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第五章
その六 決闘場:穢れし都の終焉
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怪物は最後の抵抗で肉の翼を拡げ、飛翔しようとした。
だが、間に合わなかった。
崩落に巻き込まれた残酷大公像、その剣に体を刺し貫かれたのだ。その体がみるみる萎んで、大公の姿に戻ってゆく。
残酷大公は目を開いた。
崩壊していく自分の王国。その吹き抜けの遥か上。砕け散った天窓の、青い空の向こうに、人が見えた。
ああ……我が師よ……
ヘルメス・トリスメギストスは残酷大公を見下ろし、悲しげに笑った。
それからしばらく後、電気系統の故障か、拡声器からソドムの国家が流れ始めた。その中で残酷大公の体はぼろぼろと崩れ、塵になって飛散していった。
――だ、誰かいる! 助けて! 助けてえ! ――
ハインツは涙を流しながら、目だけを動かした。
誰もいなくなったはずの部屋の片隅に、佇む影があった。
それは真っ黒なベールをかぶった女だった。
女は、音もなくハインツに近づくと、つま先でうつ伏せだったハインツをひっくり返す。
女はベールをまくり上げた。
ハインツはその女に見覚えがあった。
確か執行部の受付に座っていた事務の――
ミナは、ハインツの胸を真っ黒い皮手袋をはめた手で、するすると撫でた。
「ハインリッヒ・フィーグラー……ドイツ労働党と親密な関係にあるトゥーレ教会から派遣された。
目的は残酷大公の開発している大量破壊兵器の調査。その兵器の鍵がマヤ・パラディールであるとわかると、残酷大公を出し抜き、彼女を誘拐しようとした……間違いないかしら?」
ソドムの国歌が大音量で流れる中、女の声は氷のようにハインツの脳に入り込んでくる。
女の目が赤く輝き、巨大になりつつあった。
ハインツは動かぬ口で悲鳴を上げようとした。
「あなたの行動は私の計画の邪魔だった。
……ハラハラしたわ。お蔭で妙な生物に貴重な石を進呈する羽目になった。
でも、まあ――それはどうでもいい。
私の計画は完了し……そう、肝心なのは、あたしは今――お腹が減っているってことよ」
女の顔がぐにゃりと変わった。
皺が消え、鼻の高さが、目つきが変わっていく。
そこにいたのはハインツが必死に誘惑しようとしていた、マヤの顔だった。
「残酷大公に血をやりすぎて、正直、ここ十年ずっと空腹なの」
「な……な、んだ……お前は……」
「私はヴィルジニー。失敗したホムンクルスよ。
ねえ、あなた、ずっとずっと昔に処分されずにヘルメスの元を逃げ出した失敗作たちを、世間は何と呼んでいたか知ってる?」
ヴィルジニーは口を開いた。
乱雑な長さの大量の太い牙が上下に伸び始めていた。
「吸血鬼よ」
ハインツは細く哀れな悲鳴を上げた。
ヴィルジニーはそれを断ち切るように首に齧り付いた。
逃げ出した乗務員と客が見守る中、岩壁に接岸していたソドムが震え始めた。
まとわりついていた霧が船に吸い込まれ始め、大きなきしむ音が響く。階層警察官達が最後の仕事とばかりに、岩壁から客達を誘導して、遠くに走らせた。
ジャンとマヤはヨハンセン達と合流すると、高台まで走り草原の巨岩の影に身を隠す。
マヤは岩陰から顔を出した。
「塩になるぞ、マヤ」
「うるさいよ。見てみなってば! すごいぞ……」
ジャンはマフラーに顔をうずめた。
「どうにも、すーすーしていかんな……」
レイが呆れたような顔をして、ジャンの顔をじろじろと見た。
「お前本当に、あの手品師なのかよ! いやあ、驚いたなあ!」
ヨハンセンも便乗する。
「まったくだ! 俺の仲間だと思っていたら、どういうことだ、その腹は!」
ロングデイが溜息をついた。
「あなたがお酒を飲み過ぎなのよ。これからは控えてもらいますからね」
「なんだとお!」
ジャンがえずく。
「おえっ! だから惚気は他所でやってくれと……お! ありゃ、メリエスの御大か」
メリエスが遠くの岩場でカメラを回し、ロビーで会った小説家と思しき男と奇術師のウーダンが、煙草をくゆらせながら御婦人方と談笑している。見覚えのある――まねきで案内してくれた店員が、何故か招き猫を抱えて他の店員と海を指差して大声で喋っていた。
