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章第二「茨木童子」

(六)新たしき夢を見む

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 その日の夜。
 テレビもスマホも、外部との接触をすべて禁じられた稲穂は、たったひとりの静かな夕食を済ませ、午後七時には入浴も終わらせることにする。
 風呂場へ足を踏み入れた稲穂は、彩の言葉を思い出し、慌てて脱衣所へと戻った。
 あのメモを洋服のポケットから抜き取ってきびすを返す。紙が濡れないよう注意を払いながら、そこに書かれている文言を唱え始めた。


はらたまい、清め給え、かむながら守り給い、さきわえ給え……」


 シャワーを浴びた瞬間、稲穂の身体からは光り輝くものがあふれ、そしてこぼれていく。
 驚きつつも、それらを両手ですくい上げてみると、てのひらのなかに収まっていたのは、小さな粒の結晶だった。
 ぽろぽろと、数えきれないほどの光の粒が流れ落ち、それらは渦のなかに飲み込まれ、排水口へと消え去っていく。
 奇妙な光景ではあったが不思議と恐怖感もなく、むしろ穏やかな気持ちにすらなって眺めていた。


「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え……祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え……」


 稲穂は呪文を繰り返し唱える。
 まばゆいばかりの光たちが跡形もなく消え、周囲は、間近に迫った替えどきを報せるように明滅する、蛍光灯の淡い明かりへと包まれた。
 湯船に浸かってほどなくしたころ、ぼんやりとした光源が暗がりの外を横切っていくところを、すりガラスの窓から見たような気がする。
 風呂場があるのは田んぼ側だから、車が発するライトではない。見守ってくれている彩が灯した光なのかな、とぼんやり想像してみたが、背筋に悪寒が走るのを感じた。
 自分の身体が、反射的に拒否感を覚えている。外にいるのは彩じゃない、と告げているような気がした。


 シャンシャンと鳴り響く音が、はっきりと外から聞こえ、それが、次第に近づいてくる。稲穂は理由もわからずに、充分に温まっているのにも関わらず、身体中が震え上がってしまう。
 あの光がなんだったのか、確認しようという勇気が起きるはずもなく、脱衣所へ繋がるドアを開け、浴室を脱出するので精一杯だった。


 きょうの不審者が、すぐそこまで、再び迫ってきていたのだろうか。
 言い知れぬ不安感と、底知れぬ恐怖感にさいなまれながら、おざなり気味に身体の水気を拭き取る。
 嫌な考えを追い出すように、濡れた髪の毛を振り乱しつつ、急いでドライヤーをかけた。その間、後ろを何度も振り返り、誰もいないことを確認する。
 シャツを頭からかぶった瞬間、よくは拭き取れていなかったようで、じっとりと、水分がまとわりつく不快感を覚えた。


 部屋へと戻った稲穂は、かけ布団ぶとん目深まぶかにかぶって、眠りにこうとする。
 羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹、と羊が三けたも通り過ぎていったあとに、なんで羊を数えるんだろう、という疑問がふと脳裏をよぎった。
 そんな余計なことを考えたせいか、眠気が遠のいてしまったような気がする。
 あるいは、昼間まで眠りすぎてしまったせいか、それとも、母親がいない夜だからなのだろうか。


 …………。
 ……。


 なんだか、外が騒がしい。せっかく眠りにつけたというのに、いったいどうしたというのだろう。
 稲穂は眠い目をこすって、そっと目蓋まぶたを開いた。一階の寝室を抜け出して、人だかりのできている玄関へと、覚束おぼつかない足取りで向かう。
 頭がぼんやりとした状態にあり、まったく現実味のない浮遊感がした。
 アリス・イン・ワンダーランドの世界のごとく、周りにあるものの大きさが、稲穂の背丈の三倍もあるように見える。


「大丈夫だからね、稲穂ちゃん」


 起こしちゃった? という申し訳なさそうな声色で、その女性は稲穂に向かって大きな身体を折り曲げ、優しく話しかけてきた。
 三十路みそじくらいの、容姿端麗な女性だ。なんとなく、誰か知り合いに似ている気がする。
 その女性はにわかに目を見開き、顔を上げると、外のほうを気にするように視線を動かす。
 それとほぼ同時に、どこからともなく現れたキツネが「結界がぁ! 破られましたぁ」と力なく告げた。


「ええ、わかってる。受持稲荷神社うちに、もう侵入者がきたみたいね。ここまでくるのも時間の問題……高天原たかまのはらに連絡は?」
「しましたぁ。ビジブルが向かっているそうですぅ」
「はあ? 常之人ただびとが敵うような相手じゃないわ!」


 そのキツネの予想もしなかった返答に、女性は眉根を寄せていく。
 キツネは慌てて「もちろん、四家しけのほうにも連絡しました!」と言い加える。この発言に対しても、女性の表情が晴れることはなかった。


日向国ひむかのくによ? ここから遠いでしょ。分家のほうにも連絡しといて」


 指示を出されたキツネは、奥の座敷のほうへと駆けだしていく。
 稲穂の後方から「あ、あの。いったい、なにがどうなって……」と不安げな、声を震えて質問する人物がいた。振り返ってみれば、そこにいたのは自分の母親である。
 少しだけ若返ったように見える早苗の膝元に、稲穂はわけもわからずにしがみつく。


昭義あきよしくんが帰ってくるまでの時間を、あたしたちで稼いでくるから、あんたは、そのをきちんと守っているのよ?」
 こくりと早苗が頷き、女性は玄関のドアへ手を伸ばす。「じゃあ……」


 言いかけて、女性は口をつぐんだ。稲穂が見上げた先で、じっとりと汗がにじんだひたいと、凍りついた表情が確認できる。
 女性にも、気配が感じられるようだ。稲穂にも、周囲の空気が一転するのを感じて、背筋に悪寒が走る。
 女性が「離れて!」と叫ぶ声を聞いたところで、一連の映像はぷつりと途切れた。稲穂は寝ぼけまなこをこすり、指先に付着した水滴をぬぐう。


 見覚えのある天井。そこが自室のベッドであることには、すぐ気がついた。
 さっきまで稲穂が見ていた、どことなく既視感を覚える映像が、自分の記憶をもとにした夢であろうということも、そしてこれは、まったく当時のことを覚えてはいないが、きっと父が死んだ夜のできごとであろうということも、なんとなくの想像がついた。


 まだまだ夜は長いというのに、いままで感じたこともない恐怖心に襲われていた。
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