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章第二「茨木童子」
(十二)鬼の動き初むるとき
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六月、第一日曜日の逢魔時。稲穂が物忌みに入ってから、ほんの数時間後、夜が明ければ、ちょうど一週間が経過したことになる。
ずっと屋根の上にいる彩は、最後の最後まで気を抜くことが許されない。鬼が動くとすれば、もう今夜しかないだろう。
なにごともなく、この時間が過ぎ去ってくれることを祈りながらも、彩は、ひしひしと、物忌みが明ける前に再び鬼が訪れるのでは、というような予感を覚えていた。
早いもので、また今年も半分が過ぎようとし、間もなく暦上では、梅雨の時期を迎える。もちろん秋も好きだが、五月も六月も、一、二位を争うほど好きな季節であった。
五月の異称「さつき」の由来は、早苗月が短くなったものという説があり、六月の異称「みなづき」も稲作関係の名づけで、漢字では水無月と書くが、本来「な」は助詞として使われ、田圃へ水を引くから「水な月」だとする説もある。
水田に走る青嵐を思いきり吸いこみ、好きな香りを鼻いっぱいに堪能するべく、鼻孔を膨らませて深呼吸する。
尾根に隠れゆく太陽を見つめながら、きたるべき戦闘に備えて気持ちを整えるべく、彩は座禅を組む。
神使である弥兵衛と市兵衛は、見張りを一日ごとに交代しているので、七日目のきょう、隣りには弥兵衛が控えている。
交代の際に弥兵衛が持ってきた、握り飯の入っていた空箱を、再び風呂敷で包んでいたとき、弥兵衛から「うぐっ……!」という呻き声が聞こえた。
つんと鼻を衝く異臭でも感じ取ったか、弥兵衛は前脚で鼻を押さえ込み、まるで汚物を見るような眼差しを、彩のほうへと向ける。心外とばかりに、彩は「な、なによ?」と睨み返す。
「いや。ちょっと」弥兵衛は距離を取ったまま、遠くから声をかけた。
「おととい、きたときから思ってましたけど。なんだか、においますよ?」
「ト、トイレにはちゃんと行ってるし、手だって洗ってるんだからぁ!」
彩は立ち上がって、両手のひらを前に突き出しながら、ずんずんと近づいて行こうとするが、弥兵衛は「スメハラですっ」と言わんばかりに遠ざかっていく。逃げ惑いながら、弥兵衛は首を横に振り、諫言した。
「いやいや、手だけじゃなくて。身体、洗ってますか? 生身を持っているんですから、定期的に洗ってください」「じゃあ、ほら、あれ買ってきてよ。勝手に身体を洗ってくれるやつ。そうそう、人間洗濯機!」
「どこで売っているんですか、それ。とにかく、ここは見張っておきますので、行ってきてください」
彩は、なおも頑なに「持ち場を離れるわけにはいかないの!」と言い張った。
これ以上、弥兵衛と不毛な論争を繰り広げる気は毛頭なく、そんなにキツイんだったら分担しようかと、自分が風呂に行く提案をさりげなく却下する方向で、彩が言う。
そして北側と南側に分かれ、見張りを続けることにした。
そうすることによって、一か所に固まっているよりも死角をなくせると考えたからであり、決して神使なんかに指摘されたことを気にしているわけではない。
しかし、せっかく離れてあげたにもかかわらず、一向に弥兵衛の集中力は上がらないようで、鼻を両前脚で圧迫したまま、彩のほうへ振り返った。
「におい漂ってきてますけど。急に、こっちが風下に……」
「なにすんのっ」
彩は弥兵衛に対してではなく、わざわざ向きを変えて吹いた風女神に向かって睨みつけ、唇を尖らせる。あたりは、すっかり暗くなっていたから、姿を目視で確認するよりも先に、かすかな気配を嗅ぎ取った。
風上に目を向けると、隣家の灯りに照らされ、降りてくる人影を浮かび上がらせる。
いままで感じたことのない複雑な気配を持つ鬼で、一週間前に対峙した鬼女とは異なっていた。その鬼はまっすぐと屋根へ下り立ち、着地するや否や、彩のほうに向かって斬りかかってくる。
風女神のおかげで風向きが変わり、気配に間一髪のところで気づけたことに感謝した。避けたままの体勢で、彩は屋根から転がり落ち、急いで水田のなかへと手を突っ込む。
屋根を見上げれば、どうやら市兵衛が応戦しているらしく、狐松明が凄まじい光量を放ち、宙を舞っていた。加勢するべく、彩は取ったばかりの稲に向かって囁く。
「いただきます」
まだ植えられたばかりの短い水稲は、見る見るうちに小刀へと変貌を遂げた。屋根の上へ戻ったところで、彩以上のにおいを発している、その影は、ひとっとびに水田を越え、五瀬家の敷地外へ逃げだしていく。
水田の先にある森へと身を隠しつつ、そのまま山の奥へ逃げようという算段なのか、彩は急いであとを追いかける。走る準備のため、小刀は一旦、咥えながら、弥兵衛へ指示を出した。
「向こうから回って! 挟み撃ちにしよう!
