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章第二「茨木童子」
(四)物忌みの用意したり
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「……ということなので」
リビングでは、彩と早苗がなにかを話し込んでいた。炊きあがりを確認してから、炊飯器の蓋を開けると、芳しい湯気がモアっと立ちのぼる。
そこに心地よさを感じて、稲穂は思わず口許を緩ませた。内釜の底に杓文字を突っ込み、側面に沿って優しくかき混ぜる。
この香りを嗅いでいたら、なんだか、また腹の虫が鳴き始めた。時刻は、正午を過ぎた頃。そういえば、なにも朝から食べていないことに気がついた。
「……わかりました。ちょうど出かける予定でしたので。娘のこと、よろしくお願いします」
「うん。任せて」
彩が、眉尻を少し下げた微笑をすると、早苗は頭を下げる。早苗はパソコンを閉じて、そそくさと支度を始めるが、どうにも物憂げな彩の表情が気にかかり、声をひそめて質問した。
「相手は、もしかして……」
「ううん、違った。気配が全然。たぶん血縁関係もないかな」
「そう、ですか」
きっぱりと彩が否定したことで、幾分安堵したのか、ほっと胸を撫でおろす。稲穂のほうに向かって言った。
「それじゃあ、受持さんの言うこと、ちゃんとよく聞いて、おとなしくしているのよ?」
「う、うん……」
返事をしたあとで、彩の言葉を思い出し、稲穂は戸惑う。聞き間違いでなければ「ものいみ」は一週間らしい。
「お母さんは? えっ、一週間もいないの?」
「物忌みのあいだは、家のなかに誰も入れないからね。稲穂ひとりで、一週間を過ごすのよ」
「ひとりで……」
彩の言葉を稲穂は復唱した。
自室から着替えを用意し、荷物をまとめた早苗は、最後にパソコンをバッグに収納し、玄関から出ていく。車のエンジンがかかり、その音が次第に遠ざかっていった。
そのあいだに彩は「うーん。これじゃあ一週間はもたないかも」と、冷蔵庫を物色する。
キッチンにいる稲穂の近くへきて、手許の炊飯器を覗いた彩は、難しい顔をして「こっちも」と唸った。
いつの間にか、祭壇がリビングに設けられている。炊飯器にあるぶんの白米を盛り、彩は祭壇に据えられた棚へと置く。
玄関のほうへ向かおうとして、なにかを思い出したように手を叩いた。
「あ、そうそう。食料を持ってくるあいだ、掃除しててくれる? お風呂とか、トイレとか、台所とか。水まわりを重点的に、なるべく丁寧にね」
その言葉に従い、まずは風呂掃除をしようと、稲穂は、洗面台の下にある棚を開けた。いつも使っている洗剤や漂白剤に加え、「丁寧」を強調した彩の指示どおりに、重曹やクエン酸なども用意する。
普段から掃除しているとはいえ、水まわりは使う回数も多いからか、すぐに汚れが溜まってしまう。いま、風呂場を掃除するよう言われた真意はわからないが、掃除なんて何回したっていいものだ。
稲穂はゴム手袋とマスクを装着し、掃除道具一式を手に取る。
「ただいま」
それから三十分ほどが経過して、洗剤を洗い落としているときだ。シャワーヘッドから勢いよく噴出され続ける水音に紛れ、玄関の扉が開かれるような音を耳にする。
稲穂が駆けつけたとき、そこにはいくつものクーラーボックスが並べられていた。その横には、稲穂の胸あたりまでの高さがある茶色の紙袋が、これまたいくつも置かれた光景が広がっている。
どうやって運び入れたと思うよりも前に、どこから用意したものなのだろうという疑問を抱く。
そんな心配を他所に、彩は真鯛の尾ビレを掴んで胸を張った。その真鯛は、手のなかから逃れようと大きく跳ねる。
「い、生きてるの?」
「たったいま釣ってきたからね」
彩の身長の三分の一はあろうかという巨躯をくねらせていたが、真鯛は、がっつりと掴まれた状態から逃れることはできなかった。
クーラーボックスのなかには、アジやサワラ、スルメイカなどの雑多な魚介類が詰め込まれている。釣りが趣味だという友達が以前に言っていた、秋田県沖で五月・六月ごろに釣れる魚のラインナップと一致している。
まだ新鮮なのだろう、まるで海中を泳いでいるように、クーラーボックスのなかで魚がぴくぴくと波打つ。
「これって海水魚じゃない?」
「……ああ、まあ、そうだね」
「ここから海までは、車で二十分くらいかかるよ? 釣り場となると……」
