上 下
37 / 44
章第二「茨木童子」

(十二)鬼の動き初むるとき

しおりを挟む
 六月、第一日曜日の逢魔時おうまがとき。稲穂が物忌ものいみに入ってから、ほんの数時間後、夜が明ければ、ちょうど一週間が経過したことになる。
 ずっと屋根の上にいる彩は、最後の最後まで気を抜くことが許されない。鬼が動くとすれば、もう今夜しかないだろう。
 なにごともなく、この時間が過ぎ去ってくれることを祈りながらも、彩は、ひしひしと、物忌みが明ける前に再び鬼が訪れるのでは、というような予感を覚えていた。


 早いもので、また今年も半分が過ぎようとし、間もなく暦上では、梅雨つゆの時期を迎える。もちろん秋も好きだが、五月さつき六月みなづきも、一、二位を争うほど好きな季節であった。
 五月の異称「さつき」の由来は、早苗さなえ月が短くなったものという説があり、六月の異称「みなづき」も稲作関係の名づけで、漢字では水無月水のない月と書くが、本来「な」は助詞として使われ、田圃へ水を引くから「水月」だとする説もある。


 水田に走る青嵐あおあらしを思いきり吸いこみ、好きな香りを鼻いっぱいに堪能するべく、鼻孔を膨らませて深呼吸する。
 尾根に隠れゆく太陽を見つめながら、きたるべき戦闘に備えて気持ちを整えるべく、彩は座禅を組む。
 神使である弥兵衛と市兵衛は、見張りを一日ごとに交代しているので、七日目のきょう、隣りには弥兵衛が控えている。


 交代の際に弥兵衛が持ってきた、握り飯の入っていた空箱を、再び風呂敷で包んでいたとき、弥兵衛から「うぐっ……!」といううめき声が聞こえた。
 つんと鼻をく異臭でも感じ取ったか、弥兵衛は前脚で鼻を押さえ込み、まるで汚物を見るような眼差まなざしを、彩のほうへと向ける。心外とばかりに、彩は「な、なによ?」とにらみ返す。


「いや。ちょっと」弥兵衛は距離を取ったまま、遠くから声をかけた。
「おととい、きたときから思ってましたけど。なんだか、においますよ?」


「ト、トイレにはちゃんと行ってるし、手だって洗ってるんだからぁ!」


 彩は立ち上がって、両手のひらを前に突き出しながら、ずんずんと近づいて行こうとするが、弥兵衛は「スメハラですっ」と言わんばかりに遠ざかっていく。逃げ惑いながら、弥兵衛は首を横に振り、諫言した。


「いやいや、手だけじゃなくて。身体、洗ってますか? 生身を持っているんですから、定期的に洗ってください」「じゃあ、ほら、あれ買ってきてよ。勝手に身体を洗ってくれるやつ。そうそう、人間洗濯機!」
「どこで売っているんですか、それ。とにかく、ここは見張っておきますので、行ってきてください」


 彩は、なおもかたくなに「持ち場を離れるわけにはいかないの!」と言い張った。
 これ以上、弥兵衛と不毛な論争を繰り広げる気は毛頭なく、そんなにキツイんだったら分担しようかと、自分が風呂に行く提案をさりげなく却下する方向で、彩が言う。
 そして北側と南側に分かれ、見張りを続けることにした。
 そうすることによって、一か所に固まっているよりも死角をなくせると考えたからであり、決して神使なんかに指摘されたことを気にしているわけではない。
 しかし、せっかく離れてあげたにもかかわらず、一向に弥兵衛の集中力は上がらないようで、鼻を両前脚で圧迫したまま、彩のほうへ振り返った。


「におい漂ってきてますけど。急に、こっちが風下に……」
「なにすんのっ」


 彩は弥兵衛に対してではなく、わざわざ向きを変えて吹いた風女神しなとべに向かって睨みつけ、唇を尖らせる。あたりは、すっかり暗くなっていたから、姿を目視で確認するよりも先に、かすかな気配を嗅ぎ取った。
 風上に目を向けると、隣家のあかりに照らされ、降りてくる人影を浮かび上がらせる。
 いままで感じたことのない複雑な気配を持つ鬼で、一週間前に対峙した鬼女とは異なっていた。その鬼はまっすぐと屋根へり立ち、着地するや否や、彩のほうに向かって斬りかかってくる。


