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プロローグ
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六月十七日 15時39分、大根田清はエレベーターで天井を見上げ、暑かったなあ、と大きく息を吐いた。
大根田は五十二歳。小柄で黒縁眼鏡をかけ、少し白髪が入った髪の横を刈り上げている。彼は地元の小さな会社――『野崎派遣会社』に勤めていた。
野崎派遣会社は、大根田の友人、野崎健一が社長を務めている。土建屋である野崎の父親の人脈を生かしたこの会社は、地元との繋がりが大変強い。大手が進出してきても、どこ吹く風。常に安定した売り上げをキープしてきた。
勿論それには、大根田をはじめとした営業の努力も関係していたが――
やっぱり、ザキの押しが強いってのが最大の理由だろうな。
大根田は酒の席で豪快に笑い、次の日に必ず二日酔いになって唸っている野崎の顔を思い浮かべ、うっすらと笑みを浮かべた。
大根田と野崎は中学からの友人――野崎の言い方を借りれば『腐れ縁』だ。一度ならず二度三度と、本気の喧嘩をし、警察の世話になった事もある。
今考えると、いくら武器を持っていたとはいえ、二メートル近い巨漢の野崎と喧嘩をしていたというのは無茶苦茶だったと思う。
若さ、という奴か。
そんな野崎だが、人の心の機微には大変聡い。だからこそ派遣会社を切り盛りしていけるのだろうが、ともかく彼が言うには、大学卒業間近の大根田は、『このままではダメになる半歩手前』だったのだそうだ。
だから、野崎は立ち上げたばかりの会社に、大根田を強引に誘った。
人生の目標を失った――いや、『最初から持っていなかったと気付いた』大根田は、誘われるままに就職し、以来30年、というわけである。
人に頭を下げる事にも慣れたし、夫婦仲も良い。一人息子も独立し、きちんと就職した。
しかし、心の奥にはちょっとした虚しさが横たわっていた。
それは『叶わぬ夢』に対する『焦がれ』でもあるのだろう。
いい年こいて、まだ夢を見ている――まあ、やることはやってるので夢ぐらい見ても良いじゃないかとも考えているのだが――そんな自分が時には誇らしく、時にはとてつもなく愚かに感じるのだ……。
大根田は額を掌でべちりと打った。
楽しむはずの空想でストレスを溜めてどうする。
「しかし、今日は本当に暑かったな……」
わざと声を出し、大根田は心を逸らした。
大根田の住む栃木の県庁所在地、居種宮市は人口が五十万を超えるのだが、地下鉄が無い。
故に車と徒歩での外回りになる。大根田自身は昔鍛えていた事もあってか、苦痛とは感じなかった。むしろ徒歩が多いので、家で鍛錬しているとはいえ、いい運動になっていると感じていた。
そんな大根田でも、今日の暑さにはめげそうになったのだ。
気温は二十七度。この地域のこの季節にしては普通といったところだ。
だが、大根田は大量に汗をかいていた。
拭っても拭っても汗が止まらない。昼は蕎麦だったのに、まるで香辛料のたっぷり効いた中華料理を食べた後のような状態だ。
熱中症だろうか?
