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序章
今回の古典:紫式部『源氏物語』「蛍」
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(抜粋)
殿もこなたかなたにかかる物どもの散りつつ、御目に離れねば、「あなむつかし。女こそ物うるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらの中にまことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられ給ひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書き給ふよ」とて、笑ひ給ふものから、また「かかる世のふるごとならでは、げに何をか紛るることなきつれづれをなぐさめまし。さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君の物思へる見るに、かた心つくかし。またいとあるまじき事かなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるなどもあるべし。この頃幼き人の、女房などに時々読まするをたち聞けば、物よく言ふものの世にあるべきかな。そらごとをよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむと覚ゆれど、さしもあらじや」と宣へば、「げにいつはり慣れたる人や、さまざまにさも酌み侍らむ。ただいとまことの事とこそ思う給へられけれ」とて、硯を押しやり給へば、「こちなくも聞えおとしてけるかな。神代より世にある事を、記し置きけるななり。日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしき事はあらめ」とて、笑ひ給ふ。
【現代語訳】
殿さまも、あちらでもこちらでもこのような絵物語がいろいろ散らばっていて終始お目につくので、「ええうるさい。女って、面倒がらず、人に騙されるように生まれついているのだな。たくさんの絵物語のなかに、真実はごく少ないだろうに、そうと知りながら、こうしたつまらないことに気を取られ、たぶらかされなさって、暑苦しい五月雨に髪の乱れるのもかまわないで、お書きになっていらっしゃる」と、お笑いなさるものの、また「こんな古物語でなくては、ほんとうに、どうして、紛らしようのない退屈をしのげよう。それにしても、このつくり話のなかに、なるほどそうもあろうと人情を見せ、もっともらしく話し続けてあるのは、実は他愛ないことと知りながらも、なにやら感動し、可憐な姫君が沈んでいるのを見ると、多少は心が引かれるものだな。それから、起こりそうもないことだとは思いながらも、ものものしい書きぶりに惑わされて、静かにもう一度聞くときにはいやになるけれども、そのときはひょっと面白いのはここだと思うのもあるだろう。近ごろ幼い姫が女房などにときどき読ませるのを立ち聞くと、口のうまい者がこの世にはいるものだ。こんな物語は嘘をつきなれた口が言い出すのだろうと思われるが、そうも限らないかな」と、おっしゃると、(玉鬘)「お言葉のとおり、嘘をつきなれた方は、いろいろと、そのようにもおわかりでございましょう。私などただただ本当のことと思われてなりません」と、硯をおそばから押しやりなさると、(源氏)「ひどく物語をけなしてしまったな。神代からこの世にあることを書き残したのだそうな。日本紀などはほんの一面にすぎないさ。物語のほうに、学問的なことも人間の一切も、あるのだろう」とおっしゃって、お笑いになる。
…………。
……。
平安時代、紫式部が著したとされる古典中の古典。五十四帖ある『源氏物語』のうち、今回紹介するのは、二十五番目にあたる「蛍」だ。
この巻のタイトルは、作中に登場する、玉鬘(光源氏の養女)が兵部卿宮(光源氏の異母弟)への返歌として詠んだ歌「声はせで、身をのみこがす、蛍こそ、言ふよりまさる、思ひなるらめ(鳴きもしないでひたすら身を焦がす蛍のほうこそ、口に出すよりももっと深い思いでいるでしょうに)」によるもので、光源氏が蛍で玉鬘の容姿を照らし出し、兵部卿宮を驚かせたという趣向にもちなんでいる。
