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章第二「茨木童子」

(十五)操られたる朋友の言霊

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 涙を目に浮かべる稲穂を見おろし、間に合ったことで最悪の事態は免れたと安堵し、とりあえず彩は胸をでおろした。
 痛みつけられてよろこぶ性癖もなければ、もちろん、痛めつけている人を見て興奮する性癖も持ち合わせてはいない。
 ただただ、目の前の鬼に対しての憎悪が増していく。
 あの鬼女と同じ「にほひ」をまといながらも、あの鬼女とは比にならないほど圧倒的な力の差を感じる。


 稲穂の脚をつかむ鬼の右手を斬りつけるべく、最初の一撃を加えようとしたが、稲穂のことを持ち上げ、盾のように使いやがった。
 頭へと血がのぼり、顔を赤く染めた稲穂は、苦しそうにうなる。早いところ安全な場所へ避難させ、稲穂の手前もあり、なるべく家のなかでの戦闘はけたかった。


 窓に貼られた神符が無事なら、扉を閉めてしまえば家のなかは守られる。どうやって外へ出るかを、優先的に考えなければならない。
 相手から見える位置で、一か八か、手にした風呂敷を掲げて見せ、彩は「このなかに、鬼女の脚が入っている」と、声を張り上げて宣言した。
 手汗で落とさないよう風呂敷の結び目をしっかりと握り、後退ずさりのまま風除室を経由して外へ出ていく。


「まさにビフクの気配が……」


 彩の思惑どおり鬼の顔色が変わって、その視線は風呂敷の一点へと注がれる。移動するのに邪魔でしかない稲穂の脚は、彩の狙いどおりに手離してくれた。
 ビフク。それが、あの鬼女の名であろうことは、容易に想像がつく。
 鬼の巨躯によって、風除室に置かれた鉢植えの破片が散乱し、ひっかくような甲高い音を響かせるツノによって、風除室の天井には大きな穴があいた。
 無理やり外へ出たことによって、ガラスは飛散し、枠材は歪曲する。


 やあやあ、という声が静かな空間に反響する。彩は胸を張り、こぶしを腰に当てつつ「我が名は保食神うけもちのかみぞ」と名乗りをあげた。
 強く噛み締めた自分の口もとから、空気の漏れる音がする。ひとことひとことに言霊ことだまを乗せ、のろいとして空気を振動させた。
 なるだけ低い声を出し、彩は「うぬ何人なにびとぞ。の名をれ」と質問する。
 戦いの前の名乗なのりは、古くからの習わしだ。言霊とは違って、相手への強制力はないが、横道を嫌う鬼にとっては、最も効果的な、相手の名を知ることができる手段、と言えるだろう。
 相手の名を知れれば、対抗策を講じることもできるかもしれない。


「我は茨木いばらきなり」
「い、茨木って……まさか……」


 思ってもみなかった名に、驚きのあまり、彩は身体を硬直させる。それが、よくなかった。
 鬼は陰の気の住人であり、ほんの少しの変化、特に陰の気が揺れ動く、その機微に、とても敏感であった。
 つまるところ、泣いたり怒ったり恐怖したり、そういうのが大好物なのだ。
 彩は一瞬の隙を突かれ、あっという間に茨木と名乗る鬼との間隔を詰められてしまう。片手を前方に突き出し、相手を制限するための言霊を発する。


「茨木、動くな」


 彩の眼前で、茨木は、ぴたりと動きを止めた。どうやら、偽名ではなかったようだ。
 陽動作戦ができるだけの知能はあるようだし、並大抵の鬼ではない気はしていたが、正直、半信半疑ではあった。
 しかし、茨木童子いばらきどうじの名を叫んで動きを止められたのなら、本当に、かの・ ・茨木童子で間違いないようだ。


 かの鬼は呪いに抗おうとして、もがき苦しんでいる。封じ込めるのとは違って、呪いは永劫的ではないから、動きを止められているうちに、相手を倒さなければならない。
 彩は太刀を横に寝かせ、回転で勢いをつけつつ、右脚へと斬りかかる。太腿ふとももに当たったが、わずかな傷跡を残しただけで、むしろ彩のほうが損害は大きく、はじき飛ばされてしまう。


 両面宿儺りょうめんすくなと同様、どこかに必ず、弱点はあるはずだ。
 彩は、茨木童子の姿を見上げる。上半身は裸で、下半身はみのをつけただけという、これ以上ない軽装をしていた。
 鬼といえども、人間とそれほど急所は変わらないはずだ。
 彩は太刀を握りなおすと、刃を上向きにして、下から上へと振り上げる。


 金蹴りならぬ金斬りをお見舞いすした。雄叫びをあげる茨木童子に、彩は「悦んでいるのか? この変態め!」と罵声を浴びせる。
 すぐさま背後へと回り込んだ彩は、前屈みになった茨木童子の脹脛ふくらはぎに足をかけ、うなじを見おろせるほどの高さまで、飛びねた。
 水平に構えた太刀を、頸椎めがけて振りおろす。血飛沫ちしぶきを多量に浴びた太刀は、堅いは堅いが、じっくり時間をかければ斬れないこともない首に食い込ませる。
 しかし、いまはそこまでの時間を、かけていられない。もう右脚が、少しずつ動き始めていた。


