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章第三「化物坂、蟷螂坂」

(九)

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 茨木童子いばらきどうじとの対決翌日、とは言いつつ、まだ半日も経たないうちに朝を迎えていた。六月になって、初めての月曜日。運動会以来、一週間ぶりの登校だった。稲穂は集団登校に合流し、最後尾からついていく。先頭を切って歩く、彩の後ろ姿が見えた。しきりに振り返って、みんなの行動を確認する。そのたびに、大きなマスクに隠れてしまいそうな目が、数人分ほど離れた稲穂と合った。
「おはようございます、五瀬いつせさん」
 稲穂と同様に、集団登校の殿しんがりを任されていた美空みくが、校門の前で快活にあいさつする。それに対して「おはよう」と返すと、この日常が懐かしすぎて、稲穂の目には涙が溜まってくる。玄関のところで集団登校を離れ、各学年の下駄箱で上履きへ履き替えた。美空は彩へ声をかける。
「おはようございます! 受持うけもちさん、体調は大丈夫ですか」
 ……体調? そういえば彩は、ずっとマスクを着けていた。気怠けだるそうな表情で、彩は美空の質問に答える。
「あー、うん。だいぶ」
「それはよかったです。運動会で疲れが出たんでしょうか?」
 美空がほかの児童にあいさつしに離れていったタイミングで、稲穂は彩へ話しかける。「病欠ってことにしたの?」
「んー? まあ、物忌ものいみも病欠みたいなものですよ」
 なぜか敬語の彩がそう答えた。たぶん、一週間も学校を休んだ理由として、風邪とかにしていたのだろう。……そういえば、一週間前も物忌みなんちゃらとは言っていた。でも物忌みしてたのは、わたしのはずなんだけど。じゃあ、わたしは? と稲穂は疑問に思った。マスクをして、誤魔化ごまかさなくてもよいのだろうか。
 教室へ到着し、ランドセルをロッカーに入れていると、彩が窓際に|頬を押しつけて外を見ていた。外に、なにかあるのかな。稲穂は席へ着こうとして、最も後ろの中央の席に座る、ひとりの男子に気がつく。妖怪博士である、武良勝彦むらかつひこ。家へ訪ねてきた人物について、武良くんなら、なにか知っているかもしれない。ノートへ鉛筆を走らせる勝彦の前へ移動し、稲穂は話しかけた。
 なんとなく、彩に聞かれてはまずいような気がしたので、声のトーンを落とす「ね、ねえ。勝彦くん。家に勝手に上がり込んで、お茶していく妖怪? みたいなのって、なにか思いつく?」
「その特徴はもう、ぬらりひょんやないか!」事情を知らない勝彦は、大声で該当する妖怪を答える。「すぐわかったよー」
 なぜ、急に関西弁になったのかはともかく、稲穂はちらちらと彩のほうへ視線を送った。しかし、当の本人は机に突っし、こちらの様子にはまったく気づく素振りを見せない。妖怪に明るくない稲穂でも、さすがに「ぬらりひょん」は知っていた。そんな、全国的に有名な妖怪が、ウチにきていたのか?「ぬらりひょんって、秋田なんかにくるの?」
「ん? 湯沢ゆざわ市にきた菅江真澄すがえますみも『雪の出羽路でわじ』っていうのに書いてるよ。『さえの神坂かみざか』ってトコで、百鬼夜行が出るらしいってことが載ってるよ」
 記憶を手繰たぐり寄せると、母が麦酒ビール一缶なくなっていることを言っていた。「そ、その、ぬらりひょんって、お酒も飲んだりするの?」
 勝彦は小首をかしげた。少し考えたのち口を開く。「お酒? ほな違うかー。お茶や煙草たばこで一服するのは、聞いたことあるけど」
 あのときの状況を、より詳しく思い出す。「じゃあ、なぜか普通に対応しちゃうのは? お客さんだと思っちゃって……」
「やっぱり、ぬらりひょんやないか! 堂々とした振る舞いで、誰かの知り合いか、下手へたすりゃ、家のあるじだとすら思っちゃうからね」
「そうなんだ……じゃあさ、たきぎを置いて行ったりとかは?」
 勝彦は再び小首を傾げた。「薪? ほな違うかー」
「……それじゃあ……話は変わるんだけど、物忌みってなにかわかる?」
「モノイミ? あー。聞いたことあるような、ないような……たしか夜行やぎょうさんが……」
 必至に思い出そうとしてくれているところ悪いが、チャイムが鳴ってしまったので着席する。一時間目、二時間目と経過し、三時間目が始まる前の小休憩の時間、勝彦が「五瀬さんっ五瀬さんっ!」と手招きをしていた。稲穂が龍と勝彦の席の中間へ足を運ぶと、「物忌みについて、龍くんが教えてくれたよっ」と目を輝かせる。龍とは隣りの席なので、休み時間中に、いろいろと話してくれたのかもしれない。
 勝彦の真っ直ぐな眼差しを受けて、龍は思わず溜め息を漏らした。「なんだ、五瀬にかれたことなのか」
 稲穂がおそる恐る尋ねる。「御饌都神みけつかみくん、知ってるの?」
「物忌みっていうのは……」ほかの人の手前でもあるし、無下に断れないと悟った龍は話し始めた。「神事に奉仕するとき、一定期間、飲食や言行を慎んで、不浄を避けて身を清めること。それが平安時代になると、陰陽道おんみょうどうの影響もあって、方角や日が悪いとされたり、夢見が悪いときやけがれに触れたときなどに、それらを避けるために一定期間、家にこもって身を慎むことにもなってきた」
 へー……物忌みには、そういう意味があるんだ。「ありがとう、教えてくれて」
 自分の席へ戻って、後ろを振り返る。先生が幾度となく起こしていたにも関わらず、朝から彩はずっと寝続けていた。一週間も見張りをしていただろうし、やっぱり疲れているのかな。そっと、彩の顔をつついてみる。さわさわと、なにかが指先に触れた。産毛うぶげのようなものが、ほっぺたから生えているような感触だ。
 顔を覗き込もうとして、彩の隣りの席で、龍がぼそり「これがホントの来つ寝キツネ」と言った。……。……え、狐? 詳しく聞くよりも先に、三時間目開始のチャイムが鳴った。
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