本作「序章(中)」のタイトルは、「蛍」のなかにある「長雨、例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々絵物語などのすさびにて、明かし暮らし給ふ(長雨が例年よりもひどく降って、晴れ間もなく、なにもできないので、六条の院の御婦人方は、絵物語などの遊びごとで、一日一日を送っていらっしゃる)」の一文から引用している。
梅雨の時期だろう。上記にもあるとおり「暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書き給ふよ(蒸し暑い五月雨の、髪の乱れも知らずに物語を書き写しなさる)」という文章もある。
長雨が降り続き、暇を持て余していた女性たちは、退屈しのぎに、絵や物語などの慰みごと(気晴らしのための楽しみ)に明け暮れていた。
玉鬘は田舎育ちで、多くの物語に接してこなかっただけに、物語への関心が強く、玉鬘のもとには、物語の書写などに秀でた若い女房たちがたくさんいた。
この絵物語というのは、挿絵のある物語のことだろうか。清少納言の『枕草子』にも「つれづれ慰むもの(所在のなさを紛らわすもの)」として、碁、双六に並び、物語が登場する。
源氏物語も物語なわけだが、この当時、物語といえば女・子どもの読むものだとされていたから、光源氏も、女を「人に欺かれむと生まれたるものなれ(人から騙されようと生まれたものだね)」と蔑視し、物語については「(書かれている内容に)まことはいと少なからむを(本当のことはひどく少なかろうに)」と軽視している。
言うなれば、源氏物語の愛読者の大半である女性に対して、光源氏は、女は物語の作りごとを鵜呑みにするのだ、とからかっているわけだ。
しかし、その直後「こちなくも聞えおとしてけるかな(失礼にも物語の悪口を申しました)」と反省した光源氏は、すぐに「深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言と言ひはてむも、ことの心たがひてなむありける(作品に深いのと浅いのとの違いはあろうけれども、一途に嘘偽りだと言い切るのも、実情に添わないことだ)」と述べたのだ。
源氏物語は、Aと表現すると必ずその後ろに「しかし、-Aでもある」と続け、AならA、BならBと単純に突っ走ることはせず、右を向けば左、左を見ればすぐに右へ目を向ける。対象を決めつけて描写したりは決してしないところに、紫式部の思慮深さが表れているのかもしれない。
また、この発言の直前に光源氏は「神代より世にあることを記し置きけるなるる『日本紀』などはただかたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしき事はあらめ(神代から世にあることを記しておいたという『日本紀』などは、実は、人生のほんの片はしのことが書いてあるだけで、数々の物語のほうにこそ人生の真実や詳しいことは書いてあるのでしょう)」と言っているが、これは紫式部自身が経験したことを反映しているのかもしれない。
当時の学問の世界で重んじられていた『日本書紀』に対して、こういう批評を下すことは、かなりの勇気がいることだったはずである。これは作者・紫式部自身の「物語」にかける意気込みを表明した文章だと言えるだろう。
生きていく上で「心に籠めがたく」思われることを記しつけたもの、それこそが物語であると、ここで光源氏に言わせている。紫式部にとって、そうした「胸に秘めておくことが難しい」ことを書きつけた「物語」は、すなわち『源氏物語』であったわけだろう。
紫式部が書いた日記によれば、「うちの上の、源氏の物語、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、『この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし』と、のたまはせけるを、ふと推しはかりに、『いみじうなむ才がる』と、殿上人などにいひちらして、日本紀の御局とぞつけたりける」とある。
つまり、ときの帝(一条天皇)は『源氏物語』を読み、「日本書紀から始まる六国史を大変よく読まれた博識な人物である」と褒め称えたのだが、勝手な憶測によって「インテリぶった人物だ」と言いふらされてしまった。そして、紫式部につけられたあだ名が「日本紀の御局」である、という。
…………。
……。
参考文献:
☆角川ソフィア文庫『源氏物語 第五巻 螢~藤裏葉』訳注:玉上琢彌(第十七版、二〇〇一年)
☆岩波文庫『源氏物語 四』校注:柳井滋、室伏信助、大朝雄二、鈴木日出男、藤井貞和、今西祐一郎(二〇一八年)
