過ぐるは莫し。而も堅強を攻むる者、能く勝るあるを知る莫し(世のなかに柔弱なものはたくさんあるが、水より柔弱なものはない。しかし、堅強なものを攻めるのに、水に勝るものを私は知らない)」とあり、また水について直接的なことは述べていないが、第六十六章にも「江海の能く百谷の王たる所以の者は、其の能く之に下るを以てなり(大きな川や海があらゆる谷川の王となれる理由は、大きな川や海があらゆる谷川に対して低い位置にいるからである)」とあり、水の低い位置を目指すという性質を述べている。つまり「衆人の悪む所に処る」というのも、水は誰もが嫌がる低い場所へ低い場所へと向かっていくからで、このような水の性質は、老子の考える無為自然(作為がなく、自然のままであること。老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることを良しとした)の道に極めて幾(近)いものであるというのだ。
本章で引用したのは、第八章と、第六十八章の「善く敵に勝つ者は与にせず」部分である。本章で天照大神が「成り行きに身を任せるのも優しさかもしれません」と発言しているが、これは第八章の「事は能を善しとし」を受けてのものだが、上記の訳とは異なっている。今回の古典では「明治書院」を参考にして書き、本編のほうは「岩波文庫」の説を採用したためだ(下記の「参考文献」を参照のこと)。岩波文庫に記された説によれば、「能」は「任なり」(『広雅』釈詁)とあるように「任せる」意と考え、「ものごとは成りゆきに任せるのがよい」と解釈しているようだ。
ちなみに、本章の十五話目のタイトル「智といへども大きに迷ふ」は、「善く行く者は」で始まる第二十七章から引用したものである。この第二十七章では、善がどういったものかについて議論している。人為を捨て去り、無為自然の道に合致して、万物をありのままに受け入れることで、道を体得した聖人は、善悪といった概念を超越した真の善により、万物を包容していくことを述べている。最後に「故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばず、其の資を愛せざらば、智と雖も大いに迷う。是れを要妙と謂う(だから善人は不善人の師であり、不善人は善人の助けとなるのである。善人を貴ばず、不善人を愛さなければ、いくら智者と言われている者でも大いに迷いが生じてしまう。これを奥深い真理というのである)」という一節で締めくくっている。
…………。
……。
参考文献:
☆明治書院『新書漢文大系2 老子』著者:阿部吉雄、山本敏夫(一九九六)
☆岩波文庫『老子』訳注者:蜂谷邦夫(二〇〇八)
☆平凡社『中国古典文学大系4 老子・荘子・列子・孫子・呉子』訳者:金谷治、倉石武四郎、関正郎、福永光司、村山吉廣(一九七三)
☆講談社『マンガ特別版 中国の思想大全』作画:蔡志忠、訳・解説:和田武司、監修:野末陳平(一九九九)
☆講談社『諸子百家 ――春秋・戦国を生きた情熱と構想力』著者:浅野裕一(二〇〇〇)
上善は水の若し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る、故に道に幾し。居は地を善しとし、心は淵を善しとし、与るは仁を善しとし、言は信を善しとし、正は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。夫れ唯だ争わず、故に尤無し。
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善く士為る者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与にせず。善く人を用いる者は之が下と為る。是れを争わざるの徳と謂う。是れを人の力を用いると謂う。是れを天に配すと謂う。古の極なり。
【現代語訳】
最上の善とは水のようなものである。水は万物に利益を与えながら他と争うことがない。そして皆が嫌がる低い場所にいる。それゆえ道に近い存在と言えるのである。居所は大地がよく、心は深遠なのがよく、与えるのには仁愛をもってするのがよく、言葉は嘘がないのがよく、政治は治まるのがよく、物事をおこなうには能力があるのがよく、動くのには時機をみはからうのがよい。水はただただ争わない。だから他から咎められないのである。
※ ※ ※ ※ ※
すぐれた武将は猛々しくない。すぐれた戦士は怒りに任せない。うまく敵に勝つ者は敵とまともにぶつからない。うまく人を使う者は、彼らにへりくだる。これを争わない徳といい、これを人の能力を使うといい、これを天に匹敵するという。むかしからの最高の道理である。
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今回紹介するのは、古代中国の思想家・老子が著したとされる書物である。一般的に広く呼ばれている『老子』とは、老子が著した書という通称であって、丁寧にいえば『老子道徳経』という。通常、上下二篇に分かれ、上篇は三十七章、下篇は四十四章、あわせて八十一章からできている。元来、章立てはおこなわれておらず、帛書『老子』でもところどころに句点と思われる記号があるだけだ。前漢・文帝のころの人、河上公が付注したという『老子』は八十一章の章立てで、これが分章した最初のものということになっている。