だが、それらしき症状は出ていない。むしろ、体はいつもより調子が良く感じる。
とにかく水分は取っておこうと大根田は冷房の効いた駅ビルに入ると、自販機に急いだ。すると自分の前に並んでいる二人も大量の汗をかいているのに気が付いた。
太ったサラリーマン風の男と、子連れの主婦だ。太った男は緑茶を受け取り口から取ると、すぐ横のベンチに腰掛けた。
大根田はハンカチで汗を拭き、太った男に軽く会釈する。
「どうも、暑いですねえ」
会釈を返した太った男は、いや、まったくと破顔する。
「今日はなんだか蒸す気がしますね。汗が止まらないですよ」
天然水を取り出した主婦が、ホントですよねと溜息をついた。
「なんだか、汗がいっぱい出ちゃって……でも、私だけなんですよ」
見れば、手を握っている幼稚園くらいの女の子は澄ました顔をしている。
「この子、ちょっと暑いだけだよって言うし……」
大根田は烏龍茶を取り出すと、妙ですよねえと首を傾げた。
「実は僕も自分以外、みんな平気な顔をしてるんで不安になってて……熱中症ってこんな感じなんですかね?」
太った男は首を傾げた。
「汗のかき方が異常だと、可能性があるんじゃなかったかな? でも、それ以外の症状が無いんですよね。なんだか食欲もあるし」
主婦も頷いた。
「そうですそうです。私もそんな感じ」
妙だなあ、と烏龍茶をあおった大根田。その横で、主婦の手を握った女の子が大袈裟に肩を竦めてみせた。
「ママはコウネンキなんじゃない?」
太った男と大根田は揃ってお茶を吹きそうになって、むせた。主婦はええ~っと顔を顰めた。
「お母さん、まだ二十代半ばなんだけど……」
それから約二時間後、大根田は外回りを終えて、帰社した。
大根田の会社が入っているビルは五階建てで、一階は大きなホールになっており、コンビニや飲食店に囲まれたフードコートがある。正面扉を開けて入ると、爽やかで程よい冷気が大根田を包み込んだ。
汗が引いてきたのを感じ、得も言われぬ解放感がこみあげてくる。
ああ、いいなあと伸びをすると、鼾が聞こえてきた。
見れば、フードコートの片隅で紫色のシャツに白いスーツを着た男が壁に背を預け眠っていた。男は長身で眉間に筋を立て厳めしい顔をしているが、鼾は表情に反して、かーっかーっと気持ちよさそうである。
その眠っている男から少し離れた所で、老婆がアイスコーヒーらしき物を飲んでいた。灰色を基調とした服の、ほっそりとした老婆はアイスコーヒーと文庫本、それから男へと目を移しながら微笑んでいる。
夏の日のフードコートの一場面――中々良いじゃないか。
大根田は頬笑み、ハンカチを使って汗でぬるぬるになった眼鏡を拭こうとした。
ハンカチがしっとりと湿っている。
なんだって、こんなに汗が出たんだろう……。
大根田は首を傾げながらエレベーターに乗り込み、そして今に至る。
やはり、熱中症なのかもしれない。
年齢も年齢だから、大事をとって今日は早退すべきか……。
だったら、帰りにちょっと高いアイスを買って、家で麗子と――
チンと小さな音がすると、ドアが静かに開いた。
四階、コンクリートの無機質な廊下が目の前に開け、数メートル先、野崎派遣会社のスチール製のドアがガチャリと開く。
事務の中里良子が小走りで飛びだしてきた。
彼女は大根田を見ると手を振って、「お疲れさまです、大根田さん!」と言った。
その瞬間、『揺れ』が始まった。
物凄い縦揺れだった、と後に中里は友人に話した。
彼女よりも冷静だった大根田は、縦揺れが小刻みに数回、それから凄まじい縦と横が合わさった滅茶苦茶な揺れが襲ってきたのを感じた。
久しぶりに時間がゆっくりと流れるような感覚が襲ってくる。
大根田はエレベーターから飛び出すと、悲鳴を上げる中里に抱きつき、彼女の頭を庇い床に伏した。
シャンシャンシャンというガラス等が揺れる音、そしてそれらが一斉に割れだす音、バキッ、ゴリッという床や柱が軋み割れる音が続く。
ビルが丸ごと倒れることはないだろう。
だが、傾く可能性はある。
大根田は冷静にそう判断しながらも、それが全く信じられなかった。
しかも揺れは一向に収まらない。
ここは関東の端の栃木。震災の時も揺れは確かに長かったが、ここまでではなかった。
まだ揺れる。
まだまだ揺れる。
もしやビルの倒壊が始まっていて、その揺れなのでは?