せっかく一週間も粘ったのだから、ここで逃がすわけにはいかない。畦道へ着地し、もう何本かの稲を引き抜く。
今度はそれらを投石器と、先端の尖った数本の短い棒に変化させる。
刀以外を生み出したのは初めてだったが、彩が思っていた以上に上手くいったようで、Y字に分かれたところへ棒を乗せ、片目をつぶって集中する。
「願はくは、あの右の足に射させて賜ばせ給へ」
命中するように言霊の力も借り、つまんでいたゴムを勢いよく離した。
それは見事に鬼の右足へと命中したが、まったく気にした様子もなく、三十間、あるいは一町の半分ほどの間隔をあけたまま、鬼は前方をただひたすらに逃亡し続ける。
次いで左足や右肩にも命中させるが、鬼は体勢を崩しかけただけで速度を緩めることはなかった。
横から飛ばしてくれた狐松明によって、ほんの少しだけ隙が生まれ、彩はそのぶん少しずつ距離を縮めていく。
鬼との間隔が近くなったおかげで、的を射ることが容易になった。
あくまでも言霊は、成功率を上げるためのもので、よく狙いを定めなければ、当然のごと外してしまう。
頭部に向かって棒切れを射出し、それも見事、命中させることに成功した。
わずかに一枚の皮のみでつながっている鬼の首が、いつ千切れても不思議ではないほど大きく前後左右へと揺れている。
彩は、まるで意志の感じられない背中を見つめた。鬼というよりも、生ける屍を追いかけているかのような気分になる。よく鬼のことを観察してみれば、脚しか動いていないようだった。
腕を用いて、周囲の草木を払い除ける動作もしないせいで、全身には無数の小枝が刺さっている。なおも、防戦一方の姿勢をとっている鬼に、彩は違和感を覚えた。
力が弱いから逃げることしかできない、というのなら彩にも理解はできるが、ある程度の知能を持った鬼なのであれば、ここまで無抵抗を貫き通しているのは些か不自然だ。
能あるタカが爪を隠すことはあったとしても、ここまで強大な気配を放っている鬼なのに、まるっきり戦闘能力がないなどということはありえるのだろうか。
「くそっ! ちょこまかと……!」
急に鬼が方向転換をしたので、彩も樹皮を抱くようにしてUターンする。同じ見た目の樹木が乱立しているせいで気づかなかったが、同じところをグルグルまわっているだけの気がしてならない。
その証拠に、十数分が経っても五瀬の家を臨む範囲から離れることなく、さほど広くもないはずの山林から抜けることもなく、脱出することを拒んでいるように見える。
鬼の不可解な行動に、彩は些かの疑問を浮かべる。彩の考えうる目的と、実際の行動には、明らかな差異があるように感じた。
仲間の鬼を助けるために、切り落とされた脚を取り戻しにきたのではないのだろうか。
取り戻すだけなら強行突破してくるものだと思い、この一週間、ずっと脾肉を削いで準備をしてきた。
別の意味で、スクワットの成果を披露することになろうとは、一週間前の彩には、想像もついていなかった。
ずっと屋根の上にいる彩は、最後の最後まで気を抜くことが許されない。鬼が動くとすれば、もう今夜しかないだろう。
なにごともなく、この時間が過ぎ去ってくれることを祈りながらも、彩は、ひしひしと、物忌みが明ける前に再び鬼が訪れるのでは、というような予感を覚えていた。
早いもので、また今年も半分が過ぎようとし、間もなく暦上では、梅雨の時期を迎える。もちろん秋も好きだが、五月も六月も、一、二位を争うほど好きな季節であった。
五月の異称「さつき」の由来は、早苗月が短くなったものという説があり、六月の異称「みなづき」も稲作関係の名づけで、漢字では水無月と書くが、本来「な」は助詞として使われ、田圃へ水を引くから「水な月」だとする説もある。