マヤは海に目を凝らした。
泡立った海面に、真っ黒で大きな何かが浮かび上がってくる。
「鯨だ!」
マヤの叫びに、ジャンも岩陰から顔を出した。
「どうやら、残酷大公の魔術が消えた所為で、自然の自浄作用が働き出したようだな。何匹かは逃げるかもしれんが――」
鯨たちは海面下にいた、あれに殺到していた。たまらず水面から顔を出したあれに目が幾つもついているのをマヤは確かに見た。一際巨大なマッコウクジラが、躍り上がるとそれを噛み潰し、赤黒い巨大な波しぶきが砕ける。
霧が晴れ、ソドムの上部が見え始めた。上がドーム状になっている巨大の鉄の塔が、軋み、大きく揺れている。二人の後ろから、呻き声が聞こえた。
「わたし……の、タワー……また倒れるのか……」
マヤが振り返ると、担架に乗せられたテスラが、涙を流して震えていた。ロングデイがその頭を優しく撫でた。
「あれは、悪夢の象徴です。今度は、ちゃんとしたものをお作りになることです」
ジャンの襟元から顔を出したガンマが囁く。
「彼の技術は、新しい世界大戦の引き金になりかねないね」
ジャンが肩を竦め、ロングデイに声をかけた。
「ロングデイさん、彼の素性はしばらく伏せておくべきです」
「わかっております」
ロングデイは頷くと同時に地響きが始まった。
ソドムは爆発した。
炎があらゆる窓から吹き出し、船体が内側に凹み、それからどんどん膨らみ、遂に爆散し二つに割れた。岩場にいた客達が悲鳴を上げ、一様に地面に伏せた。
タワーは縦に裂け、片側は上空に打ち上げられ、浜につきささった。湿った砂の雨がジャン達に降りかかった。もう片側は海上に落下し、飛沫を上げ沈んでいく。
燃え上がるソドムは岩壁を離れ始めた。爆音が轟き、前部がひしゃげて水没する。
続いて後部が黒煙を上げながら、ゆっくりと渦を巻いて沈んでいった。
ジャンは息を吐いた。
「終わったか……」
マヤ以下一同も、ほっと溜息をついた。砂を払いながらマルガレータが立ち上がる。
「さて、私はもう行くわ。手品師、借りは返したわよ」
ジャンがふんと鼻で笑った。
「お互いもう会わないことを祈るね」
マヤが立ち上がると、マルガレータに手を差し出した。
「ありがとう、マルガレータさん! 二人を守ってくれて感謝してる!」
マルガレータはその手を眺め、苦笑すると軽く握った。
「まったく調子が狂うわね。お嬢ちゃん、次に会った時は敵同士かもしれないわよ。何しろ私はあなたの情報を某国へ売るつもりだからね」
「高く買ってもらえるといいね! でも、あたし思ったより有名みたいだから、あまりいい値段はつかないんじゃないかなあ」
マルガレータは吹き出した。それから踵を返すと、頭に手をやった。
ずるり、と赤毛の鬘が外れ、足元に転がる。
一度だけ肩越しに振り返った彼女の髪は、黒い短髪だった。
「じゃあね、マヤちゃん! もう会わない事を祈ってるわ。
ある日どこかで、二代目マタハリって言葉を耳にしたら、あたしがいると思って、なるべく早く離れてね。
あなたを巻き込みたくないし……あなたに巻き込まれたくないから!」
栗毛の青年が苦しそうに呻いた。
レイとダイアナが心配そうな顔で覗き込むと、青年は笑った。
「そんな顔をするなよ。僕達は助かったんだから」
「……にいちゃん、最後に名前を教えてくれよ。墓に刻むから」
「や、やめてくれ! 縁起でもない!」
「そうよ、レイ。まずは実家を聞かないと。あ、髪の毛をもらってもいいですか?」
青年はぎゃあぎゃあと喚き、それから笑い出した。レイとダイアナも笑い出す。
「にいちゃん、俺はレイだ。捨て子で苗字が判らねえから――ダイナミックな感じで――レイ・ダイナハウゼン! よろしく!」
「い、今考えたのかい!?」
ダイアナが苦笑した。
「彼を許してやってください。いつもこんな感じですが、あなたもご存知のようにとても勇敢なんです」
レイは真っ赤になって、目をぱちぱちさせている。
呆気にとられている青年に、ダイアナは頭を下げた。
「私はダイアナ……ダイアナ・ダイナハウゼンです」
レイはダイアナを見つめて、頷いた。ダイアナは伏し目がちになって真っ赤になっていた。
青年は眉をひそめて兄妹かと尋ねた。ダイアナは青年の頭を叩くと、顔を背けてしまった。
レイが肩を竦める。
「で、無神経なにいちゃんの名前は?」