「ま、まあ、細かいことはいいじゃない」
キッチンまで運び入れようと、クーラーボックスを持ち上げるため手をかけた、その瞬間、なにかの鳴き声が外から聞こえてきた。
モ~。ブヒブヒ。彩の制止を振り切って扉を開けた稲穂を待ち受けていたのは、豚と牛が一頭ずつ、風除室のなかで窮屈そうに佇んでいる異様な光景だった。
完全に道を塞いだ牛の背中が天井へとつき、微かに風除室を揺らしたような気がする。そのたびに、吃驚したニワトリがコケコケと、牛の足もとで走り回っていた。
「一週間ぶんじゃあ、多すぎた?」
「いや。そういう問題じゃなくて」
彩の天然すぎるボケに、稲穂はストレートにツッコむ。
開け放たれた扉から稲穂の足もとをくぐって、何羽かは家のなかへ入っていこうとしたが、なにかに躓いたのか前のめりになったあと、風除室のなかへおとなしく帰っていく。
なにか結界的なものにぶつかって、それ以上の進入を断念したかのように見えた。稲穂は次から次へと質問が浮かんできて止まらない。
「こんなにたくさん、いったいどこから?」
「えっあっいや……それは、その……」彩は言いづらそうに口籠る。「まあまあ、それはいいじゃない! とりあえず、これで一週間の食事は賄えるよね?」
「これを? どうやって、調理するの? ここで?」
「確かにねー。でも『グルメテーブルかけ』じゃあるまいし、調理後のものは出せないんだよねー」
「これって、野菜はないの?」
「……そうだよね、やっぱり。野菜も必要よね。でも、野菜は出したことないし」
「出す……?」
「いや、なんでもない。頑張ってみるわ」
いったい、なにを頑張るのだろう。彩が家を出ていったあと、稲穂は風呂掃除の仕上げへと戻った。その次に、トイレ掃除へ取りかかる。
一時間ほどが経過し、指示されていた箇所は、あらかた掃除を終えたのだが、やることがなくなって手持ち無沙汰になってくると、ほかの場所も気になり出してきた。
ポリバケツに溜めた水で雑巾を絞り、床や戸棚を拭いていく。終わりどころを見失い、終いには、年末の大掃除さながら、天井を箒で掃き始める。
箒を掲げ、ソファーに上がって背伸びをする稲穂の姿を、戻ってきた彩は目撃し、開口一番「そこまでしなくていいよ」と言った。稲穂は、祖霊舎に立てかけてあった箒を、もとの位置へ戻しに行く。
リビングでは、彩と早苗がなにかを話し込んでいた。炊きあがりを確認してから、炊飯器の蓋を開けると、芳しい湯気がモアっと立ちのぼる。
そこに心地よさを感じて、稲穂は思わず口許を緩ませた。内釜の底に杓文字を突っ込み、側面に沿って優しくかき混ぜる。
この香りを嗅いでいたら、なんだか、また腹の虫が鳴き始めた。時刻は、正午を過ぎた頃。そういえば、なにも朝から食べていないことに気がついた。
「……わかりました。ちょうど出かける予定でしたので。娘のこと、よろしくお願いします」
「うん。任せて」
彩が、眉尻を少し下げた微笑をすると、早苗は頭を下げる。早苗はパソコンを閉じて、そそくさと支度を始めるが、どうにも物憂げな彩の表情が気にかかり、声をひそめて質問した。
「相手は、もしかして……」
「ううん、違った。気配が全然。たぶん血縁関係もないかな」
「そう、ですか」
きっぱりと彩が否定したことで、幾分安堵したのか、ほっと胸を撫でおろす。稲穂のほうに向かって言った。
「それじゃあ、受持さんの言うこと、ちゃんとよく聞いて、おとなしくしているのよ?」
「う、うん……」
返事をしたあとで、彩の言葉を思い出し、稲穂は戸惑う。聞き間違いでなければ「ものいみ」は一週間らしい。
「お母さんは? えっ、一週間もいないの?」
「物忌みのあいだは、家のなかに誰も入れないからね。稲穂ひとりで、一週間を過ごすのよ」
「ひとりで……」
彩の言葉を稲穂は復唱した。
自室から着替えを用意し、荷物をまとめた早苗は、最後にパソコンをバッグに収納し、玄関から出ていく。車のエンジンがかかり、その音が次第に遠ざかっていった。
そのあいだに彩は「うーん。これじゃあ一週間はもたないかも」と、冷蔵庫を物色する。
キッチンにいる稲穂の近くへきて、手許の炊飯器を覗いた彩は、難しい顔をして「こっちも」と唸った。
いつの間にか、祭壇がリビングに設けられている。炊飯器にあるぶんの白米を盛り、彩は祭壇に据えられた棚へと置く。
玄関のほうへ向かおうとして、なにかを思い出したように手を叩いた。