水田に走る青嵐を思いきり吸いこみ、好きな香りを鼻いっぱいに堪能するべく、鼻孔を膨らませて深呼吸する。
尾根に隠れゆく太陽を見つめながら、きたるべき戦闘に備えて気持ちを整えるべく、彩は座禅を組む。
神使である弥兵衛と市兵衛は、見張りを一日ごとに交代しているので、七日目のきょう、隣りには弥兵衛が控えている。
交代の際に弥兵衛が持ってきた、握り飯の入っていた空箱を、再び風呂敷で包んでいたとき、弥兵衛から「うぐっ……!」という呻き声が聞こえた。
つんと鼻を衝く異臭でも感じ取ったか、弥兵衛は前脚で鼻を押さえ込み、まるで汚物を見るような眼差しを、彩のほうへと向ける。心外とばかりに、彩は「な、なによ?」と睨み返す。
「いや。ちょっと」弥兵衛は距離を取ったまま、遠くから声をかけた。
「おととい、きたときから思ってましたけど。なんだか、においますよ?」
「ト、トイレにはちゃんと行ってるし、手だって洗ってるんだからぁ!」
彩は立ち上がって、両手のひらを前に突き出しながら、ずんずんと近づいて行こうとするが、弥兵衛は「スメハラですっ」と言わんばかりに遠ざかっていく。逃げ惑いながら、弥兵衛は首を横に振り、諫言した。
「いやいや、手だけじゃなくて。身体、洗ってますか? 生身を持っているんですから、定期的に洗ってください」「じゃあ、ほら、あれ買ってきてよ。勝手に身体を洗ってくれるやつ。そうそう、人間洗濯機!」
「どこで売っているんですか、それ。とにかく、ここは見張っておきますので、行ってきてください」
彩は、なおも頑なに「持ち場を離れるわけにはいかないの!」と言い張った。
これ以上、弥兵衛と不毛な論争を繰り広げる気は毛頭なく、そんなにキツイんだったら分担しようかと、自分が風呂に行く提案をさりげなく却下する方向で、彩が言う。
そして北側と南側に分かれ、見張りを続けることにした。
そうすることによって、一か所に固まっているよりも死角をなくせると考えたからであり、決して神使なんかに指摘されたことを気にしているわけではない。
しかし、せっかく離れてあげたにもかかわらず、一向に弥兵衛の集中力は上がらないようで、鼻を両前脚で圧迫したまま、彩のほうへ振り返った。
「におい漂ってきてますけど。急に、こっちが風下に……」
「なにすんのっ」
彩は弥兵衛に対してではなく、わざわざ向きを変えて吹いた風女神に向かって睨みつけ、唇を尖らせる。あたりは、すっかり暗くなっていたから、姿を目視で確認するよりも先に、かすかな気配を嗅ぎ取った。
風上に目を向けると、隣家の灯りに照らされ、降りてくる人影を浮かび上がらせる。
いままで感じたことのない複雑な気配を持つ鬼で、一週間前に対峙した鬼女とは異なっていた。その鬼はまっすぐと屋根へ下り立ち、着地するや否や、彩のほうに向かって斬りかかってくる。
風女神のおかげで風向きが変わり、気配に間一髪のところで気づけたことに感謝した。避けたままの体勢で、彩は屋根から転がり落ち、急いで水田のなかへと手を突っ込む。
屋根を見上げれば、どうやら市兵衛が応戦しているらしく、狐松明が凄まじい光量を放ち、宙を舞っていた。加勢するべく、彩は取ったばかりの稲に向かって囁く。
「いただきます」
まだ植えられたばかりの短い水稲は、見る見るうちに小刀へと変貌を遂げた。屋根の上へ戻ったところで、彩以上のにおいを発している、その影は、ひとっとびに水田を越え、五瀬家の敷地外へ逃げだしていく。
水田の先にある森へと身を隠しつつ、そのまま山の奥へ逃げようという算段なのか、彩は急いであとを追いかける。走る準備のため、小刀は一旦、咥えながら、弥兵衛へ指示を出した。
「向こうから回って! 挟み撃ちにしよう!
