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章第二「茨木童子」

(一)髀肉の嘆と云へり

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「稲穂ちゃん! 稲穂ちゃん!」


 自分の両手両足の爪先も視認できないほどに、眩暈めまいもよおすほどの強い光が周囲へと拡散していく。その中心部に取り残されているであろう稲穂のほうへ、彩は何度も呼びかけ続けながら手をできる限り伸ばしていた。
 そんな光景が、ぽうっと目蓋まぶたの裏に浮かんでくる。おととい、宿儺すくななんかに遭遇してしまったせいで、否応なく、いやな記憶を思い出してしまったらしい。


 日の出とともに目を覚ました彩は、身体の節々に痛みを感じつつ、ボコボコ鳴るトタンの上で寝返りをうつ。
 宿儺と対峙した日から、彩は体育着姿のまま、五瀬家の屋根の上にのぼっていた。
 寝ぼけまなこに飛び込んできたのは昇ったばかりの朝日と、その光を浴び、まるで後光が差したかのように輝く黄金色こがねいろの毛並みだった。
 秋の垂穂たりほのような優しい感触に包み込まれ、てのひらからこぼれてしまうほど大きな尻尾が鼻先をくすぐる。


 隣りで神使しんしのキツネが眠りこけていた。彩は二度寝しかけたが、炎天下のせいでたまらず目を開く。
 太陽が地上から顔を出して間もなく、まだ気温もそこまで高くはないはずだというのに、いつまで寝ているのだ、と天照大神あまてらすおおみかみから叩き起されてしまったようだった。
 東雲色しののめいろに染まったあかつきの空を、彩はぼんやりと眺める。


 そうだ、と決意を改める。ここ数年が平和すぎて、単に油断していただけだ。ふんどし穿いてはいないが、彩は褌を引き締める思いに駆られる。
 誰かが近づいてくる音がかすかに聞こえ、飛び起きて、警戒を強めるように周囲を見回したが、遠くに見つけたそれ・ ・は、見覚えのあるキツネの姿だった。
 そのキツネは垣根をび越え、屋根の上へ静かに降り立ち、熟睡しているもう一匹のキツネへ大声で告げる。


「そろそろ交代の時間だ、市兵衛いちべえ!」


 うつろな目を前足でこすりつつ、市兵衛と呼ばれた狐は生返事した。そして、あとからきたほうのキツネは、彩に、首から提げていた風呂敷を差し出す。
 それを受け取ると、彩は自分の膝の上で広げる。風呂敷のなかに入っていたのは、空腹を満たすには十分なほどの団子だった。それを、もの欲しそうに見つめる市兵衛の口もとへ、お駄賃代わりにひとつ放り込む。


「ありがとう。いただきます……」彩は自分の腹部をさすった。「ちょうどよかった。あまりにも美味おいしそうだったから、危うく市兵衛の尻尾を食べそうになっていたところ」


 立ち去り際、市兵衛はぎくりとして軒先のきさきから落ちそうになった。冗談よ、冗談。


「きのうから、なにも食べてないんじゃないですか」
「うん、まあ……ときどき、肉体を持っていることを忘れちゃうんだよね」
「まだですか? 少なくとも、いまの身体とは十年くらいのつき合いじゃないですか」


 残ったほうのキツネ・弥兵衛やへえは湯飲みにお茶を注ぎ、濡れた布巾を用意し、てきぱきと準備していた。
 まあ、そうなんだけど……と前置きして、もうひとつ団子にかぶりつく。


「久々に戦ってみて思ったけれど、力を思うように使いこなせなかったのよね。肉体があると気配を消せるのはいいけど、神本来の力まで抑え込められてしまうのが難点」
 宿儺との死闘を思い出し、彩は深いため息を吐いた。ひとこと、ぼそりと呟く。「……まさに皮肉」


