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章第一「両面宿儺」

(七)卒爾に訪るるまらうと

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 誰かが自分のことを呼んでいる気がした。いつからここで横になっていたのか、稲穂の正面には見覚えのある白い天井が見えている。
 どうやら保健室にあるベッドの上のようだったが、記憶は定かではなく、ここまでに至った経緯がぼんやりとしていて思い出せない。
 すぐ近くで、大丈夫か? と男の子に話しかけられ、龍が立っていることに気がついた。稲穂は驚き、かけ布団に半分だけもぐりこむ。


 赤くなった耳を隠すため、目元だけをかろうじて出す。時間が止まったかのような悠久ののち、ようやく龍が発した質問の内容を理解した。
 稲穂は必要以上に大きくうなずく。どうして龍が隣りにいるのだろう。なにが起こっているのか、稲穂の頭では混乱が混乱を呼んだ。
 必死に記憶を手繰たぐり寄せて、最新の映像はどれか整理してみる。確か、雨のなかを飛び出して、彩の血飛沫ちしぶきを目撃して……


「……彩……は……?」
「彩……? ああ。親友だったみたいだな。残念だけど……」


 龍の、そのひとことで、稲穂は、すべてを察した。突然のできごとに視界がぼやけ、差し込んだ日光が目元に当たり、水滴がまぶしくきらめく。
 寝顔を見られたかもしれない上に、泣き顔まで男の子に見られるのが恥ずかしくて、龍に顔をそむけて壁側を見つめた。滴り落ちる涙が、枕元を濡らすのに時間はかからず、ちょっとした水たまりができあがる。


「うぐっ……くぅ……」
 泣き声を押し殺すのに必死だった。初夏にもかかわらず分厚い布団は、遮音するのにある程度は役に立ったが、汗もドッとあふれ出してくる。
 熱気のこもった布団のなかは、やけに蒸し暑かった。汗とも涙ともわからない液体をぬぐって、やり場のない悲しみを抑えきれずにむせび泣く。
 同時にベッドを汚してしまった罪悪感もいだき、複数の感情がぜになって稲穂の脳へと去来する。


 なにか龍が話しているような声は聞こえるが、布団の隙間すきまから漏れてくる音はくぐもり、その内容は判然としなかった。
 そのとき、ガラガラと保健室のドアが開く音がして、誰かが入ってきた靴音が聞こえる。
 カーテンがシャーっと開かれる音とともに「人体模型くんも平気だってさ」と告げる、聞き覚えのある声が耳に届いた。


「え。泣き声? 眠り姫ちゃんの?」
 その人物は声をひそめ、なにごとか龍にたずねる。
「まさか。稲穂、起きてるの……?」


 それから少し経ち、上半身に感じていた、かけ布団の重みが消えた。
 視界の右側から長い髪の毛が垂れ、稲穂の頬をくすぐっていく。誰かが、自分の顔を覗き込んでいるようだ。
 影を落とす「その誰か」を確認した稲穂は、口をあんぐりと開けて固まる。


「目が覚めたんだね、稲穂」
「彩? なんで……」


 正直、乱反射している視界のなかで、うまく焦点が定まらない。しかし、半分は願望だったのかもしれないが、解像度の粗い輪郭でも、稲穂は彩の顔だと瞬時に認識する。
 涙がおさまるまで、しばらくの時間がかかった。頭の先から足の爪先まで、彩の身体を隅々すみずみまでチェックしたのち、稲穂は安堵する。足があり、ちゃんと床に立っていた。


「生きてるん、だよね?」
「勝手に殺さないで」
「でも。斬られてなかったっけ?」
「あー。峰打ち?」
「え。血、めっちゃ出てたけど」
「あー。血のり?」
「な、なんで?」


 素直な疑問が口をついて出る。いつから時代劇のられ役に抜擢された?
 近くのイスを彩へすすめながら、龍が追い打ちをかけるようにつぶやく。


「峰打ちでも、死ぬことあるけどな」
「ちょ、余計なこと言わないで」
「え。やっぱり死んでるの?」
「死んでないから。勝手に殺さないで」


 イスに座りかけていた彩は、中腰になってツッコむ。キャスターつきのイスが、コロコロと後方へ転がっていく。
 引き寄せたイスに座りなおした彩は、上体を起こす稲穂を心配そうに見つめた。


「もう起きて大丈夫?」


「うん……」
 彩の顔を、執拗にペタペタと触った。間違いなく本物の彩だ、と確信した稲穂は、引き寄せたかけ布団越しに、龍のほうへと目線を向ける。
 汗で濡れた髪の毛をでつけ、目が腫れていないかを気にするくらいの余裕は出てきた。
「み、御饌都神みけつかみくん? なんだったの、残念って」


