上 下
57 / 62
第五章

その六 決闘場:穢れし都の終焉

しおりを挟む
 怪物は最後の抵抗で肉の翼を拡げ、飛翔しようとした。
 だが、間に合わなかった。
 崩落に巻き込まれた残酷大公像、その剣に体を刺し貫かれたのだ。その体がみるみる萎んで、大公の姿に戻ってゆく。

 残酷大公は目を開いた。
 崩壊していく自分の王国。その吹き抜けの遥か上。砕け散った天窓の、青い空の向こうに、人が見えた。

 ああ……我が師よ……

 ヘルメス・トリスメギストスは残酷大公を見下ろし、悲しげに笑った。
 それからしばらく後、電気系統の故障か、拡声器からソドムの国家が流れ始めた。その中で残酷大公の体はぼろぼろと崩れ、塵になって飛散していった。


 ――だ、誰かいる! 助けて! 助けてえ! ――

 ハインツは涙を流しながら、目だけを動かした。
 誰もいなくなったはずの部屋の片隅に、佇む影があった。
 それは真っ黒なベールをかぶった女だった。
 女は、音もなくハインツに近づくと、つま先でうつ伏せだったハインツをひっくり返す。

 女はベールをまくり上げた。

 ハインツはその女に見覚えがあった。

 確か執行部の受付に座っていた事務の――

 ミナは、ハインツの胸を真っ黒い皮手袋をはめた手で、するすると撫でた。
「ハインリッヒ・フィーグラー……ドイツ労働党と親密な関係にあるトゥーレ教会から派遣された。
 目的は残酷大公の開発している大量破壊兵器の調査。その兵器の鍵がマヤ・パラディールであるとわかると、残酷大公を出し抜き、彼女を誘拐しようとした……間違いないかしら?」

 ソドムの国歌が大音量で流れる中、女の声は氷のようにハインツの脳に入り込んでくる。
 女の目が赤く輝き、巨大になりつつあった。
 ハインツは動かぬ口で悲鳴を上げようとした。

「あなたの行動は私の計画の邪魔だった。
 ……ハラハラしたわ。お蔭で妙な生物に貴重な石を進呈する羽目になった。
 でも、まあ――それはどうでもいい。
 私の計画は完了し……そう、肝心なのは、あたしは今――お腹が減っているってことよ」

 女の顔がぐにゃりと変わった。
 皺が消え、鼻の高さが、目つきが変わっていく。
 そこにいたのはハインツが必死に誘惑しようとしていた、マヤの顔だった。
「残酷大公に血をやりすぎて、正直、ここ十年ずっと空腹なの」
「な……な、んだ……お前は……」
「私はヴィルジニー。失敗したホムンクルスよ。
 ねえ、あなた、ずっとずっと昔に処分されずにヘルメスの元を逃げ出した失敗作たちを、世間は何と呼んでいたか知ってる?」
 ヴィルジニーは口を開いた。
 乱雑な長さの大量の太い牙が上下に伸び始めていた。
吸血鬼ヴァンピールよ」
 ハインツは細く哀れな悲鳴を上げた。
 ヴィルジニーはそれを断ち切るように首に齧り付いた。


 逃げ出した乗務員と客が見守る中、岩壁に接岸していたソドムが震え始めた。
 まとわりついていた霧が船に吸い込まれ始め、大きなきしむ音が響く。階層警察官達が最後の仕事とばかりに、岩壁から客達を誘導して、遠くに走らせた。
 ジャンとマヤはヨハンセン達と合流すると、高台まで走り草原の巨岩の影に身を隠す。
 マヤは岩陰から顔を出した。
「塩になるぞ、マヤ」
「うるさいよ。見てみなってば! すごいぞ……」
 ジャンはマフラーに顔をうずめた。
「どうにも、すーすーしていかんな……」
 レイが呆れたような顔をして、ジャンの顔をじろじろと見た。
「お前本当に、あの手品師なのかよ! いやあ、驚いたなあ!」
 ヨハンセンも便乗する。
「まったくだ! 俺の仲間だと思っていたら、どういうことだ、その腹は!」
 ロングデイが溜息をついた。
「あなたがお酒を飲み過ぎなのよ。これからは控えてもらいますからね」
「なんだとお!」
 ジャンがえずく。
「おえっ! だから惚気は他所でやってくれと……お! ありゃ、メリエスの御大か」

