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章第三「化物坂、蟷螂坂」
(十三) 恋しくばたづね来てみよ
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龍が転校した学校では、二十四節気ごとに、その季節をテーマとした俳句を詠む、という授業がある。今回はその四回目、清明、穀雨、立夏に続き、題材となるのは小満だった。途中から転入してきた龍にとっては二回目の授業。担任の先生が、手元の資料集を開いて、解説を加える。
「二十四節気の中では、名前だけでイメージするのは、いちばん難しいかもしれません。去年に植えた麦が成長し、穂を実らせたのでひと安心、つまり『少し満足する』という意味で『小満』になった、といわれています。え~っと、小満の七十二候は……」チョークを持った先生は黒板に向かい、蚕起食桑、紅花栄、麦秋至、と三段に分けて書き込んだ。「カイコが起きて、桑の葉を食べる。紅花が咲き、麦の収穫時期が訪れる……」
俳句を考える際の参考として、小満に関連した季語が使われている俳句を、いくつか紹介する。黒板いっぱいに、五・七・五を書き連ねていった。「芝不器男さんの一句。飼屋の灯、母屋の闇と、更けにけり……飼屋とはカイコを飼育する小屋のことです。みんな出払っていて真っ暗なままの母屋とは違い、真夜中になっても飼屋には明かりが灯り、忙しく立ち働いている様子を詠んだ句です……」
説明がひと通り終わったら、先生は資料集に挟んでいた細長い紙切れを、数枚のブロックに分けて前の人たちへ配っていく。児童たちは、そこから三枚を抜き取り、残りを後ろへまわす。それと同様に、歳時記の一部を印刷した紙も配る。十文字、あるいは十二文字ほどを書き、あとは五月下旬から六月上旬の季語を歳時記のなかから選んで埋めれば、あっという間に俳句は完成だ。小学生でも簡単にできる。
「それでは。この十五日のあいだに感じた季節の移り変わりを、俳句にしてみましょう。その短冊に書いてください。なんでもっ! 思ったことを書いてみましょう。小満がテーマですが、小満に囚われることはないですよー!」
質問に答えたりアドバイスをしたりしながら、先生は児童たちの席のあいだを往復する。前回の立夏の授業のときに、次回は小満で俳句を書くことは予告されていた。真面目な児童は、書き留めたメモを参考にしながら、俳句を完成させていく。きょうで四回目となれば、ある程度のコツは掴めてきたようで、迷う児童は案外少なかった。すらすらと鉛筆を走らせる龍は、勝彦の真後ろを先生が通り過ぎていくタイミングで手を挙げる。
「はい?」「できました」「早いですね」
驚いた様子の先生に、龍は自分の短冊を見せる。そこには、フリガナつきで「いふ言の畏き国ぞ紅の 色にな出でそ思ひ死ぬとも」と書かれていた。さらに驚きを隠せず、先生は「ど、どういった意味ですか?」と、上ずった声で問いかける。龍は答えた。
「なんと発言することの恐ろしい国か。紅花のような目を惹く色のごとく、人目につくようなことはしないでください。秘めた思いが苦しくて、たとえ死ぬようなことがあったとしても……」
「な、なるほど。現代社会へのメッセージですか。俳句ではないですが、よくできていますね」
先生は感心したように頷くが、この短歌は実際に存在するのだ。先生は「お預かりします」と言って短冊を持っていく。俳句を考える授業なのに、そのまま受け取るのは寛容なのか適当なのかわからない。まだ紙はあるので、龍は、もう少しだけ書いてみる。やりとりを隣りで聞いていた勝彦は、天才少年とでも思ったのか目を輝かせ、ご教示願おうと質問攻めにしてきた。
