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序章
※注釈(二)
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ニワトリが疾走していく。それから(略)……稲穂が見た夢の描写。『古事記』にある天若日子の葬送から引用した。「其処に喪屋を作りて(中略)かく行ひ定めて」とあり、それぞれの鳥たちに役割を与えて葬儀を執り行ったという。「スズメは杵の周りに群がり、臼で糯米らしきものを搗いている」のは「雀を碓女(臼で米をつく女)と為」の一文からで、「白くて首の長い鳥が、クチバシで箒を咥え」ているのは「鷺を掃持(喪屋を掃き清める人)と為」の一文からで、「綺麗な青い鳥が、集団で食材を運んでい」るのは「翠鳥(カワセミ)を御食人(死者の食物を調理する人)と為」の一文からで、「赤い顔の鳥が、ケンケンと、どこかもの悲しそうに泣」いているのは「雉(キジ)を哭女(葬送にあたって泣く役)と為」の一文からである。ちなみに、鶏は『古事記』における葬送の場面には出て来ず、『日本書紀』に「一に云はく、鶏を以て持傾頭者(死者に供える食物を持つ者)とし」の一文が見えるのみであるが、天照大神の象徴として、稲穂の夢のなかには登場させている。
晴耕雨読……晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に籠って読書をすること。悠々自適の生活を送ることをいう。(『大辞泉』)
淫書猥本の類い……「淫書」は、男女の肉欲に関する淫らなことを書いた書物(『大辞泉』)、「猥本」は、性に関する事柄を興味本位に扱った本(『大辞泉』)。要するにエロ本のこと。
物語にこそ、道々しくて(略)……『源氏物語』の「蛍」から引用した。詳しくは「今回の古典」にて紹介。
聖徳太子……厩戸皇子とも。敏達三(五七四)年、用明天皇と穴穂部間人皇女とのあいだに生まれた。七二〇年に完成した『日本書紀』にも、すでに聖徳太子の超人的な伝承が見られるが、平安時代中期にまとめられた『聖徳太子伝略』によって大きく広まった。聖徳太子は誕生後、すぐに言葉を発し、二歳のとき釈迦の命日(二月十五日)に東方へ向かい「南無仏」と称えて再拝した。五歳のとき毎日数千字を習得し、六歳から経典を読み始め、自ら中国衡山の慧思禅師の生まれ変わりであると語り、七歳にして数百巻の経論を読了した。(『歴史人 二〇二二年四月号』)
一度に十人の話を聞き分けた……彩はこのあと「三十数人だっけ」と疑問を呈していたが、この逸話の人数には諸説がある。『日本書紀』に「厩の戸に当りて、労みたまはずして忽に産れませり。生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壮に及びて、一に十人の訴を聞きたまひて、失ちたまはずして能く弁へたまふ」(『日本書紀(四)』)とある。そのため、厩戸豊耳皇子とも呼ばれる。十一歳のとき三十六人が同時に話したことを聞きわけた(『歴史人 二〇二二年四月号』)、ともされている。
うま小屋のそばでうまれた……誕生のきっかけとして、母の穴穂部皇女が夢に金色の僧を見たという。この僧は救世観音菩薩の化身で、皇女の口に飛び込み、これによって皇女が妊娠。厩のそばで聖徳太子を産んだ。(『歴史人 二〇二二年四月号』)
初めて忍者を使った……日本で忍者を使った記録として最も古いのは、六~七世紀に活躍した聖徳太子であるという。一度に八~十人の話を聞き分けたというが(前述)、実は忍者を使ってあらかじめ相手のことを調べておき、八~十人に次々と返答を与えていたのかもしれない(『これだけは知っておきたい(28)忍者の大常識』)。
歴史書『日本書紀』(推古天皇紀・巻第二十二)には「九年九月戌子、新羅の間諜者・迦摩多、対馬に到れり。即ち捕えて貢る。上野に流す」とある。その時代背景には大和朝廷の任那復興政策があり、推古天皇八年には朝鮮半島出兵を敢行し、新羅軍を撃破している。新羅と大和とは臨戦態勢にあり、新羅間諜の潜入はうなずけるところだ。内政的には聖徳太子と蘇我氏との確執もあり、皇子は飛鳥から二十キロ難波寄りの斑鳩に宮を構えて移ったほど謀略の時代であった。また『忍術奥義伝之巻』によると、甲賀郡馬杉で使った間諜を「志能便と呼んだという。(『忍者の兵法 三大秘伝書を読む』)