 メリエスが遠くの岩場でカメラを回し、ロビーで会った小説家と思しき男と奇術師のウーダンが、煙草をくゆらせながら御婦人方と談笑している。見覚えのある――まねきで案内してくれた店員が、何故か招き猫を抱えて他の店員と海を指差して大声で喋っていた。

 マヤは海に目を凝らした。
 泡立った海面に、真っ黒で大きな何かが浮かび上がってくる。
「鯨だ!」
 マヤの叫びに、ジャンも岩陰から顔を出した。
「どうやら、残酷大公の魔術が消えた所為で、自然の自浄作用が働き出したようだな。何匹かは逃げるかもしれんが――」
 鯨たちは海面下にいた、あれに殺到していた。たまらず水面から顔を出したあれに目が幾つもついているのをマヤは確かに見た。一際巨大なマッコウクジラが、躍り上がるとそれを噛み潰し、赤黒い巨大な波しぶきが砕ける。
 霧が晴れ、ソドムの上部が見え始めた。上がドーム状になっている巨大の鉄の塔が、軋み、大きく揺れている。二人の後ろから、呻き声が聞こえた。
「わたし……の、タワー……また倒れるのか……」
 マヤが振り返ると、担架に乗せられたテスラが、涙を流して震えていた。ロングデイがその頭を優しく撫でた。
「あれは、悪夢の象徴です。今度は、ちゃんとしたものをお作りになることです」
 ジャンの襟元から顔を出したガンマが囁く。
「彼の技術は、新しい世界大戦の引き金になりかねないね」
 ジャンが肩を竦め、ロングデイに声をかけた。
「ロングデイさん、彼の素性はしばらく伏せておくべきです」
「わかっております」
 ロングデイは頷くと同時に地響きが始まった。

 ソドムは爆発した。
 炎があらゆる窓から吹き出し、船体が内側に凹み、それからどんどん膨らみ、遂に爆散し二つに割れた。岩場にいた客達が悲鳴を上げ、一様に地面に伏せた。
 タワーは縦に裂け、片側は上空に打ち上げられ、浜につきささった。湿った砂の雨がジャン達に降りかかった。もう片側は海上に落下し、飛沫を上げ沈んでいく。
 燃え上がるソドムは岩壁を離れ始めた。爆音が轟き、前部がひしゃげて水没する。
 続いて後部が黒煙を上げながら、ゆっくりと渦を巻いて沈んでいった。

 ジャンは息を吐いた。
「終わったか……」
 マヤ以下一同も、ほっと溜息をついた。砂を払いながらマルガレータが立ち上がる。
「さて、私はもう行くわ。手品師、借りは返したわよ」
 ジャンがふんと鼻で笑った。
「お互いもう会わないことを祈るね」
 マヤが立ち上がると、マルガレータに手を差し出した。
「ありがとう、マルガレータさん! 二人を守ってくれて感謝してる!」
 マルガレータはその手を眺め、苦笑すると軽く握った。
「まったく調子が狂うわね。お嬢ちゃん、次に会った時は敵同士かもしれないわよ。何しろ私はあなたの情報を某国へ売るつもりだからね」
「高く買ってもらえるといいね! でも、あたし思ったより有名みたいだから、あまりいい値段はつかないんじゃないかなあ」
 マルガレータは吹き出した。それから踵を返すと、頭に手をやった。
 ずるり、と赤毛の鬘が外れ、足元に転がる。
 一度だけ肩越しに振り返った彼女の髪は、黒い短髪だった。

