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章第三「化物坂、蟷螂坂」

今回の古典:小林一茶『七番日記』

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 俳人である小林一茶こばやしいっさが、文化七(一八一〇)年から同十五(文政元・一八一八)年に至る九年間で記した句日記が、今回紹介する『七番日記しちばんにっき』である。生涯を通じて、毎日のできごとをメモした一茶による日記のたぐいは、三十代に書き始めた『寛政句帖』から亡くなる六十五歳寸前の『文政九・十年句帖写』までが残っており、そのうちの四十代から五十代のときに記したものだ。現存する一茶の日記・句帳類のなかで、量的にも最大であり、内容においても、いわゆる一茶調の最盛期を代表する充実した作品群を収めている。書名の「七番」という数字は、一茶みずから題したもので、帖冊の順番を示すものと思われるが、本書以外に一茶自身が番号をつけた例を見ることができず、このあとに続く『八番日記』や『九番日記』などは、いずれも刊行者が便宜上つけた仮題にすぎない。


 一茶はいみな(本名)を信之といい、通称は弥太郎。一茶のほかに「俳諧寺」や「蘇生坊」などの別号がある。宝暦十三(一七六三)年五月五日、信州水内郡みのちぐん柏原村の農家・小林彌五兵衛の長男として生まれた。三歳で生母を亡くしたあとは、祖母に養育され、八歳のときに継母ままははがきたという。継母との関係は悪く、『七番日記』の序によれば、十五歳(『父の終焉日記』によれば十四歳)で江戸に出た。天明七(一七八七)年、二十五歳のころに葛飾派の二六庵竹阿にろくあんちくあの門人となり、寛政二(一七九〇)年に竹阿が亡くなり、二六庵を継いで菊明と号した。一茶が竹阿の文集『其日そのひぐさ』を写した最後に「菊明坊一茶手寫」とあり、「二六庵」「一茶」の二印がされたものが発見された。安政四(一八五七)年には葛飾派を脱し、一茶とのみ号した。


 本章に登場する一茶の句は、文化十五(文政元)年の「蟷螂たうらうはむか腹立はらだちが仕事哉」のみだが、七番日記における蟷螂の句は、ほかにも文化十二年の「蟷(螂)が片手かけたりつり鐘に」「蟷郎にしにやう習へか(じ)け菊」や、同十三年の「蟷郎が立往生たちわうじやう(を)したりけり」「蟷郎がわざわざ罷出まかりいで候」など、後半に集中している。蟷螂だけではなく、蚊やのみ、蠅など、ほかの虫についても、一茶が五十歳を超えてからんだものが、極端に多くなっている。
 本章に登場させた句の「むか腹立」について、筆者が調べたかぎり、ふたとおりの解釈が存在した。カマキリが斧を振り上げている様子が「腹を立てているように見えた」と解すべきなのか、なにかカマキリに対して思うところがあり「自分が腹を立てている」と解すべきなのかによって、鑑賞の仕方が異なってくる。本章では、前者の説を採用した。


 また本章には、彩が一茶の性事情について思い出す場面がある。井上ひさし氏は「あの『七番日記』の有名な『交合の記録』を読んでいると、教科書の一茶と性交の回数を必死になって記録している一茶とがどうしても結びつかなくて」と述べている。一茶は文化十三(一八一六)年一月二十一日以降、「交合」という語を好んで用いている。特に八月は多く、狂ったように交合の回数を記録するようになった。「八日 夜五交合」「十二日 夜三交」「十五日 三交」「十六日 三交」「十七日 夜三交」「十八日 夜三交」「十九日 三交」「二十日 三交」「二十一日 四交」……。


 菊という女性との結婚について、文化十一年の「俳文拾遺」のなかで「五十年一日の安き日もなく、ことし春やうやく妻を迎へ」と記しているように、菊と結婚するまでは、売女ばいたを買う以外には性欲を満たす手段もなく、満足な性生活や心安らかな生活を送ることはできなかっただろう。そして『七番日記』には、強精植物の採集や強精剤服用についても、しばしば記されている。継母・弟との十三年にも及ぶ遺産争いの末に、ようやく家を継ぎ、菊と結婚した一茶とすれば、みずからの子どもに小林の家を継がせたいという気持ちが人一倍強かったことは、容易に想像がつく。また当時としては遅い年齢で結婚した菊にとっても、子を産むことは妻の務めとして意識されていたことだろう。しかし、一茶が夫婦の性生活や、強精植物の採集、強精剤の服用に求めたもの、そして交合の克明な記録の目的は、「子宝に恵まれる」ことだけだったのだろうか。