 風女神のおかげで風向きが変わり、気配に間一髪のところで気づけたことに感謝した。けたままの体勢で、彩は屋根から転がり落ち、急いで水田のなかへと手を突っ込む。
 屋根を見上げれば、どうやら市兵衛が応戦しているらしく、狐松明きつねたいまつが凄まじい光量を放ち、宙を舞っていた。加勢するべく、彩は取ったばかりの稲に向かってささやく。


「いただきます」
 まだ植えられたばかりの短い水稲は、見る見るうちに小刀へと変貌を遂げた。屋根の上へ戻ったところで、彩以上のにおいを発している、その影は、ひとっとびに水田を越え、五瀬家の敷地外へ逃げだしていく。
 水田の先にある森へと身を隠しつつ、そのまま山の奥へ逃げようという算段なのか、彩は急いであとを追いかける。走る準備のため、小刀は一旦、くわえながら、弥兵衛へ指示を出した。
向こうから回ってむほうふぁらまらっふぇ! 挟み撃ちにしようはふぁゐふひにひよう


 せっかく一週間も粘ったのだから、ここで逃がすわけにはいかない。畦道あぜみちへ着地し、もう何本かの稲を引き抜く。
 今度はそれらを投石器スリングショットと、先端の尖った数本の短い棒に変化させる。
 刀以外を生み出したのは初めてだったが、彩が思っていた以上に上手うまくいったようで、Y字に分かれたところへ棒を乗せ、片目をつぶって集中する。


願はねがわくは、あの右の足に射させてばせ給へたまえ


 命中するように言霊ことだまの力も借り、つまんでいたゴムを勢いよく離した。
 それは見事に鬼の右足へと命中したが、まったく気にした様子もなく、三十間、あるいは一町の半分ほどの間隔をあけたまま、鬼は前方をただひたすらに逃亡し続ける。
 いで左足や右肩にも命中させるが、鬼は体勢を崩しかけただけで速度を緩めることはなかった。
 横から飛ばしてくれた狐松明によって、ほんの少しだけ隙が生まれ、彩はそのぶん少しずつ距離を縮めていく。


 鬼との間隔が近くなったおかげで、的を射ることが容易になった。
 あくまでも言霊は、成功率を上げるためのもので、よく狙いを定めなければ、当然のごと外してしまう。
 頭部に向かって棒切れを射出し、それも見事、命中させることに成功した。
 わずかに一枚の皮のみでつながっている鬼の首が、いつ千切ちぎれても不思議ではないほど大きく前後左右へと揺れている。


 彩は、まるで意志の感じられない背中を見つめた。鬼というよりも、生けるしかばねを追いかけているかのような気分になる。よく鬼のことを観察してみれば、脚しか動いていないようだった。
 腕を用いて、周囲の草木を払いける動作もしないせいで、全身には無数の小枝が刺さっている。なおも、防戦一方の姿勢をとっている鬼に、彩は違和感を覚えた。


 力が弱いから逃げることしかできない、というのなら彩にも理解はできるが、ある程度の知能を持った鬼なのであれば、ここまで無抵抗を貫き通しているのはいささか不自然だ。
 能あるタカが爪を隠すことはあったとしても、ここまで強大な気配を放っている鬼なのに、まるっきり戦闘能力がないなどということはありえるのだろうか。


くそっふほっ! ちょこまかとひょほまひゃほ……!」


 急に鬼が方向転換をしたので、彩も樹皮を抱くようにしてUターンする。同じ見た目の樹木が乱立しているせいで気づかなかったが、同じところをグルグルまわっているだけの気がしてならない。
 その証拠に、十数分が経っても五瀬の家を臨む範囲から離れることなく、さほど広くもないはずの山林から抜けることもなく、脱出することを拒んでいるように見える。


 鬼の不可解な行動に、彩はいささかの疑問を浮かべる。彩の考えうる目的と、実際の行動には、明らかな差異があるように感じた。
 仲間の鬼を助けるために、切り落とされた脚を取り戻しにきたのではないのだろうか。
 取り戻すだけなら強行突破してくるものだと思い、この一週間、ずっと脾肉うちももを削いで準備をしてきた。
 別の意味で、スクワットの成果を披露することになろうとは、一週間前の彩には、想像もついていなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

漫画の寝取り竿役に転生して真面目に生きようとしたのに、なぜかエッチな巨乳ヒロインがぐいぐい攻めてくるんだけど?