せっかく一週間も粘ったのだから、ここで逃がすわけにはいかない。畦道へ着地し、もう何本かの稲を引き抜く。
今度はそれらを投石器と、先端の尖った数本の短い棒に変化させる。
刀以外を生み出したのは初めてだったが、彩が思っていた以上に上手くいったようで、Y字に分かれたところへ棒を乗せ、片目をつぶって集中する。
「願はくは、あの右の足に射させて賜ばせ給へ」
命中するように言霊の力も借り、つまんでいたゴムを勢いよく離した。
それは見事に鬼の右足へと命中したが、まったく気にした様子もなく、三十間、あるいは一町の半分ほどの間隔をあけたまま、鬼は前方をただひたすらに逃亡し続ける。
次いで左足や右肩にも命中させるが、鬼は体勢を崩しかけただけで速度を緩めることはなかった。
横から飛ばしてくれた狐松明によって、ほんの少しだけ隙が生まれ、彩はそのぶん少しずつ距離を縮めていく。
鬼との間隔が近くなったおかげで、的を射ることが容易になった。
あくまでも言霊は、成功率を上げるためのもので、よく狙いを定めなければ、当然のごと外してしまう。
頭部に向かって棒切れを射出し、それも見事、命中させることに成功した。
わずかに一枚の皮のみでつながっている鬼の首が、いつ千切れても不思議ではないほど大きく前後左右へと揺れている。
彩は、まるで意志の感じられない背中を見つめた。鬼というよりも、生ける屍を追いかけているかのような気分になる。よく鬼のことを観察してみれば、脚しか動いていないようだった。
腕を用いて、周囲の草木を払い除ける動作もしないせいで、全身には無数の小枝が刺さっている。なおも、防戦一方の姿勢をとっている鬼に、彩は違和感を覚えた。
力が弱いから逃げることしかできない、というのなら彩にも理解はできるが、ある程度の知能を持った鬼なのであれば、ここまで無抵抗を貫き通しているのは些か不自然だ。
能あるタカが爪を隠すことはあったとしても、ここまで強大な気配を放っている鬼なのに、まるっきり戦闘能力がないなどということはありえるのだろうか。
「くそっ! ちょこまかと……!」
急に鬼が方向転換をしたので、彩も樹皮を抱くようにしてUターンする。同じ見た目の樹木が乱立しているせいで気づかなかったが、同じところをグルグルまわっているだけの気がしてならない。
その証拠に、十数分が経っても五瀬の家を臨む範囲から離れることなく、さほど広くもないはずの山林から抜けることもなく、脱出することを拒んでいるように見える。
鬼の不可解な行動に、彩は些かの疑問を浮かべる。彩の考えうる目的と、実際の行動には、明らかな差異があるように感じた。
仲間の鬼を助けるために、切り落とされた脚を取り戻しにきたのではないのだろうか。
取り戻すだけなら強行突破してくるものだと思い、この一週間、ずっと脾肉を削いで準備をしてきた。
別の意味で、スクワットの成果を披露することになろうとは、一週間前の彩には、想像もついていなかった。
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