☆新潮社『新潮日本古典集成(第三五回) 紫式部日記・紫式部集』校注:山本利達(一九八〇年)
☆角川文庫ソフィア『新版 枕草子 下巻』訳注:石田譲二(第十七版、一九九六年)
☆岩波現代文庫『源氏物語』著:大野晋(二〇〇八年)
殿もこなたかなたにかかる物どもの散りつつ、御目に離れねば、「あなむつかし。女こそ物うるさがらず、人に欺かれむと生まれたるものなれ。ここらの中にまことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられ給ひて、暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書き給ふよ」とて、笑ひ給ふものから、また「かかる世のふるごとならでは、げに何をか紛るることなきつれづれをなぐさめまし。さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしく続けたる、はた、はかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君の物思へる見るに、かた心つくかし。またいとあるまじき事かなと見る見る、おどろおどろしくとりなしけるが目おどろきて、静かにまた聞くたびぞ憎けれど、ふとをかしき節、あらはなるなどもあるべし。この頃幼き人の、女房などに時々読まするをたち聞けば、物よく言ふものの世にあるべきかな。そらごとをよくしなれたる口つきよりぞ言ひ出だすらむと覚ゆれど、さしもあらじや」と宣へば、「げにいつはり慣れたる人や、さまざまにさも酌み侍らむ。ただいとまことの事とこそ思う給へられけれ」とて、硯を押しやり給へば、「こちなくも聞えおとしてけるかな。神代より世にある事を、記し置きけるななり。日本紀などは、ただかたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしき事はあらめ」とて、笑ひ給ふ。
【現代語訳】
殿さまも、あちらでもこちらでもこのような絵物語がいろいろ散らばっていて終始お目につくので、「ええうるさい。女って、面倒がらず、人に騙されるように生まれついているのだな。たくさんの絵物語のなかに、真実はごく少ないだろうに、そうと知りながら、こうしたつまらないことに気を取られ、たぶらかされなさって、暑苦しい五月雨に髪の乱れるのもかまわないで、お書きになっていらっしゃる」と、お笑いなさるものの、また「こんな古物語でなくては、ほんとうに、どうして、紛らしようのない退屈をしのげよう。それにしても、このつくり話のなかに、なるほどそうもあろうと人情を見せ、もっともらしく話し続けてあるのは、実は他愛ないことと知りながらも、なにやら感動し、可憐な姫君が沈んでいるのを見ると、多少は心が引かれるものだな。それから、起こりそうもないことだとは思いながらも、ものものしい書きぶりに惑わされて、静かにもう一度聞くときにはいやになるけれども、そのときはひょっと面白いのはここだと思うのもあるだろう。近ごろ幼い姫が女房などにときどき読ませるのを立ち聞くと、口のうまい者がこの世にはいるものだ。こんな物語は嘘をつきなれた口が言い出すのだろうと思われるが、そうも限らないかな」と、おっしゃると、(玉鬘)「お言葉のとおり、嘘をつきなれた方は、いろいろと、そのようにもおわかりでございましょう。私などただただ本当のことと思われてなりません」と、硯をおそばから押しやりなさると、(源氏)「ひどく物語をけなしてしまったな。神代からこの世にあることを書き残したのだそうな。日本紀などはほんの一面にすぎないさ。物語のほうに、学問的なことも人間の一切も、あるのだろう」とおっしゃって、お笑いになる。
…………。
……。
平安時代、紫式部が著したとされる古典中の古典。五十四帖ある『源氏物語』のうち、今回紹介するのは、二十五番目にあたる「蛍」だ。
この巻のタイトルは、作中に登場する、玉鬘(光源氏の養女)が兵部卿宮(光源氏の異母弟)への返歌として詠んだ歌「声はせで、身をのみこがす、蛍こそ、言ふよりまさる、思ひなるらめ(鳴きもしないでひたすら身を焦がす蛍のほうこそ、口に出すよりももっと深い思いでいるでしょうに)」によるもので、光源氏が蛍で玉鬘の容姿を照らし出し、兵部卿宮を驚かせたという趣向にもちなんでいる。
本作「序章(中)」のタイトルは、「蛍」のなかにある「長雨、例の年よりもいたくして、晴るる方なくつれづれなれば、御方々絵物語などのすさびにて、明かし暮らし給ふ(長雨が例年よりもひどく降って、晴れ間もなく、なにもできないので、六条の院の御婦人方は、絵物語などの遊びごとで、一日一日を送っていらっしゃる)」の一文から引用している。
