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第一章
その三 ぶらり旅:マヤ、ジャンに惜しみない拍手を送る
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マヤの腕がさっと伸び、ジャンの胸倉を掴んだ。
驚いて腕を振り回すジャンの巨体を引き寄せると、マヤは迷いなく、右の拳を顔面に叩きこんだ。ぼすっと鈍い音が車内に響き、トレイが座席から転げ落ちた。
「てめぇ、頭まで贅肉がついてんのか?」
低く冷たい声と共に、マヤは髪をかき上げた。
何とかまとまっていた髪がざんばらになり、頭の上に、ちょこんと毛が跳ね上がる。
「ああ、鬱陶しい。やっぱりこういうのはあたしの性に合わねえや。やい、エロ親父! お前も不運だな。あたしはボクシングをやってるんだ! ちょっとばかし腕は立つぜ?」
「な……き、貴様、もしや男か!?」
「女に決まってるだろ! なんなら胸触ってみるか?」
「ああ、そりゃ是非」
「ばっ、襟に手を入れようとするな! 服の上からだよ! いや、やっぱ駄目だ! おい、きゃあ! 変態!」
ひっひっひ、と甲高い声で笑うと、ジャンは生臭い息をマヤに吹きかけた。
「うわっ、くさっ! 何食べたんだ、お前っ、あと手を抜け!」
「成程、お前を女と認めよう! さあ、盗んだものを出せ! そうすればここから――」
「わけのわからんこと言ってるんじゃねえ! おらぁ!」
真っ赤になったマヤの二度目のパンチを、ジャンは右手で止める。マヤは唸ると、腕をねじり、手を引き抜こうとしたところ――ジャンの手がすっぽりと抜けた。
「えっ? ……うひょぉおぉおっ!?」
するりと取れたその手を、マヤは受け止めた。蜘蛛のように指がまだ動いていた。
マヤは目を瞬かせ、恐る恐る顔を近づける。
蠢く手には張りがあり、浮き出す骨や血色も作り物には見えなかった。
ただ、匂いがした。
キノコの匂い? いや、もっと強い……ちょっと黴のような、ツンとする酸っぱい匂いもあるような……。
マヤの顔がほころんだ。ジャンが訝しげな顔をする。
「何がおかしいんだ田舎家出娘?」
「家出じゃないって言ってるだろ。
あたしはマヤ・パラディール。田舎娘は正解だな。
それにしても、よくできてるなあ!」
マヤは蠢く手をつまんだり、つついたりし始めた。
「すごいな……機械仕掛け? 糸じゃないよね? でも妙な匂いがする……それがタネだったりするの?」
ジャンは眉を曇らせた。
「そりゃ教えられん」
「あははは、そうだよな。いや、ごめんね手品師。返すよ」
ジャンは目を瞬かせ、口を尖らせた。そして手を受け取ると乱暴に袖にねじ込む。指が痙攣したように伸びると、二度三度と拳を作った。
マヤは感心したように拍手した。
「凄い! 面白い! 他には何かできないの? あ、追加料金なら払うよ! 今の腕スポは、さっきの胸サワの代金てことで水に流そう!」
キラキラと目を輝かせるマヤに、ジャンは渋面を作った。
「なんだ、その態度は? さっきまでわた……俺はお前の悪口を言って、胸を触ってたんだがな……」
マヤは腰に手を当てると呵々大笑した。
「あれはあれ! これはこれ! あたし面白いこと大好き! さ! 続きをお願い!」
「……本当に家出じゃないのか?」
「うん、違うぞ!
ある日、招待状が来た。で、調べたら上流階級が集う場所だときた!
それで、色々あって田舎からのこのこ出てきたんだけど、そういう場所ならってんで付け焼刃で淑女のふりをして、質屋で買ったドレスをまとって会場に向かってる最中だったんだ!
でも、あんたがさっきから言ってる泥棒じゃないよ。自分の金で旅してるよ?」
そう言ってマヤはジャンの腹をぽんぽんと叩いた。
「でも、ま、あんたの嫌味に感謝したほうが良いかもな!
やっぱりこういうのは向いてない!
それに会場でバレたら、さすがのあたしも心折れちゃうだろうしなあ!
ってなわけで、あたしはあたし! 淑女は来世! さっきの下品な言葉遣いは勘弁だな!」
そう言うとマヤは再びずれた眼鏡を両手で戻した。ジャンは何か言おうとし、結局頭を下げた。
「……すまなかった。数々の暴言を謝罪する」
あれま、とマヤ。だが、すぐに、にかりと笑った。
「んじゃ、最悪の出会いは忘れて、ショーを見せてよ!
