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章第二「茨木童子」
(二)鬼のかく乱と云へり
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彩は叫び声をあげて威嚇し、稲穂の部屋へと転がり込む。炊きたての新米のような、白くて柔らかそうな稲穂の脚を穢すとばかりに這いずり回る、この気味の悪い物体を斬り刻んでいった。
紫雲庵雁高の『喜能会之故真通』を連想した自分のほうが、穢れていると断罪されるかもしれない、と彩は思い至り、煩わしい妄想を振り払うように黒い触手を蹴散らしていく。
しかし、やたらめったらと小刀を振り回すまでもなく、部屋のなかへ陽光が差し込んだのと同時に、この触手の姿かたちは消え失せていった。
陽光の出所を探って窓へ目を向けると、あの陰の姿はなくなり、外のほうから騒々しい物音が聞こえてくる。窓に駆け寄って下を覗き込むと、一メートル以上ある大きな布が、ひらひらとしているのが見えてとれた。
「これは渡しません!」
その布の周りで、二匹のキツネが走りまわっている。市兵衛が右足を咥えて逃げまわるなか、その右足の持ち主を近づけまいと、弥兵衛は口から五センチほどの火を出して応戦する。
狐松明の火力で倒せるような相手ではなさそうだが、足止め程度にはなっているようだ。彩は小刀を握りなおし、眼下の布に向かって部屋から飛び降りる。
重力を利用して勢いよく斬りつけたあと、すぐさま相手からの距離を取った。布から、わずかに血が滲んでいる。相手が振り返ったときに、ずっと逆光になっていた顔を見た彩は、一瞬、呆気にとられた。
長い睫毛に縁どられた切れ長の目は、彩のことを睨めつけているせいで余計に凛々しく感じる。
頭をすっぽりと覆った被衣から見え隠れする、長いみどりの黒髪も、美人さを際立たせる効果を十二分に発揮していた。被衣をそっと押さえている、細く青白い腕との対比が美しすぎて、彩は思わず息を呑む。ひとことでいえば、容姿端麗な女性が、そこにはいたのだ。
しかし、相手は間違いなく鬼である。しなやかな勾玉のようだが、それでいて先が鋭く尖った角が一本、額から五センチほど伸びていた。
その鬼女が被衣を翻しながら飛び上がったのを見ると、彩は小刀を構えなおして相手の攻撃に備える。一本脚で器用に跳躍しながら、鬼女は風除室の上へと跳び移り、五瀬家の北側へと逃走していった。
「……あっ!」
予想外の行動に彩は対応できず、後れを取ってしまう。逃がすまいと追いかけると、先に弥兵衛が回り込んでいて、再び足止めを食らわせていた。
脚に絡みついた触手によって引きずられ、吐き出された狐松明は、あさってのほうへと虚しくも飛んでいく。いきなり足元から生えてきた触手によってバランスを崩し、彩も引きずられて体育着は泥まみれになってしまった。
狐松明の火力でも断ち切ることができる程度の触手だが、なんせ数が多すぎて攻撃が間に合わない。
てっきり、この触手は鬼女自身の影からしか生成できないと、彩は思っていた。しかし建物の影でもいいらしく、日影になった面積が多い北側では、広範囲に亘って触手が伸びてくる。
絡みつく触手を斬っては払い除け続けるが、次から次へと湧いてくるのには、どうしようもなく辟易としてきた。
心なしか、斬られる前よりも増量しているような気がする。これは思いのほか厄介な存在であり、たった数メートル先の鬼女に近づくことすら叶わなかった。
生憎と触手にまとわりつかれ「いゝヨいゝヨ」と善がって悦ぶ性癖は持ち合わせていない。絡みつかれる海女を見るぶんには楽しいのだが、同じことを自分にされるとなると話は別だ。
……ん? 待てよ? ふと彩は、稲穂の部屋でのできごとを想起する。この鬼女がいなくなったあと、触手は部屋のなかから消失していた。
そして、わざわざ遠い北側へ逃げ込んだのは、なぜだろう? 稲穂の部屋からは南側のほうが近かったはずだが、わざわざ風除室を跳び越えて北側へ移動した意味は? 被衣を羽織っているのも、ひょっとして、こういう理由のためだったのではないか?