「ご苦労さまでーす」
 帰ったと思っていた市兵衛が、どうやら聞き耳を立てていたようで、ひょこひょこと彩の近くへ戻ってきた。さらに市兵衛は、嫌みったらしく口角を上げる。
「肉体があると、体型も気になりますもんね。髀肉ひにくを嘆かないでください」


 仕返しと言わんばかりに、ニタニタと薄ら笑いを浮かべ、市兵衛は彩の太腿《ふともも》に前足を乗せる。
 通常よりも三倍速くらいで、尻尾を左右に揺らしていた。主人に対して横柄な態度を取る前足を振り払い、彩は立ち上がると自分の内腿うちももを押さえ込む。
「ふ、太ってないわ! それこそ、なんの皮肉よ!」


 市兵衛にツッコミを入れたあと、彩は手を振って「さっさと早く帰れ」と合図した。お茶をすすって、彩は眼下の水田を見渡す。


 秋田県では五月中旬頃に田植えの最盛期を迎え、この時期になれば青々とした田んぼを至るところで目にする。
 まだまだ植えられたばかりで小さな苗が、暑さを振り払うかのように吹く風でなびいていた。
 直射日光を浴びすぎたせいで、日焼けこそしないものの、わずかに身長が伸びたような気がする。保食神うけもちのかみのためだらうか。


 空が映り込んだ浅葱色あさぎいろの水田に、薄萌葱うすもえぎ若苗わかなえが映えた景色は、とても美しいものだと感じた。
 彩は思いっきり息を吸い込み、腕をぐっと伸ばして身体をほぐす。稲の香りにじった天照大神の気配が鼻腔に届き、彩の額から零れ落ちた汗を涼風がかすめ取っていく。
 嗅ぎ馴染なじんだ水田の香りに、彩は心持ちは次第に落ち着いてきた。はなはこころよし。


 そんなときだった。五瀬家の周囲だけかげったのを感じ、彩は慌てて空を見上げる。頭上に、陽光を遮る黒いかげがあることに気づく。
 叢雲むらくもなんかではない。断然、雲よりも近い場所にあった。
 その黒い陰は下へ落ちていき、再び陽光が彩のもとに降り注ぐ。いつもより暑く、すぐ近くまで太陽が迫ってきているかのような錯覚に陥る。


「なにをしている」そんな天照大神の声が聞こえてくるような気がした。「急ぐのだ」


 彩は屋根から飛び降りて、畦畔けいはんへ着地すると、水田のなかに手を突っ込む。そこから一本、植えられたばかりの稲を摘み取った。
 いただきます。そう告げながら田んぼに一礼し、手に持った稲をひと振りさせると、それはあっという間に小刀へと変化した。
 田んぼのある南側から、東のほうへと回り込む。二階にある稲穂の部屋を見上げ、彩は目標を定めると、思いっきり地面を蹴ってジャンプした。


「稲穂!」


 窓のすぐ下の壁に足裏をつけ、重力に抗っていられるほどの短いあいだに、素早く眼前の陰へ刃先を突き立てた。
 さらに小刀をその身体へ食い込ませると、そのままの勢いで横にスライドさせる。いとも簡単にそれは斬れ、欠損した身体の一部は着物の破片とともに、血飛沫ちしぶきき散らせながら宙を舞う。
 それを市兵衛が口でキャッチするのを横目で確認しながら、彩は跳んできた弥兵衛の尻尾に身体を沈み込ませた。


 弥兵衛が尻尾を振るタイミングに合わせ、彩は思いっきり腕を伸ばす。窓枠に手をかけると、ぽっかりと開いた隙間を縫って、前転しながら稲穂の部屋へと入った。
 薄暗い部屋のなかでは、尻餅をついた稲穂のまわりに、黒い手のような物体がうねうねとしている。
 どうやら、それらが手足にまとわりつき、稲穂の自由を奪っているようで、なんだか少しだけいかがわしく感じた。


「汚い手で稲穂に触んなァァァ! この鬼畜どもがァァァ!」
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