 完全に解放されてしまう前に、もう一撃、同じ箇所を斬りつける。さっきよりも深くえぐれてはいるが、首を落とすまでには至らなかった。
 もう一発、頸椎に狙いを定めて太刀を振りかぶったところで、彩の身体は硬直してしまう。エコーがかかったような声で、稲穂の口から発せられた「保食神うけもちのかみ、動くな」という呪いのせいだった。


 虚ろな眼を彩のほうへ向ける稲穂が、風除室の前に立っているのを視認する。動けなくなったことで体勢を崩した彩は、そのまま茨木童子の肩から転げ落ちてしまった。
 肘を地面に強打させ、悶絶している彩のそばへ、まるで稲穂は、なにかにりつかれているように、身体を大きく左右に揺らしながら、近づいてくる。いや、現に憑りつかれているのだろう。
 どこかにひそんで死体を操っていた鬼は、気を失いかけ容易に操ることができそうな稲穂を、次の標的にしたのだ。実際、あの死体に残っていたものと同じ強烈な匂いが、稲穂の身体から漂ってくる。


 玄関に新しい神符を貼らなかったのは失策だった。身動きの取れない彩へ馬乗りになり、そのまま稲穂は両手で彩の首を握り締める。
 息ができずに、ほんの少ししか動かせない手足を精いっぱい動かす彩は、苦しまぎれに、稲穂のか細い手首をつかむ。
 起き上がったり突き飛ばしたり、巴投ともえなげをするだけの体力は稲穂よりもあるが、いまはなんとも力の入らない状態だった。
 こんなにも華奢きゃしゃな相手とは思えぬ力強い握力に、彩はどうすることもできず、仮にどうかできたとしても、稲穂を傷つけるようなマネができようはずもない。


 彩は朦朧もうろうとする意識のなかで、月光に照らされた「なにか」が、きらきらと光るのを見たような気がする。
 何本もの糸が、稲穂の腕や頭から伸びていたのだ。いわゆる南京操なんきんあやつりの要領で、この糸が操り主のもとへ繋がっているのだろう。
 これを切ることが叶えば、稲穂は正気を取り戻すわけだが、それは現状、とうてい不可能なことであった。


 そうこうしているうちに、茨木童子にかけた呪縛は完全に打ち砕かれ、彩と稲穂のふたりの小さな身体に、巨大な影が落とされる。
 彩の身体から稲穂が退けると、これまた巨大な茨木童子の手のひらが、彩の顔面に迫ってきてるのが見えた。片手で鷲掴わしづかみにされ、ぐったりとした身体を持ち上げられる。彩はすべなく、顔面をし潰され、周囲には肉塊や血潮が撒き散った。


 身体から切り離された魂状態の彩は、稲穂の横へと転がっていく依代よりしろを見おろす。勝利を確信したらしい茨木童子は、憎たらしく口角を上げた。
 そこまで見た次の瞬間、目の前には受持稲荷神社の主祭神・倉稲魂大神うかのみたまのおおかみの姿が現れる。
 彩がいたのは、夜にもかかわらず日光が窓格子から差し込む、温かみのある木目の壁に四方を囲まれた、実際にも暖かな部屋だった。
 忽然と現れた彩に驚いた様子の倉稲魂大神が問いかける。


「なにがあったのです?」


「新しい依代をお願いします!」
 強制的に神社へ戻されたことを、彩は瞬時に悟った。すべてを話している余裕はなく、要点だけを主祭神へと伝える。
「それと山のなかで弥兵衛が気を失っているので、市兵衛を五瀬家へ派遣してください!」


 それだけ言い終えると、部屋のなかにある鳥居へ飛び込む。くぐり抜けると、馴染みの深い廊下へと出た。
 こうして瞬間移動をし、再び五瀬家へと戻ってきたのだ。彩の真下には、稲穂が落としたと思しき御守おまもり。きっと襲われたときに、首にかけるための糸が切れてしまったのだろう。
 稲穂のむせび泣く声が聞こえ、彩は扉を開けて外へと飛び出す。


 そこで彩は、異変をの当たりにした。鬼の姿は見当たらず、気配も感じない。
 ただただ稲穂が悲痛な叫びをあげ、彩が脱ぎ捨てた依代のそばでうずくまっていた。
 その周囲を、あのとき・ ・ ・ ・と同じような、白い光が包み込む。稲穂のもとへ駆け寄った彩は、くずおれる稲穂の肩へ、背後からそっと手を置く。
 振り返った稲穂は、涙のたたえた目をパチクリとしばたたかせる。


「あー、わかる? あたし……」


 彩は気まずそうに頬をかく。
 いまの見た目年齢は、三十代といったところだ。でも稲穂は何度もこくこくと頷き、まだ涙の伝う口もとを緩ませた。
「うん、わかる。彩……」


「稲穂……」
 彩が優しく声をかけると、次第に、稲穂の震えていた身体も落ちついてくる。自分のほうへ身体を引き寄せ、彩は稲穂の頭をそっと撫《な》でた。
 稲穂は彩の胸のなかで、また声をあげて泣き出す。「もう、大丈夫だから。一週間、お疲れさま」
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