「じゃあね、マヤちゃん! もう会わない事を祈ってるわ。
 ある日どこかで、二代目マタハリって言葉を耳にしたら、あたしがいると思って、なるべく早く離れてね。
 あなたを巻き込みたくないし……あなたに巻き込まれたくないから!」

 栗毛の青年が苦しそうに呻いた。
 レイとダイアナが心配そうな顔で覗き込むと、青年は笑った。
「そんな顔をするなよ。僕達は助かったんだから」
「……にいちゃん、最後に名前を教えてくれよ。墓に刻むから」
「や、やめてくれ! 縁起でもない!」
「そうよ、レイ。まずは実家を聞かないと。あ、髪の毛をもらってもいいですか?」
 青年はぎゃあぎゃあと喚き、それから笑い出した。レイとダイアナも笑い出す。
「にいちゃん、俺はレイだ。捨て子で苗字が判らねえから――ダイナミックな感じで――レイ・ダイナハウゼン! よろしく!」
「い、今考えたのかい!?」
 ダイアナが苦笑した。
「彼を許してやってください。いつもこんな感じですが、あなたもご存知のようにとても勇敢なんです」
 レイは真っ赤になって、目をぱちぱちさせている。
 呆気にとられている青年に、ダイアナは頭を下げた。
「私はダイアナ……ダイアナ・ダイナハウゼンです」
 レイはダイアナを見つめて、頷いた。ダイアナは伏し目がちになって真っ赤になっていた。
 青年は眉をひそめて兄妹かと尋ねた。ダイアナは青年の頭を叩くと、顔を背けてしまった。
 レイが肩を竦める。
「で、無神経なにいちゃんの名前は?」
「ああ……僕はオスカーだ。オスカー・ルーザー」
 レイとオスカーは握手を交わした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

要塞少女

水城洋臣
歴史・時代
蛮族に包囲され孤立した城を守り抜いた指揮官は、十四歳の少女であった。  三国時代を統一によって終わらせた西晋王朝の末期。  かつて南中と呼ばれた寧州で、蛮族の反乱によって孤立した州城。今は国中が内紛の只中にあり援軍も望めない。絶体絶命と思われた城を救ったのは、名将である父から兵法・武芸を学んだ弱冠十四歳の少女・李秀であった……。  かの『三國志』で、劉備たちが治めた蜀の地。そんな蜀漢が滅びた後、蜀がどんな歴史を辿ったのか。  東晋時代に編纂された史書『華陽國志』(巴蜀の地方史)に記された史実を元にした伝奇フィクションです。

狩野岑信 元禄二刀流絵巻

仁獅寺永雪
歴史・時代
 狩野岑信は、江戸中期の幕府御用絵師である。竹川町狩野家の次男に生まれながら、特に分家を許された上、父や兄を差し置いて江戸画壇の頂点となる狩野派総上席の地位を与えられた。さらに、狩野派最初の奥絵師ともなった。  特筆すべき代表作もないことから、従来、時の将軍に気に入られて出世しただけの男と見られてきた。  しかし、彼は、主君が将軍になったその年に死んでいるのである。これはどういうことなのか。  彼の特異な点は、「松本友盛」という主君から賜った別名(むしろ本名)があったことだ。この名前で、土圭之間詰め番士という武官職をも務めていた。  舞台は、赤穂事件のあった元禄時代、生類憐れみの令に支配された江戸の町。主人公は、様々な歴史上の事件や人物とも関りながら成長して行く。  これは、絵師と武士、二つの名前と二つの役職を持ち、張り巡らされた陰謀から主君を守り、遂に六代将軍に押し上げた謎の男・狩野岑信の一生を読み解く物語である。  投稿二作目、最後までお楽しみいただければ幸いです。