目の前に蛍光灯が、天井板が、大きめの瓦礫が落ちてくる。
慌てて顔を伏せると、更に大きな揺れが襲ってきて――
体が宙に浮き始めた。
「え? な、なんですか、これ――」
中里がそう声を発した時、二人は崩れかけた天井に背中が付いていた。
「な、中里君! 歯を喰いしばれっ!」
大根田の頭に、これは夢ではないかという考えがふっと浮かんだ。
次の瞬間、地の底から響くような重い轟音が世界を震わし、二人に床が迫ってきた。
大根田は五十二歳。小柄で黒縁眼鏡をかけ、少し白髪が入った髪の横を刈り上げている。彼は地元の小さな会社――『野崎派遣会社』に勤めていた。
野崎派遣会社は、大根田の友人、野崎健一が社長を務めている。土建屋である野崎の父親の人脈を生かしたこの会社は、地元との繋がりが大変強い。大手が進出してきても、どこ吹く風。常に安定した売り上げをキープしてきた。
勿論それには、大根田をはじめとした営業の努力も関係していたが――
やっぱり、ザキの押しが強いってのが最大の理由だろうな。
大根田は酒の席で豪快に笑い、次の日に必ず二日酔いになって唸っている野崎の顔を思い浮かべ、うっすらと笑みを浮かべた。
大根田と野崎は中学からの友人――野崎の言い方を借りれば『腐れ縁』だ。一度ならず二度三度と、本気の喧嘩をし、警察の世話になった事もある。
今考えると、いくら武器を持っていたとはいえ、二メートル近い巨漢の野崎と喧嘩をしていたというのは無茶苦茶だったと思う。
若さ、という奴か。
そんな野崎だが、人の心の機微には大変聡い。だからこそ派遣会社を切り盛りしていけるのだろうが、ともかく彼が言うには、大学卒業間近の大根田は、『このままではダメになる半歩手前』だったのだそうだ。
だから、野崎は立ち上げたばかりの会社に、大根田を強引に誘った。
人生の目標を失った――いや、『最初から持っていなかったと気付いた』大根田は、誘われるままに就職し、以来30年、というわけである。
人に頭を下げる事にも慣れたし、夫婦仲も良い。一人息子も独立し、きちんと就職した。
しかし、心の奥にはちょっとした虚しさが横たわっていた。
それは『叶わぬ夢』に対する『焦がれ』でもあるのだろう。
いい年こいて、まだ夢を見ている――まあ、やることはやってるので夢ぐらい見ても良いじゃないかとも考えているのだが――そんな自分が時には誇らしく、時にはとてつもなく愚かに感じるのだ……。
大根田は額を掌でべちりと打った。
楽しむはずの空想でストレスを溜めてどうする。
「しかし、今日は本当に暑かったな……」
わざと声を出し、大根田は心を逸らした。
大根田の住む栃木の県庁所在地、居種宮市は人口が五十万を超えるのだが、地下鉄が無い。
故に車と徒歩での外回りになる。大根田自身は昔鍛えていた事もあってか、苦痛とは感じなかった。むしろ徒歩が多いので、家で鍛錬しているとはいえ、いい運動になっていると感じていた。
そんな大根田でも、今日の暑さにはめげそうになったのだ。
気温は二十七度。この地域のこの季節にしては普通といったところだ。
だが、大根田は大量に汗をかいていた。
拭っても拭っても汗が止まらない。昼は蕎麦だったのに、まるで香辛料のたっぷり効いた中華料理を食べた後のような状態だ。
熱中症だろうか?