「鬼の霍乱っていう言葉もあるくらいだし、もしかしたら鬼は太陽に弱いのかも」
彩は触手を斬って脚を抜くと、日向のほうへと逃げ込む。それから、弥兵衛に向かって指示を出した。「影よりも外に出て!」
狐松明を放った瞬間、溶けた触手から脚をするりと抜き、弥兵衛はなんとか脱出に成功したようだ。思ったとおり、その触手は太陽光へ当たった途端に、煙を出して霧散する。
しかし、相手が攻撃してこられないのと同様に、こちらから攻撃を仕かけるのも難しくなった。宿儺のアキレス腱へ命中させたような、小刀を飛ばす技は、あの触手に阻まれて無理そうだ。
どうにかして近づくほかあるまい。ぴんと張り詰めた空気のなか、彩は少しずつ近寄っていく。
遠距離から弥兵衛が狐松明を連発すると、どんどん削られていく触手の様子に鬼女は怯んでいた。相手の出方を窺ってみるが、一向に反撃してくる様子はない。
青白い光のなかから見える色白の顔面に狙いを定め、彩は体勢を低くして突進する構えを見せた。
すると、こちらの殺気に気づいたのか、鬼は黒い触手を一斉に地面から湧き立たせる。それと同時に疾風を巻き起こし、彩と弥兵衛は吹き飛ばされないように、体勢を整えるので必死となった。
「しまっ……!」かろうじて盾にした右腕の隙間から開いた目で、彩は、さっきまで目の前にいたはずの鬼の行方を探った。「た……?」
この無防備な状態で、もし攻撃されてしまったら、ひとたまりもないだろう。ところが、風が止んでもなお鬼女の姿は見当たらず、どうやら、疾風とともに消え去ってしまったようだ。
彩と弥兵衛は、一瞬のできごとに呆然と立ち尽くす。
この勢いに巻き込まれたのか、周囲には風男神の気配さえなくなり、風の音ひとつない静寂に包み込まれていた。
紫雲庵雁高の『喜能会之故真通』を連想した自分のほうが、穢れていると断罪されるかもしれない、と彩は思い至り、煩わしい妄想を振り払うように黒い触手を蹴散らしていく。
しかし、やたらめったらと小刀を振り回すまでもなく、部屋のなかへ陽光が差し込んだのと同時に、この触手の姿かたちは消え失せていった。
陽光の出所を探って窓へ目を向けると、あの陰の姿はなくなり、外のほうから騒々しい物音が聞こえてくる。窓に駆け寄って下を覗き込むと、一メートル以上ある大きな布が、ひらひらとしているのが見えてとれた。
「これは渡しません!」
その布の周りで、二匹のキツネが走りまわっている。市兵衛が右足を咥えて逃げまわるなか、その右足の持ち主を近づけまいと、弥兵衛は口から五センチほどの火を出して応戦する。
狐松明の火力で倒せるような相手ではなさそうだが、足止め程度にはなっているようだ。彩は小刀を握りなおし、眼下の布に向かって部屋から飛び降りる。
重力を利用して勢いよく斬りつけたあと、すぐさま相手からの距離を取った。布から、わずかに血が滲んでいる。相手が振り返ったときに、ずっと逆光になっていた顔を見た彩は、一瞬、呆気にとられた。
長い睫毛に縁どられた切れ長の目は、彩のことを睨めつけているせいで余計に凛々しく感じる。
頭をすっぽりと覆った被衣から見え隠れする、長いみどりの黒髪も、美人さを際立たせる効果を十二分に発揮していた。被衣をそっと押さえている、細く青白い腕との対比が美しすぎて、彩は思わず息を呑む。ひとことでいえば、容姿端麗な女性が、そこにはいたのだ。
しかし、相手は間違いなく鬼である。しなやかな勾玉のようだが、それでいて先が鋭く尖った角が一本、額から五センチほど伸びていた。
