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章第三「化物坂、蟷螂坂」

(一)女神より助けらるる鬼

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 日づけが変わるころ、美福門びふくもんの鬼女は五瀬家から離れ、山中を逃げていた。途中で西側の空が一瞬だけ光ったように見えたが、雷鳴が轟いてくるわけでもなかったので構わずに遁走を続ける。へし折られたツノを片手でかばいながら、なんとか太陽がのぼりきる前に阿仁あにへとたどり着く。もうとっくに、片脚を失っていても走るのには支障がないほど、慣れてしまっていた。
 計画がうまく進んでいれば、いまごろ美福門の鬼女の右脚は、自分のもとへ、とっくに戻ってきているはずだった。朱雀門すざくもんの鬼がこしらえた、意思を持たない傀儡くぐつ。それを藻壁門そうへきもんの鬼が操って、あの随身ずいじんを遠ざけたまではよかったのだが、思いのほか戻ってくるのが早かった。
 大勢の鬼たちが集まっている場所へ美福門の鬼女が合流したとき、たむろしている鬼たちの大半が、美福門の鬼女の顔を見て驚愕の表情を見せる。みんなの視線が、顔というよりもっと上のほうへ注がれているのに気づく。一体の鬼から「それ、どうしたんですか?」とかれ、自分のひたいをさすり、ようやく自分が置かれた状況を理解した。
後胤こういん如何いかがしけむ?」
 牛車のなかから、女性の声がする。美福門の鬼女は即座に反応し、牛車の中にいる羅城門らじょうもんの鬼女へ「わかりません。父……茨木いばらきの安否もいまだ不明です」と報告した。物見ものみから覗く目が光る。そのとき、藻壁門の鬼が息をはずませて姿を現した。その奥から、茨木童子どうじが顔が見せる。ふたりとも無事だったことに、美福門の鬼女は、ほっと胸をでおろした。
「大丈夫ですか?」「ああ、問題ない。それよりも脚が……」
 茨木童子は愛娘を一瞥いちべつし、申し訳なさそうに唇を噛み締める。ふたりは、美福門の鬼女も関知していなかったことを、羅城門の鬼女に告げる。もし陽動作戦に使った人形が使いものにならなくなったら、今度は後胤を操って随身ずいじんを殺す手はずになっていたが、作戦は失敗に終わってしまったらしい。悔しそうに藻璧門の鬼が「いとも容易たやすく糸を切られてしまった」と独りごちていた。木の幹へ寄りかかっている朱雀門すざくもんの鬼に、茨木童子は激しい剣幕で詰め寄っていく。
「朱雀! なんだ、あれは。戦えないのか? 触れた途端、水泡にしたぞ!」
 美福門の鬼女は、その現場を目撃していなかったからわからないが、いわく、文字どおり水泡に帰したのだという。その人形の製作者である朱雀門の鬼は、やれやれと言わんばかりに肩をすくめる。そして、人形をつくり出す前に話していたことを、もう一度、滔々とうとうと告げる。完成は一〇〇日後であり、一〇〇日がたないうちに触れると、その刹那せつなに消え失せる、ということは、事前に承知のうえだった。朱雀門の鬼が、お主は短気だな、とつぶやく。
「一〇〇日のうちの、まだ七日も経っていなかったのだから、当然だ。紀納言きのしょうげんですら、八十日は待てたというのに」「無理を言うな。物忌ものいみが明けるまでに取り戻さねばならなかったのだぞ! いつなんどき、入り用になるかわからぬ。あらかじめ完璧なものを作っておけ」
 早いとこパチンコを打ちに行きたくてウズウズし、心底、面倒くさそうに思っていそうな朱雀門の鬼が、声を荒らげる茨木童子からくだされた命令に対し、生返事をした。実体を持ったものならば、藻壁門の鬼の能力で操ることは可能だが、水になってしまっては難しい。水や気象などを操作するには、待賢門たいけんもんの鬼の出番だ。そうならないよう、堅強な人形を仕上げてもらわねば、陽動するにしても、逃げることしか能のない木偶でくの坊では、負けない代わりに勝ち目もない。