「ねえ龍くん? 狐の嫁入りって季語かな」「うん」「幽霊って季語かな」「たぶん」「百物語は季語かな」「さあ? 季語だとしても、夏じゃないかな」
まだ夏本番には時間があるし、と龍は勝彦の質問に返してあげた。どんな俳句を作るつもりなんだよ、と龍は思って苦笑する。五時間目も終盤に差しかかり、龍が見た彩の身体は、どんどんとキツネ化が進行していた。イスの横からは金色の尻尾がはみ出し、長い髪からは人間のものとは別の耳が、わずかに姿を現している。ここまでバレずにきているのだから、なんとか持ちこたえなくてはならない。しかし、龍の頑張りもむなしく、五時間目の授業が終わる直前に、事件は起こってしまう。勝彦のことで気を取られている隙に、いつの間にか、龍は背後を取られる形となっていた。
「おい! タヌキ寝入りすんな」
彩と龍の席のあいだを通過する際、先生はうつ伏せになった彩の後頭部へ、手にしていた資料集で軽く小突く。先生に「タヌキ寝入り」と言われ、彩は飛び起きて「タヌキ!」とケモミミを立てる。あぁしまった、と龍は頭を抱えた。女子のひとりが素っ頓狂な声を上げる。
「どったの、その耳?」「……あっ」
そこで、自分の頭から生えた異物の存在に気がつく。クラスメイトたちから注目を浴びた彩は、人間のほうの耳までも紅潮させながら、うつむき加減に教室を飛び出していった。それを目の当たりにし、女子たちは口々に非難する。その攻撃の的は、出ていった彩ではなく、先生のほうだった。
「いま、彩ちゃん、泣いてなかった?」「ひっど~い。女の子に向かって『たぬき』なんて。セクハラ? パワハラ?」
「え、あ、いや、違うよ? 見た目とか性格のことじゃねぐて……」先生は狼狽し、救いを求めるように教室を見渡した。「こ、これが『言うことの畏き国』か」
龍は先生に目もくれず、彩の席へと目を落とす。机の上には、授業が始まってすぐに書いたものか、それとも居眠りしながら書いたものか、はたまた教室を出ていく寸前に書いたものか、書きかけの短冊が残されていた。汚い字で、たった五文字。「こひしくば」という文字が見えた。あのキツネは、恋の歌でも詠もうとしていたのだろうか。
「二十四節気の中では、名前だけでイメージするのは、いちばん難しいかもしれません。去年に植えた麦が成長し、穂を実らせたのでひと安心、つまり『少し満足する』という意味で『小満』になった、といわれています。え~っと、小満の七十二候は……」チョークを持った先生は黒板に向かい、蚕起食桑、紅花栄、麦秋至、と三段に分けて書き込んだ。「カイコが起きて、桑の葉を食べる。紅花が咲き、麦の収穫時期が訪れる……」
俳句を考える際の参考として、小満に関連した季語が使われている俳句を、いくつか紹介する。黒板いっぱいに、五・七・五を書き連ねていった。「芝不器男さんの一句。飼屋の灯、母屋の闇と、更けにけり……飼屋とはカイコを飼育する小屋のことです。みんな出払っていて真っ暗なままの母屋とは違い、真夜中になっても飼屋には明かりが灯り、忙しく立ち働いている様子を詠んだ句です……」
説明がひと通り終わったら、先生は資料集に挟んでいた細長い紙切れを、数枚のブロックに分けて前の人たちへ配っていく。児童たちは、そこから三枚を抜き取り、残りを後ろへまわす。それと同様に、歳時記の一部を印刷した紙も配る。十文字、あるいは十二文字ほどを書き、あとは五月下旬から六月上旬の季語を歳時記のなかから選んで埋めれば、あっという間に俳句は完成だ。小学生でも簡単にできる。
「それでは。この十五日のあいだに感じた季節の移り変わりを、俳句にしてみましょう。その短冊に書いてください。なんでもっ! 思ったことを書いてみましょう。小満がテーマですが、小満に囚われることはないですよー!」