「……ああ。親友じゃなくなって残念だ、という意味だ」
「どういう、こと……?」


「それは、もうじきわかる。俺たちとは住んでいる世界が違うってことに」
 龍は淡々とした口調で語りかける。「覚えているか、宿儺・ ・のこと」


「スクナ……?」
「そう、両面宿儺りょうめんすくなだ」


 両面。身体が前後についていた、あの姿のことを稲穂は思い出す。彩は鋭い目つきで、龍のことを睨みつける。
「……あれって?」


「俺も実物を見るのは初めてだが、間違いなく両面宿儺だ。五瀬いつせも名前くらいは聞いたことがあるだろ?」
 稲穂が素直に首を振ると、龍は驚きと落胆が入りじった顔をする。残念そうに眉根を寄せて、龍は説明を始めた。
仁徳天皇にんとくてんのう六十五年の条に記されている、難波根子武振熊なにわのねこたけふるくまによってちゅう……」


「銃を持った男性と、日本刀を持った男性が、ふたり、入ってきたでしょう?」


 龍の言葉を遮るように、彩は身を乗り出し、ふたりのあいだに割って入る。稲穂は小首をかしげた。


「ふたり、というか、背中合わせにくっついていたような……」
「ほ、ほら。テレビで見たことない? 結合双生児けつごうそうせいじって……」


 彩の表情が曇ったような気がして、稲穂は違和感を覚えつつも、それ以上の追及はしなかった。


「もしかして、教えてないんですか? 自分の祖先のこと……」


 わたしの先祖とは、いったいどういうことだろう、と稲穂の心はざわつく。
 龍の提言に、彩は首を振って強く否定する。「知らないほうが幸せなこともある」


「でも、気配を発してしまったんです」
 なおも食い下がって龍は続けた。
「いままでどおりの生活は送れませんよ? 知っておいたほうが、力を……」


「わかってる!」
 彩の気迫にされ、龍は口を真一文字に結ぶ。
「そのぶん、あたしが守る。自分の命に変えても」


 なんだか稲穂は、とてつもない疎外感を覚える。龍は静かに言った。
「この先も、あのようなことが起きるかもしれません。周りに被害が出るかも……」


「スサノオなんかと一緒にしないで!」
 顔を背けてうつむく龍が、このときどんな顔をしていたのか、ベッドの上に座る稲穂の位置からは、まったく表情を読み取ることはできなかった。
「ごめん。でも……できることなら、こんな殺伐とした環境に、足を踏み入れてほしくないの」


 彩は、いままでに見たことのないほどの、辛辣な表情を浮かべていた。
 三人のもとに、沈黙がりてくる。秒針が正確な時間を刻む音だけが、三人の鼓膜を震わせた。


「あ。これ……」


 彩が思い出したように、体育着入れを手渡してくる。それを稲穂が抱き寄せたとき、胸元に当たる違和感に気がつく。首筋にかかった紐を手繰たぐり寄せた。


 
「……それじゃあ、もう帰ろう」
「あ、お守り……」
「持ってて。あげるから」


 それだけ言って保健室のドアを開けた彩についていくため、稲穂はベッドの下に揃えられていた上履きへ足を入れる。
 三人は無言のまま、帰宅のくこととなった。道中、気まずい空気感は変わることなく、気がつけば、いつの間にか家のすぐ近くまできていたようである。
 まるで自分が鳩にでもなったかのように、無意識の状態で帰巣本能のおもむくまま、稲穂は丁字路を左折した。


「じゃあ、また学校で……」


 背後から彩の声がする。稲穂が振り向いたときには、もうすでに彩の姿はなかった。
 カラカラと一枚目の扉を開けて風除室のなかに入り、鉢植えの下に隠してある鍵を取り出して二枚目の扉へ差し込む。
 しかし、うまく鍵が回らず、引き戸に手をかけてみれば、すんなりと扉が開く。
 母が帰ってきているのかと思って足を踏み入れた瞬間、どこからともなく現れた男性に正面衝突しかけて、なんとかその場に稲穂は踏みとどまる。


「ああ、おかえり……きみが昭義あきよしの娘だね」
 その男性は優しげな口調でたずねる。昭義というのは、稲穂の父親の名前だった。
 動揺しつつ「はい……ただいま帰りました」と返す。
 男性は脇にけて、稲穂が通れるように道を譲った。


「あっ……もうお帰りですか。すみません、なにもお構いできなくて……」
 咄嗟とっさに口をついて出た言葉に、自分自身、言い知れぬ違和感を覚えた。


「いや、いいんだ。次は、きみのお母さんが在宅のときにでも、またお邪魔するよ」
 その男性は、なに食わぬ顔で玄関を出て行く。
 瓢箪ひょうたんの模様があしらわれた、紺色の着物を身にまとっていた。


「はい……お気をつけて……」
 カラカラと外の扉が閉まる音を待ってから、稲穂は靴を脱ぎながら「ただいま」と改めて言う。まだ母が帰ってきていないのだろう、返答はなかった。
 冷蔵庫の扉に「チンして食べてね」と書かれた紙が、磁石で貼りつけられている。
 ラップが被せられた皿を取り出し、冷蔵庫向かいにある電子レンジのなかへ入れてボタンを押した。秒数がカウントダウンしていくなか、はたと先ほど起こった出来事を思い返す。


 いまのって、いったい誰だったのだろう。
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