汽車の旅は暇で暇で、眠くなっていけないや」
「お嬢さん、それは睡眠薬を盛られたからだよ」
子供の声? マヤはそちらを見た。がらんとした個室の中には相変わらず人影はない。と、座席の下から、何かがするりと現れた。
猫だった。
灰色の短い体毛に、緑色の瞳。ピンと伸びた髭と尖った耳。
猫は首を傾げ、口を開いた。
「クッキーに入っていたんだ」
「ひえっ!?」
マヤは驚き、それからすぐにジャンに向き直って拍手した。
「凄い! ブラヴォー! 本当に猫が喋ってるように見える! えーと、ジャンさんだっけ? あんた、腕があるなあ!」
とうとう『さん』付けされたジャンは首を激しく振った。
「違う違う! そいつは俺の手品じゃあない。腹話術じゃあない。本物さ!」
灰色の猫は座席に飛び乗ると、マヤに近づいてきた。
「自己紹介しよう。
僕はレオンハルト・ガンマ・オイラー。
本当の名前はガンマだけど、味気ないので数学者オイラー氏の名を借りている。
オイラーの定数は知っているだろう? あそこからの着想でね、いや、お恥ずかしい」
お恥ずかしい、の辺りでマヤはガンマの頭を掻き始めた。ガンマがゴロゴロと言いはじめる。
ジャンはため息をついた。
「よりによってお前がパートナーか。ってことは面倒事が山盛りってやつか……」
「御挨拶だねジャン。僕も君と組むとは知らなかった。依頼書を持ってきたよ」
ガンマは、うぐっげぇっと口から白い塊を吐き出した。ジャンはそれを取ると広げた。
マヤがニコニコしながらジャンに聞く。
「なんですかそれ~……という感じのネタフリでいい?」
「だから手品じゃないと……あん?」
ジャンはマヤに向き直った。
「お前、『ソドム』に招待されたのか!? あんな所に行く気か?」
マヤはひゅっと息を吸いこむと、ポケットを探り、一通の封筒を取り出した。
それは、真っ青な上質紙に、金色のおどろおどろしい、『GC』の封蝋が施されていた。
驚いて腕を振り回すジャンの巨体を引き寄せると、マヤは迷いなく、右の拳を顔面に叩きこんだ。ぼすっと鈍い音が車内に響き、トレイが座席から転げ落ちた。
「てめぇ、頭まで贅肉がついてんのか?」
低く冷たい声と共に、マヤは髪をかき上げた。
何とかまとまっていた髪がざんばらになり、頭の上に、ちょこんと毛が跳ね上がる。
「ああ、鬱陶しい。やっぱりこういうのはあたしの性に合わねえや。やい、エロ親父! お前も不運だな。あたしはボクシングをやってるんだ! ちょっとばかし腕は立つぜ?」
「な……き、貴様、もしや男か!?」
「女に決まってるだろ! なんなら胸触ってみるか?」
「ああ、そりゃ是非」
「ばっ、襟に手を入れようとするな! 服の上からだよ! いや、やっぱ駄目だ! おい、きゃあ! 変態!」
ひっひっひ、と甲高い声で笑うと、ジャンは生臭い息をマヤに吹きかけた。
「うわっ、くさっ! 何食べたんだ、お前っ、あと手を抜け!」
「成程、お前を女と認めよう! さあ、盗んだものを出せ! そうすればここから――」
「わけのわからんこと言ってるんじゃねえ! おらぁ!」
真っ赤になったマヤの二度目のパンチを、ジャンは右手で止める。マヤは唸ると、腕をねじり、手を引き抜こうとしたところ――ジャンの手がすっぽりと抜けた。
「えっ? ……うひょぉおぉおっ!?」
するりと取れたその手を、マヤは受け止めた。蜘蛛のように指がまだ動いていた。
マヤは目を瞬かせ、恐る恐る顔を近づける。
蠢く手には張りがあり、浮き出す骨や血色も作り物には見えなかった。
ただ、匂いがした。
キノコの匂い? いや、もっと強い……ちょっと黴のような、ツンとする酸っぱい匂いもあるような……。
マヤの顔がほころんだ。ジャンが訝しげな顔をする。
「何がおかしいんだ田舎家出娘?」
「家出じゃないって言ってるだろ。
あたしはマヤ・パラディール。田舎娘は正解だな。
それにしても、よくできてるなあ!」
マヤは蠢く手をつまんだり、つついたりし始めた。
「すごいな……機械仕掛け? 糸じゃないよね? でも妙な匂いがする……それがタネだったりするの?」
ジャンは眉を曇らせた。
「そりゃ教えられん」
「あははは、そうだよな。いや、ごめんね手品師。返すよ」
ジャンは目を瞬かせ、口を尖らせた。そして手を受け取ると乱暴に袖にねじ込む。指が痙攣したように伸びると、二度三度と拳を作った。
マヤは感心したように拍手した。
「凄い! 面白い! 他には何かできないの? あ、追加料金なら払うよ! 今の腕スポは、さっきの胸サワの代金てことで水に流そう!」
キラキラと目を輝かせるマヤに、ジャンは渋面を作った。
「なんだ、その態度は? さっきまでわた……俺はお前の悪口を言って、胸を触ってたんだがな……」
マヤは腰に手を当てると呵々大笑した。
「あれはあれ! これはこれ! あたし面白いこと大好き! さ! 続きをお願い!」
「……本当に家出じゃないのか?」
「うん、違うぞ!