みずがめ
恋愛
目が覚めたら読んだことのあるエロ漫画の最低寝取り野郎になっていた。 なんでよりによってこんな悪役に転生してしまったんだ。最初はそう落ち込んだが、よく考えれば若いチートボディを手に入れて学生時代をやり直せる。 身体の持ち主が悪人なら意識を乗っ取ったことに心を痛める必要はない。俺がヒロインを寝取りさえしなければ、主人公は精神崩壊することなくハッピーエンドを迎えるだろう。 一時の快楽に身を委ねて他人の人生を狂わせるだなんて、そんな責任を負いたくはない。ここが現実である以上、NTRする気にはなれなかった。メインヒロインとは適切な距離を保っていこう。俺自身がお天道様の下で青春を送るために、そう固く決意した。 ……なのになぜ、俺はヒロインに誘惑されているんだ? ※他サイトでも掲載しています。 ※表紙や作中イラストは、AIイラストレーターのおしつじさん(https://twitter.com/your_shitsuji)に外注契約を通して作成していただきました。おしつじさんのAIイラストはすべて商用利用が認められたものを使用しており、また「小説活動に関する利用許諾」を許可していただいています。

蘇生魔法を授かった僕は戦闘不能の前衛(♀)を何度も復活させる

フルーツパフェ
大衆娯楽
 転移した異世界で唯一、蘇生魔法を授かった僕。  一緒にパーティーを組めば絶対に死ぬ(死んだままになる)ことがない。  そんな口コミがいつの間にか広まって、同じく異世界転移した同業者(多くは女子)から引っ張りだこに!  寛容な僕は彼女達の申し出に快諾するが条件が一つだけ。 ――実は僕、他の戦闘スキルは皆無なんです  そういうわけでパーティーメンバーが前衛に立って死ぬ気で僕を守ることになる。  大丈夫、一度死んでも蘇生魔法で復活させてあげるから。  相互利益はあるはずなのに、どこか鬼畜な匂いがするファンタジー、ここに開幕。      

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

生贄にされた先は、エロエロ神世界

雑煮
恋愛
村の習慣で50年に一度の生贄にされた少女。だが、少女を待っていたのはしではなくどエロい使命だった。

ハズレ職業の料理人で始まった俺のVR冒険記、気づけば最強アタッカーに!ついでに、女の子とVチューバー始めました

カティア
ファンタジー
 疲れ切った現実から逃れるため、VRMMORPG「アナザーワールド・オンライン」に没頭する俺。自由度の高いこのゲームで憧れの料理人を選んだものの、気づけばゲーム内でも完全に負け組。戦闘職ではないこの料理人は、ゲームの中で目立つこともなく、ただ地味に日々を過ごしていた。  そんなある日、フレンドの誘いで参加したレベル上げ中に、運悪く出現したネームドモンスター「猛き猪」に遭遇。通常、戦うには3パーティ18人が必要な強敵で、俺たちのパーティはわずか6人。絶望的な状況で、肝心のアタッカーたちは早々に強制ログアウトし、残されたのは熊型獣人のタンク役クマサンとヒーラーのミコトさん、そして料理人の俺だけ。  逃げるよう促されるも、フレンドを見捨てられず、死を覚悟で猛き猪に包丁を振るうことに。すると、驚くべきことに料理スキルが猛き猪に通用し、しかも与えるダメージは並のアタッカーを遥かに超えていた。これを機に、負け組だった俺の新たな冒険が始まる。  猛き猪との戦いを経て、俺はクマサンとミコトさんと共にギルドを結成。さらに、ある出来事をきっかけにクマサンの正体を知り、その秘密に触れる。そして、クマサンとミコトさんと共にVチューバー活動を始めることになり、ゲーム内外で奇跡の連続が繰り広げられる。  リアルでは無職、ゲームでは負け組職業だった俺が、リアルでもゲームでも自らの力で奇跡を起こす――そんな物語がここに始まる。

処理中です...