冠位十七条……聖徳太子の功績を問われ、彩が導き出した答え。「冠位十二階」と「十七条憲法」が交ざってしまったもの。ふたつとも聖徳太子の業績とされる。冠位十二階は、推古十一(六〇三)年に定められたとされる、階級を十二にわけた身分制度。高句麗の十二階級、新羅の十七階級、百済の十六階級など、当時の朝鮮半島で採用されていた冠位制度を参考に制定したとされる。徳・仁・礼・信・義・智という儒教の徳目に、大・小を付したもの。十七条憲法は、官人の心構えを説いたもので、中国南北朝時代の国々の制度を参考にしたとされる。しかし、第十二条の「国司」といった大宝元(七〇一)年以降の律令制下の表現が見られ、第四条や第八条の「群卿百寮」、第九条の「群臣」、第十条の「群臣百寮」なども、大化改新以後の表現を連想させる。(『歴史人 二〇二二年四月号』)
晴耕雨読……晴れた日には田畑を耕し、雨の日には家に籠って読書をすること。悠々自適の生活を送ることをいう。(『大辞泉』)
淫書猥本の類い……「淫書」は、男女の肉欲に関する淫らなことを書いた書物(『大辞泉』)、「猥本」は、性に関する事柄を興味本位に扱った本(『大辞泉』)。要するにエロ本のこと。
物語にこそ、道々しくて(略)……『源氏物語』の「蛍」から引用した。詳しくは「今回の古典」にて紹介。
聖徳太子……厩戸皇子とも。敏達三(五七四)年、用明天皇と穴穂部間人皇女とのあいだに生まれた。七二〇年に完成した『日本書紀』にも、すでに聖徳太子の超人的な伝承が見られるが、平安時代中期にまとめられた『聖徳太子伝略』によって大きく広まった。聖徳太子は誕生後、すぐに言葉を発し、二歳のとき釈迦の命日(二月十五日)に東方へ向かい「南無仏」と称えて再拝した。五歳のとき毎日数千字を習得し、六歳から経典を読み始め、自ら中国衡山の慧思禅師の生まれ変わりであると語り、七歳にして数百巻の経論を読了した。(『歴史人 二〇二二年四月号』)
一度に十人の話を聞き分けた……彩はこのあと「三十数人だっけ」と疑問を呈していたが、この逸話の人数には諸説がある。『日本書紀』に「厩の戸に当りて、労みたまはずして忽に産れませり。生れましながら能く言ふ。聖の智有り。壮に及びて、一に十人の訴を聞きたまひて、失ちたまはずして能く弁へたまふ」(『日本書紀(四)』)とある。そのため、厩戸豊耳皇子とも呼ばれる。十一歳のとき三十六人が同時に話したことを聞きわけた(『歴史人 二〇二二年四月号』)、ともされている。
うま小屋のそばでうまれた……誕生のきっかけとして、母の穴穂部皇女が夢に金色の僧を見たという。この僧は救世観音菩薩の化身で、皇女の口に飛び込み、これによって皇女が妊娠。厩のそばで聖徳太子を産んだ。(『歴史人 二〇二二年四月号』)
初めて忍者を使った……日本で忍者を使った記録として最も古いのは、六~七世紀に活躍した聖徳太子であるという。一度に八~十人の話を聞き分けたというが(前述)、実は忍者を使ってあらかじめ相手のことを調べておき、八~十人に次々と返答を与えていたのかもしれない(『これだけは知っておきたい(28)忍者の大常識』)。
歴史書『日本書紀』(推古天皇紀・巻第二十二)には「九年九月戌子、新羅の間諜者・迦摩多、対馬に到れり。即ち捕えて貢る。上野に流す」とある。その時代背景には大和朝廷の任那復興政策があり、推古天皇八年には朝鮮半島出兵を敢行し、新羅軍を撃破している。新羅と大和とは臨戦態勢にあり、新羅間諜の潜入はうなずけるところだ。内政的には聖徳太子と蘇我氏との確執もあり、皇子は飛鳥から二十キロ難波寄りの斑鳩に宮を構えて移ったほど謀略の時代であった。また『忍術奥義伝之巻』によると、甲賀郡馬杉で使った間諜を「志能便と呼んだという。(『忍者の兵法 三大秘伝書を読む』)
冠位十七条……聖徳太子の功績を問われ、彩が導き出した答え。「冠位十二階」と「十七条憲法」が交ざってしまったもの。ふたつとも聖徳太子の業績とされる。冠位十二階は、推古十一(六〇三)年に定められたとされる、階級を十二にわけた身分制度。高句麗の十二階級、新羅の十七階級、百済の十六階級など、当時の朝鮮半島で採用されていた冠位制度を参考に制定したとされる。徳・仁・礼・信・義・智という儒教の徳目に、大・小を付したもの。十七条憲法は、官人の心構えを説いたもので、中国南北朝時代の国々の制度を参考にしたとされる。しかし、第十二条の「国司」といった大宝元(七〇一)年以降の律令制下の表現が見られ、第四条や第八条の「群卿百寮」、第九条の「群臣」、第十条の「群臣百寮」なども、大化改新以後の表現を連想させる。(『歴史人 二〇二二年四月号』)
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