 だいたい句帖だって日記だって、やがては板行公開するつもりで、繰り返し繰り返し推敲を重ね、取捨選択して整備したものだと思われるから、その過程で、生々しい交合の記録の大部分を消去したのだろう。しかしそのなかで、特にいくつかは意識的にそれなりの理由があって残したに違いない。一茶と妻である菊の交合は、必ずしも子ども欲しさのためとは言えないことが多々ある。文化十四(一八一七)年十二月のところに「十五日 暁一交」「二十一日 暁一交」「二十三日 旦一交」「二十四日 旦一交」「二十五日 旦一交」「二十九日 五交」と続くが、文化十五年五月四日に「キク女子生む」とあり、産月を間近にした前年十二月の時点で、一茶が妻の懐妊を知らぬとは考えられない。強精剤服用と度重なる交合は、子宝欲しさではないことは明らかだ。快楽追及のためとしか言いようがない。


 一茶の句のなかには、三人の妻のほか、娼婦や、一茶が結婚する前に愛したといわれる花橘など、女性たちをうたったものが、かなりある。二万近い一茶の句のなかで比較すれば多いとは言えないかもしれないが、ほかの俳人たちの句の数に比べると極めて多いといえる。娼婦のことを詠っているものだけでも七十句を超え、遊女が罰せられた記事(「文化二年七月九日、晴、花ノ井といへる遊女火罪」)も、わざわざ書き入れている。


 最初の妻「菊」が一茶のもとに嫁いできたのは二十八歳で、一茶が五十三歳(文化十一年)のときだ。『七番日記』によれば四月十一日と記されている。一茶はもちろんのことだが、この当時にしてみれば菊も晩婚だった。行き遅れた理由として、菊が三十七歳で病没した事実を引き合いに出し、身体の欠陥が取り沙汰されるが、これは一茶による荒淫、農作業を始めとする多仕事、家計のやりくり、短期間(九年間)における四人の子どもの出産・育児等に、重要な原因を考えるべきであって、結婚したときに虚弱体質だったとしても、そのためだけとは思えない。家数の少ない山里のため、良縁に恵まれなかったり、娘可愛さのあまり、ついつい出しそびれてしまった、というような、現代でもざらにある事情だったかもしれないが、心配していたのは事実だろう。


 結婚後も頻々と実家に帰り、柏原に戻るときは母親がついてきた。そうしないと、いつになっても戻らないからである。一茶のところに泊まり、近隣にお祝い赤飯を配ったりしている。菊が頻々として実家に帰るのは、一茶の荒淫から逃れることがひとつの原因だが、実家から米を始めとした種々のもらいものが得られるためで、これによって、一茶の家への負担を軽減することにつながった。菊は一茶のところに戻ってくると、かいがいしくよく働いた。四月二十四日には、一茶の日記では単に「田植が始まる」としか書かれていないが、このあとの記録から考えて、これは一茶の持ち田であり、菊が働いていたに相違ない。この年の一茶の日記では、菊の名が入っている畑仕事だけでも五回ある。


 菊の子どものエピソードで、次のものがある。菊が三男・金三郎を生み、翌年に菊の病気が悪化したので、赤渋村の富右衛門の娘を乳母に雇い、金三郎を預けた。まもなく菊は三十七歳の若さで病没し、その葬式のために金三郎を呼び寄せてみると、意外にも骨と皮ばかりに痩せ衰えていた。不審に思い乳母の様子をうかがうと、その女はいわゆるペチャパイで、小児には乳の代わりに水を飲ませていたことがわかった。一茶は大いに怒り、次の歌をんだ。「物言へぬ童の口に赤渋の水はめるとは鬼もえせじな」「乳恋し恋しとや蓑虫の泣き明かしけん泣きくらしけん」……。


 残念なことに、菊と死別したあと、金三郎も含む四人の子どもが、次々と亡くなってしまう。二番目の妻「雪」とは結婚後三か月で離縁し、最後の妻「やを」と結婚したあと、一年で一茶は病没してしまう。だが、やをはこのとき妊娠しており、翌年四月に娘を出産する。この娘によって、一茶の血筋は保たれることとなった。


 …………。
 ……。


 参考文献:
 ☆平凡社『日本人名事典(新撰大人名辭典)第二巻』発行者:下中弘(覆刻版 一九七九年)
 ☆角川書店『歴史人物逸話大事典』編者:朝倉治彦、三浦一郎(一九九六)
 ☆岩波文庫『一茶 七番日記(上)』校注者:丸山一彦まるやまかずひこ(二〇〇三年)
 ☆岩波文庫『一茶 七番日記(下)』校注者:丸山一彦(二〇〇三年)
 ☆岩波新書(新赤版)『性からよむ江戸時代 生活の現場から』著者:沢山美果子さわやまみかこ(二〇二〇年)
 ☆三和書籍『一茶と女性おんなたち』著者:小林雅文こばやしまさふみ(二〇〇四年)
 参考PDF:
 ☆小林一茶の虫の句に見る作品世界 ―蚊、蚤、蠅をめぐって―
(https://www.slis.tsukuba.ac.jp/grad/assets/files/kenkyukiyou/10-2.2.pdf)
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