だが、それらしき症状は出ていない。むしろ、体はいつもより調子が良く感じる。
とにかく水分は取っておこうと大根田は冷房の効いた駅ビルに入ると、自販機に急いだ。すると自分の前に並んでいる二人も大量の汗をかいているのに気が付いた。
太ったサラリーマン風の男と、子連れの主婦だ。太った男は緑茶を受け取り口から取ると、すぐ横のベンチに腰掛けた。
大根田はハンカチで汗を拭き、太った男に軽く会釈する。
「どうも、暑いですねえ」
会釈を返した太った男は、いや、まったくと破顔する。
「今日はなんだか蒸す気がしますね。汗が止まらないですよ」
天然水を取り出した主婦が、ホントですよねと溜息をついた。
「なんだか、汗がいっぱい出ちゃって……でも、私だけなんですよ」
見れば、手を握っている幼稚園くらいの女の子は澄ました顔をしている。
「この子、ちょっと暑いだけだよって言うし……」
大根田は烏龍茶を取り出すと、妙ですよねえと首を傾げた。
「実は僕も自分以外、みんな平気な顔をしてるんで不安になってて……熱中症ってこんな感じなんですかね?」
太った男は首を傾げた。
「汗のかき方が異常だと、可能性があるんじゃなかったかな? でも、それ以外の症状が無いんですよね。なんだか食欲もあるし」
主婦も頷いた。
「そうですそうです。私もそんな感じ」
妙だなあ、と烏龍茶をあおった大根田。その横で、主婦の手を握った女の子が大袈裟に肩を竦めてみせた。
「ママはコウネンキなんじゃない?」
太った男と大根田は揃ってお茶を吹きそうになって、むせた。主婦はええ~っと顔を顰めた。
「お母さん、まだ二十代半ばなんだけど……」
それから約二時間後、大根田は外回りを終えて、帰社した。
大根田の会社が入っているビルは五階建てで、一階は大きなホールになっており、コンビニや飲食店に囲まれたフードコートがある。正面扉を開けて入ると、爽やかで程よい冷気が大根田を包み込んだ。
汗が引いてきたのを感じ、得も言われぬ解放感がこみあげてくる。
ああ、いいなあと伸びをすると、鼾が聞こえてきた。
見れば、フードコートの片隅で紫色のシャツに白いスーツを着た男が壁に背を預け眠っていた。男は長身で眉間に筋を立て厳めしい顔をしているが、鼾は表情に反して、かーっかーっと気持ちよさそうである。
その眠っている男から少し離れた所で、老婆がアイスコーヒーらしき物を飲んでいた。灰色を基調とした服の、ほっそりとした老婆はアイスコーヒーと文庫本、それから男へと目を移しながら微笑んでいる。
夏の日のフードコートの一場面――中々良いじゃないか。
大根田は頬笑み、ハンカチを使って汗でぬるぬるになった眼鏡を拭こうとした。
ハンカチがしっとりと湿っている。
なんだって、こんなに汗が出たんだろう……。
大根田は首を傾げながらエレベーターに乗り込み、そして今に至る。
やはり、熱中症なのかもしれない。
年齢も年齢だから、大事をとって今日は早退すべきか……。
だったら、帰りにちょっと高いアイスを買って、家で麗子と――
チンと小さな音がすると、ドアが静かに開いた。
四階、コンクリートの無機質な廊下が目の前に開け、数メートル先、野崎派遣会社のスチール製のドアがガチャリと開く。
事務の中里良子が小走りで飛びだしてきた。
彼女は大根田を見ると手を振って、「お疲れさまです、大根田さん!」と言った。
その瞬間、『揺れ』が始まった。
物凄い縦揺れだった、と後に中里は友人に話した。
彼女よりも冷静だった大根田は、縦揺れが小刻みに数回、それから凄まじい縦と横が合わさった滅茶苦茶な揺れが襲ってきたのを感じた。
久しぶりに時間がゆっくりと流れるような感覚が襲ってくる。
大根田はエレベーターから飛び出すと、悲鳴を上げる中里に抱きつき、彼女の頭を庇い床に伏した。
シャンシャンシャンというガラス等が揺れる音、そしてそれらが一斉に割れだす音、バキッ、ゴリッという床や柱が軋み割れる音が続く。
ビルが丸ごと倒れることはないだろう。
だが、傾く可能性はある。
大根田は冷静にそう判断しながらも、それが全く信じられなかった。
しかも揺れは一向に収まらない。
ここは関東の端の栃木。震災の時も揺れは確かに長かったが、ここまでではなかった。
まだ揺れる。
まだまだ揺れる。
もしやビルの倒壊が始まっていて、その揺れなのでは?
目の前に蛍光灯が、天井板が、大きめの瓦礫が落ちてくる。
慌てて顔を伏せると、更に大きな揺れが襲ってきて――
体が宙に浮き始めた。
「え? な、なんですか、これ――」
中里がそう声を発した時、二人は崩れかけた天井に背中が付いていた。
「な、中里君! 歯を喰いしばれっ!」
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