その鬼女が被衣を翻しながら飛び上がったのを見ると、彩は小刀を構えなおして相手の攻撃に備える。一本脚で器用に跳躍しながら、鬼女は風除室の上へと跳び移り、五瀬家の北側へと逃走していった。
「……あっ!」
予想外の行動に彩は対応できず、後れを取ってしまう。逃がすまいと追いかけると、先に弥兵衛が回り込んでいて、再び足止めを食らわせていた。
脚に絡みついた触手によって引きずられ、吐き出された狐松明は、あさってのほうへと虚しくも飛んでいく。いきなり足元から生えてきた触手によってバランスを崩し、彩も引きずられて体育着は泥まみれになってしまった。
狐松明の火力でも断ち切ることができる程度の触手だが、なんせ数が多すぎて攻撃が間に合わない。
てっきり、この触手は鬼女自身の影からしか生成できないと、彩は思っていた。しかし建物の影でもいいらしく、日影になった面積が多い北側では、広範囲に亘って触手が伸びてくる。
絡みつく触手を斬っては払い除け続けるが、次から次へと湧いてくるのには、どうしようもなく辟易としてきた。
心なしか、斬られる前よりも増量しているような気がする。これは思いのほか厄介な存在であり、たった数メートル先の鬼女に近づくことすら叶わなかった。
生憎と触手にまとわりつかれ「いゝヨいゝヨ」と善がって悦ぶ性癖は持ち合わせていない。絡みつかれる海女を見るぶんには楽しいのだが、同じことを自分にされるとなると話は別だ。
……ん? 待てよ? ふと彩は、稲穂の部屋でのできごとを想起する。この鬼女がいなくなったあと、触手は部屋のなかから消失していた。
そして、わざわざ遠い北側へ逃げ込んだのは、なぜだろう? 稲穂の部屋からは南側のほうが近かったはずだが、わざわざ風除室を跳び越えて北側へ移動した意味は? 被衣を羽織っているのも、ひょっとして、こういう理由のためだったのではないか?
「鬼の霍乱っていう言葉もあるくらいだし、もしかしたら鬼は太陽に弱いのかも」
彩は触手を斬って脚を抜くと、日向のほうへと逃げ込む。それから、弥兵衛に向かって指示を出した。「影よりも外に出て!」
狐松明を放った瞬間、溶けた触手から脚をするりと抜き、弥兵衛はなんとか脱出に成功したようだ。思ったとおり、その触手は太陽光へ当たった途端に、煙を出して霧散する。
しかし、相手が攻撃してこられないのと同様に、こちらから攻撃を仕かけるのも難しくなった。宿儺のアキレス腱へ命中させたような、小刀を飛ばす技は、あの触手に阻まれて無理そうだ。
どうにかして近づくほかあるまい。ぴんと張り詰めた空気のなか、彩は少しずつ近寄っていく。
遠距離から弥兵衛が狐松明を連発すると、どんどん削られていく触手の様子に鬼女は怯んでいた。相手の出方を窺ってみるが、一向に反撃してくる様子はない。
青白い光のなかから見える色白の顔面に狙いを定め、彩は体勢を低くして突進する構えを見せた。
すると、こちらの殺気に気づいたのか、鬼は黒い触手を一斉に地面から湧き立たせる。それと同時に疾風を巻き起こし、彩と弥兵衛は吹き飛ばされないように、体勢を整えるので必死となった。
「しまっ……!」かろうじて盾にした右腕の隙間から開いた目で、彩は、さっきまで目の前にいたはずの鬼の行方を探った。「た……?」
この無防備な状態で、もし攻撃されてしまったら、ひとたまりもないだろう。ところが、風が止んでもなお鬼女の姿は見当たらず、どうやら、疾風とともに消え去ってしまったようだ。
彩と弥兵衛は、一瞬のできごとに呆然と立ち尽くす。
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