北宮純 ~祖国無き戦士~

水城洋臣
歴史・時代
 三国時代を統一によって終わらせた晋(西晋)は、八王の乱と呼ばれる内紛で内部から腐り、異民族である匈奴によって滅ぼされた。  そんな匈奴が漢王朝の正統後継を名乗って建国した漢(匈奴漢)もまた、僅か十年で崩壊の時を迎える。  そんな時代に、ただ戦場を駆けて死ぬ事を望みながらも、二つの王朝の滅亡を見届けた数奇な運命の将がいた。  その名は北宮純。  漢民族消滅の危機とまで言われた五胡十六国時代の始まりを告げる戦いを、そんな彼の視点から描く。

クロワッサン物語

コダーマ
歴史・時代
 1683年、城塞都市ウィーンはオスマン帝国の大軍に包囲されていた。  第二次ウィーン包囲である。  戦況厳しいウィーンからは皇帝も逃げ出し、市壁の中には守備隊の兵士と市民軍、避難できなかった市民ら一万人弱が立て籠もった。  彼らをまとめ、指揮するウィーン防衛司令官、その名をシュターレンベルクという。  敵の数は三十万。  戦況は絶望的に想えるものの、シュターレンベルクには策があった。  ドナウ河の水運に恵まれたウィーンは、ドナウ艦隊を蔵している。  内陸に位置するオーストリア唯一の海軍だ。  彼らをウィーンの切り札とするのだ。  戦闘には参加させず、外界との唯一の道として、連絡も補給も彼等に依る。  そのうち、ウィーンには厳しい冬が訪れる。  オスマン帝国軍は野営には耐えられまい。  そんなシュターレンベルクの元に届いた報は『ドナウ艦隊の全滅』であった。  もはや、市壁の中にこもって救援を待つしかないウィーンだが、敵軍のシャーヒー砲は、連日、市に降り注いだ。  戦闘、策略、裏切り、絶望──。  シュターレンベルクはウィーンを守り抜けるのか。  第二次ウィーン包囲の二か月間を描いた歴史小説です。

朱元璋

片山洋一
歴史・時代
明を建国した太祖洪武帝・朱元璋と、その妻・馬皇后の物語。 紅巾の乱から始まる動乱の中、朱元璋と馬皇后・鈴陶の波乱に満ちた物語。全二十話。

夢の終わり ~蜀漢の滅亡~

久保カズヤ
歴史・時代
「───────あの空の極みは、何処であろうや」  三国志と呼ばれる、戦国時代を彩った最後の英雄、諸葛亮は五丈原に沈んだ。  蜀漢の皇帝にして、英雄「劉備」の血を継ぐ「劉禅」  最後の英雄「諸葛亮」の志を継いだ「姜維」  ── 天下統一  それを志すには、蜀漢はあまりに小さく、弱き国である。  国を、民を背負い、後の世で暗君と呼ばれることになる劉禅。  そして、若き天才として国の期待を一身に受ける事になった姜維。  二人は、沈みゆく祖国の中で、何を思い、何を目指し、何に生きたのか。  志は同じであっても、やがてすれ違い、二人は、離れていく。  これは、そんな、覚めゆく夢を描いた、寂しい、物語。 【 毎日更新 】 【 表紙は hidepp(@JohnnyHidepp) 様に描いていただきました 】

曹操桜【曹操孟徳の伝記 彼はなぜ天下を統一できなかったのか】

みらいつりびと
歴史・時代
赤壁の戦いには謎があります。 曹操軍は、周瑜率いる孫権軍の火攻めにより、大敗北を喫したとされています。 しかし、曹操はおろか、主な武将は誰も死んでいません。どうして? これを解き明かす新釈三国志をめざして、筆を執りました。 曹操の徐州大虐殺、官渡の捕虜虐殺についても考察します。 劉備は流浪しつづけたのに、なぜ関羽と張飛は離れなかったのか。 呂布と孫堅はどちらの方が強かったのか。 荀彧、荀攸、陳宮、程昱、郭嘉、賈詡、司馬懿はどのような軍師だったのか。 そんな謎について考えながら描いた物語です。 主人公は曹操孟徳。全46話。

処理中です...