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卒業式

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「……分かった」

 静かにそう頷いた野瀬に、志藤が思わず口元をニヤつかせたのは、ここにいる誰も見てはいなかった。だが、少し先を歩く中原が「うぉっ!」と声を上げたから、二人はぱっとそちらに視線を奪われた。優しげに笑う太一と、小さな何かを右手に掲げている中原。

「見ろ! 雅紀! 沖の名札もらった!」

 それは志藤にとってもかなりの衝撃だった。

「えっ! 何それ! のちのち激レア確定の代物じゃんか!」

 野瀬が思わず大声を張り上げると、中原も太一も可笑しそうに笑い、そしてちょいちょいと野瀬へ手招きする太一が恥ずかしそうに笑うから、志藤の心臓は縮まるみたいに怯えてしまった。

「野瀬には、これ」

 そう言って手渡されたのは、茶色い革の生徒手帳。

 言葉にならない野瀬の片肩に、両手を載せた太一は、そのまま背伸びして彼の耳に口を近づける。
 何を言ったのか志藤の居た場所からは聞こえなかった。けど、ボンっと赤面した野瀬と、目を丸くした中原に、志藤はまた息を呑んだ。

(なんだ? 何を言われた!?)

 思わず駆け寄り、「なになに?」と無邪気に尋ねるが、太一は「ひみつ」と笑い、野瀬は隠すように生徒手帳を後ろに隠した。

(……なんなんだよっ!)

 湧き上がってくる苛立ちに志藤は歯を食いしばったが、それに気付く者は残念ながらここには居なかった。

 何を言われた? 何を言った?

 ついさっき、してやったりとほくそ笑んだばかりの志藤だったが、気が気でないまま校舎を出て校門へと向かう。卒業を迎えた三人は同級生達と最後の別れを告げ、校門で待つ志藤のもとへとやってくる。

 背の高い野瀬を睨むように見上げるが、彼はヘラヘラと惚けたように微笑むばかりで、心ここにあらずと顔に書いてある。それに苛立ちながら、志藤は太一へ告白するべきか否か……恐ろしく悩んだ。

 もしかして……もしかするかもしれないわけだから。だってこの野瀬の惚けようは異常だ。
 照れ笑いを浮かべて「秘密」と言った太一への不信感も高まる。第二ボタンや名札なんて、言えばただの“物”で、生徒手帳ほど魅惑的なものはないと感じる。

 だって、中に……何が書いているかわからないのだ。

 それはつまり手紙、ないしラブレターに成りうる代物ということ。

(嘘だろ……? 嘘だろ、たいちゃん?)

 ドクドクと嫌な鼓動を感じながら、黙々と歩みを進める。中原と太一がこのあとカラオケに行こうかなんて話している声さえ、志藤には届いていなくて、一方有頂天になっている野瀬は、歌えもしないくせに「騒ごうぜー!」などとヘラヘラ笑っていた。

 太一は志藤の異変にこの時ようやく気づき、全然乗ってこないなぁと寂しさを感じた。だが、中原が志藤の肩を組み、「お前ももちろん強制参加だからなぁ!?」と声を掛けたことで、志藤は思い出したように会話に混じってきた。

 太一が野瀬に準備したもの。
 それは初めて書いた、サインだった。

『俺の初めてのサイン、あげる』

 そんな貴重なもの、まさか貰えるなんて野瀬は考えてもいなかった。
 太一が書く「沖 太一」の文字は卒業アルバムの最後のページにも残っている。クラスメイトたちも学校にいるファンの子達もみんな貰っている。

 けど、アイドルとして書いた“サイン”は野瀬に渡した生徒手帳のものが確かに初めてだったのだ。

 夜な夜な考えたサイン。恥ずかしくて死んでしまいそうだと思いながらも必死に考えたサイン。これは自分のファン第一号である野瀬にどうしても渡したかった。

 だけど、全部裏目に出ている。おかげで、太一へ告白しようと決めていた志藤は尻込みし、そこに芽生えるはずだった奇跡が、風化されるようにサラサラと形をなくす。
 そしてカラオケ店にて、志藤は決定打を叩きつけられることになるのだ。
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