前漢の司馬遷(前一四五年ころ?~?)が書いた『史記』に伝記が載っていれば、それを第一資料にするのが普通であるが、その「老子伝」でもひとりの人物に絞りきれず、老萊子や儋など、候補者として三人の伝を記している。すでに司馬遷の時代、老子は伝説のベールに覆われていたわけだ。三人のうち、最も有力なのは老耼である。『史記』によれば老子は、姓は李、名(諱、本名)は耳であり、耼とは字(実名のほかにつける呼び名)である(一説には伯陽が字、耼は謚・死後に贈る称号とする)。老子とは号(通称)のようだ。「耼」とは耳が長いという意味で、古代中国人は身体の特徴を字につけることがあるので、老子は耳の長い人であったようだ。また、耳と耼のように、諱と字が関連してつけられることも多い。
老子は、楚の苦県、厲郷の曲仁里の人であるというが、苦とは苦いとか苦しいなどの意味であるし、厲は皮膚病(ハンセン病)のこと、曲仁とは曲がった仁という意味にもなるから、古代中国人の差別意識を考えると、この地名は老子を貶めた架空の名前のようでもある。だが唐代の張守節による注釈書『史記正義』に引用されている唐初の地理書『括地志』や、他の資料も拠り所にして、地名の特定がなされている。それによれば、曲仁里とは現在の湖南省鹿邑の太清宮というところだとされ、鹿邑には一九九一年に中国鹿邑老子学会が設立された。
老子と合わせて「老荘」ともいわれる『荘子』は、老子と同じく無為自然を唱導していた。その『荘子』の「天下」篇は、最初の中国思想史といえるものだが、そこでは老子(老耼)は関尹とともに「古の博大真人」として位置づけられている。「博大」とは広大な徳のことであり、「真人」とは道を体得し、道が身体中に充満しているような、充実した人物のことである。この『老子』は『道徳経』とも言われるように、「道」と「徳」についての論述が中心となっている。『老子』の思想の最大の特色は、道を宇宙の本体にして根源であるとした点である。通常、思想家の説く道は、人間が歩むべき正しい進路を意味する。ところが『老子』の場合は、道は天地・万物を生み出す創造主であり、自分が生み出した森羅万象の有象世界を制御し、支配し続ける主宰者でもある。
さまざまな宗教で造物主とされる神は、ひたすら自分だけを信じるよう、恩返しを要求する。もし相手が自分の命令に背くと、逆上した神は、その罪を咎めて罰をくだす。だが『老子』の道は、そうした神々とはおよそ性格を異にする。感謝しろなどと恩を着せない代わりに、万物に愛情をかけて救おうともせず、冷ややかに彼らの消滅を見守る。『老子』の思想はその全体が、道の在り方を体して国家を統治するよう君主に求める、政治思想となっている。道の在り方に則る統治とは、すなわち「無為の治」である。名誉や栄光に包まれて君臨したいなどと望むようでは、そもそも君主失格である。君主は権力を振りかざし、支配欲・名誉欲などをむき出しにして統治してはならない、と『老子』は説く。
第八章で、老子は水を最高の徳を備えた物質として讃えている。第七十八章にも「天下の柔弱なるもの、水に過ぐるは莫し。而も堅強を攻むる者、能く勝るあるを知る莫し(世のなかに柔弱なものはたくさんあるが、水より柔弱なものはない。しかし、堅強なものを攻めるのに、水に勝るものを私は知らない)」とあり、また水について直接的なことは述べていないが、第六十六章にも「江海の能く百谷の王たる所以の者は、其の能く之に下るを以てなり(大きな川や海があらゆる谷川の王となれる理由は、大きな川や海があらゆる谷川に対して低い位置にいるからである)」とあり、水の低い位置を目指すという性質を述べている。つまり「衆人の悪む所に処る」というのも、水は誰もが嫌がる低い場所へ低い場所へと向かっていくからで、このような水の性質は、老子の考える無為自然(作為がなく、自然のままであること。老子は、ことさらに知や欲をはたらかせず、自然に生きることを良しとした)の道に極めて幾(近)いものであるというのだ。
本章で引用したのは、第八章と、第六十八章の「善く敵に勝つ者は与にせず」部分である。本章で天照大神が「成り行きに身を任せるのも優しさかもしれません」と発言しているが、これは第八章の「事は能を善しとし」を受けてのものだが、上記の訳とは異なっている。今回の古典では「明治書院」を参考にして書き、本編のほうは「岩波文庫」の説を採用したためだ(下記の「参考文献」を参照のこと)。岩波文庫に記された説によれば、「能」は「任なり」(『広雅』釈詁)とあるように「任せる」意と考え、「ものごとは成りゆきに任せるのがよい」と解釈しているようだ。
ちなみに、本章の十五話目のタイトル「智といへども大きに迷ふ」は、「善く行く者は」で始まる第二十七章から引用したものである。この第二十七章では、善がどういったものかについて議論している。人為を捨て去り、無為自然の道に合致して、万物をありのままに受け入れることで、道を体得した聖人は、善悪といった概念を超越した真の善により、万物を包容していくことを述べている。最後に「故に善人は不善人の師、不善人は善人の資なり。其の師を貴ばず、其の資を愛せざらば、智と雖も大いに迷う。是れを要妙と謂う(だから善人は不善人の師であり、不善人は善人の助けとなるのである。善人を貴ばず、不善人を愛さなければ、いくら智者と言われている者でも大いに迷いが生じてしまう。これを奥深い真理というのである)」という一節で締めくくっている。
…………。
……。
参考文献:
☆明治書院『新書漢文大系2 老子』著者:阿部吉雄、山本敏夫(一九九六)
☆岩波文庫『老子』訳注者:蜂谷邦夫(二〇〇八)
☆平凡社『中国古典文学大系4 老子・荘子・列子・孫子・呉子』訳者:金谷治、倉石武四郎、関正郎、福永光司、村山吉廣(一九七三)
☆講談社『マンガ特別版 中国の思想大全』作画:蔡志忠、訳・解説:和田武司、監修:野末陳平(一九九九)
☆講談社『諸子百家 ――春秋・戦国を生きた情熱と構想力』著者:浅野裕一(二〇〇〇)
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