質問に答えたりアドバイスをしたりしながら、先生は児童たちの席のあいだを往復する。前回の立夏の授業のときに、次回は小満で俳句を書くことは予告されていた。真面目な児童は、書き留めたメモを参考にしながら、俳句を完成させていく。きょうで四回目となれば、ある程度のコツは掴めてきたようで、迷う児童は案外少なかった。すらすらと鉛筆を走らせる龍は、勝彦の真後ろを先生が通り過ぎていくタイミングで手を挙げる。
「はい?」「できました」「早いですね」
驚いた様子の先生に、龍は自分の短冊を見せる。そこには、フリガナつきで「いふ言の畏き国ぞ紅の 色にな出でそ思ひ死ぬとも」と書かれていた。さらに驚きを隠せず、先生は「ど、どういった意味ですか?」と、上ずった声で問いかける。龍は答えた。
「なんと発言することの恐ろしい国か。紅花のような目を惹く色のごとく、人目につくようなことはしないでください。秘めた思いが苦しくて、たとえ死ぬようなことがあったとしても……」
「な、なるほど。現代社会へのメッセージですか。俳句ではないですが、よくできていますね」
先生は感心したように頷くが、この短歌は実際に存在するのだ。先生は「お預かりします」と言って短冊を持っていく。俳句を考える授業なのに、そのまま受け取るのは寛容なのか適当なのかわからない。まだ紙はあるので、龍は、もう少しだけ書いてみる。やりとりを隣りで聞いていた勝彦は、天才少年とでも思ったのか目を輝かせ、ご教示願おうと質問攻めにしてきた。
「ねえ龍くん? 狐の嫁入りって季語かな」「うん」「幽霊って季語かな」「たぶん」「百物語は季語かな」「さあ? 季語だとしても、夏じゃないかな」
まだ夏本番には時間があるし、と龍は勝彦の質問に返してあげた。どんな俳句を作るつもりなんだよ、と龍は思って苦笑する。五時間目も終盤に差しかかり、龍が見た彩の身体は、どんどんとキツネ化が進行していた。イスの横からは金色の尻尾がはみ出し、長い髪からは人間のものとは別の耳が、わずかに姿を現している。ここまでバレずにきているのだから、なんとか持ちこたえなくてはならない。しかし、龍の頑張りもむなしく、五時間目の授業が終わる直前に、事件は起こってしまう。勝彦のことで気を取られている隙に、いつの間にか、龍は背後を取られる形となっていた。
「おい! タヌキ寝入りすんな」
彩と龍の席のあいだを通過する際、先生はうつ伏せになった彩の後頭部へ、手にしていた資料集で軽く小突く。先生に「タヌキ寝入り」と言われ、彩は飛び起きて「タヌキ!」とケモミミを立てる。あぁしまった、と龍は頭を抱えた。女子のひとりが素っ頓狂な声を上げる。
「どったの、その耳?」「……あっ」
そこで、自分の頭から生えた異物の存在に気がつく。クラスメイトたちから注目を浴びた彩は、人間のほうの耳までも紅潮させながら、うつむき加減に教室を飛び出していった。それを目の当たりにし、女子たちは口々に非難する。その攻撃の的は、出ていった彩ではなく、先生のほうだった。
「いま、彩ちゃん、泣いてなかった?」「ひっど~い。女の子に向かって『たぬき』なんて。セクハラ? パワハラ?」
「え、あ、いや、違うよ? 見た目とか性格のことじゃねぐて……」先生は狼狽し、救いを求めるように教室を見渡した。「こ、これが『言うことの畏き国』か」
龍は先生に目もくれず、彩の席へと目を落とす。机の上には、授業が始まってすぐに書いたものか、それとも居眠りしながら書いたものか、はたまた教室を出ていく寸前に書いたものか、書きかけの短冊が残されていた。汚い字で、たった五文字。「こひしくば」という文字が見えた。あのキツネは、恋の歌でも詠もうとしていたのだろうか。
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