ある日、招待状が来た。で、調べたら上流階級が集う場所だときた!
それで、色々あって田舎からのこのこ出てきたんだけど、そういう場所ならってんで付け焼刃で淑女のふりをして、質屋で買ったドレスをまとって会場に向かってる最中だったんだ!
でも、あんたがさっきから言ってる泥棒じゃないよ。自分の金で旅してるよ?」
そう言ってマヤはジャンの腹をぽんぽんと叩いた。
「でも、ま、あんたの嫌味に感謝したほうが良いかもな!
やっぱりこういうのは向いてない!
それに会場でバレたら、さすがのあたしも心折れちゃうだろうしなあ!
ってなわけで、あたしはあたし! 淑女は来世! さっきの下品な言葉遣いは勘弁だな!」
そう言うとマヤは再びずれた眼鏡を両手で戻した。ジャンは何か言おうとし、結局頭を下げた。
「……すまなかった。数々の暴言を謝罪する」
あれま、とマヤ。だが、すぐに、にかりと笑った。
「んじゃ、最悪の出会いは忘れて、ショーを見せてよ!
汽車の旅は暇で暇で、眠くなっていけないや」
「お嬢さん、それは睡眠薬を盛られたからだよ」
子供の声? マヤはそちらを見た。がらんとした個室の中には相変わらず人影はない。と、座席の下から、何かがするりと現れた。
猫だった。
灰色の短い体毛に、緑色の瞳。ピンと伸びた髭と尖った耳。
猫は首を傾げ、口を開いた。
「クッキーに入っていたんだ」
「ひえっ!?」
マヤは驚き、それからすぐにジャンに向き直って拍手した。
「凄い! ブラヴォー! 本当に猫が喋ってるように見える! えーと、ジャンさんだっけ? あんた、腕があるなあ!」
とうとう『さん』付けされたジャンは首を激しく振った。
「違う違う! そいつは俺の手品じゃあない。腹話術じゃあない。本物さ!」
灰色の猫は座席に飛び乗ると、マヤに近づいてきた。
「自己紹介しよう。
僕はレオンハルト・ガンマ・オイラー。
本当の名前はガンマだけど、味気ないので数学者オイラー氏の名を借りている。
オイラーの定数は知っているだろう? あそこからの着想でね、いや、お恥ずかしい」
お恥ずかしい、の辺りでマヤはガンマの頭を掻き始めた。ガンマがゴロゴロと言いはじめる。
ジャンはため息をついた。
「よりによってお前がパートナーか。ってことは面倒事が山盛りってやつか……」
「御挨拶だねジャン。僕も君と組むとは知らなかった。依頼書を持ってきたよ」
ガンマは、うぐっげぇっと口から白い塊を吐き出した。ジャンはそれを取ると広げた。
マヤがニコニコしながらジャンに聞く。
「なんですかそれ~……という感じのネタフリでいい?」
「だから手品じゃないと……あん?」
ジャンはマヤに向き直った。
「お前、『ソドム』に招待されたのか!? あんな所に行く気か?」
マヤはひゅっと息を吸いこむと、ポケットを探り、一通の封筒を取り出した。
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