梅雨の時期だろう。上記にもあるとおり「暑かはしき五月雨の、髪の乱るるも知らで、書き給ふよ(蒸し暑い五月雨の、髪の乱れも知らずに物語を書き写しなさる)」という文章もある。
長雨が降り続き、暇を持て余していた女性たちは、退屈しのぎに、絵や物語などの慰みごと(気晴らしのための楽しみ)に明け暮れていた。
玉鬘は田舎育ちで、多くの物語に接してこなかっただけに、物語への関心が強く、玉鬘のもとには、物語の書写などに秀でた若い女房たちがたくさんいた。
この絵物語というのは、挿絵のある物語のことだろうか。清少納言の『枕草子』にも「つれづれ慰むもの(所在のなさを紛らわすもの)」として、碁、双六に並び、物語が登場する。
源氏物語も物語なわけだが、この当時、物語といえば女・子どもの読むものだとされていたから、光源氏も、女を「人に欺かれむと生まれたるものなれ(人から騙されようと生まれたものだね)」と蔑視し、物語については「(書かれている内容に)まことはいと少なからむを(本当のことはひどく少なかろうに)」と軽視している。
言うなれば、源氏物語の愛読者の大半である女性に対して、光源氏は、女は物語の作りごとを鵜呑みにするのだ、とからかっているわけだ。
しかし、その直後「こちなくも聞えおとしてけるかな(失礼にも物語の悪口を申しました)」と反省した光源氏は、すぐに「深きこと浅きことのけぢめこそあらめ、ひたぶるに虚言と言ひはてむも、ことの心たがひてなむありける(作品に深いのと浅いのとの違いはあろうけれども、一途に嘘偽りだと言い切るのも、実情に添わないことだ)」と述べたのだ。
源氏物語は、Aと表現すると必ずその後ろに「しかし、-Aでもある」と続け、AならA、BならBと単純に突っ走ることはせず、右を向けば左、左を見ればすぐに右へ目を向ける。対象を決めつけて描写したりは決してしないところに、紫式部の思慮深さが表れているのかもしれない。
また、この発言の直前に光源氏は「神代より世にあることを記し置きけるなるる『日本紀』などはただかたそばぞかし。これらにこそ道々しくくはしき事はあらめ(神代から世にあることを記しておいたという『日本紀』などは、実は、人生のほんの片はしのことが書いてあるだけで、数々の物語のほうにこそ人生の真実や詳しいことは書いてあるのでしょう)」と言っているが、これは紫式部自身が経験したことを反映しているのかもしれない。
当時の学問の世界で重んじられていた『日本書紀』に対して、こういう批評を下すことは、かなりの勇気がいることだったはずである。これは作者・紫式部自身の「物語」にかける意気込みを表明した文章だと言えるだろう。
生きていく上で「心に籠めがたく」思われることを記しつけたもの、それこそが物語であると、ここで光源氏に言わせている。紫式部にとって、そうした「胸に秘めておくことが難しい」ことを書きつけた「物語」は、すなわち『源氏物語』であったわけだろう。
紫式部が書いた日記によれば、「うちの上の、源氏の物語、人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに、『この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし』と、のたまはせけるを、ふと推しはかりに、『いみじうなむ才がる』と、殿上人などにいひちらして、日本紀の御局とぞつけたりける」とある。
つまり、ときの帝(一条天皇)は『源氏物語』を読み、「日本書紀から始まる六国史を大変よく読まれた博識な人物である」と褒め称えたのだが、勝手な憶測によって「インテリぶった人物だ」と言いふらされてしまった。そして、紫式部につけられたあだ名が「日本紀の御局」である、という。
…………。
……。
参考文献:
☆角川ソフィア文庫『源氏物語 第五巻 螢~藤裏葉』訳注:玉上琢彌(第十七版、二〇〇一年)
☆岩波文庫『源氏物語 四』校注:柳井滋、室伏信助、大朝雄二、鈴木日出男、藤井貞和、今西祐一郎(二〇一八年)
☆新潮社『新潮日本古典集成(第三五回) 紫式部日記・紫式部集』校注:山本利達(一九八〇年)
☆角川文庫ソフィア『新版 枕草子 下巻』訳注:石田譲二(第十七版、一九九六年)
☆岩波現代文庫『源氏物語』著:大野晋(二〇〇八年)
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