「ああ……僕はオスカーだ。オスカー・ルーザー」
レイとオスカーは握手を交わした。
だが、間に合わなかった。
崩落に巻き込まれた残酷大公像、その剣に体を刺し貫かれたのだ。その体がみるみる萎んで、大公の姿に戻ってゆく。
残酷大公は目を開いた。
崩壊していく自分の王国。その吹き抜けの遥か上。砕け散った天窓の、青い空の向こうに、人が見えた。
ああ……我が師よ……
ヘルメス・トリスメギストスは残酷大公を見下ろし、悲しげに笑った。
それからしばらく後、電気系統の故障か、拡声器からソドムの国家が流れ始めた。その中で残酷大公の体はぼろぼろと崩れ、塵になって飛散していった。
――だ、誰かいる! 助けて! 助けてえ! ――
ハインツは涙を流しながら、目だけを動かした。
誰もいなくなったはずの部屋の片隅に、佇む影があった。
それは真っ黒なベールをかぶった女だった。
女は、音もなくハインツに近づくと、つま先でうつ伏せだったハインツをひっくり返す。
女はベールをまくり上げた。
ハインツはその女に見覚えがあった。
確か執行部の受付に座っていた事務の――
ミナは、ハインツの胸を真っ黒い皮手袋をはめた手で、するすると撫でた。
「ハインリッヒ・フィーグラー……ドイツ労働党と親密な関係にあるトゥーレ教会から派遣された。
目的は残酷大公の開発している大量破壊兵器の調査。その兵器の鍵がマヤ・パラディールであるとわかると、残酷大公を出し抜き、彼女を誘拐しようとした……間違いないかしら?」
ソドムの国歌が大音量で流れる中、女の声は氷のようにハインツの脳に入り込んでくる。
女の目が赤く輝き、巨大になりつつあった。
ハインツは動かぬ口で悲鳴を上げようとした。
「あなたの行動は私の計画の邪魔だった。
……ハラハラしたわ。お蔭で妙な生物に貴重な石を進呈する羽目になった。
でも、まあ――それはどうでもいい。
私の計画は完了し……そう、肝心なのは、あたしは今――お腹が減っているってことよ」
女の顔がぐにゃりと変わった。
皺が消え、鼻の高さが、目つきが変わっていく。
そこにいたのはハインツが必死に誘惑しようとしていた、マヤの顔だった。
「残酷大公に血をやりすぎて、正直、ここ十年ずっと空腹なの」
「な……な、んだ……お前は……」
「私はヴィルジニー。失敗したホムンクルスよ。
ねえ、あなた、ずっとずっと昔に処分されずにヘルメスの元を逃げ出した失敗作たちを、世間は何と呼んでいたか知ってる?」
ヴィルジニーは口を開いた。
乱雑な長さの大量の太い牙が上下に伸び始めていた。
「吸血鬼よ」
ハインツは細く哀れな悲鳴を上げた。
ヴィルジニーはそれを断ち切るように首に齧り付いた。
逃げ出した乗務員と客が見守る中、岩壁に接岸していたソドムが震え始めた。
まとわりついていた霧が船に吸い込まれ始め、大きなきしむ音が響く。階層警察官達が最後の仕事とばかりに、岩壁から客達を誘導して、遠くに走らせた。
ジャンとマヤはヨハンセン達と合流すると、高台まで走り草原の巨岩の影に身を隠す。
マヤは岩陰から顔を出した。
「塩になるぞ、マヤ」
「うるさいよ。見てみなってば! すごいぞ……」
ジャンはマフラーに顔をうずめた。
「どうにも、すーすーしていかんな……」
レイが呆れたような顔をして、ジャンの顔をじろじろと見た。
「お前本当に、あの手品師なのかよ! いやあ、驚いたなあ!」
ヨハンセンも便乗する。
「まったくだ! 俺の仲間だと思っていたら、どういうことだ、その腹は!」
ロングデイが溜息をついた。
「あなたがお酒を飲み過ぎなのよ。これからは控えてもらいますからね」
「なんだとお!」
ジャンがえずく。
「おえっ! だから惚気は他所でやってくれと……お! ありゃ、メリエスの御大か」
メリエスが遠くの岩場でカメラを回し、ロビーで会った小説家と思しき男と奇術師のウーダンが、煙草をくゆらせながら御婦人方と談笑している。見覚えのある――まねきで案内してくれた店員が、何故か招き猫を抱えて他の店員と海を指差して大声で喋っていた。
マヤは海に目を凝らした。
泡立った海面に、真っ黒で大きな何かが浮かび上がってくる。
「鯨だ!」
マヤの叫びに、ジャンも岩陰から顔を出した。