「逃げられたのだから、よかったではないか」美福門の鬼女のほうを、朱雀門の鬼は、嘲笑するかのように見おろした。そして、ねっとりとした嫌みを存分に蓄えたひとことを言い加える。「さすがは茨木の娘だ。逃げるのだけは優れているな」
 右脚の奪還は失敗に終わり、美福の脚はもう戻ることがなくなった。痛々しい事実を直視できず、茨木童子は手近の部下へ「美福を乗せる駕籠かごを用意してくれ」と命令をくだす。すぐさま調達に走ったのだろう、忍者のごとく、その部下は闇に姿をくらました。
 美福門の鬼女が、悔しげに「昼間だったから、負けたものと思っていたのに」と、誰に言うでもなく、自分の思いを吐露する。考えれば考えるほど感情がたかぶってきて、日の神の加護がないであろう夜中に負けてしまう、という現実を受け入れがたくなってきた。羅城門の鬼女が物見の中から、独自の考察を披露する。美福門の鬼女は、未だ羅城門の鬼女の顔を見たことがなかった。
「加護をえうずとせずもや。ばかりがうなる力を持《も》たれり、といへるべし(加護を必要としていないのかもしれない。それほど強大な力を持っている、ということだろう)」「それほどに? なぜですか。たかが子孫ではないですか。血というのは、ときをるごとに薄まるはずなのに」「そのゆゑは知らず」
 そう言ったっきり、羅城門の鬼女は閉口を決めこむ。そのとき、一陣の風が吹いた。まさに、いま話題にのぼったばかりの「血」の匂いが、その風によって運ばれてくる。も言われぬ苦い記憶を想起させ、筆舌に尽くしがたい憎悪をき立てるような、そんな匂いが、それには含まれているようだ。茨木童子は顔をしかめる。「みなもとの血筋か? 忌々いまいましい……」
 …………。
 ……。
 今宵こよい、美福門の鬼女は、五瀬家の周囲を見張ることのみに従事していた。本当なら、誰とも鉢合はちあわせず、万事うまくいき、なにごともなかったかのように、この場を立ち去ることばかりを願っていたのだが、そんな夢みたいな希望は、風前の灯火ともしびのごと消えていく。目の前に、藻壁門の鬼が傀儡によって遠ざけていたはずの、あの随身が姿を現したのだ。
 必死の抵抗もむなしく、攻撃はかわされ、どんどんと距離が詰められていく。すぐ近くまで迫りきた随身の手には太刀たちが握られ、「願はくば」という言霊ことだまのようなことをつぶやく。美福門の鬼女は、もう間に合わないだろうことを悟り、刺し違える覚悟で、懐刀ふところがたなに手をえる。これでは相手の太刀に比べて短く、自分が一方的に刎頸ふんけいされるだけであろうことを自覚しながらも、手をこまねいているよりはマシだと思ったのだ。
 父上だけでも生き延びられるのであれば、などという崇高な思いにも至らなかった。死にたくない……! この瞬間、美福門の鬼女は自分が鬼であることを忘れ、恐怖を感じてしまったのだ。さやから抜くこともなく、懐刀を、ただただ固く握りしめる。恐怖のあまり、逃げだすことも、身じろぎすることさえもできなくなっていた。そんなとき、随身の迫りくる速度が、わずかに緩まったのを感じる。太刀は首をねることなく、美福門の鬼女の頭上をかすめていった。
「死にたくなければ、とっとと立ち去れ」
 その随身は、言霊ことだまとしてではなく、ぼそりと、そう呟いた。明らかに自分へ向けられたと思われる言葉に、美福門の鬼女は呆気あっけにとられてしまう。まさか、見逃してくれた……? これ以上、随身は美福門の鬼女に構うことなく、そのままの勢いで、風除室のなかへと進んでいく。極度の緊張から解放された美福門の鬼女は、弛緩する身体をふるい立たせ、残った左脚をたくみに使いながら、山の中へと逃げていった。ひとっ飛びに駆け出す余力もなく、狭い畦道あぜみちつまづきながら、一歩ずつ着実に歩を進める。
 そして、羅城門の鬼女たちと合流するに至った。そして、首のかわりにツノが斬られていることを悟ったのだ。どうして、あの随身は助けてくれたのだろうか。
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