「あ、そうそう。食料を持ってくるあいだ、掃除しててくれる? お風呂とか、トイレとか、台所とか。水まわりを重点的に、なるべく丁寧にね」
その言葉に従い、まずは風呂掃除をしようと、稲穂は、洗面台の下にある棚を開けた。いつも使っている洗剤や漂白剤に加え、「丁寧」を強調した彩の指示どおりに、重曹やクエン酸なども用意する。
普段から掃除しているとはいえ、水まわりは使う回数も多いからか、すぐに汚れが溜まってしまう。いま、風呂場を掃除するよう言われた真意はわからないが、掃除なんて何回したっていいものだ。
稲穂はゴム手袋とマスクを装着し、掃除道具一式を手に取る。
「ただいま」
それから三十分ほどが経過して、洗剤を洗い落としているときだ。シャワーヘッドから勢いよく噴出され続ける水音に紛れ、玄関の扉が開かれるような音を耳にする。
稲穂が駆けつけたとき、そこにはいくつものクーラーボックスが並べられていた。その横には、稲穂の胸あたりまでの高さがある茶色の紙袋が、これまたいくつも置かれた光景が広がっている。
どうやって運び入れたと思うよりも前に、どこから用意したものなのだろうという疑問を抱く。
そんな心配を他所に、彩は真鯛の尾ビレを掴んで胸を張った。その真鯛は、手のなかから逃れようと大きく跳ねる。
「い、生きてるの?」
「たったいま釣ってきたからね」
彩の身長の三分の一はあろうかという巨躯をくねらせていたが、真鯛は、がっつりと掴まれた状態から逃れることはできなかった。
クーラーボックスのなかには、アジやサワラ、スルメイカなどの雑多な魚介類が詰め込まれている。釣りが趣味だという友達が以前に言っていた、秋田県沖で五月・六月ごろに釣れる魚のラインナップと一致している。
まだ新鮮なのだろう、まるで海中を泳いでいるように、クーラーボックスのなかで魚がぴくぴくと波打つ。
「これって海水魚じゃない?」
「……ああ、まあ、そうだね」
「ここから海までは、車で二十分くらいかかるよ? 釣り場となると……」
「ま、まあ、細かいことはいいじゃない」
キッチンまで運び入れようと、クーラーボックスを持ち上げるため手をかけた、その瞬間、なにかの鳴き声が外から聞こえてきた。
モ~。ブヒブヒ。彩の制止を振り切って扉を開けた稲穂を待ち受けていたのは、豚と牛が一頭ずつ、風除室のなかで窮屈そうに佇んでいる異様な光景だった。
完全に道を塞いだ牛の背中が天井へとつき、微かに風除室を揺らしたような気がする。そのたびに、吃驚したニワトリがコケコケと、牛の足もとで走り回っていた。
「一週間ぶんじゃあ、多すぎた?」
「いや。そういう問題じゃなくて」
彩の天然すぎるボケに、稲穂はストレートにツッコむ。
開け放たれた扉から稲穂の足もとをくぐって、何羽かは家のなかへ入っていこうとしたが、なにかに躓いたのか前のめりになったあと、風除室のなかへおとなしく帰っていく。
なにか結界的なものにぶつかって、それ以上の進入を断念したかのように見えた。稲穂は次から次へと質問が浮かんできて止まらない。
「こんなにたくさん、いったいどこから?」
「えっあっいや……それは、その……」彩は言いづらそうに口籠る。「まあまあ、それはいいじゃない! とりあえず、これで一週間の食事は賄えるよね?」
「これを? どうやって、調理するの? ここで?」
「確かにねー。でも『グルメテーブルかけ』じゃあるまいし、調理後のものは出せないんだよねー」
「これって、野菜はないの?」
「……そうだよね、やっぱり。野菜も必要よね。でも、野菜は出したことないし」
「出す……?」
「いや、なんでもない。頑張ってみるわ」
いったい、なにを頑張るのだろう。彩が家を出ていったあと、稲穂は風呂掃除の仕上げへと戻った。その次に、トイレ掃除へ取りかかる。
一時間ほどが経過し、指示されていた箇所は、あらかた掃除を終えたのだが、やることがなくなって手持ち無沙汰になってくると、ほかの場所も気になり出してきた。
ポリバケツに溜めた水で雑巾を絞り、床や戸棚を拭いていく。終わりどころを見失い、終いには、年末の大掃除さながら、天井を箒で掃き始める。
箒を掲げ、ソファーに上がって背伸びをする稲穂の姿を、戻ってきた彩は目撃し、開口一番「そこまでしなくていいよ」と言った。稲穂は、祖霊舎に立てかけてあった箒を、もとの位置へ戻しに行く。
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