「どうやら、残酷大公の魔術が消えた所為で、自然の自浄作用が働き出したようだな。何匹かは逃げるかもしれんが――」
鯨たちは海面下にいた、あれに殺到していた。たまらず水面から顔を出したあれに目が幾つもついているのをマヤは確かに見た。一際巨大なマッコウクジラが、躍り上がるとそれを噛み潰し、赤黒い巨大な波しぶきが砕ける。
霧が晴れ、ソドムの上部が見え始めた。上がドーム状になっている巨大の鉄の塔が、軋み、大きく揺れている。二人の後ろから、呻き声が聞こえた。
「わたし……の、タワー……また倒れるのか……」
マヤが振り返ると、担架に乗せられたテスラが、涙を流して震えていた。ロングデイがその頭を優しく撫でた。
「あれは、悪夢の象徴です。今度は、ちゃんとしたものをお作りになることです」
ジャンの襟元から顔を出したガンマが囁く。
「彼の技術は、新しい世界大戦の引き金になりかねないね」
ジャンが肩を竦め、ロングデイに声をかけた。
「ロングデイさん、彼の素性はしばらく伏せておくべきです」
「わかっております」
ロングデイは頷くと同時に地響きが始まった。
ソドムは爆発した。
炎があらゆる窓から吹き出し、船体が内側に凹み、それからどんどん膨らみ、遂に爆散し二つに割れた。岩場にいた客達が悲鳴を上げ、一様に地面に伏せた。
タワーは縦に裂け、片側は上空に打ち上げられ、浜につきささった。湿った砂の雨がジャン達に降りかかった。もう片側は海上に落下し、飛沫を上げ沈んでいく。
燃え上がるソドムは岩壁を離れ始めた。爆音が轟き、前部がひしゃげて水没する。
続いて後部が黒煙を上げながら、ゆっくりと渦を巻いて沈んでいった。
ジャンは息を吐いた。
「終わったか……」
マヤ以下一同も、ほっと溜息をついた。砂を払いながらマルガレータが立ち上がる。
「さて、私はもう行くわ。手品師、借りは返したわよ」
ジャンがふんと鼻で笑った。
「お互いもう会わないことを祈るね」
マヤが立ち上がると、マルガレータに手を差し出した。
「ありがとう、マルガレータさん! 二人を守ってくれて感謝してる!」
マルガレータはその手を眺め、苦笑すると軽く握った。
「まったく調子が狂うわね。お嬢ちゃん、次に会った時は敵同士かもしれないわよ。何しろ私はあなたの情報を某国へ売るつもりだからね」
「高く買ってもらえるといいね! でも、あたし思ったより有名みたいだから、あまりいい値段はつかないんじゃないかなあ」
マルガレータは吹き出した。それから踵を返すと、頭に手をやった。
ずるり、と赤毛の鬘が外れ、足元に転がる。
一度だけ肩越しに振り返った彼女の髪は、黒い短髪だった。
「じゃあね、マヤちゃん! もう会わない事を祈ってるわ。
ある日どこかで、二代目マタハリって言葉を耳にしたら、あたしがいると思って、なるべく早く離れてね。
あなたを巻き込みたくないし……あなたに巻き込まれたくないから!」
栗毛の青年が苦しそうに呻いた。
レイとダイアナが心配そうな顔で覗き込むと、青年は笑った。
「そんな顔をするなよ。僕達は助かったんだから」
「……にいちゃん、最後に名前を教えてくれよ。墓に刻むから」
「や、やめてくれ! 縁起でもない!」
「そうよ、レイ。まずは実家を聞かないと。あ、髪の毛をもらってもいいですか?」
青年はぎゃあぎゃあと喚き、それから笑い出した。レイとダイアナも笑い出す。
「にいちゃん、俺はレイだ。捨て子で苗字が判らねえから――ダイナミックな感じで――レイ・ダイナハウゼン! よろしく!」
「い、今考えたのかい!?」
ダイアナが苦笑した。
「彼を許してやってください。いつもこんな感じですが、あなたもご存知のようにとても勇敢なんです」
レイは真っ赤になって、目をぱちぱちさせている。
呆気にとられている青年に、ダイアナは頭を下げた。
「私はダイアナ……ダイアナ・ダイナハウゼンです」
レイはダイアナを見つめて、頷いた。ダイアナは伏し目がちになって真っ赤になっていた。
青年は眉をひそめて兄妹かと尋ねた。ダイアナは青年の頭を叩くと、顔を背けてしまった。
レイが肩を竦める。
「で、無神経なにいちゃんの名前は?」
「ああ……僕はオスカーだ。オスカー・ルーザー」
レイとオスカーは握手を交わした。
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