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章第一「両面宿儺」

(四)降り籠めたる雨の学び舎

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 稲穂は階段に腰かけていた。
 掃除が行き届いているのか、大きなほこりは見当たらないが、経年劣化による、黄色い滑り止めの破損や、壁のひび割れが見て取れる。
 暇を持てあまし、余計なものばかりに目がまる。
 稲穂の真正面には水飲み場と、自分越しに踊り場が映った鏡が見える。右に曲がれば一年教室と裏口がある。
 一段目から二段目に足を移動させて、さらに稲穂は身体を縮こまらせた。


 膝を抱えた腕のなかに顔をうずめ、親友の顔を思い浮かべる。彩のことは心配だったが、自分にはどうすることもできない。
 養護教諭の手前では教室に戻ったふりをし、いなくなったあとで、裏口から出ていこうと何度も試みる。
 しかし、やっぱり見えない壁にはばまれるように、弾かれ、外へは出ていけなかった。


 ならばと思い、なるべく稲穂は下を見ないよう、震える脚で校長の横を通り抜け、正面玄関へと向かう。
 ちょうど引き戸の取っ手に指をかけたとき、背後からガタっという物音が聞こえ、校長がゾンビになったかと、稲穂は背筋の凍るような気持ちになった。
 下駄箱の陰から恐々こわごわと覗き見ると、そこには、髪の先までずぶ濡れになった龍の姿がある。
 通るタイミングは見ていなかったが、いま龍がきたのは裏口だったろうか。


「あ、あなた。なにしているのっ」


 稲穂が声をかけるよりも先に、養護教諭が駆け寄ってくる。ひととおり校内を巡回し、また戻ってきたのだろう。
 ふたりとも、稲穂の姿には気づいていない様子だった。龍の右手が素早く動き、養護教諭は糸が切れたマリオネットのように、その場へとくずおれる。
 龍の右手には、刃渡りが一メートルほどもあろうかという、日本刀が構えられていた。


「先生っ」ふと恐怖心も忘れ、思わず身体が動く。いつの間にか稲穂は死角から飛び出し、養護教諭のそばで膝をついていた。「……あ」


「五瀬、か」


 雨音にじって、稲穂のことを呼ぶ龍の声が聞こえる。
 鈍色にびいろの廊下にたたずむ龍の顔は、見上げただけでは判然とせず、稲光の逆光も相まって、朧気おぼろげにも表情を読み取ることはできなかった。
 自然とぽろぽろ涙があふれ出し、稲穂は生唾を飲み込む。
 目の前にいるのは同い年の男子のはずなのに、心なしか、稲穂にはドスが利いたような声に聞こえた。


「あ、あの……こ、殺さないで」
「誰が殺すか、バカ」


 稲穂のことを一瞥いちべつしただけで、龍は気にめた様子もなく、玄関へ歩を進める。
 ぐったりと横たわっている校長に向かって、追い打ちをかけるかのように何度も日本刀を振り下ろす。


「な、なにしてるの」


 龍の行動を止めるべく、稲穂は龍の右腕にしがみついた。しかし、よくよく見てみると、校長の身体には、一切の刃先が触れていなかった。
 その場に漂う、黒い影のようなもののほうが切り刻まれていき、だんだんと色を薄めていく。
 それまで微動だにしなかった校長が、苦しそうにではあるが、身体を折り曲げてき込み始めた。
 龍は深いため息を吐き、手に持っていた日本刀を離す。それが床へ到着する直前、まるで煙のように消えてしまった。


「……なにをしたの?」
「いや、なにも」
「保健の先生は?」


 おそる恐る口を開いた稲穂は、養護教諭に目を向ける。龍も振り返って、稲穂の視線の先を追った。
 養護教諭は尻を地べたにつけ、頭を深く垂れたまま動かないが、口もとから、わずかに息の漏れる音が聞こえる。
 龍は「問題ない」と、ひとことだけ言ったが、そう言われて、はいそうですかと、すぐに不安を払拭できるわけではなかった。


 雷鳴の彼方から聞こえるサイレンの音が、だんだんと大きく高いものになっていく。
 どうやら、救急車が到着したようだ。その音によって、少しばかり安心感が増したような気がする。
 くるっと方向転換した龍は、階段に向かって歩いていこうとした。
「あとは、おとなの人たちに任せよう」


 そうはいっても、こんなところで先生ふたりも放っておけない。せめて、裏口から入ってくる雨がかからないよう、稲穂は扉を閉めに向かう。
 龍が入ってくる瞬間は目撃していないが、おそらく龍が入ってきたであろう裏口から外のほうを見上げる。数分前にパラパラと降り始めた雨は、もうすっかり激しさを増していた。
 ふと、一年教室の前を歩いている龍を、稲穂は呼び止める。


「待って!」


 体育着入れは教室に置いてきたんだっけ、と、つい数分前までの記憶を手繰たぐり寄せ、避難した際の自分の行動を辿たどっていく。
 体育着入れは、テントに置き忘れてきていたんだった。


「あっ、ごめん。タオル……保健室に行けば、新しいのあると思うんだけど」
「いや、いい。大丈夫だから」「でも、風邪ひい……」


 言いかけて、あることに気がついた稲穂は口をつぐむ。さっき、しがみついたときのことを思い出す。
 龍が「大丈夫だ」と言い切るだけのことはあって、よくよく見てみると、体育着はボロボロになっているのに、身体そのものは、まったく濡れているような感じがしなかった。
 その代わりというわけではないが、怪我をしているのか、腕には何本もの筋がついている。しかし、それは治りかけのようなので、いまついた傷ではないのかもしれない。
 それよりも稲穂は、なにがどうなれば、こんなに体育着がボロボロになるんだろう、ということのほうが気になった。


「彩のことは見なかった?」
 気になることは山ほどあるが、彩の安否も心配でならないもののひとつである。
 龍を捜しにいったはずの彩は、一向に姿を現さない。龍のことを見かけていれば、戻ってきているはずだ。行き違いになっているんだとしたら、なおさら危険なグラウンドから連れ戻しに行かなければ、と稲穂は思う。
 名前でかれても、まだ龍はクラスメイトの顔と名前を全員ぶん覚えていないかもしれないと考え、伝え方を変えてみた。
「髪の毛は肩甲骨よりも少し長くて、肌は白くて……」


「ああ、うけもちの……さんとは、そこで会ったよ」



 思いつく限りの彩の特徴を言い終える前に、きちんと龍は彩の苗字を覚えていたらしく「受持・ ・さん」と答えてくれる。
 すんなりと裏口をとおり抜け、龍は見えない壁を感じた様子もなく外へ出ていく。
 龍が指さすほうを覗き見て、そっと稲穂は、校内と校外の境界に手を伸ばす。神経が直接刺激されるような痛みが走っても、稲穂は耐えに耐えた。
 最初に触れたときより、だいぶ慣れてきたような気がする。


 彩からもらったお守りを、ぎゅっと握りしめると、その瞬間、ぽぅっと光ったような気がした。見えない壁が幻だったかのように消え、急に抵抗感が一切なくなり、思わず稲穂はけそうになる。
 ドア上部の外壁あたりを見上げている龍に衝突しそうだったのを寸前で回避し、ようやく張り出したひさしよりも外に出ることができた。
 まるで自然のカーテンのように絶え間なく降りしきるなか、浴室やプール以外で全身を濡らす奇妙な感覚にとらわれつつも、稲穂は驟雨しゅううのグラウンドを駆け抜けていった。
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