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章第二「茨木童子」

(十一)美人にあらぬ妖あり

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 父の訃報を、十年も経ったあとに遅ればせながら伝えると、その人物は布の切れ端をき散らしながら、稲穂の部屋を出ていく。
 切れ端を一枚ずつ拾い集めながら、その人物のあとを追っていた最中に、階下から「ふぁいだー!」という叫び声が聞こえてきた。
 なにごとかと、稲穂は慌てて向かう。
 神棚や祖霊舎それいしゃが置かれた部屋のふすまを開けた途端、なかから「手ぇ合わせよ思っだのに、なして閉じてらのよ!」という怒声が飛んでくる。
 その人物は、祖霊舎の前で引っくり返っていた。さらに「おまげに結界まで張っで!」と続けたが、なんのことだか稲穂にはさっぱりわからない。


「えっと……モノイミ? ちゅうでして」
「物忌みぁ? どっか具合あんべでもわりぃんだが?」
「え? いえ……」


 彩の受け売りでしかない「モノイミ」と身体の不調とが結びつかず、稲穂はキョトンとする。
 その人物は、腰のあたりをさすりながら立ち上がり、ほかにも罠が仕かけられているんじゃないか、とでもいうように、おびえた様子のまま祖霊舎から離れた。
 倒れ込んだ拍子に散らばったものだろうか、周囲にはホコリやクモの巣、ボロボロな布の切れ端などが散乱している。
 ペタペタと畳を踏み鳴らし、その人物は部屋を出ていく。
 残された稲穂が、雑巾で水拭みずぶきしているとき、今度は一階の奥の部屋から、またしても「ふぎゃー!」とかいう奇声が響き渡る。


此処こご昭義あぎよしの部屋だべ? 此さも、結界をば張ってらんだが?」
 そこは、母が書斎として使っている部屋だった。
 物忌の際にひととおりの窓へおふだを貼ったが、もともと書斎に窓はなく、結界が張られていたとしたら、もともと父か母が施していたものかもしれない。
 生前に父の書斎だったかは、稲穂の知るところではなかった。目の前にいる名も知らぬ人物は、神妙な面持ちとなっていてくる。
「昭義は……なして死んだんだべ?」


「事故だって、聞いてますけど」


「事故ぉ? アマデラズさまの血ぃ継いでらのに、んなごどで死ぬわけねえべっだ!」
 それを聞いた途端、その人物は表情を一変させる。
 しかし、すぐに稲穂のキョトンとした反応を見て、長く伸びた髪でさえぎられていても判別できるほどの、大きな動揺を隠せていなかった。
「まさが。し、知らねのげ?」


 はぁぁぁぁ、と深いため息を漏らしている、その人物は「なしておしぇでねのよ。隠しでだってごどねのに!」と、誰かに対して憤慨していた。
 考えを巡らせるためか、書斎のなかをウロウロと歩き始め、身体の向きを転換させるたびに、ホコリが舞い、布の切れ端が落ちていく。
 稲穂が祖霊舎それいしゃに立てかけてある箒で、ほんの少し掃除のために目を離していた瞬間、その人物を部屋のなかから見失っていた。


 その人物を次に発見したのは、リビングにある祭壇の前だった。怖さのあまり、物忌み初日から近づきもしていない祭壇に、その人物は目を向けている。
 祭壇の中央に、あれから放置されたままの風呂敷がある。その人物は腕を組み、訳知り顔でつぶやいた。


「あいづが、物忌みすすめだのけ? 此処こっがら、くせぇにおいさプンプンしでらな。こりゃあ、鬼っこの臭いだ」
「おに……?」
「ああ、くせぇくせぇ。お、鬼っこの身体さ触れだのが?」


 部屋にきたのはキレイめな女性のようだったが、二階に現れたり不思議な能力を駆使したり、鬼かどうかは判断できないが、常人ではありえないことは明白だ。
 その人物に対して稲穂は、朝食を準備したり茶菓子類を用意したりしようかと思ったが、すべて断られてしまったので、手持ち無沙汰に教科書を広げ、勉強を始める。


 きょうも夜になり、浴槽に湯を溜めてきたあと、その人物を捜した。
 椅子いすへ腰かけて、くるくると回転しながら本を読みあさる、その人物がいた。
 数回しか入ったことのない書斎に、稲穂は物珍しさで、あたりをキョロキョロしながら足を踏み入れる。
 なのにその人物は、何年も住んでいるかのような雰囲気をまとい、背もたれへ深く寄りかかっていた。


「お風呂、入りませんか? えっと……」
 稲穂は、名前がわからず言いよどむ。「あの、名前は? なんて呼んだら……?」


「このの神……いや」
 パラパラとページをめくっていた手をにわかに止める。指の腹をわせ、「て」から始まる妖怪名を順々になぞっていく。
「したら、テンジョウクダリっで、おらのごど、そう呼んでけれ」


 とても子供が読むような厚さではない本をパタリと閉じれば、長く伸びた前髪がふわりと風圧によってなびく。
 その人物はイスからぴょこんとおりると、重たそうに本をいたスペースへともぐり込ませようとする。
 稲穂は「てんじょうくだり」という聞き慣れない単語を復唱しつつ、その「てんじょうくだり」なる少女が本棚に差し込むのを手伝った。


 テンジョウクダリは、稲穂のとなりを無言で歩き、てくてく風呂場へ足を運ぶ。
 まだ覚えきれてはいない呪文を唱えるため、彩からもらった紙を持参する。
 シャワーを出してから、いざ「はらえ……」と口を開きかけたとき、また誰かが外にいる気配を感じたが、稲穂は気にせず呪文を続けた。
 三回「さきわたまえ」まで言い終えると、どこからともなく安心感が込み上げてくる。


「あいづもテギドーだな」


 テンジョウクダリが、となりで肩をすくめていた。
 長い髪が浴槽へ届いているのもお構いなしに、テンジョウクダリはかがみ込んで、溜めていたお湯を興味深そうにかき混ぜている。
 洋服と言えなくもない、穴だらけの麻袋をかぶったような恰好かっこうのまま、テンジョウクダリが浴槽へかろうとしていたので、稲穂は小さな身体を持ち上げる。
 抵抗することもなく、すんなりと浮いて、稲穂の両腕へ収まった。


 脱衣所へ出して、その麻袋を取り払った瞬間、ホコリが宙を舞って稲穂はき込む。
 洗ってもいいやつ、なのかな、これって……?


 稲穂が幼少期に使用していたシャンプーハットをかぶせた。シャンプーを洗い流すとクモの巣もホコリもなくなり、キューティクルが天使の輪のように見える。
 ボサボサだった髪の毛も綺麗きれいになって、長い髪のあいだから見え隠れする顔は、普通の子どものように感じた。
 神と言いかけたように聞こえたが、ひょっとしたら天使なのかもしれない、と稲穂は、テンジョウクダリの笑顔を垣間かいま見て思う。


 今度は身体を洗おうと、石鹸せっけんを泡立てる。
 テンジョウクダリの背中に、もこもこした泡をすべらせたとき、稲穂は、ふと気になることを訊きたくなった。
「身体を綺麗にしたら、もとの神様の姿に戻りますか? オクサレさまみたいに」


「オグザレ……?」振り返ったテンジョウクダリが小首をかしげる。
「聞いだごどねえな。どごのくにの神様だべ?」
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